家族がバケツから出てきません
目が覚めたらまず制服に着替える。ブラウスに袖を通し、千鳥格子柄のスカートを履き、ネクタイは、うん、邪魔だから後で登校中にでも着けよう。
着替えを終えたら階段を降り、ダイニングに入って挨拶。
「おはよう!」
すると父と母から返事がある。
「千絵子、おはよう」
「千絵ちゃん、おはよう」
いつも通りの朝。
昨日のうちに買っておいた食パンをトースターに入れ、焼けるまでの間に目玉焼きと簡単なサラダを用意。お湯が沸いたのでコーヒーも淹れ、ほぼ準備完了。
そう、食事の用意をするのはわたしの役目。ううん、それだけじゃない。洗濯も掃除も何もかも、家事はわたしが担当している。
焼き上がったトーストをテーブルの上に並べ、バターと、ご丁寧にオレンジマーマレードもわたしが塗ってあげる。
そこで父から声があがった。
「お腹がペコペコだよ。早くしてくれ」
わたしは嫌味っぽく応じる。
「用意は終わってるから自分で手を伸ばして食べれば?」
「そんな意地の悪い娘に育てた覚えはないぞ」
「そうよ千絵ちゃん、ちゃんと食事を渡してちょうだい」
わたしは鼻で溜め息をつき、仕方がないので言われた通りにすることにした。
目の前の、大きなポリバケツの蓋を少しだけ開き、そこにトーストを投入。するとバケツの中から声が聞こえてきた。
「なんだ、またいつものジャムか」
「文句があるなら、そこから出て自分で用意すれば良いでしょ」
父は、バケツの中で生活している。父だけではない。母も、飼い犬のポチまでもが、ポリバケツに入ったまま出てこない。
わたしの返答に対して不服があるのか、側面にマジックで『父』と書かれたバケツから引き続き声が聞こえてきた。
「火山灰は? まだ降っているのだろう?」
「だからさぁ、そんなの降ってないから」
「お父さんは騙されないぞ」
父は病んでいる。
わたしは今でこそ神奈川県の外れに暮らしているが、元々は、本州から南へ約百キロ、火山のある小さな島で生まれた。それが十五年前、島の中心にある山が爆発し、わたし達一家は移住を余儀なくされた。
当時二歳だったわたしは覚えていないのだけれど、被災地からの脱出は大変困難だったらしく、それが切っ掛けとなって父は火山灰症候群を患うこととなった。
それはノイローゼの一種で、ありもしない火山灰に怯えてしまうという病だ。とは言え、当初は日常生活に苦慮するほどのものではなく、わたしの知る限り父は普通に仕事をし、普通に生活をしていた。
ところが半年前、現住所の近くの山が噴火したことで状況が変わった。
噴火は大したことなかったのに、父は半狂乱となり、仕事を休んでバケツの中に隠れてしまったのだ。
用意されたポリバケツは三つ。どこで入手したのか、直径が一メートルほどの業務用のもの。
父は隠れる間際に母とわたしにもそのバケツに入ることを強要した。お陰で言いなりになった母もバケツ族の一員に。わたしだけは当たり前のように拒否をしたので、結果、代わりにポチがバケツに入って、この家で動き回れるのはわたしのみになってしまった。
「ところで……」
そう前置きし、父が言う。
「コーヒーをくれ」
何もしないくせにどうしてそんなに偉そうなのだ。そんなことを思い、わたしはカップを傾けてバケツの中にコーヒーを直接注いだ。
「熱ぅぅぅい! バカモン! 何をするのだ!」
「器ごとバケツの中に入れると、お父さんはそれを返してくれないでしょ」
「だからといって液体をそのまま注ぐな!」
父が喚き散らす中、母が落ち着いた調子で言う。
「お母さんは、コーヒーは遠慮しておきますね」
「えー、お母さんの分も用意しちゃったのに」
わたしは唇を尖らし、母の分のコーヒーも父のバケツの中に入れた。
「熱ぅぅぅい!」
「コラ、千絵ちゃん。お父さんが可哀そうでしょ」
「そう思うならさぁ、お母さんがお父さんの世話をすれば良いでしょ」
当然の主張をすると、母は優しく諭すように喋り出した。
「お父さん一人だけがバケツでは、お父さんが可哀そうでしょう? だからお母さんはお父さんと同じようにバケツに入っているのよ」
その言葉を聞いた父が会話に割り込む。
「お母さん、ありがとう。愛しているよ」
「わたしもよ。あ・な・た」
付き合い切れない。
わたしは二人のやり取りを無視し、ポチのバケツを開いて、そこにドライタイプのドッグフードをザラザラと流し込んだ。
「おはよ、千絵」
登校中、同級生のミノル君が声を掛けてきた。
「ネクタイ曲がってるぞ」
そう言って彼はわたしの首筋に触れる。
実にさり気ない。やましいことがないからこそ、そういう振る舞いが出来るのだろうと分析してみる。それに対し、わたしはやましいことを妄想して頭の中でポッなんて擬音を響かせながら頬を赤らめた。
「どした?」
「なんでもない……」
しばし沈黙。
その後ミノル君は、部活がどうの、受験がどうのと、青春真っ盛りな話題を口にし、そして最後に、意外な提案をわたしにしてきた。
「あのさ。次の週末、二人でどっか遊びに行かね?」
ん?
