某日のちびこ 2
いつ書いたか記憶がないものの、発見したので……もったいない精神を発揮
世の中には、良い人間もいれば、悪い人間もいる。それは、誰もが認めるところだろう。
「ちょおちょ、ちょおちょ。ちょおちょがいっぱい」
石畳の上に四つん這いになって、子供が一人お絵かきに夢中になっている。癖のある黒髪の子供は、色とりどりのチョークを使い分けて、屋敷の前の道に蝶々と花の絵を描いていた。
人通りはなく、聞こえるのは子供の歌声くらいで、街は静かなものである。
貴族が多く住むこのあたりの朝は、花街同様、とても遅い。その貴族特有の生活サイクルがそうさせるのか、この地区は排他的な雰囲気も持ち合わせていた。立ち並ぶ貴族の邸宅は、どれも贅を凝らした物で、一見の価値ありと思わせるのだが、散策コースとするには少しばかり敷居が高い。
町全体が、よそ者を嫌っているようなので、このあたりを訪れる者はみな、用件を済ませることだけを考え、無言で足早に目的地へと向かう者ばかりだ。
「やあ、こんにちは」
帽子を持ち上げ、男は石畳に絵を描いている子供に声をかけた。
「お? おー、こんちは」
顔を上げた子供は、どんぐりのような大きな目をさらに大きくして、ぱちぱちと瞬きをしている。何で声をかけられたのだろう? と不思議に思っているようだ。
この子供は、自分の価値を正しく理解していない。理解していれば、こんな場所で無防備に遊んでいるられる訳がなかった。
イブキ・ナスタティ・ソール。それが、この子供の名前である。
ルーベンス辺境伯が可愛がっているという、素性のはっきりしない、幼い子供。リッテ商会の名誉顧問だという話もあるが、真偽のほどは定かではない。
男にとって重要なのは、ルーベンス辺境伯に可愛がられている、という一点のみ。
「お嬢ちゃん、ちょっとお話させてもらっていいかな?」
「いーよ」
指先についたチョークを、パンパンと両手を叩き合わせて落とし、子供が男を見上げた。育ちの良い子供は、悪意というものに縁がなく、警戒心などほとんど持ち合わせていない。家族や使用人たちに、口を酸っぱく言い含められていたとしても、悪意が自分に向けられるなんて、思いもしないのだ。
「お嬢ちゃんが今欲しい物って何かな?」
「ん~? わたちがほちーものぉ?」
男は頷いた。手口としては、使い古されたオーソドックスなもの。子供が望むそれをあげるから、ついてお出でと誘う。育ちがどうであれ、幼い子供が望む物など高が知れている。
この子供を人質として、ルーベンス辺境伯をこちらの手駒として活用させてもらう。
捕らえてしまえば、こちらのものだ。この子供を人質に、ルーベンス辺境伯をこちらの味方に引き入れる。中央からは遠のいており、政治的発言権は弱いが、それも今だけの話。
数年以内に彼の発言権は、国内トップへと躍り出るはずだ。きっかけは何であれ、数年あれば、思想ごとこちら側へ引き込むことなど容易い。
彼を引き込めれば、ヴァラコへの足掛かりにもなる。新たな時代の波はすぐそこまで迫っており、その波を乗りこなすためのパワーゲームはすでに始まっているのだ。
「お菓子かな? おもちゃかな? 何でも、おじさんが買ってあげよう」
「ほんちょ?! ほんちょにかってくえゆの?! だったやね、フランベユリーオーがいい!」
「は?」
「フヤンベユリーオー! ちやないの?」
子供から、本当に買ってくれるの? と疑惑の目を向けられた。
「ええっと……ごめんね。おじさん、ちょっとよく分からないな。それは、おかしかな? それとも、おもちゃかな?」
そういえば、同業者同士での愚痴のこぼし合いで、妹(弟)がほしい、と言われて困ったことがある、なんて聞いたことがある。猫や犬あたりなら、まだしも、人間となるとなあ、とその男は苦笑いをしていた。
また、別の男は、ホーンラビットが欲しいと言われたことがある、と肩をすくめていた。
どんなに弱かろうが、魔物は魔物。ペットには不向きである。入手自体はさほど難しくはないが、その後のことを考えると、どうにも面倒臭い。
「どっちもちがうよ。えっちょね……」
子供は、チョークを入れるのに使っていたのだろう、傍らに置いていた小さな鞄から手作り感あふれる小冊子を引っ張り出してきた。タイトルは
『ポケット魔物図鑑~スネィバクボ山脈編~』
何やらキナ臭くなってきた。
男はプロフェッショナルなので、笑顔をキープすることには成功したが、内心では滝のように汗をかいていた。
