しらたまさんとの小説その9?
長らく噂はあった。
曰くその森には神に違反した者が住んでいると。
曰くその者は神に違反した者を匿っていると。
誰も本気にしなかった噂だったが、かくして己は近いうちに真実を知ることとなる。
夜の散歩というものは、夜の眷族である故の嗜みであると思っている。
だから本来そこに人がいることは自分にしかわからないのだ。
自分だからわかった。暗闇の中、一人の男が女の喪服に身を包み崖の上から今まさに飛び降りんとしていることが。
人間のこととは分らぬものだ。あの短い命をどうして無駄にしようとするのか。
声をかけず、物音も立てず、その場を見ていた。
突然男がこちらを見た。
心臓が凍るような、という思いは正にこのことだろう。男はこちらが見えていないはずなのに、こちらの目を見ているような気がした。
夜の眷族が。夜の伯爵が。あり得ない殺意にその場を一歩も動けない。
しばらくして、男は重たい身体を引きずるようにゆっくり去っていった。
その姿が見えなくなる頃には、夜明けが近づいていた。
その男のことは家臣に調べさせてすぐに分った。村はずれの森の奥に住む変わり者の男だった。1年中その男は女の喪服に身を包み、世間と長らく交流を経っているのだという。
ただ、その男にはある噂があった。
神に違反した同性愛者であり、しかも犯罪者を匿っているというものだ。
噂の真実を知るものは領民の中にはいなかったようだ。
あの心臓を凍らせるような目がもう一度見たかった。あの殺意が本当は誰に向けられたものか知りたかった。
気のせいかもしれない。ただあの時の直感は信じたい。
かくして、次の夜が来ると一人、噂の森まで馬で走ることとなった。
夜の森の中、馬はしばらくして走れなくなった。馬の夜目はいいがそれでも吸血鬼のそれには劣る。仕方なしに乗り捨てる。
しかし、これほど深い森の中に二人きりで暮らすとは。なるほど、世間も噂にしか知らぬわけだ。
しばらく自身の足を走らせると、遠くに家が見えた。雨風をしのげる程度の小さな家だが、なぜか火が炊いてある。そばにはあの男が変わらぬ服装で近くに座っていた。
この目に捉えればそばまで行くのは容易い。
「そこの男よ、名はなんと申す」
突然自らの影から現れた身なりの良い男に、喪服の男は一切動じた気配を見せず、あの心臓が凍るような瞳を向けた。
「名を申せばわたくしの復讐、あなたが果たしてくれるのですか」
一切人間の温度を見せない声色に、こちらが人間であるかのような錯覚を覚えさせられる。
「復讐とは」
「おかしな話ですね。あなたはあの人を殺した人を地獄に落とすために私が呼んだ悪魔でしょうに」
この男の向ける殺意は一緒に暮らしていた男に関する復讐ゆえか。
「火が燃えているが、こんな夜中に火事にならぬか」
「夜中だからでございます。ここは森の奥、どんな危険な動物が来るか分りませんから」
それまでただでは死なぬということか。面白い。
「よかろう、わが城に来い。来賓として迎えてやる」
「あなた様は…」
「この領地を治めるドラキュラ伯爵である」
夜明けを迎える前に何とか無事に城まで戻ることができた。
城に戻った途端、男は倒れた。ろくなものを食べていなかったのだろう。先日の足取りを見れば考えられることだった。所詮は人間だ。
眠気で頭がどうにかなりそうだったが、男が食事やシャワーを終えるまで何とか耐えた。
全てを終えて、寝室に入ってきた男は相変わらずの喪服姿だったがこの世のものとは思えないほど美しかった。
「名前を聞いておらぬが」
「領主様に名乗るほどの名前はございませぬ」
「そうは言ってもこれからが不便でならぬ」
「では領主様がお付けください」
「私が?」
「はい」
「…数日くれ」
「承知しました」
「私は昼は眠る。夜の方が仕事がはかどるのでな。お前もその生活時間に慣れよ」
「はい、おやすみなさいませ」
心臓が凍るような恐怖はもうない。代わりに温かな春のような空気の中で眠った。
甘い香りが鼻をくすぐり目が覚めた。
「こんばんは、伯爵」
男が赤い薔薇を部屋に飾っていた。
「これは…」
「紅茶を持っていこうかと思いましたが、悪魔に紅茶よりは薔薇の花だと思いましたので」
「私はただの領主だ」
「わたくしが呼んだ悪魔には違いありません」
