006──夜の剣戟~Battle of sword.~
──漆:弐:拾玖:弐拾捌──
霧島朝陽とデート──この一文のみで心弾むのは、男子の性なので仕方ない。尤も、それまでの試練は幾つも存在しているが、かつて無いほどの活気に溢れている今の俺なら、広瀬翔という完璧超人が対敵であろうと恐れない。
どうやら、この眼鏡を解除する時が来たようだな。舐めんなよ、思春期男子の欲望は爽やかイケメンを相手にしても歪に折れはせん。……こういう男に引っ掛かって欲しくないな、朝陽と桐花には。
取り敢えず、今は勝負事は忘れて純粋にお泊まり会とやらを楽しもう。舞台が廃墟となると、別の意味にも捉えられるが、こういう体験も滅多に無いから楽しめるか否かは俺次第だ。
太陽は既に西へ没して少し後、器宮町には人の営みが生む夜の静けさに微かな団欒の声がする。この時間帯は帰宅ラッシュの少し後とあって、街路を行く人々も疎らである。白いラインの入った黒ジャージとサンダルに眼鏡、無造作な癖っ毛の髪型である俺は、スーツ姿の労働者が歩く中では些か目立つ。
これから人気の無い場所へ行くのだから、別に気にする必要は無いのだけれども。桐花はもう廃墟に到着しているとの連絡もあるし、アイツに関しては心配も要らないのだろう、変に気遣っても苛立つだけだし。
いや──それにしても、まだ数時間前の朝陽が鮮烈過ぎて顔が熱くなる。文句の付けようがない美形、加えて性格も厳しくはあるけど優しいところもあるというのは熟知していたが、あんな風に羞恥で赤面したり色っぽく笑ったり、かと思えば今度は無邪気になったり……危うく惚れるところだったぜ。
いや、実際的に惚れても構わないだろう。
ただ、俺は人助けがしたい。誰か一人に固執するよりも、より多くの人の笑顔が見たいんだ。母親のように強く、皆を支えられれば。
柄にもなく物思いに耽り、北東部の森林付近に差し掛かる頃には出発より半刻を上回る時間を過ぎた。道中も誰にも当たらず来れたのが不思議なほど、俺は沈思していたのだろう。
廃墟は見えないが、月光が投げ掛ける樹影が先の街路を隠す。風に騒めく枝葉の擦れる音は、夏の頃にはとても涼しい印象があって好きだ。
いや、それにしても寒い。捲っていた袖や襟を正してみるが、肌を刺す冷気は変わらない。突然の体調不良なのか、でも危険物を口にした記憶も無い……あれか、朝陽のアレの感触が強すぎてようやく身体機能に異常が現れたのか!最初の衝撃もだが、遅効性の爆弾とは恐るべし。
そんな下らない訳がなく、俺はすぐにその正体を知る。重なる枝葉で光が遮られて生まれた影の街路──俺が辿る道の先に、何かが立っていた。直感で判る、人ではないモノなのだと。
綴り合わせた木札の鎧、漆の剥げた笠は頬被りが破けていて、下に来ている襦袢は襤褸に近く粗悪だった。裾を絞った袴の下にある草履の鼻緒をつかんだ指先は、黒褐色の肌が覘く。腰に二振りの刀を帯びて、背には袈裟懸けに紐で担いだ旗を持つ。
それを見て──足軽に似ていると思った。それも、よく落武者なんかの代表例。笠から垂れた頬被りで隠れた面貌は、いったい人の形なのか、それとも……。
いや、コイツが何なのかは概ね察している。最近は無くて平和ボケしてたから、いつかとは危惧していたけど、今まさに自身の油断というものを痛感させられた。要するに、「理不尽」というやつだ。
半足踏み出し、腰をやや低くして腰の刀に手を添える足軽──一本ずつ、緩慢な所作で指を絡め、親指だけはそのままにして止まった。後ろに引いた片足は、紛れもなく飛び出す為の発射台だ。あの親指が動いた時、おそらく足軽も来る。
やるしかない。筋肉だるまの時は、一撃を回避したことで言葉が通じた。それは即ち、相手に一度でも己の力の一部を披瀝して認めさせることが出来たなら、交渉も吝かではないという彼等の習性。
全力で躱わせば良い、それだけの事だ。
『ヴ……ゥウヴアア!!』
笠の下から聞こえる怨嗟の叫び。
声と共に踏み出した足軽が接近し──速ッ!?
