呪いの世・12
人の出払った廃教会。
荒れビルの中を迂回したアーナはその正面に立っていた。
周囲には人の気配は無く、その代わりとでもいうように数ブロック向こうのビル群からは激しい喧噪が風に乗って教会にまで届いていた。
「ふふ、菊千代が暴れているようだな。でもさすがに、子供連れじゃあアイツもここで終わりかな」
額の汗を拭いつつ、アーナは空け開かれたままの正面入り口から悠々と中に歩み入った。
太陽が照りつける外とは違い、石作りの教会内は入り口の前に来ただけでも異様な程に涼しく感じられる。
教会は見た目どおりのだだっ広い構造のようだ。外壁と同じく剥き出しになった石の壁に囲まれ、入口から二百メートル程先にもう一枚木の扉が見える。
あの奥が本堂という事だろう。そして扉の奥には標的がいるはずだ。
アーナは進む。床には食べかけの物や酒瓶が無造作に転がっている。ここの兵士たちが菊千代の出現に慌てて出払ったのが見て取れた。
「さて、と」
奥の扉に向かってアーナはゆったりとした歩調で近づいていく。
そこには隠密に事を終わらせようという気配や気配りは感じられない。
遠くの喧噪を他人事のように耳にして、ただただ無遠慮に立ち入っていく。
光源は入ってきた入り口からの差し込みしかなく奥に行くごとに薄暗くなっていくがアーナは特に気にはしない。まっすぐに木の扉の前まで進んだ。
両開きの木の扉はアーナが思った以上に大きかった。だいたい三メートルはあるだろうか。薄汚れてしまっているが、間近で見ると表面には二体の天使が美しく彫られた豪華な拵えだ。
女一人で開けれるか少し不安だったが、押してみると意外に簡単に動いた。
ギギギギっと耳障りな音をさせながら扉が開き、一歩。中へと踏み入れる。
中は正方形の大きな空間が広がっていた。
一辺およそ五十メートル。石の床は土と埃だらけ。礼拝者用の長椅子等は撤去されていた。
窓はすべて木板で打ちつけられ塞がれているが真っ暗ではない。薄暗い程度で隅まで見渡せる。おそらく正面上にある大窓からの差し込む光のおかげだ。
それに祭壇真上の古ぼけたステンドグラスも塞がれていない。
都市の全盛期には、このコンクリートジャングルに中にある教会のシンボル的な意味もあったのだろうか。見ただけで元の立派さが窺え、それは同時に今の荒廃を如実に教ええくる。
今では曇り、汚れと割れが全体に広がるその様は、ある意味この世界の神の現状を正確に表しているのかもとも思えた。
神が呪った世界の様相を。
神を汚した、罪の世界のざまを。今を生きる人に伝えるようだった。
そんな大窓の下、本来なら司教などが立つであろう祭壇横に。
一人の男が座っていた。
「……なるほど。外の騒ぎは囮か。ただの馬鹿が暴れていると思って侮った」
どこからか持ち込んだらしい長椅子に座っていた男は素直にそう吐露し、ゆっくり立ちあがった。
アーナは目を眇めてそんな男を観察する。
男の服装はゆったりとしたクリーム色のワンピースのような服だった。
確かガラベーヤという名の服だ。
ピラミッドという強大な呪術場を持った都市の人々が好んで着ていたのをアーナは覚えていた。
(服装、少し私とかぶってるわね……)
年は三十前半といったところか。やつれた表情を隠すようなドレッドヘアが顎まで垂れ、その奥で重病人ともハゲタカにも似た険のある目がアーナを見つめていた。
教会の牧師には、どう無理しても見えなかった。
「……貴方がウプアアウトかしら?」
「そうだ」
呪術師、ウプアアウトは淡々とした声と共に首肯した。
低く、そこか生気の量が少ない声だ。やはり重病人のように感じる。
だがこの男こそが、目標の呪術師。
「そういうお嬢さんはどなたかな? 町からの生贄だとしたら惜しい程に美しい。が、それ以前に生贄の持つ雰囲気ではないが。対等以上の態度で私を見ている。まるで私を殺しにきたかのようだ」
ウプアアウトはあっさりとアーナの目的を予想する。
にも拘らず、その声には恐怖も焦燥も感じさせない。とても目の前に自分を殺しに来た人間がいると理解した者の声とは思えない。
