忘れたこと、忘れられないこと
新連載です!
よろしくお願いいたします!
そのページに書かれた言葉を、俺は一生忘れない。
俺の名前は瀬戸悠哉。
家族構成は父、母、三つ上の兄、そして五つ下の弟だ。
兄の名は直樹で、弟の名は○○。
○○が生まれたのは俺が五歳の時だ。
当時の俺はよく分かっていなかったが、○○が母のお腹にいる時、どうやら母には頻繁に会っていた男がいたらしい。
父はもちろん、母の浮気を疑い、お腹の子も不実の末に出来た子だと考えていた。だが母は、この子は間違いなくあなたの子どもだと全く引かなかった。
母は堕ろせという父の言葉に耳を貸さず、○○を産んだ。
○○は母によく似ていた。父の面影は全くなかったことが、父の猜疑心を大きくした。
この父の態度は、俺達兄弟にも少なからず影響を及ぼした。幼かった俺はともかく、母の裏切りを疑う父の心情を多少は理解できた兄の直樹は、○○に自分から関わろうとしなかった。むしろ嫌悪感すら持っているようだった。
まだ幼稚園だった俺は母と過ごす時間も多かったので、時々弟にも構っていた。小さくて柔らかい弟は可愛かった。
幼い頃の俺はちゃんと分かっていたのに、○○が六歳の時に母が死んでからは少しずつ忘れようと無意識に努めていたのだ。
いとおしい、という○○への感情を。
母が死んですぐに、父はDNA検査を受けた。
もちろん、自分と○○の鑑定だ。
結果は、99,9%の確率で親子関係であることが確認できたというもの。
母が産んだ○○は、間違いなく父の子だった。
だが、母が死ぬ最期まで関係を修復出来なかった父は、この事実を受け入れられなかった。
父にとって○○は、妻を信じられなかった罪悪感を思い出させる存在だったからだ。
実の息子だと分かってからも、父は○○を愛さなかった。今さら都合よく愛することも出来なかったのだろう。
そして兄も変わらなかった。父と同じ思いを、抱いていたのかもしれない。
俺は時々、こっそりと○○の面倒を見ていた。母がいなくなってからは俺達兄弟にとって頼れる大人は父だけだ。機嫌を損ねれば、自分も○○のように省みられない存在になるかもしれない。その恐怖が、○○と俺との間に少しづつ距離を生んだ。
だけど父と兄のように完全に突き放してしまえば、小さな弟は生きていけない。そうなったらきっと母は俺を許さない。
父と母の板挟みになりながら、日々を過ごしていた。
今思えば、俺が○○の面倒を見ていることに父が気づかない訳がない。母に服を買ってもらえなくなってから○○はいつも、俺のお下がりの服を身に付けていたのだから。
気づいていて俺への態度が変わらなかったのはきっと、父もあの子に愛情があったからだ。だけど今さら父親面も出来なくて、俺が面倒を見るに任せたのだと今なら思う。
もっと早くに気づいていれば、父と○○の関係を変えようと少しでも努力していれば、あんなことにはならなかったかもしれないのに。
俺が小学六年生、○○が一年生の時、それは起きた。
夏休みに、家族でキャンプに行くことになった。
家族旅行なんて初めてで、俺は嬉しくて仕方なかった。
だけど浮上した気持ちはすぐに消えてしまった。
父は、まだたった七歳の○○を置いていくと言ったのだ。
父はきっと、前日に○○が割ってしまったお気に入りの父のグラスのことに腹を立てていたのだろう。
一泊二日、たったそれだけだ。だけど、七歳の子どもを一晩家に一人にするということ、それは子どもにとってどれだけの恐怖だろう。
父は俺に「○○と残るか」と言った。
どう返事をすれば正解だったのだろう。
残ると言えばよかったのか、それとも○○も連れていこうと言うべきだったのだろうか。
俺の返事はどちらでもなかった。
俺は、置いていく、と言ったのだ。
キャンプはちっとも楽しくなかった。
家の玄関で、俺と一緒に準備したリュックを抱えたまま、泣きそうな顔で俺達を見送った○○の顔が忘れられない。