突然、すぐ眼前に閃いた刃が現れ、咄嗟に上体を下に屈ませた。鋭く冷たい空振りの音が後頭部を微風となって撫でる。それだけで背筋が戦慄に凍る。直線を動いたとはいえ、距離感を狂わせる速度で既に近くまで跳躍したのか。
意魔の能力は伊達じゃない──今度は下からの峰打ちが鼻先を狙ってくる。飛び退いて後ろに顔を煽ると、頬を刃先が小さく掠めた。
本格的に距離を置く為に、後ろへと軽く走った。充分、刃圏から逃れた筈だし、これで相手も手出しは容易に出来まい。漸くまともな交渉ができ…………あれ?
俺は違和感に目を眇めた。何故だか、以前よりも足軽が遠く感じる。それは、奴が先程接近して来たからというのではなく、その位置が攻撃前から動いていない異常を悟った。
でも確かに攻撃は俺を捉えていた。距離を無視してどうやって……。深く考えずとも、疑問の正体が何であるかを心得た。奴が動かず、一閃だけが距離を潰す──あの刀は伸縮性に富んだ意魔の武器なのだ。さながら如意棒であり、意のままに進まず敵を撃滅する足軽の切り札。
手の動きは辛うじて見える、行動速度はまだ未知数だが、少なくとも刀の間合いを計る必要がある。流石に此所までは届かないのか、未だ下段に提げた鋒を揺らすだけで、こちらの様子を窺っている。これは慎重な作業になりそうだ。
一歩、また一歩と摺り足で前に出る。正確な距離でなくて良い、おおよそ感覚だけ掴めれば後は持ち前の運動神経でいなせる。足軽も動きを止め、攻撃圏に標的が踏み入って来る瞬間を強かに待ち構えていた。
そして、何歩目かで再び紫電が迸る。影から放たれたそれが、月光を浴びることで軌跡を残光として空気中に残した。上体を後ろに引いたが、ジャージの襟に切れ目が入る。距離およそ七メートルが奴の間合い──相手の攻撃の速さを見る限り、至近距離まで近付くのは無理だ……って、何でまともに戦う積もりでいるんだ?
意魔との戦闘経験が少ない俺に、奴等を退治する術など持ち合わせていない。あるとすれば、それは桐花やアイツくらいだろう。
廃墟まで行けば、結界で意魔の立ち入りが禁じられる。つまり、そこまで逃げれば俺の勝ちだ。少し不本意ではあるが、此所はやはり筋肉だるまと同様、ゲームで決着する他ない。
「そうとなりゃ、逃げるだけだ!」
俺は身を翻し、奴に背を向けて走り出した。
男だからって、何でもかんでも正面突破で行く奴なんてそういないぞ。今の時代は、男にも二言以上はあるし、弱音も恨み言も吐く!そういう事をとあるラノベで読んで大いに共感したものだ(ちなみに面白くて全巻揃えた)。
足軽の走る音がした。木札の鎧が擦れ、ぶつかり合うことで奏でられた騒音は夜に響き、だがしかし誰一人として窓から覗く気配は無い。大通りまで駆ければ、民間人に被害が出てしまう。此所は一応住宅街、夜は人も少ないからこの地勢を活かして撒くしかない。
街路を無我夢中で力走する最中、奴の足音が消えた。もしかすると、いつの間にか追い付けなくなったのでは……だとしたら、やはり奴自身の行動速度は脅威に足らないのだ。一先ず安心か、そう後ろに振り向いて──絶句した。
腕を何倍もの長さに伸長させ、電線に捕まって蔦を伝ってジャングルの木々の間を往来する猿さながらの跳躍。距離をぐんぐんと縮めて来るところが、かなり怖い絵面になっている。
拙い……このままじゃ追い付かれる。
「こなクソったれ!」
翻身とともに振り抜いた足でサンダルを放つ。
狙い通り、奴が次に捕まろうとした電線との間に割り込み、誤ってそれを手にした足軽は支えを失い地面に落下した。人身事故のように凄まじい勢いで地面を転がって塀に激突する。体の何処かが骨折しているほどの転倒っぷりで、壁面に皹が入って割れ目に埋もれていた。
何だかジャングルのター◯ンやって楽しんでるところを邪魔したようで、申し訳無い気持ちになるが、罪悪感で命は払えん。
壁面に激突した時に、足軽の腰帯から外れた脇差しが俺の下まで転がって来た。掴み取って抜き放つ。生憎と、銃刀違犯で縛られてはいそうですかと頷ける状況じゃねぇ。
俺は刀片手にそのまま奴を置き去りにして走り始めようとして、唐突に右足首が動かず、前のめりに倒れる無様を晒す。いや、誰も見てないけどめっさ恥ずかしい。振り向くと、塀から伸びた奴の腕が巻き付いている。まじかよ、人体ってそうだっけ!?あ、人じゃねぇか。
俺の足を拘束する足軽の手に、脇差しの先端を突き刺す。握力が無くなるまで、その伸びて細長くなった腕を滅多刺しにした。よく漫画である回復力の優れた化け物ならお手上げだが、未だに壁から出ていないところを見ると、それは無い。
何度目かで、漸く俺の皮膚に食い込んでいた五指の力が弛緩し、その隙に蹴り払った。──と、今度は奴の腕が鞭のように撓り、立ち上がった俺の足許を強かに払う。
その打擲で宙を横に回転した俺は、反転した視界に映った凶器に凍り付く。まだ着地もままならない体勢の今を狙って、足軽の伸びた片手が握る刀が正面から強襲する。回避は望めない、胴を貫かれるか横腹を抉られる!
