増殖する殺意・10
野太刀の剣尖は蛇の鎌首のように夜風を切り裂いた。
獲物の頭部を二つに噛み斬ろうと刃の光芒は迫り、近づき、吸い寄せられるようにそのまま距離をあっさりと詰め――、
ビタッ、と。
菊千代の髪だけを斬り、右耳付け根数ミリ手前で静止した。
「――――――――えっ」
菊千代が声を漏らす。それは単純な困惑の為だった。
命のやり取りの最中、その中にあって一体何故、必中必殺だった斬撃を寸止めにする?
菊千代の中でその答えは直ぐ思い浮かぶものではなかった。
その意味が全く判らなかった。
――――自分の左肩に痛みが走った、この次の瞬間になっても。
「ッ!」
突然感じる肩の痛み。
「……仕留めた」
同時に左耳から目の前の御陵田とは違う男の声が飛び込んでくる。
陰鬱な小さな声。それと共に左肩では肉の裂かれた痛み。
(何だ!?)
左肩は身に着けたジャケットごと、横に三つの斬れ込みが付けられていた。まるで野犬に襲われたような、浅めの引っかき傷が生み出されている。
更に菊千代の視界の左側で、小さな影が高速で動いていた。
闇に溶け込む獣のように、小柄な体躯の男が菊千代に背を向け離れていく。
その両手には、この男は付けることで余計に大きく見える三本爪の鉤爪が装着されている。男は鉤爪を器用に操って路地の壁を駆け上がり、あっさりとその姿を眩ませてしまう。
突如の乱入に御陵田は刃を引き距離を取る。
だが、その顔に菊千代のような困惑はなかった。
どころか嗜虐的な笑みが浮かべ、一言。
「残念だが勝負アリだ、兄ちゃん」
「は? 何言ッ――――――――――――――――――――――――テ?」
地面がせりあがった。
確かに菊千代にはそう見えたしそう感じた。
自分が立っているはすの石畳が、何故か地面が前触れもなくせりあがり自分の眼前へと迫ってきたのだ。御陵田の姿は地面に隠され視界から外れていく。
ありえない事だとは直ぐにわかった。地面が動くなどありえない。そんな事は当たり前に分かっている。分かってはいるのだが、現に地面は菊千代に迫って立ち上がり、立ち上がり、立ち上がり――――、
菊千代は地面と派手に正面衝突した。
「???? ――――ん、な????」
痛みよりも疑問符が頭を埋める。
体も何故か地面とぶつかったままで離れない。そして思うように動かせない。
(何だこれ? 呪術? 一体、何ガ? 一体ドウシタ??)
視界を埋め尽くした石畳を見つめる菊千代。この時、自分の思考もどこか不安定になっている事も菊千代には分かっていなかった。
そんな菊千代の耳に、頭上の方から御陵田の平淡な声が届けられる。
「鉤爪に塗らせといた痺れ薬だ。これでもかって古風で趣きがあるだろい?」
「なっ………ひ?」
「そ、痺れ薬よ。もう舌も回んないみたいだな。鼻血だけじゃなくよだれも垂れてんぞ」
野太刀を鞘に納め、腕をポンチョの中に入れながら御陵田が笑う。
つい今まで斬り合っていたものに向けるものではない快活な笑いを浮かべている。
「まぁ安心しなよ。その薬は死にゃしないからよ。もうすぐ頭も痺れて気ぃ失ってよ? そんで次に目ぇ覚ましたらいつも通りの朝が来てるって寸法だ。まぁ……あの姉ちゃんとはもう会えなくなってんだろうけどな」
「ナっ…………ァッッ!」
「まァ、そういうわけだかラ。ジャアな兄ちュアア~~~~ンンン~~~~~~~~」
御陵田の声は妙に間延びして菊千代に届いた。
それは御陵田がそう言ったのではない。菊千代の意識が朦朧とし、音を立てて瓦解しているからだった。
ただそれでも、菊千代は必死に首を動かした。敵を捉える為。戦う為に。
朦朧とする視界の先で、背を向けて歩いていく御陵田は蜃気楼のように揺れて映る。
「待、テ!」
声が絡まる。
まるで舌が自分の物ではないような、初めて使う道具のような妙な使い心地がする。
それを無視し、御陵田は立ち止まらない。
「マッツッッ――――――――――――ァ!」
夜の闇に埋もれていく男の背に向かい、必死に声を出そうとする。
が、その声も惨めに、無力に、誰にも届かず夜に呑まれていった。
しだいに視界が黒一色になり、頭の中まで痺れが急速に回っていった。
頭の中から痺れと共に一切が消えて行く。
思考の最後に。
一人の女の姿が、黒く塗りつぶされていくような幻が浮かんだ――――。




