フウル
良い香りに、ゆっくりと目を開けた。
暖かい部屋。木目の天井。鼻をくすぐる美味しそうなにおい。
先程置かれた状況とは全く異なるこの部屋の雰囲気に面食らいながら、体を起こした。
俺が寝かされていたのは、女の子が使うような可愛らしい木のベッドだ。だが体にかけられていた布団はシンプルな白の無地。ふわふわして、気持ちの良い素材だ。
部屋の中を見回すと、やはり女性の部屋だと推測される、白とピンクを基調とした造りで、人形やきれいな小物が飾られている。
あの時、朦朧とした意識の中で俺の前に現れたのは女性だったのだろうか。
頭痛は大分ましになっていた。乗り物酔いのような症状もなくなっている。
だが頭の中には、カミサマから与えられた多くの情報で溢れている。それをゆっくりと整理することにした。
今いる国の名はラービナ。この世界で希少種と言われる「有翼種」という、翼を持ち空を飛べる種族が住む国だ。
どうやら今の俺にも翼はあるようだ。今は背中の中に隠されているが、自在に出すことが出来るらしい。後で試すことにする。
この国は「神王」と呼ばれる王が治める島国で、他の国との交流はない。
海を渡った向こうに人間たちの住む大陸があるが、かつて人間たちが珍しく見目も美しい有翼種を奴隷にしようと、戦を仕掛けてきた歴史がある。
数では圧倒的に劣る有翼種だが、強大な魔力を有する彼らは人間たちに甚大な被害を与えた。
その身勝手な戦争が原因となり、有翼種のほとんどは人間を嫌っている。
弟も有翼種としてこの国に生きているのだろう。人間のままではこの国で生きていけないはずだ。
俺の頭の中には、基本的な情報だけが与えられたようだが、今いるここがラービナのどこなのかという情報はないようだ。
自力で何とかしろということか。
カミサマは本当に適当だ。
そういえばカミサマにも翼があった。もしかしたらこの国の者なのかも知れない。もしそうなら、どこかで会うこともあるだろう。
その時、突然部屋のドアがノックされ、びくりと体を震わせた。
ゆっくりと扉を開けたのは、予想に反して男だった。
しかし、男でもかなりきれいな部類に入るほど、整った顔をした人だ。
肩辺りまでの長さの金茶色の髪を無操作に後ろで束ね、その瞳も金色に輝いている。ゆったりとした茶色の上着に、黒いズボンとショートブーツ。何でもない服装なのに、容姿が整っているとものすごくセンスが良く見える。年齢は二十代半ばといったところだろうか。
男は起き上がっている俺の姿を見て、人懐こい笑顔を浮かべた。
「お、起きたな。良かった。何か食えそうか?」
明るい声色に、俺の警戒心が薄れる。息をついて返事をした。
「はい。あの、助けて頂いたんですよね? ありがとうございます」
男は手に持っていたお盆を、ベッドの横のサイドテーブルに置いた。そこには細かく刻まれた野菜がたっぷり入ったスープがある。それを見た途端、お腹が鳴った。
顔を赤くした俺を見て、男は笑い声を上げる。
笑われているのに、その声は不思議と暖かくて、嫌な気持ちにならない。
男はベッドの脇にあった椅子に座った。
「礼はいいからとりあえず食え。おかわりあるからな」
すごく面倒見のいい人だ。頭を下げて器を受け取り、匙で口に運ぶ。
「うまっ」
思わず心の声が出た。
こっちに来てすぐ吐いてしまったし、かなり空腹だったようだ。優しい味のするスープに胃袋を掴まれる。
男はにこにこしながらその様子を見ている。
食べながら、ふと思う。
この世界に来て、最初に聞いた足音の主は、この人だろうか。
混乱していた俺には「この人が弟かも」という気持ちがあったが、目の前の明るい人と大人しかった弟とは結びつかない。
そもそも、あのカミサマがいきなり正解に辿り着かせてくれるとも思えない。何しろ期限は一年もあるのだ。
俺は、匙を持つ手を止めて、男に話しかけた。
「助けて頂いてありがとうございます。俺は悠哉といいます」
「ユウヤ? 珍しい名前だなぁ」
和名はやはり珍しいか。名字は言わなくて正解だった。
「俺はフウル。小間物屋をしてる」
「小間物屋?」
「何だ、そんな意外か?」
「いえ…」
意外とかいう以前に、小間物屋という言葉に馴染みがなくてよく分からないというのが本音だ。だがそれを言うと明らかに怪しいので、何となく濁した。
フウルは気を悪くした様子ではない。
「結構評判なんだぞ。この部屋のベッドや机も俺が作ったものだ」
「えっ」
その言葉には素直に驚いた。
今自分が世話になっているこのベッドまで作ったとは、DIYの域を越えている。
家具や道具を作る職人が小間物屋かと、漠然とだが結論づけた。
「すごいですね。…あの、この部屋は」
明らかに少女めいた内装は、自分の腕を鍛えるために作ったのか、あるいは家族の誰かの部屋か、それともそういう趣味の人なのか。
三つ目の理由でないことを祈る。
「娘の部屋だ。もう嫁いで大分経つけど、時々遊びに来たら孫が泊まるからな、ちゃんと掃除してるぞ」
…色々と突っ込みたい情報がいくつか出てきた。
娘。嫁いだ。孫。
フウルの外見はどう見ても二十代だ。
「失礼ですが、フウルさんて何歳ですか」
「ん? 俺か? 最近ちゃんと数えてないけど…。七十近いかな」
驚きに大声を上げそうになるのを必死に我慢した。
カミサマからもらった情報の引き出しを急いで漁る。