父と兄も、全く楽しそうではなかった。心ここにあらずといった様子で、きっと置いてきた○○のことを気にしているのだろうと容易に見てとれた。
俺が「一緒に連れていこう」と言えてさえいれば、このキャンプで何かが変わったかも知れないのに。
そしてじわじわと、恐怖が俺の心を占めた。
○○はもう、俺のことを兄と慕ってくれないかも知れない。
家族の中で俺だけに向けられる優しい笑顔も、俺を呼ぶ「ゆうにい」という声も、失ってしまったかも知れない。
花を摘んだ。
白くて小さな花。
キャンプ場でお土産になるものなんてないから、この花で祖母に教わった押し花を作ろうと思った。
何なら一緒に作ってもいい。
○○は本を読むのが好きだから、栞に使って貰おう。
あの子に拒絶されないために、必死だった。
家の中はしんと静まり返っていた。
○○はどこかに遊びに行ったのだろうか。それとも部屋で本でも読んでいるのかも知れない。
あの子の部屋のドアをノックしたけど返事がない。
そっとドアを開けると、部屋の中には誰もいなかった。
他を探そうとドアを閉めようとしたが、何かが目の端を掠め、もう一度ドアを開けて部屋に入った。
母が買った○○の勉強机の上に、開いたままの自由帳。
そのページの上に、鉛筆と消しゴムがそのまま置かれている。
まるで、ついさっきまで○○がそこにいたみたいに。
俺は、自由帳に書かれたその文字から、目が離せなかった。
小学生らしい、大きな字。
だけどその内容は、七歳の子どもが書くには、あまりにも。
「うまれてきて ごめんなさい
いなくなるから きらいにならないで」
部屋を飛び出した。
家中を探した。
風呂場、トイレ、台所、俺の部屋。
父と兄の部屋も見た。物置になっている屋根裏も。
あの子は、どこにもいない。
リビングで寛いでいる父と兄に捲し立てた。
「父さん、兄ちゃん! ○○がどこにもいないんだ!」
二人は俺の言葉に不思議そうな顔をした。
「ユウ、○○って、誰のことだ?」
「父さん疲れてるから、ごっこ遊びならナオとしなさい」
「父さん、俺だって疲れてるから!」
二人はそんなことを言って笑っている。
「どうして笑ってるの?」
俺の声が震えていることに気付いた二人が、心配そうに視線をこちらに向けた。
「○○だよ。俺の弟の! キャンプ置いていって、一人で留守番してたじゃん!」
「ユウ、本当にどうしたんだ?」
父がソファから立ち上がって、俺の方へ近付いてきた。
「マジ意味わかんねぇ。お前に弟なんかいねぇじゃん」
兄の言葉に呆然とした。
「二人とも、冗談だよね?」
そう言いながらも、心のどこかで確信していた。
父も兄も、本当にあの子のことを覚えていない。
「ユウ、悠哉。どこか具合でも悪いのか」
父が俺の前に膝をついて、額に触れようとしたが、俺はその手を払いのけてリビングを飛び出した。
「悠哉!」
父の声が追いかけてくる。
あの自由帳を見せよう。
あの子のものを見れば、きっと思い出す。
動揺と緊張に息を切らせながら、再び○○の部屋のドアを開けた。
その瞬間、俺は膝から崩れ落ちて、自分でも信じられないくらいの悲鳴を上げた。
その部屋には、何もなかった。
母が買ったあの子のベッド。勉強机。ランドセル。本棚。俺のお下がりの服が入ったクローゼット。
そして、あの自由帳。
どうして、どうして、どうして。
だってあの子は確かにいたのに。
さっきまで、あの子の存在を裏付けるたくさんのものが、この部屋にはあったはずなのに。
そうだ、これは置いていかれて怒ったあの子のいたずらだ。
きっと名前を呼べば、俺の前に現れて笑ってくれる。
「○○!」
その声は音にならなかった。
息の仕方が分からない。
そんなこと、あるわけない。あるわけがないのに。
あの子の名前が、分からないなんて。
どんどんこぼれていく。
あの子の名前も、声も、顔も。
思い出せなくなっていく。
あの子の存在が、消えていく。
まだ、こんなにもいとおしいのに。
気が付くと、白い天井が目に入った。
次に飛び込んで来たのは蒼白な父の顔。