最大限の集中力を以て、瞬時に弾く決意をした。
その時──視界に映る景色が変わる。
夜の暗さも関係せず、物体の動きが遅くなり、総ての動作を容易に見切れる。この状態で早く動けるのは俺だけだ。
昔からこういう現象があり、これが眼鏡を外した時はどんなに高速の物体でも些細な部分まで鮮明に捕捉する。これは母からの遺伝らしく、何とも有難いことに化け物相手にも通用するらしい。足軽の攻撃が遅い!
脇差しでその鋭鋒を受け止めると、衝撃で俺は後ろへと吹き飛んだ。幸い無傷なのが救いだが、転がった先の電柱に体を打ち付ける。埃や塵を巻き込んで倒れた所為もあって、すっかり汚れてしまった。
漸く壁から脱した足軽に向け、即座に残りのサンダルをお見舞いする。寝起きの一撃は笠に命中した。奴の顔を隠していたそれが地面に落ちる。
「うわ、マジかよ……」
肉も無い骨剥き出しの顔面、眼窩の内側には虚な闇を湛えている。顔面の骨格は、下顎だけが牛に相似した形状であり、その他は人間と差異ないという奇怪な外観。笠で隠してた時は、何か少しカッコ良かったけど、幻滅したような……。
足軽が悠々とこちらに向かって歩を進める。
何なんだ、その余裕は。人間風情にここまで手を煩わされながら、まだ上から目線かよ。上等だ、成敗してやる。
俺も前に進み出た。互いに中段にした刀の先端が触れあう距離に立ち止まる。どうやら奴も腕の伸縮を駆使しない尋常な剣の戦いに臨む積もりだ。筋肉だるまといい、こういうところが嫌いになれない。
「舐めるなよ、こちとら朝陽の剣道の練習に付き合ってんだからな」
『イザ尋常ニ勝負ダ』
「あれ、喋れたのね」
俺は勝って、何としてもお泊まり会に参加するんだ!
両者の服、襤褸となった部分が風に戦ぐ。静謐の夜気を互いの充溢した闘志が緊張させ、目前の敵のみに意識が傾注する。意魔としての本能と、生存本能に従う俺。どちらが勝るか、雌雄を決する時が来た。
足軽の足が小さく浮く。
中段に構えていた刀が直線を描いて顎へ奔った。至近距離でこの速度、だが最大の集中力を発揮する今の俺に見えないモノじゃない。躱し遂せたが、それでも頬を掠めた。
俺はその刺突を横から弾き、体勢を崩す足軽の胴へ脇差しを横へ薙ぐ。完璧な一撃、タイミング、速さだった。──なのに、足軽が引き戻した肘と振り上げた膝で白刃取りを決める。引いても柄は微動だにしない。
水平に持ち変えた刀で、今度は俺の喉元へ突きを繰り出す。やむを得ず、武器を手放しながら後ろへと反り身になって回避した。だが、これでは次の攻撃に対処が遅れる。
そのまま地面を蹴って背転しながら空振りした奴の腕を下から弾く。刀が夜空に旋回し、着地した俺はその胴に拳を叩き込んで──後悔した。相手は粗悪だが鎧という武装をした状態だった。
鈍い音とともに足軽の膝と肘が離れ、脇差しが落ちたが、俺の拳にもダメージが……!いてぇ、普通に痛ぇ!
