雨かゆみ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うーん、なんだか空模様が危うくなってから、雨が降って来るまであっという間だったねえ。傘持ってきてないから、急いで帰ろうと思ったんだけど、さすがにこれほどの降りになっちゃうと、どうも……。
ちょっとあそこのコンビニで、雨宿りしていかないかい?
いやあ、長引くかと思ったけど、だいぶ勢いが弱くなってきたね。あと10分長引くようだったら、ビニール傘でも買って行こうかと思ったんだけど。つぶらやくんは、相変わらずフードを被ってやり過ごすつもりだったかい?
いや、カッパとかの雨具じゃないのに、よくやるなあと思ってね。その材質だと、雨が染み出すのは時間の問題だと思うけど。僕自身はちょっとやる度胸がないなあ。
――へ? たかが濡れるのに、度胸とか大げさすぎるって?
えー、つぶらやくんだったら、雨の恐ろしさをよくご存じだと思うんだけどね。僕だって理由なく怖がっているわけじゃないんだよ。前に聞いた話があるからさ。
――あ、その顔。いかにも「話を聞きたいです」って感じだねえ。
なに、度胸うんぬんとかは、その流れに持っていくブラフだったわけ? そんな駆け引きしなくても、ストレートに尋ねた方がいいと思うけど。
ま、いいか。それじゃ出発する前の短い時間で良ければ、話をしちゃおうか。
むかしむかし。あるところに抜け毛を大変気にしている男が暮らしていた。天涯孤独の身である彼は定まった仕事に就かず、日々、山や川へ向かい、薬草や魚などを採って生活していたという。
彼の抜け毛は、歳が20を超えた頃から目立つようになってきたらしい。とある晴れた日に、彼が川で釣りをしていたところ、にわかに空へ雲が湧き出した。空気も湿っぽくなってくるし、雨具を持ってきてない彼はそそくさと引き返す支度を進める。
その帰り道に、とうとう頭にポツンと一滴が着地。たちまち全身を痛いほどに叩き出す、激しい降りと相成った。申し訳ばかりに頭を袖で隠しながら帰り道を急ぐ彼だったけど、その防ぎは十分なものとはいえない。自宅の戸を開けて中へ逃げ込むや、肌寒さに震えてしまった。速やかに服を脱ぎ、囲炉裏のそばで乾かしながら、その日はもうずっと火のそばを離れることはしなかったという。
身体が暖まるまで眠るまいと、彼は囲炉裏の火を煽りながらうとうとし続けていた。すでに夜は更けて、自分の足回りほどしか視認することができていない。
それが朝になって家の中へ光が入ってくると、自分の頭髪が大量に抜けて、バラバラに散らばっているのを見つけたんだ。
この家には、自分しか住まう者がいないはず。なのに、異様に長い髪の毛も混じっていて、本当に自分の頭から抜けたのか、疑わしいものも何本か。無意識のうちに濡れた頭をこすったかと思い、青年は頭を拭いたり、服を着たりする時、できる限り力を入れないよう努めたという。
そんな彼の心がけをあざ笑うかのように、彼の髪の毛はどんどんと抜けていった。特に天気の悪い日がひどく、家に帰って桶の中の水に自分を写すと、禿げあがった額が大きく映る。
生え際が、どんどん頭の後方へと逃げていっているんだ。かといって、下手にくしを通したりすると、今度はそれの歯と歯の間に、ごっそりと髪の毛がしがみついてしまう。
いじるもいじらないも、髪の離脱を防ぐ手段になり得ない。ほどなく、彼の頭頂部はすっかり禿げ上がり、いよいよこめかみから垂れる髪も、抜けの恐怖にさらされ始める。てかり始めてしまった自分の頭をさすりつつ、彼はため息をついた。
髪が生えている時こそ、手前みそながら均整の取れた顔立ちだと思っていた彼。それが今は、槌で上から叩いてへこませたような、ほぼ四角形の頭頂部をさらしている。昔から頭にものを乗せるのは得意だったが、それもおかしくないことだと実感してしまった。
早く髪を生やして、この不細工な頭を隠さなくては。そう考える彼は外出に際して、二重に手拭いを巻いて笠をかぶるという徹底ぶり。外気にさらさず保護すれば、解決に向かうのではと、頑なに信じていたんだ。
だがそれも帰宅後、解いた手拭いの生地に黒髪を見るや、意気消沈する。そんな日々が繰り返されていたらしい。
