006──遅い到着~Unknown.~
──漆:拾:拾弐:零零──
眼鏡を外して、僅か数秒で失った意識が回復した。その時には、眼鏡が既に納まっている。
しっくりくる感覚からして、多分損傷は無い。
周囲の状況を検めようと見渡したが、氷結によって壁面や床には未だに凍っている。以前よりも削られたり欠けたりした支柱や下駄箱の荒涼とした景色は、瓦礫によって埋め尽くされていた。
俺が──また戸番榊がやってしまったんだろうな。
やはり、完全制御なんて無理だった。相手が顔馴染みの後輩だろうと容赦無し。
俺の体は、酷い有り様だった。
支柱に凭れている体の下は、無造作に赤い染色液でも撒布したかの様である。ある意味、殺人現場に見えてしまう。
片腕は骨折して些細な動作も行えない。力なく垂れ下がっているし、青痣が皮膚に滲み始めている。
服は完全に薄紅色で染まっており、無理が祟ったのだろうか、元より負傷していた腹部は色が濃い。傷口が開いたとなれば、俺の命も危ういな。
随分と失血してしまったのか、脚すら動かん。いや、こんな状況で動いても自分が怖いけどな。
それより──桐花は無事なのか?
麻子は屠ったと達観したとして、まさか見境なく彼女にまで被害が波及していたら。もう、止めてくれよ。失いたくない人まで、殺したくない。
俺は必至に首を回して昇降口全体を確める。
桐花を呼名する声は出ない。焦燥感もあるが、一番は些か血を失い過ぎた事だ。頼む、居てくれ……無事であってくれ……!
俺は左へと視線を映した時、人影に視界を遮蔽された。そのまま後頭部を包まれると、目前にある物体へと引き寄せられる。……人の体温だ。
自分を抱き寄せている、これは腕か。
「もう、大丈夫だよ……サカキ」
俺の頭を優しく撫でて、その人物は囁いた。
まるで激怒する子供を窘める様に、硝子物を扱う優しい手付きである。
至近距離に──桐花の顔があった。額同士を接触させ、彼女は頬を血に濡らしながらも、瞑目した安らかな笑みで、俺を撫でる手を止めない。
無償に縋り付きたい衝動に駆られたが、俺は体が思う様に動かない。額を強く擦り付けるのが精一杯だった。
「ボクが居る。もう……大丈夫だよ」
「……トーカ、俺は……何かお前に、しなかったか?」
答えなど解りきった無為な質問だ。
決死の覚悟で俺を制止したのだろう。肉を抉られた腕の傷は、鋭い刃物の痕跡だ。きっと俺が足軽から借りた短刀で攻撃したのだろう。
直截に言ってくれ。そうでないと、俺は狂いそうになる。
「ううん。サカキはね……ボクと麻子さんを守る為に、全力で戦ってくれたよ」
「……嘘だ、お前……ボロボロじゃねぇか」
「人の事、言える?」
俺の頭を放すと、可笑しそうに笑って桐花は腹部を抑えて踞る。含み笑いではなく、呻き声。まさか、そこにまで俺が何かしたのか。
視線を少し横に動かすと、正面の支柱に凭れている麻子が居た。躰の損傷具合は凄惨だが、呼吸はしている。この場に居る全員が風前の灯の状態だ。
トーカは隣に腰を下ろすと、俺の肩に頭を乗せて一息つく。やはり、酷い傷だ。責任を取りたいが、今の俺では命しか対価として差し出せない。
いや、それよりも──人を助けないと。
俺が眠っている間にも、結界とやらで閉鎖された学校敷地内で誰かが襲われている。それも、俺がまだ見ぬ首謀者……キズモノや、麻子と同じ類いの敵が暴虐を続けている筈だ。
感覚が幽かに回復し始める。
俺は支柱から背を離し、倒れながら這って前進した。こんな状態では救える命が一つあるか否かも判断出来ない。瀕死でも囮くらいにはなるだろう。
使い捨てでも、他が為に。
しかし、突然足首に抵抗が掛かって動けなくなった。背後を顧みると、苦痛を堪えながら桐花が俺を摑んで止めている。
「もう、やめてよ。一人で戦わないでくれよ」
振り切ろうと身を捩る。
こんな無様な状態でも、俺はやらなくちゃいけない。朝陽や大樹、学校の皆が傷つけられているのを看過するくらいなら、死んだ方がずっと楽だ。