地面に落下する直前で足軽は脇差しを拾い上げる。俺は咄嗟にその腕を踏みつけて押さえ、上空から帰還した奴の刀を掴み取って上段から振り下ろす。笠が無いいま、遠慮なく頭を断ち割れる。
寸前で籠手によって防御され、胴に蹴りを喰らった。俺は堪らず後退し、足軽に襟首を掴み上げられると、腕の伸長が始まって高々と振り上げられ、ゴミ袋が堆積する場所へと叩き付けられる。背中から突っ込んで動けずにいると、容赦なく肉薄して伸びる刀身で一閃してきた。
身動きが取れない状況で、辛うじて刀で受け止める。本格的にヤバイのは、この距離で一方的な虐殺が始まりかねない。俺は詰め寄るしかない間合いで、足軽だけが攻撃を当てられる領域。
身を捩ってゴミの山から脱出して地面を蹴る。同時に適当に掴んだゴミ袋を一つ投げた。これを遮蔽物にして相手の隙を衝く!
だが、俺が距離を詰める間で既にゴミ袋は両断されてしまった。中身が宙に散乱し、俺を少しでも隠す煙幕となって働いた。足軽の位置は知っている、躊躇わず鋭く踏み込んで一突きする。
しかし、返ってくる手応えは虚しく空を切るもの。身を横へと傾けた足軽に躱され、既に振りかぶった脇差しの刃先がこちらを目指して空気を裂く。剣道で身に付けた生半可な技術じゃ実戦には不向きなのか?
いいや、朝陽との練習は無駄じゃない!こんな機会で、こんな場面で使う事は予想だにしていなかったが、それでも培った物を無価値、無駄だと断ずるのは敗北してからだ。まだ俺は負けてない!
「でぇいッ!!」
『!』
下からの逆袈裟斬りで脇差しの一撃を相殺し、鍔迫りへと持ち込む。文字通り鎬を削り合い、鼻の先で火花が咲き乱れる。
拮抗していると思えて、膂力はやはり相手の方がはるかに上であり、次第に圧され始めた。一歩、また一歩と体が後ろに進む。下手に距離を空けると切り返しが来る、そうなれば避けられない。
俺は無理矢理、渾身の力を振り絞って正面から噛み合う敵の刀身を横へといなし、相手の脇を潜るように低く走り、擦れ違いざまに振り返りながら剣閃を鎧の隙間に叩き込む。
足軽もまた、横を通過し翻身した俺と同じく、横へと転身して腕を僅かに引き伸ばして脇差しを振るった。
両者の剣が夜の静寂に風斬り音を立てて静止した。
どっちが勝ったか……俺の体に痛みは無い。暫くして、足軽が目の前で膝を屈した。脇腹を押さえて苦悶している。流血が指の間から漏れている。量はそんなに無いから、傷も浅いのだろう。
顔面は骨なのに、胴体には肉が付いてるとか不思議すぎるだろ。まあ、だから小さな傷でもかなり痛いんだろうな。
「俺の勝ちだ、骨足軽」
そう言って、鋒を足軽の鼻面に翳す。
粛々と死を受け入れるかのごとく、顔を俯かせた足軽に少し、ほんの少し罪悪感を懐いた。筋肉だるまと同じように、どうにか敵同士でも判り合えないか。そんな考えが脳裏を過る。
汚れたジャージの塵やら何やらを払って、俺は跪く足軽の患部にきつく縛り上げた。これで止血になれば回復も早いだろう。処置を施した俺を不思議そうに眺める。
「剣も良いけど、今度は土手でサッカーとかハンドボールしようぜ。お前、ゴールキーパー向いてるし」
足軽の肩当てを軽く叩いてそう声を掛けると、顎をかたかたと鳴らした。……どうやら笑ってるようだ。
取り敢えず、剣呑な戦いが終わって安堵したいたところに、遠くから声が響く。そちらに振り向けば、桐花とアイツが俺めがけて走ってきていた。
「サカキ!」
「おう、トーカ!待たせて済まん、今そっちに……──あら?」
急に意識が遠退いて、力を失って倒れる。あれ、何でだ、傷は受けてないのに。
重くなる瞼の裏の闇が視界を上から塗り潰す中、最後に桐花の泣きっ面を見て、俺は気を失った。