あ、これだ。
有翼種は大体二十代頃から、外見が年を取らなくなる傾向にある。
ますますファンタジーだ。
こんな七十歳、見たことない。
「お前はいくつだ?」
「……十七です」
「お、孫のファナより一つ上だな」
孫、思ったより大きかった。
「で、何であんなとこで生き倒れてたんだ」
言葉に詰まる。
すべてを正直に話すのは抵抗がある。
この世界のことも基本知識しかないし、元の世界で話したら間違いなく頭がおかしいと思われる内容の話をして、拒絶される可能性を考えると怖い。
「弟を探して、旅を始めたばかりで」
「弟?」
フウルが心配そうに眉根を寄せた。
「昔、生き別れて。…あの、フウルさん。聞きたいんですけど」
「うん?」
「俺、倒れる前の記憶があやふやで。…ここはラービナのどの辺りでしょうか」
フウルが驚いたように瞬きした。
「え、大丈夫か? 確かにちょっと混乱してたみたいだったけど」
「はい。すいません」
「謝らんでいい。ここはラービナの王都アゼルだ。窓から城も見えるだろ?」
言われて窓の外を見ると、遠くに真っ白で荘厳な建物が見えた。
頭の中にあるラービナの地図を思い浮かべた。
島国の、ちょうど中央に位置するのが王都アゼル。
どうやら俺はその町の中にいるらしい。
さらに窓の外の景色に目を凝らす。今いる部屋は大体二階辺りに相当する高さだ。周囲の家々も、三階や四階建てのものが多い。
そして見慣れない構造だった。窓がついているはずの建物の外壁に、ドアが付いているのだ。階段もないのに、高い位置にあるドア。
だがその疑問はすぐ解消された。
目の前を、翼をはためかせた女の子が横切り、俺がいる部屋の斜め前、三階辺りにあるドアを開けて入っていった。
なるほど、空を飛べるのだから高い位置にドアがあっても問題ない。
…飛ぶ練習しないと。
「おーい。ユウヤ? 大丈夫か?」
夢中で外の景色を見ている俺を心配したのか、フウルが声をかけてくる。
「あっ、すいません」
「別にいいけど。てかその話し方堅苦しいしタメ口でいいぞ」
「いや、目上の方にそれは」
父に厳しく育てられている。目上の方には正しい敬語を使いなさいと。
さらに運動部特有の上下関係も体に叩き込まれているので、却って戸惑う。
「いいからいいから。こっちもタメ口の方が楽だし」
そこまで言われると、頑なに敬語を使う方がフウルにとっては不快なのかもしれない。
「……わかった」
絞り出した声は小さくて、我ながらどうかと思う。
だがフウルは破顔した。
「あはは。お前真面目だなあ」
俺は顔を赤らめながら、止まっていた食事を再開した。
俺の食事が終わるのを見計らって、フウルが会話を再開した。
「で、弟さんの手がかりはあるのか?」
「…いや、ない」
「名前は? 今いくつだ」
「……覚えてない」
「覚えてない?」
フウルの声が驚いたように跳ね上がる。
当然だ。探している人物の情報は皆無。しかも、兄である俺が弟のことを覚えていないのに、探しだそうとしているという状況が既に不可解だ。
「弟がいなくなった後から、あの子のことが思い出せなくなったんだ。…どうしてか、分からないんだけど」
思わずそうこぼしていた。こんなことを言ったらフウルは不審に思うだろうか。
だがこの短時間で、俺は既にフウルのことを好きになっていたし、不思議と信頼できた。だから思わず本音が出たのかも知れない。
これでフウルに不審がられて追い出されたとしたら、俺の見る目がなかったのだと思うことにしよう。助けてくれたフウルを責めるのはどう考えても筋違いだ。
しかしフウルは、突然俺の頭を撫でた。
少々乱暴な手つきだが、驚いてフウルを見ると痛ましげに俺を見返す。
「そうか。そりゃあ辛いことだったな。大事な人のことを思い出せないのは苦しいなあ」
鼻の奥がつんとするのを感じた。泣きそうな顔を見られたくなくて目を伏せる。
若く見えるが、フウルはやはり年上なのだと強く思った。たくさんの酸いも甘いも経験した重みが、その短い言葉の中に感じられた気がしたのだ。
「弟に関してだけ記憶が飛んでるってことか。不思議なこともあるもんだな。少しでも思い出せれば、手がかりも出てくるだろうが」
フウルは少しの間思案したあと、こんな提案をしてきた。
「ユウヤ、しばらくここで働くか?」
「えっ」
予想外のことに目を丸くする。
「弟探しに行くにしてもお前、路銀どころか荷物もなくて、どこにも探しに行けないだろ」
言われて初めて気付いた。
フウルは俺を連れ帰って介抱するとき、何も持っていないことに疑問を持ったのだろう。
だが、不審に思うのではなく気遣ってくれるフウルに、懐の大きさを感じた。
「助かる…けど、俺、小間物屋なんてしたことないんだ」
「分かってるよ。まずは掃除とか雑用な。目的がある以上、本気で職人目指せなんていうつもりないし、安心しろ」
どこまで出来た人なのか。
「俺も年だからな。最近力仕事とか大変だったんだ。いやー助かる」
外見が若いだけに冗談みたいに聞こえるが、俺の世界の基準で行くと確かに七十歳近い人に力仕事は酷なのだろう。
俺に気を使わせないための嘘かも知れないが、助けてもらった恩返しになるのなら、それで構わない。
「じゃあ、お世話になります。ありがとう、フウルさん」
フウルはその言葉に、楽しそうに笑った。