増殖する殺意・5
夜が深まりつつもこの団長室には菊千代とエリスの二人だけだった。アーナは自宅である海岸沿いのアパートに、ウラグナはその警護としてアパート近くにいる。
理由はもちろんヤユタという呪術師への警戒からだ。いくら片腕を斬り落とす程の重傷を負わせたといっても、相手は呪術師というデタラメの世界で更にデタラメな存在。いつ再び現れるかなんて分かったものではない。
「――にも拘らず、キクチヨ君がアーナさんから離れて僕の所に来るなんて。一体どうしたんです?」
柔和な笑みに欠片も酔いを見せずに、エリスは出来立てのカクテルを菊千代の前に差し出しながら訊く。カクテルは窓から見える月のように、鮮やかな黄金色をしている。
「いやエリス団長、だからお酒頼んでないですよ? 俺が酒飲めないつってんだろが」
「大丈夫、大丈夫。ジュースみたいな感じですよ」
「酒飲める奴は大抵そう言うんだよ」
苦い顔で菊千代は黄金色のカクテルをエリスの方に少し押し返す。エリスもこうなると分かっていたのか、カクテルを取り、あっさり口に運んだ。
「ふぅ、せっかくジュースみたいに作ったのに、残念ですね」
「下戸でどうもすいませんね。とにかく、俺の用事はこれだよ」
言いつつ、菊千代はモッズジャケットの内ポケットを探り、テーブルの上に一つの封筒を差し出した。
エリスが訊く。
「何ですかこれ?」
「アーナから」
「アーナさんから? あぁ良かった! 何とか元気になって部屋から出てきてくれたんですか?」
「いや、部屋からは出てねぇっぽいな。けど今日の食事を運び行ったらこれ頼まれたんだ。老酒とかいう酒を仕入れて欲しいんだって。それは代金だと」
「あぁ老酒ですか。確かに今切らしてましたね。美味しいんですよあれ!」
「嬉しそうに言われて悪ぃが俺に酒は解んないよ。ったくそれにしてもアーナの奴、こんな時に変な事やらせやがってあのアル中め」
そう菊千代はぼやきながらイスから立ちあがる。
「とりあえず渡したから、俺は帰るよ」
「もう帰るんですか。さっき来たばかりなのに、また忙しないですね」
「ウラグナも手伝ってくれてるが、あの呪術師との戦闘でまだ本調子じゃないだろうしな。、それに、アーナを見張るのは俺自身の問題だ」
そう言い、菊千代はさっさと出入り口のドアへと歩いて行く。
(――なにより、今のアーナはマズイだろうしな)
ドアに向かいながら、菊千代は三日前のアーナの様子を思い出した。
ヤユタが去った後、アーナは終始無言だった。虚無の表情。常以上に自己を無価値と断じたような雰囲気。菊千代には、そのどれもが危うさに満ちているように感じた。
(アーナの苦しみ、なんて言葉で足りるのか。とにかくそういったモンはとても俺なんかが理解できるもんじゃない。それをあれだけ抉られた状態だってのに。もし今何かあったりしたら。あいつは――――)
菊千代は思いつめたようにドアへと無言で進みドアノブを回そうと――したその時、
「本当に、片想いは大変ですねぇ」
何もない床で菊千代はすっ転んでドアに顔面からぶつかった。
「ぶっは!? えええエエリスお前いきなり何いってんだおおおおい!」
「……動揺しすぎじゃないですか? だいたい隠そうとしてる事でもないじゃないですかキクチヨ君のって。あ、もうキスぐらいは出来たんですか?」
「なっ!?」
耳まで真っ赤にし、口をパクパクさせる菊千代。エリスはその様子を見て、カウンターの中で面白そうに笑いだす。
「あっはっは! まだみたいですね。いやァ本当にキクチヨ君は面白いなぁ! 傭兵上がりで色ごとに弱いのも珍しいですよね」
「う、うるっさい! 馬鹿にしてんのか団長ぉ!?」
「いやまさか。まぁ僕としてはアーナさんという貴重な団員の一人をキクチヨ君みたいに自分から守ってくれる人がいて大いに助かりますよ」
優しそうな顔でエリスは言う。その態度はどこか演劇でも観る子供のようだと菊千代は感じた。そう感じながら、菊千代は疲れたようにため息を吐き、
「ったく、別にエリスに感謝される事じゃねぇだろ。『がらくたの・曲芸団』にいるのもアーナが入団したからだしな。俺は自分のしたい事をしてるだけだよ。自分の欲は自分でしか叶えられないし……何よりこのご時世じゃ、神さんなんて奴はアテにもできないしな」
「……やぁまぁ確かに、そうかもしれませんね」
「いくらなんでも神頼みだけは、この世界では無意味でしか無いでしょうからねぇ」