大々的な抜け毛から二月ほど経つと、もはや彼の頭で髪が残っているのは、両耳横のもみあげのみとなっていた。もはや、その部分こそつけ毛ではないのかと疑われかねないほどで、彼は恥からますます頭の防備を固める。
何も見た目だけの問題ではなかった。ここ最近、頭頂部がむずがゆく感じる時があり、笠を直すふりをしながら、頭をかくのに都合が良かったためだ。家に帰ってから、昼間にかゆみを覚えたところを指で押したり、なでたりするも、この症状は治まらなかったらしい。
たびたび集中を乱される酷さになってきて、ついに彼は少し歩いたところにある、医師の下へと向かった。医者自身も禿頭であったことは、彼にとってどこか安らぐ心地だったという。
だが医者本人は彼から話を聞き、頭に鉄でできたヘラらしきものを数回あてがうと、にわかに顔色を変えた。
彼と医者が対面に腰かけた脇には、様々な器具を並べた作業台がある。医師はそれらの器具を手に取り、次々に彼へ向かって試したらしい。筆から穂の部分を抜き、基端に穴を開けてひもを通した奇妙な器具を持って、その先端を彼の鼻の穴へ忍び込ませることもした。
黄色く染まったひもを見ながら、彼は告げる。病床は頭皮の裏側にあたる骨の部分、該当箇所を早急に切除しなくてはならないと。
同時に、この治療を、彼が意識を保ったままで行うことは困難であるとも、医師は説明した。激しい痛みを伴うものになり、十中八九暴れてしまう。その結果、いらぬ箇所を傷つけて、より厄介な症状をもたらし得るとのこと。
ではどうするのかと、彼は問う。医者のいうところによれば、極めて強い酒を用意し、彼に気を失うほどあおってもらう。そうして意識を喪失している間に、すべてを終わらせるとのことだった。
正直、彼自身はこの治療法に不審の念を隠せない。自分の手際の悪さを見せないがために、こちらを酔い潰そうとしているのか。下手をすると、ろくな抵抗すらできぬままに極楽浄土入りをさせられるかもしれない。
そう考える彼の頭が、きりりと勝手に痛んだ。これまでのかゆみとは明らかに違う攻撃性があって、内側から何かが突き出るかと思う感覚。思わずその箇所を押さえて、首を傾がせてしまうほどだった。
「放っておけば、近く命にかかわります。なにとぞ私めにお任せくだされ」
医者の再びの提案に、彼はしぶしぶながら、ゆっくりうなずいたそうなんだ。
彼の意識があったのは、医者にいわれて酒の入った盃を開けて、ちょっと経つまでの間だった。
次に目が覚めた時、自分は布団の上へ横になっているのが分かった。同時に、医者は少し離れた文机の前に座り、ひじを机の上に乗せながら白い小皿らしきものを手に持っていたという。
身体を起こそうとするが、またも鋭い痛みが頭に走る。再び手をやり、自分の額から上にさらしが巻かれていることを悟った。彼のうめきを聞き、医者がその手の盆を保持したまま、近づいてくる。
「これが病床にございます」と医者が差し出した皿らしきものは、中央の陥没部分に水が張っていた。その中を、おたまじゃくしのような黒い物体が、無数に行き来を繰り返している。
「この水は、すべて雨水にございます。そして中を泳ぐは、雨に乗って下界に降り立ちたものたち。名前はまだ定まっておりません。
どうやら、あなた様の頭をいたく気に入ったご様子ですな。ゆえに雨が降るたび、新しく降下したこれらが髪を分け、抜き続けて、中に……」
「頭の中に!」と、彼は頭頂部付近に手をやり、指で押そうとしたところで医師に止められた。
「ああ、しばらくは力を入れたり、衝撃を与えることは控えてくださいますよう。このように骨をちょうど除いたところですよって、その部分は中身へ直結しております。頭皮こそ縫い直しましたが、あくまで間に合わせの域。
これまで以上に、手拭いなどの保護をしっかりと行ったうえ、しばらく療養なさるのがよろしいかと」
医者から、元通りに動いてよいと診断が下されるまで、実に三月を要した。その間、彼は医者の目を盗んで何度か頭を押したらしい。そこには圧を押し返すような、がっしりとした土台の感覚はなかった。代わりに、指が皮ごと内側へ引きずり込まれそうだったという。
彼の骨の皿とその中身は三月の間、一向に処理されることなく、医者の手元にあり続けた。何のために保存しているのか、その問いに関して医者は答えずじまいだったという。