瞬きをする俺を見て、泣きそうな顔で笑った。
あの日、俺は狂ったように泣き叫んだ後、唐突に倒れたらしい。
高熱があり、意識が戻らないので救急車で運ばれたのだと。
その後、どうやら二日も眠っていたらしい。
ぼんやりとした意識のままその話を聞いて、俺からも掠れた声で質問した。
「おとうとは」
もう名前も分からない。呼びたい名前が分からないことが、こんなにも怖いなんて知らなかった。
父は俺を諭すように、ゆっくりと話してくれた。
「悠哉。お前に、弟はいない。お前が瀬戸家の末っ子だ」
そんなはずない。そう言いたいのに、声が出ない。
存在しない弟なら、この胸の痛みは何なのだろう。
この、俺の心を占める罪悪感も、頬を濡らす涙も、ニセモノなんだろうか。
父は優しく俺の涙を拭った。
その手が思いがけず心地よくて、もう一度目を閉じた。
入院中に、何度かカウンセリングを受けた。
カウンセラーの先生は優しかったけど、「弟がいなくなった」という俺の話を信じてはくれなかった。
当然だ。父親がいないと言っているのだから。
俺は三回目のカウンセリングで、弟の話をやめた。
最初はモウソウ、ゲンカク、タジュウジンカク等と疑われたが、落ち着きを取り戻したかに見えた俺に、周囲は目に見えて安堵したようだった。
まだ小学生だったこともあり、高熱により錯乱したのだろうと結論付けられた。
それから五年経ち、瀬戸家は平和な日々を過ごしている。
高校二年になった俺もサッカー部のエースとして、充実した毎日を送っている。
だけど、「いないことにされた」弟のことを、忘れたことは一度もない。
母の仏壇に手を合わせるたび、母の写真に弟の面影を探した。あの子の顔は思い出せないが、母に似ているということは覚えていたから。
何度も何度も頭に刻み付けた。
俺は、俺だけはあの子を忘れない。
もう顔も名前も思い出せないけれど、あの子は確かに存在したのだから。
それはゴールデンウィークのことだった。
世間の休暇中も部活はある。サッカーの強豪校なのだから仕方がない。
だが先生も休みたかったのか、その日は午前練習だけで終わりとなった。
暖かくて気持ちのいい日だ。
公園から、子どもたちの笑い声がする。
ふと、一人の男の子が目に入った。
弟が生きていれば同じくらいになっているだろう。何となく面影が似ている気がして、思わず立ち止まっていた。
友達とサッカーをしている。あまり上手くはないが、楽しそうに笑っている。
公園の外から様子を見ていると、友達が蹴ったボールが俺の目の前を横切り、道路まで転がり出た。
友達の「ごめーん!」という声と、「いいよ、取ってくる!」という元気な返事。
俺の前を走り、ボールを追いかけて道路に出る。
そこからはまるでスローモーションのようだった。
トラックが結構なスピードで男の子に向かっていく。
ボールを拾った男の子は、急ブレーキの音に気づいて立ち竦む。
体が勝手に動いていた。
男の子の体を渾身の力で突き飛ばし、俺の意識はそこで途切れた。
目を開けると、知らない場所だった。
何かの遺跡のような、柱がたくさん建っている。
ギリシャにこんな場所があった気がする。何かの本で見た。教科書だろうか。
柱は等間隔に並んでいて、道のようになっている。
俺はその道の真ん中に立っていた。
「…何だここ」
最初に思い浮かんだのは「あの世」だ。
きっとあの時、トラックに轢かれたのだろう。
だけど三途の川は見当たらない。予想外だ。
とても綺麗な場所だった。
空を見上げる。
澄み渡るような、晴れた青空だ。
ぼうっと眺めていると、空を大きな鳥が横切った。と思ったら旋回して戻って来る。
そして、こちらにゆっくりと降りてきた。
次第に大きくなるその鳥は、鳥ではなかった。
「人…?」
それは、翼を持った人間だった。
音もなく俺の前に降り立った翼を持つ人間は、頭から足の爪先まで白いローブを羽織っていて、性別すら分からない。
唯一分かるのは、僅かに見える口元。
その整った口元が、俺を見て弧を描いた。