「…分った好きにしろ」
「はい、好きにします。あなたにいずれ捧げる命ですから」
「それとお前の名前だ」
「良いのが浮かびましたか」
「零」
「何もないということでしょうか」
「全ては何もないところから始まるのだよ」
「食事を作る必要はない。お茶もだ。やることは私の仕事を手伝うことのみ」
「分りました」
「それと…」
「なんでしょう」
「時々私の話し相手になってくれ。私は世間に疎い」
「それはわたくしもですが」
「それでも村で住んでいた経験はあるだろう、噂は残っていたのだから」
「…分りました。わたくしの体験でよければお話いたしましょう」
初めて見せた困り顔は、なんともいえないかわいらしい顔をしていた。
その日から膨大な数の仕事を任せたが、零はそつなくこなした。これまで世間とは隔絶した生活を送っていたとは思えない仕事ぶりだった。
ただ困ったのは、来賓で迎えたはずなのに自分で自分の食事は用意するし、着替えも自分で着替えるし、シャワーも自分で入ることだ。
「私は零を来賓として迎えたはずだが」
「お許しください、自分でできることは自分でしないと気が済まない性格なのです」
「これではメイドが必要ないではないか」
「元々必要がございません」
「…分った。自分のことは自分で済ませてもらおう」
「感謝します。伯爵」
世間のことには疎いと言っていたが、零の話は面白かった。
クリスマスのハンドベル、謝肉祭の大騒ぎ、夏の湖での水泳大会。
自分には一切関係のなかった話だったので聞いていて新鮮だった。
ただ話す零の目は、時々昏く重くなることがあった。そして決まって話の終わりに聞くのだ。
「わたくしの復讐はいつ果たしてくださいますか、伯爵」
「伯爵は?」
「お部屋にいらっしゃらないですか?」
「ええ、頼まれた仕事ができたのですが」
「伯爵は時々姿を消すのですよ、誰にも何も言わず霧のように」
「そんなことが頻繁になるのですか」
「時々あるのですよ、でも知らない間に帰ってくるので皆探しません」
ふと窓から外を見る。
小高い古い塔が見えた。
『北の塔には何があっても決して近づかぬように』
この城に来て最初に言われたことだった。
なぜその時近づこうと思ったのか、鍵がよりによって空いていたのか。
食事は決して褒められたようなきれいな食べ方はできない。周りに血の臭いが充満するし、それまでの空腹を思うとどうしてもかぶりついてしまう。
だから零が近づいてくることにすぐには気づかなかった。
ふと、馴染みのある匂いが鼻をくすぐり振り向いた。
そこにはカンテラを持ち、口元を抑えた零が立っていた。
「…なぜこの塔に入った…」
女性の死体を食い散らかす所を見られた怒りと恥ずかしさで息が詰まる。
「…すみません、わたくしはただの人間なので…死体には慣れてなくて…」
「…生きて帰れると思っているのか…」
唸り声のような言葉を紡いだ瞬間、抱きしめられた。
その温かな腕が零のものだと気づくのにしばらくかかった。
「わたくしの噂はご存じでしたでしょう、あの犯罪者というのは…実の弟でございます。そして弟は犯罪者ではありません。よりによって教会の神父に…犯されたのです」
顔の涙がこちらに伝ってくる。
「教会にそのことを隠すように言われても、身体の弱い弟です、一人で生きていけるはずがありません。そこでわたくしが噂を流して一緒に逃げたのです」
声が震えているのがわかる。
「ところが弟は長くはもちませんした。あの憎き聖職者に病気を移されていたのです」
「…零…お前がずっと復讐したかったのは」
抱きしめてくる腕に力が入る。
「ええ、わたくしが悪魔に命じても殺したいのは神父共々聖職者の皮をかぶった本物の悪魔です」
ゆっくり時間が流れた。相変わらず零はこちらを抱きしめたままで、こちらはこちらで動きようがない。
「私は吸血鬼、ヴァンパイアだ」
知らず知らずのうちに言葉が紡がれていく。
「人間ではないが悪魔でもない。人を食わねば生きていけぬ怪物だ」
「この世になぜ生まれたかは私も知らぬし誰も知らぬ。気づけばこの世界で伯爵として生きていた」
零の腕が温かい。
「一人だったのですね。本当に長い間、わたくしの考えられない時をずっと」
一人だった?この私が?夜の王が?