「俺とどっか行くの、やだ?」
嫌ではない。嫌ではないが。
「家を空ける訳にはいかないんだ。ごめんね」
俯きながらそう返答すると、彼は訝しげにわたしの顔を覗き込んだ。
「なあ千絵。最近、悩んでない? 家でなんかあった?」
なんかあったどころの話ではない。家族がバケツから出てこないのだ。
わたしは曖昧に呟いた。
「火山灰がね……」
「は?」
「わたしの家、火山灰が降り積もってるの」
「意味が分かんねえよ」
そりゃそうだ。しかし、我が家の事情を懇切丁寧に説明する義理もない。
「噴火したんだよ、噴火」
「ああ、そういえば半年前に火山が爆発したな。それが?」
「違くて、お父さんが爆発しちゃったんだよね」
「ますます意味が分かんねえ」
眉根を寄せる彼の顔は少し可愛らしく、わたしは小さく鼻で笑い、「そういう訳だから」という言葉だけを残して、校舎に向かって走った。
教室に入ると、いつものように定型通りの挨拶が交わされ、いつものように右から左へと流れる無駄話が始まった。
近頃、学校は消化試合のような雰囲気に包まれている。
やるべきことはあと受験だけ。一部の生徒に至っては既に推薦入試で進学先を決めた人もいる。お陰で先生も含め誰もが惰性で時間を潰していた。
あぁ、何か違うなぁ、と心の内で呟く。わたしだけ就職希望なのだ。
大学に行きたくないという訳ではないけれど、家族があんな状態では進学は難しい。今でこそ父の残した貯金で不自由なく生活をしているが、それもいつまで続けられるか分かったものではない。それこそ家計を支える為、すぐにでも働かなくてはいけないのでは?とも思う。
少し憂鬱。少しだけね。
そんな心情を察したのか、遅れて教室に入ってきたミノル君が突っ立ったままのわたしの顔を不安そうに見つめた。彼が何か言うよりも先に宣言する。
「ミノル君、気分が悪いから、わたし帰るね。先生に伝えといて……」
家に帰り着くと、わたしはダイニングに顔を出さず、すぐさま自分の部屋のベッドに飛び込んだ。
そういえばデートに誘われちゃったなぁ。ネクタイを解きながら今更そんなことを思い返す。ミノル君ってひょっとしたら、なんて自意識過剰なことも考える。
そうしているうちにわたしは眠ってしまったらしく、気が付くと辺りは暗くなっていた。悪い夢でも見たのか全身が汗で濡れている。
時計を見れば夜七時を過ぎており、わたしは慌ててダイニングに向かった。
そこには当然ながらバケツが三つ。
わたしがやって来たことを音で察したのか、明りを点けると同時に『父』のバケツから不機嫌そうな声が響いた。
「千絵子、学校はどうした?」
「何となく早退した」
「悩みでもあるのか? あるなら言いなさい」
「いやいやいや、どう考えてもお父さん達が悩みの種でしょ」
呆れたように応じると、今度は『母』のバケツから声がした。
「そうよ千絵ちゃん。相談に乗るわよ」
「ねえねえ、話聞いてた?」
「あら嫌だ。反抗期かしら」
もはや突っ込みを入れるのも面倒臭い。
「それはそうと千絵子、晩飯はまだか?」
ボケた舅のようなことを父が言う。
わたしは辟易しながらも軽く頭を下げて返事をした。
「ごめん、今から準備する。あ、その前にポチの散歩に行ってくるね」
すると母がわたしを引き止めた。
「ポチは長いこと物音ひとつ立てていないわ。もう散歩はいらないんじゃないかしら。それよりも早くご飯を食べたいわ」
「ちょっとお母さん、物騒なこと言わないでくれる……」
ワンッ。
「ほら、聞いた? ポチが心配になって、わざわざ鳴き声をあげたよ」
その言葉で父と母は黙り込んだ。
わたしはそれを相槌と受け取り、『ポチ』と書かれたバケツを抱えて外に出た。
街灯の照らす道を、バケツを乗せた台車を押しながら歩く。
いつもと同じ散歩コースだけれど、辺りが暗いと知らない道に見える。その所為か、一歩進む度に不安が募っていった。
今日は早めに切り上げてしまおう。そう思った時、突然背後から声がした。
「何やってんだよ」
ピクリと肩を引き上げ、恐る恐る振り返る。するとそこにはミノル君がいた。
