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たとえば君を悪とする。





九月八日の夜に眠った。


目が覚めたら十日の朝だった。



せっかくの日曜日を奪われてしまったことと、月曜日の朝の億劫さに、なかなか起き上がれずにいる。


カーテンの隙間から射し込む毒牙のような朝日が目を焼いて、右手を眼前に持ち上げたところでぐっと眉を寄せる。



指の先からはみ出しきった爪。


何かをしようと思っていた日に限って自分争奪戦に負けてしまうから、目が覚めたときに慌てることはよくある。


それを汲み取ってほしい、わたしなんだから。と伝えたことがあるけれど、もう数ヶ月改善の兆しは見えないところからして、たぶん忘れているのだろう。随分と都合のいい頭をしている。共有なのに、わたしより頭の使い方が上手かった。



「もー……」



寝起きで掠れた声は砂利を纏ったように重くて、自分の声なのに驚いた。


一度目を見開いてしまったら、瞼の縁を光が満たして、今度は閉じきることが難しくなる。


持ち上げた腕で目元を覆ってどうにか眠気を取り戻そうとするけれど、遥か遠くに連れ去られてしまったそれにはもう手も足も届かなかった。



何度目かの目覚ましのスヌーズを止めるころ、部屋の外が騒がしくなる。


廊下を駆け回る足音がよっつ。楽しい夢の続きに目を覚ましたような賑やかな声がふたつ。


足音と声はわたしの部屋の前を素通りすることなく、ピタリと止まった。そして、勢いよくドアが開く。まだ幼稚園児なのにどこにそんな力があるのかと言いたくなるほど、ほとんど轟音とともに全開になったドアの方を見遣る。


腕の隙間から薄目にちらりと視線を寄越しただけなのに、ふたりは目敏く気付いてこちらに駆けてきた。


部屋の入口から五メートルほどしかないこの距離を、まるで徒競走のゴールテープを目指すように詰められて、ハッと体を捩るけれど、間に合うはずもなかった。



「よし姉ちゃん!」


「おはよー!」



いつものことだし、何度言っても飛び込んでくるふたりを懐柔することはとうにわかっているのに、また避けられなかった。


腹部と足にのしかかる、ひとりあたり十七キロの重みが無遠慮に跳ねるものだから、昨夜の夕食が何なのかは知らないけれど、逆流して込み上げて来そう。



「紫乃、梨乃、どいて……」



アーチ状に覆いかぶさっているせいで逃げ場がない。


体を無理やりに捩ると面白がって手足をバタバタと暴れさせるから、動かずに大人しくして言葉だけで小さな天使、もとい悪魔を宥めていく。



「何してくれるのー?」


「何くれる?」



口を揃えて言うから、一瞬言葉の意味が理解出来なかった。


聞いたことがないわけではないけれど、このふたりの口から出てきたのははじめてだったから。


いつからそんな、対価を要求するようになったのだろう。


嫌な予感が忍び寄ってくるのを頭の隅で必死に払いながら、どうにかふたりを押し退ける。


ベッドから転げ落ちそうになる梨乃の脇をがっしりと掴んで引き上げると、ぱちりと瞬いたくりくりの瞳が嬉しそうに細められる。



わたしの手に余るふたりだけれど、やっぱりどうしたって妹と弟は可愛い。


だからこそ、余計なことを教えたであろう心当たりが許せない。



「わたしの言うことを真に受けちゃダメだってば」



足元に転がった弟の紫乃も抱き起こして、ふたりの目を覗く。


紫乃の右目と梨乃の左目に映るわたしはとても困った顔をしていた。



「……? はーい」



ふたり揃って首を傾げながらも、ちゃんと返事は聞けた。


これに懲りて、とまで上手く事はいかないのだろうけれど、子ども相手に言及したって、わたしの意図がこれっぽっちも伝わっていないことを思い知るだけだ。


それなら、理解したフリを素直に飲み込んだ方がいい。



ベッドにふたりを下ろして立ち上がると、床に届かない足をぷらぷらと揺らしながら、まだたどたどしい手つきでパジャマのボタンを外し始める。


物分りがいいのか良くないのか、着替えや食事には協力的だから助かる。



ふたりが朝部屋に来たら、必然的に自分のことは後回しだ。


棚の上に積んである洗濯物の中からふたりの服を引っ張り抜いて順番に着替えさせる。


ひとりでやりたがるときは適当に上下を選んで渡すだけ。要望や文句があれば大抵は応えてあげることにしている。



揃いのボーダーのシャツに、梨乃は継ぎ接ぎのスカート、紫乃は紺のハーフパンツ。


着替え終えたふたりの髪を手ぐしで整えて、先にリビングに行くように促した。



ふたりが元気よく部屋を出て行ったあと、自分の着替えを済ませる前に学習机に近付く。


いちばん上の棚を開けると、そこには一冊のノートが入っていた。



目が覚めたら、必ずこれを読む。


たまに何も書かれていないことがあるけれど、今日は一ページにぎっしりと文字が詰め込まれていた。



ほとんどはわたしに対する文句のようなもので、本来これに書くことにしているその日の出来事は最後に一言だけ。



【⠀今日も良い一日でした。 】



取って付けたような、奥歯がむず痒くなる一文がわたしの声で脳内に再生されて、気持ちが悪い。


わたしと全く同じ筆跡で、今日を良い一日だなんて、よく言える。


そりゃあ、日曜日だから楽しかったでしょう。どこかに出かけたのかもしれないし、一日ふたりの相手をしていたかもしれない。


何にせよ、これを書いた昨日の“わたし”が常套句として書いたのか、噛み締めるように書いたのかわからないけれど、後者だとしたら尚更気持ちが悪い。



ノートを引き出しに仕舞ってさっさと着替えを済ませてしまう。


薄いシャツの夏服を洗濯物の中から引っこ抜いて身に纏うと、やたらと濃い柔軟剤の香りがした。




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