「でもあなたはもう一人ではありません。わたくしがそばにおります」
「一緒に永遠を生きさせてください」
誰かの叫び声がした。次の瞬間、零の首筋に牙を立てて血を貪り始めた。
青い顔をして零がそのまま倒れたので、そのまま自分の寝室に運んだ。すると、ほどなくして顔色が戻り目を覚まし自力で起きた。
「夜の眷族の仲間入りをした気分はどうだ」
「…実感はありませんが、この暗闇でも伯爵の美しいお顔がよく見えます」
「吸血鬼になると夜目が飛躍的に良くなる。時間が経てば身体の変化が色々出てくるだろう」
「…すみません、伯爵…」
「どうした」
「…のどが乾きました…しかし…」
「ついさっきまで人間だったものに死体を食べろとは私も言えぬよ、私の血を飲みなさい」
零の口元に自分の指を持っていくが食らいつこうとはしない。
「早くしなさい、ヴァンパイアにとってのどの渇きは一大事だ」
「…すみません」
指にゆっくり舌を絡める。そのまま咥えると牙を立てられた感触が少しうれしかった。
明け方が近づくにつれて明らかに零は眠そうになった。それでも自室に帰ろうとはしない。
「もう夜が終わる」
「分っています」
「ならば自分の部屋に帰れ、そのほうが落ち着くだろう」
「嫌です」
「ならば部屋まで送っていこう」
「嫌です」
「ならばどうしたいのだ」
「…ここにいます。一緒におります」
「…これから嫌というほど一緒にいるであろうに」
「でも今はここにいたい」
「…勝手にしろ」
同じベッドで横になると、赤ん坊のように手を握ってくる。そのままかわいい寝息を立てて眠ってしまった。
そっと顔をなでる。
「…これが愛するということだろうか」
次の夜、起きると横に零はいなかった。それどころか城内から姿を消した。その次の夜も帰ってこなかった。
生きているのは分る。血を飲んだ相手なのだ。
そのまま一ヶ月が過ぎた。
何とはなく落ち着かないまま自室で眠っている昼間、慌てた様子で家臣が飛び込んできた
「伯爵、お眠りのところ申し訳ございません。ヴァチカンから使者が…」
「…応接間に通せ、すぐに準備をする」
着替えを済ませ、応接間に入ると穏やかな笑顔を浮かべた老人が座っていた。
「これはヴァチカンの司教とお見受けいたしますが、いかがなされました」
「ほう、服で分るとは宗教にも精通していらっしゃるようで」
「こちらはカトリックの土地でございます。分らないほうがおかしいでしょう」
「ではこちらが司教と分ったのならば単刀直入に要求を申しましょう。家臣を一人残らず解放して、この城に幽閉されよ」
「全く話が見えませぬな、どうしてそのような要求を私が受けなければならぬのです」
「あなたが化け物だからです」
空気が凍り付いたが、司教は相変わらず穏やかな笑顔を浮かべたままだ。
「…仮に私が化け物だとして何かご迷惑をおかけしましたか」
「しらばっくれないでください、一週間前この領地の尊き聖職者を全員食い散らかしたではありませんか」
「…それは本当の話か」
「ええ、発見者はこちらで匿っており情報は外に漏れてはいませんが遺体の確認は私がしました」
「…獣に食べられたということは」
「村のど真ん中で聖職者全員がですか」
『わたくしが悪魔に命じても殺したいのは神父共々聖職者の皮をかぶった本物の悪魔です』
お前は
お前は救われたのではなかったのか
私はお前を救えなかったのか
「私が化け物であるという情報源は」
「北の塔を見せてください」
「…要求を飲まなければどうする」
「領地を焼き払い領民を皆殺しにします」
血の気が引いた。
「それが…それが司教のすることか」
「司教だからするのです。化け物が治めた土地で育ったというだけで充分罪深い」
「…分った、自室に戻る。すぐに城の者を全員連れ出してくれ」
「話の分かる化け物で助かりました。昼間に来なければ私も食べられてましたかね」
重い足取りで応接間を出るとそのまま自室に向かった。
その後城から出られなくなった。
文字通りそのままだ。司教が結界を張ったらしく、出ようとするといつの間にか城内に戻っている。
ずっと零が気になってた。死んでいないのは分る。仮にも血を分けた眷族だ。
1年が過ぎた。
なぜか分らないが、この1年のどの渇きもお腹の減りも全くなかった。飢えがないのは大変楽ではあるが、退屈は退屈だ。この先何百年続くかと思うと恐ろしい気がした。
しかも一人で。
新月の夜だった。
光は無いが景色は見える。だがその景色の中に人の姿が見えた時すぐに誰か分った。
女の喪服を着た男。
一日一瞬たりとも忘れたことはない。
「零…」
「お久しゅうございます、伯爵」
「結界が張られていたはずだが」
「血のほうが勝るということでしょう」
「今までどこにいた」
「…帰れなかったのです。帰りたくても」
「あの事件のことか」
「…いいえ」
「じゃあ、なぜだ」
「…あなたを愛してしまったからです」
「…」
生ぬるい夜風が吹き抜ける。
「わたくしはあの悪魔と同じになったのだと恐れました。だから力を手に入れたなら殺さなくてはいけなかった」
「…もういい」
「あの悪魔を日に日に忘れる自分が怖かった。あなたの優しい目が怖かった」
「やめろ」
嗚咽を上げながら倒れこむ零を思いっきり抱きしめた。身体が震えている。
「…殺してください、あなたならできます。わたくしの血を吸ったあなたなら」
「そうやってまた私を一人にするのか、そんなことお前自身が許せるのか」
「…零私はお前の何もかもを許そう。だから許して欲しい私がお前を愛してることも」
「一緒に生きていけますか、これからもずっと」
「一緒に生きていこう、これからもずっと」