それでも、足首に絡められた桐花の五指は緩まない。更に握力を強くして、俺を阻んだ。
苛立ちが募り、振り向いた拍子に頭部の出血で片目の視界に紅い幕が掛かる。
桐花は涙を流し、その頬の血糊と混じって薄く赤みが掛かる。
「俺は……皆を……!」
「ボクも、これ以上サカキが傷付く所なんて、見たく無いんだよ……っ」
その一言に、俺は何も言えなくなった。
身近に居る女の子を泣かせて、何が人助けだ。俺の身勝手の所為で、傍に居てくれる人を不幸に陥れるなんて、あっちゃならない。
今は桐花を守らなくちゃ。俺が足軽との戦闘で負傷した時も、寝る間を惜しまずに看病してくれた。無事に意識を取り戻した元気な姿を見せると、涙してくれた。
この子に悲泣の涙を流させてはいけない。そうでなければ救世主になんてなれない。
俺は這って桐花の隣に戻り、必死に片腕で身を起こした。彼女の目元から滂沱と流れる熱いモノを手背で拭ってやって抱き寄せる。
安心させる方法なんざ判らんから、これで許してくれ。
すると、俺の背中に桐花が腕を回した。
「ごめんな」
「ひぐっ……本当に……勘弁してよ」
「すまん」
「……コンタクトレンズにして」
「俺の個性が消えちまうだろ、てか視力良いし」
以前試したけど、コンタクトレンズが直ぐに外れちゃうんだよなぁ。後、眼鏡外すから必然的に暴走してしまう訳でして、無理な相談ですわ。
しっかし、桐花さん……抱き締めてくれるのは大変嬉しいんですが、そこ超痛いです。ピンポイントで切創の肉を握ってます。あー、そこそこ、痛いのぉ(肩凝りじゃなくガチで激痛)。
「ボクが居るから。サカキは、ボクが助けるよ」
「え、結婚してくれるのか」
「保留で」
「え、一考の余地はあるって事か!?よし、次から好感度稼ぐ為に頑張っ──はーい、判ったお兄さんよく判った。だから、傷口をぐりぐりするのやめようねー良い子だから……!」
何だろうな。
俺を助けたいなんて言う奴が居るなんて、初めてだった。そう考えると、凄く安心すると同時に、眼鏡無しでも人を守れる強さを手に入れようって思った。皆を……桐花を二度と傷付けない、そんな男になりたい。
いや、それでもだ。
やはり、この結界を解除しないと話は始まらない。そうでないと、いずれ桐花が殺られてしまう。朝陽達の安否も気になる、行動しなくても意魔やら意躯の連中は襲ってくる。
足軽がもし斃されたなら、俺を仕留めにキズモノも接近する筈だ。
「桐花、行ってくる。必ず生きて戻るからさ、だから待っててくれ」
「……本当に、しょうがないなぁ」
苦笑した桐花──その表情が直ぐに凍り付く。
その視線の焦点は、俺ではなくその後方へと向いている。不吉な予感がした、意躯を前にしても冷静だった桐花を戦慄させるなんて、恐らく現状で最も遭遇したくなかった脅威なのだろう。
俺が振り向くと、昇降口の割れた硝子の破片を踏み締めて歩む男性が居た。
黒いシャツとジーンズに辛子色のスーツジャケット。前髪を掻き上げて整えた髪型と、穏やかな笑みが好青年の印象を与える。だけど……両の目許まで伸びる額の十字の傷痕が、本人をどこか異質で不気味に際立たせた。
「おや、麻子を相手に生存しているとは。やりますね人間」
「誰だ、お前……悪いがナンパに来たんならお引き取りだ。トーカは俺とデートする先約があるんでね」
「いえ、そんな積もりありませんよ。ただ、厄介な敵対勢力が此所に潜伏していると小耳に挟みまして……そうか、君達ですか」
その瞬間──男性の姿が消えた。
驚いて周囲を探ろうと体を巡らせた時、横合いから黒い脚に打擲されて床を跳ねて壁に叩き付けられる。拉げた腕が衝撃によって激痛を発し、喉から小さく悲鳴が漏れた。
俺の過去位置、即ち桐花の前でポケットに両手を入れたまま、脚を振り抜いた姿勢で静止している男性。
相変わらず気色悪い笑顔のままだった。詐欺師みてぇな面してんな!俺もよく言われる!