まるで自分の事ではないかのように。
もしくは、殺される事などあり得ないというように。
「ふむ、まぁその通りだウプアアウトさん。貴方には死んで欲しい」
そんな呪術師に対し、アーナの手が前触れもなく動いた。
大きく右手を振り上げる。その手の内にはいつの間にか棒状の何かが握られている。
「っ」
ウプアアウトが突然のアーナの動きに何か言おうとするが、それよりもアーナの方が早かった。
手に持つ物。それは長さ十センチ程の鉄製の杭。表面には螺旋状の溝が彫られている。
アーナは鞭を振るように手を動かし、目標に向かって躊躇なくそれを投げ撃った。
回転を持った杭は一直線にウプアアウトへ、その心臓に向かい寸分違わず飛ぶ。
が、
「フフっ」
ウプアアウトの冷たい笑い。直後に杭が服に触れる。
ギィン! と。
まるで金属同士がぶつかるような音が鳴り、杭はあらぬ方向へ弾かれる。
ウプアアウトの着るガラベーヤは、鉄の杭を難なく弾いてみせたのだ。
たかが布が鉄杭を弾く。
本来ならあり得ない事だ。
しかし、アプアアウトは眉も動かさずに当たり前の事のように今の現象を受け流し、どころか杭を投げ撃ったアーナの顔にも特に驚きは見られなかった。
「やはり防護呪術も持っている、か。この距離では私の杭じゃ貴方の服すら貫けないというわけか。呪術師だというのはハッタリではないらしい」
「ハッタリだと期待していたのかな?」
「単純な確認よ」
陰を含んだ微笑みを崩さぬアーナ。
それを見やるウプアアウトも微かに口元を吊り上げる。
「分かっているなら止めておくべきだったな。そんな事をしても相手が嫌な思いをするだけだぞ。呪い師の服が、只の布というわけもなかろう」
ウプアアウトが続ける。
「とにかく明確に敵意があるようだな。本当はもっと美女との時間を楽しみたかった。が、そちらにその気がないというなら、残念だがさっさと生贄にでもなってもらおう」
ウプアアウトの手が動く。
右手を袖口に入れ、何か丸い物を引き出す。
「ちっ、短気な」
それを見て、アーナが距離を詰めようと走りだした。
ウプアアウトの服に呪いはかかっているといっても、それが強固な鎧並みという事は無いだろう。アーナは先ほどの杭の弾かれ方からそう読んでいた。
せいぜい皮鎧。ならば、もっと至近距離からの一撃なら貫けるはず。
そう、近づければ、だ。
「だが無駄だ」
接近するアーナに言い放つウプアアウト。
ウプアアウトが右手を真上にかざす。
その内にあるのは水晶だった。
直径二十センチはありそうな傷一つ見えない水晶玉が、呪術師の右手に握られていた。
玉の内部は黒く濁りきり水に溶けた墨のように、闇が水晶の中全体を漂っている。
ウプアアウトはそれを頭上に上げ、呪いを吐く。
「死者は生者に妬みを顕す」
直後に、黒水晶が声に応えた。
薄暗い空間を黒水晶の光が照らす。突然の光の色は黒。空間を塗りつぶすような黒色が発せられる。
「それがっ……」
アーナの顔から笑みが薄れる。
「目の前の女を、恨みのままにその手で引き裂いてみろ!」
黒水晶が応える。
発せられる光が小さく。表面だけをほのかに光らすまで収縮する。
と、同時に。
黒水晶から噴き出したのは、歪な人の手だった。
ずるずると水晶から空中へ這い伸びる無数の黒い手。
ソレは黒い泥で形作られたような歪すぎる人の手だった。
素人が必死に泥で作ったように不恰好、かろうじて腕を模したと察せられる程度の歪な手。生乾きの泥で作った為かべちゃべちゃとその身が垂れている様は不気味の一言しかない。
なにより、それは無数に噴き出しているのだ。
古ぼけたステンドグラスを覆い隠すように水晶から空中に這い出た、黒水晶から伸び出る黒い腕の群だった。
「死者の腕……」
「その通り」
ウプアアウトは再び冷笑を浮かべる。
そして表情の変化が合図でもあったように。
同時に何十という黒い手の群れが。汚泥で形作ったかのような黒手の群れが
アーナへ我先へと突っ込んだ。