「や、やあ、ミノル君、今日は道端で良く会うね。ひょっとしてストーカー?」
「バカ。塾の帰りだよ。で、千絵は何してんの?」
「見ての通り犬の散歩」
「見ての通り犬の散歩とは思えん」
「良く見てみ、バケツに『ポチ』って書いてある」
「いや、書いてあるけども……」
ミノル君は釈然としない表情で首を傾げた。
「千絵、やっぱ最近のお前おかしいよ。今日だっていきなり早退するし、嫌なことでもあった?」
「ないって訳じゃないけど。昔に比べたらマシかな」
「話を聞かせてくれよ。俺さ、お前の力になりたいんだ」
「なんで?」
「それ、わざわざ聞いちゃう?」
「うん。聞いちゃう」
日頃は横柄な態度の彼が突然モジモジとしだす。
「あの、千絵のことが気になるっていうか、まあ、その、好き、なのかな。出来れば付き合って欲しい、みたいな?」
そんなミノル君の緊張が感染し、わたしもモジモジ。
「え? あ、うん、ありがと。凄い、嬉しい……」
「OKってこと?」
「それ、わざわざ聞いちゃう?」
微笑むと、ミノル君は小さくガッツポーズをした。
「じゃあさ! 今朝も言ったけど、週末に遊びに行こうぜ」
魅力的な言葉ではある。でも家族のことを思うと、そう安易に承諾できるものではない。わたしが世話をしなければ、みんな生きていけないのだ。
「ごめん。言ったと思うけど、家を空けられないんだよ」
「どうしてもダメか……」
「わたしの家の状況を見れば一発で納得できると思う」
「あれ? ひょっとして誘ってる?」
思い掛けない問い掛けに、わたしは戸惑った。
「ごめ、わたし誘ってた? あ、でも、別に良いか。これから晩御飯を作るんだけど、食べに来る?」
「マジで? 冗談で言ったんだけど!」
今後、交際をするならば隠し通せるものでもないだろう。わたしは照れながらも大きく頷き、ミノル君に台車を押すよう命じた。
ミノル君は『ポチ』のバケツを抱えながら愚痴を零した。
「は? こんなでかいバケツを部屋に入れるのか?」
「うん。この部屋」
ダイニングを示し、それから扉を開けて父と母に言う。
「ただいま!」
「お邪魔します……」
すると父がバケツの中から文句を言い始めた。
「千絵子、遅いぞ! それに、誰だその男は!」
「わたしの愛しのダーリンだよ」
おどけてそう言うと、ミノル君が慌てて口を挟んだ。
「ちょっ、千絵、何言ってんだよ」
「別に良いじゃない、悪いことしてる訳じゃないんだし」
しかし、そんな理屈では父も母も納得しなかった。
「お父さんは認めんぞ!」
「お母さんも反対だわ」
「黙っててくんない? どうせ二人はこれからもバケツの中に閉じこもってるんでしょ? そんな人達に文句は言われたくないなぁ」
「なあ、千絵?」
「お父さんはな、バケツに入りたくて入った訳ではない。千絵子が望んだから、こういうことになったんだろう?」
「そうよ千絵ちゃん。本当はあなたがわたし達をバケツに入れたんじゃない」
「はい? 自分達からバケツに入ったんでしょ!」
「なあ、千絵、落ち着けって……」
「お父さんは反省しているよ。確かにあの頃のお父さんは火山のようだった」
「お母さんも反省しているわ。あなたのことを気にも留めず、灰を撒き散らすように喧嘩ばかりして。辛かったのよね?」
「今更? あのさぁ、謝るの遅いんだよ!」
「なあ、千絵! さっきから誰と話してんだよ!」
ミノル君が叫ぶと同時に父も母も口をつぐんだ。
「え? 誰とって、お父さんとお母さんとだよ。あ、話してなかったね。うちの家族、バケツの中にいるの。こっちの『父』って書いてあるのがお父さんね。こっちの『母』って書いてあるのがお母さん、で……」
わたしが説明をしている最中、ミノル君は唐突に『父』のバケツに近付き、蓋に手を掛けた。それを見てわたしは話を中断し、叫んだ。
「開けちゃだめ!」
しかし彼はその忠告を無視し、バケツの蓋を開けて口元を押さえた。
「こ、これ……」
室内に、死体の腐ったような臭いが立ち込める。
この家には、火山灰が降っていた…………
※三題噺です。お題は「ポリバケツ」「火山灰」「ポチ」