壱拾
早朝の出来事に上機嫌で帰宅した松井は、見慣れない婦人靴におや?と思う。二十七歳になる一人息子猛の友人だろうな、そんな事を考えながら玄関で靴を脱ぐ。
猛は父と違って社交的でアクティブな性格であり、身体能力の高さを活かしてダンサーを目指していた時期もあった。しかし膝の怪我で十代のうちに断念し、現在は介護士として働いている。
「ただいまぁ」
「お帰り父さん、お客様いらしてるよ」
「えっ? お前の友達じゃないのか?」
違うよ。息子はまるで誘導するかのようにダイニングに入っていく。誰だろ? 女性の知人などぱっと思い浮かばない松井は
不思議に思いながらもそれに付いていく。
「ご無沙汰しています」
そこにいたのは伊勢奈那子だった。彼女は立ち上がって松井に一礼する。
「どうしてここにいらっしゃるんです?」
彼としては率直な疑問をそのまま訊ねただけなのだが、なぜか猛がイライラした態度を見せてくる。
「女性の気持ちを一ヶ月も放棄しておいてよくそんな言い方できるよな」
そういう事かぁ、ひと月前の出来事を思い出した松井はその場でうなだれてしまう。
「だからって自宅まで乗り込みます? 普通」
個人的な連絡を取っていなかったのもあったのだが、まさかこのような強硬手段でくるとは想像もしていなかった。
「ごめんなさい、悠介くんを頼りました」
彼ならやりそうだと腑に落ちた松井は、かつて掛けた自身の言葉に本気で後悔した。
「いやさぁ、元凶は父さんでしょ。いい機会だからとことんまで話したら?」
俺出掛けてくるわ。猛は二人分のアイスティーを用意すると、伊勢に向けてごゆっくりと声を掛けてからそそくさと出て行ってしまった。
「「……」」
二人の間に気まずい空気が流れる。自業自得とは言え、この雰囲気に耐えられそうにない……伊勢は隣の椅子に置いているバッグを掴んでいた。
「日を改めて出直します」
そう弱々しく言ってバッグを抱え、お邪魔しましたとダイニングを出ようとする。さすがにこのまま出て行かれても困る、松井は慌てて呼び止めた。
「あの、いよいよ何しに来られたんです?」
「えっ? っとぉ」
伊勢は頬を赤らめて普段とは真逆の態度を取る。
「そう何度も来られては困ります、まずは座ってください」
二人は向き合って座り、猛が用意したアイスティーを飲む。
「正直に申し上げますと、亡くなった妻以外の女性を好きになるつもりはありませんでした」
「そう、ですよね」
分かりきっていた返事ではあったが、面と向かって言われてしまうと泣きたくなってくる。しかしこれ以上松井を苦しめたくなくて無理やり笑顔を作った。
「そういう顔、彼女もよくやっていました」
「えっ?」
「まったく……妻とは別人だと割り切れたところでそっくりな一面を出してくるんですから。自分の気持ちがブレていくような気がして、本心がどこにあるのかが分からなくなるんです」
そんな事言われても……伊勢は気持ちがわさわさして落ち着かない。背後が気になって振り返ると、それなりに立派な仏壇と自身を鏡に映したような女性の写真が飾られていた。
「あっ」
「妻の若葉です、十五年前に亡くなりました」
「……」
「肺ガンでした。腫瘍が見つかった時は余命三ヶ月と言われましたが、三年もよく頑張って生きてくれたと思います」
伊勢が返す言葉を探している間に松井はどんどん話を進めていく。そのまま黙って聞いていると、何の脈略もなく若葉という女性との馴れ初め話を始めたのだった。