「あっちゃ。こえ、こえがフヤンベユリーオー!」
子供が見せてくれたページには「フランベルリーオー」と書いてある。その姿は、炎の鬣を持つ、紅い獅子であった。最強クラスの魔物である。最低でもAランク級の冒険者が、10人規模のパーティーを組んで討伐に向かうような魔物だ。
当然だが、売っている訳がない。
「…………………これが、ほしいの?」
「しょお! かっちょいーよねえ……」
うっとりとした顔で、紅の獅子の絵を眺める子供。
「さすがに、これは……売ってない……かなあ?」
「え~……しょおなの? じゃあ、こっち! こっちは? シュチョリョームタイガー!」
正しくは、ストロームタイガー。フランベルリーオーと対を生す、氷の牙と爪を持つ、蒼い毛皮の虎である。当然ながら、こちらも最強クラス。
どちらも、伝説級の魔物で目撃情報など、ないに等しい代物だ。
「…………めーなにょね。かっちょいーのに……」
男の顔色で、こちらの返事を察したらしい。
何でもって言ったのに、嘘つき。
そんな声が聞こえてくるようだった。
「そ、そうだな……ほしいお菓子はないの? 食べ物でもいいよ?」
「たべもにょ? ん~……しょおねえ……」
短い腕を組んで、子供は「なんにしよおかなあ?」と右に左に、首を傾げている。
「よち、きめた! はちみちゅ! はちみちゅがいい!」
「蜂蜜かぁ……いいよ。買ってあげよう」
「ほんちょ?! ほんちょに、ダーシュビーのはちみちゅ、かってくえゆの?!」
「だーしゅ……びー?」
嫌な予感しかしない。プロ根性で笑顔をはりつけたまま、子供を見下ろす。
子供はポケット図鑑のページをめくり「こえよ、こえのはちみちゅ」ある魔物を指さした。
ダーシュビー。宵蜂とも言われるこの蜂の生態は、とにかく謎に包まれている。深山幽谷に生息していると言われているが、こちらもまた、目撃談はほとんどない。つまり、
「どこに売ってるっていうんだ!?」
男が叫べば、
「ウチで取り扱ってるよ。ただし、小さじ一杯分で、そうだなあ……タムベル地区の家一軒、家具付きで買える値段になるけどね。ダーシュビーの蜂蜜って、下手な宝石より貴重だし」
「…………ッ!?」
気配を全く感じなかった。恐る恐る声の方へ顔を向ければ、20代半ばほどの男が、辺境伯邸の門扉の向こうに立っているではないか。
「ちびこさん、どれくらいほしいの?」
「ん~……えっちょねえ……みんなで、ぱんけーきまちゅりができゆくらい!」
い~っぱいほしい、と両手を大きく広げる幼い子供。現れた男は、みんなねえ、と呟きながら、指を1本、2本と折り曲げていく。家一軒どころか、地区ごと買切るくらいの予算が必要になりそうな予感がする。いや、それで足りればいいが──足りそうにない。
「ふッ、ふざけるな! そんなモノ買えるわけ……いや、あるわけないだろう!」
「あるよ? 見ただけじゃ納得しないだろうから、試食もさせてあげるよ?」
「な……」
八百屋の店先で、オレンジの試食をさせるのとさして変わらぬ口調で、男は言う。どうする? と聞かれたが、答えは決まっている。
「冗談じゃねえッ!」
それが本物だという証拠がどこにあるというのか。
変な薬が混じったヤバイ蜂蜜の可能性の方が、ずっと高い。
吐き捨てるように怒鳴った男は、踵を返し、大急ぎでこの場から退散した。
最悪の場合、力に物言わせ子供を連れ去る事も考えていたわけだが、気配を読ませない男に出て来られたら、無理だ。
これでも、プロフェッショナルなのだから、引き際くらい心得ている。
「へんなひちょー。なんだったんだりょ?」
「さあ。それより、そろそろ帰っておいで。パン生地の準備ができたから、丸めて焼くよ」
「あい! まんまゆにちようかな? しょえとも、ちかくがいーかな? ちーちゃは、どっちがいーちょおもう?」
チョークとポケット図鑑を鞄の中に片付け、幼い子供は呼びに来てくれた保護者に話しかける。青年は、門扉を子供が通れるくらいの幅に開け、
「俺は欲張りだから、両方作るかな~」
「おお! しょれはたちかによくばりだ」
鞄を抱えた子供は、青年と一緒に屋敷の中へ帰って行くのであった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
実験で、一部にルビを入れてみた。
後、ちびこが蜂蜜を買ってくれ、と言ったのは「在庫が……っ……!」とチトセが頭を抱えていたから。もちろん(?)リーオーもタイガーも、生体販売していませんが、在庫としてあります。