「どうやら、麻子は君に敗北したようですね。なら、ここで始末するのが良い」
拙い。
今の俺では回避なんて無理だ、反撃の余力も残されておらず、完全に一方的な状況だ。奇跡でも起こらない限り、野郎の一撃を止めるなんて出来ない。
桐花が短刀を手にするが、男性に蹴り上げられた挙げ句、腹部を踏まれて悶絶している。相手の弱点が正確に判る力でもあるのか、執拗に彼女の服で隠れた負傷も看破し、爪先で虐めていた。
あの野郎……涼しい顔して俺の目の前で外道かますなんて許さねぇ!
反抗の意を示し、俺が立ち上がると、桐花への攻撃を止めて此方に向かって動き出した。前傾姿勢で壁を蹴り、片足を振り上げる。
男性が床の氷面を軽やかに滑走し、その勢いを載せて脚を横薙ぎに振るった。──来た、やべえ!
俺は再び眼鏡を外した。
全神経が研ぎ澄まされ、全身から痛みが消える。一瞬だけなら、俺にだって制御は可能だ。何より、支えてくれる大事な人が居る!
もう慴れずに力を揮えるんだよ!
起死回生で俺が突き出した足は、男性の腹部に命中──する寸前で交差させた両腕に受け止められた。それでも、威力はあったようで、氷を逆側へと滑って支柱に背を打つ。
蹴りを放った足が内側で悲鳴をあげた。元より多大な負荷をかけた後とあって、骨や筋肉が大きく軋む音を立てた。
嘆息した男性は、防御を解いて肩を竦める。
「成る程、厄介な人間ですね」
俺の視界が突然塞がれた。
これは──手だ。頭を鷲摑みにされ、壁に後頭部を打ち付けられる。瞬間移動でもしてるのか、刹那の時で俺との距離を潰して捕らえたのだ。間違いなく麻子と同じで、超人ビックリの異能を備えてやがる。
やべ、衝撃で意識が持っていかれる……!
拡げた相手の五指の隙間から、男性の顔が見えた。眉間に皺を寄せた、異様な笑顔だ。
続け様に腹部に五、六発ほど拳を叩き込まれた。明らかに人間の放てる速度じゃない。それに、元から負傷している肉体の強度なんかを差し引いても、膂力が人間の範疇を逸している。
血反吐を足許に落としても、男性は手を緩めなかった。今度は膝で俺の顎を撥ね上げ、肘で首を横から打ち抜く。くそ、血出しすぎた所へ執拗に攻撃が加わるから、視界が霞んできた……。
右頬を拳で叩かれた後、顔面をまた鷲摑みにされた。やべぇ、PTA役員も真っ青な暴力だぜ。いつもは俺がお世話(色んな意味で)になっている警察さんの出番だぞ、これ。
「決めた。先ずは君を徹底的に叩きのめす」
死神の死刑宣告が、耳朶を打った。
死を覚悟して瞑目する。結局、誰も守れなかったな。せめて、桐花だけでも救われてくれれば、後は何でも構わない。
頼むから、桐花からなにかを奪うのはやめてくれ。
「それが君の願いか、サカキ」
昇降口に剽げた声音が響き渡る。
男性が攻撃の手を止めて振り向いた先は、入り口で佇む黒服の奇人。それも肩に担いだ杖の湾曲した柄本にぐったりとした武者の意魔・足軽を引っかけ、片足で器用に立っていた。
明らかに場違い、空気を読まないアイツの姿。
仮面の下ではけたけたと笑っているのが判る。
「どうして欲しい?」
「助けて欲しい」
「報酬は?」
「これから、お前の日常をもっと面白くしてやるよ」
「へぇ──乗った」
足軽を地面に下ろし、杖を軽く振り回しながら、アイツが男性へと近付く。両腕を広げながら、肩を揺らして笑っていた。
「退屈な日々は、終わらせよう」




