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漆黒をも照らす月明かりの下で

作者: アクル


【序章】

「おね…お兄ちゃんは誰?」

「ジブンはアヤツと呼ばれている。」

「その猫ちゃんは?」

「ショーセイっていうんだ。」

「どうやってここに入ったの?」

「こっそり、と入らせてもらったんだ。」

「もしかして泥棒の人?」

「違うよ、シーザ。」

「なんで私の名前を知ってるの?」

「うーん、ジブンは手品師みたいなものかな。だからこっそりシーザに会うことことも出来るし、シーザの名前を言い当てることも出来るんだ。」

「手品師ってすごいねぇ。」

「ありがとう。でね、シーザにどうしても伝えたいことがあるんだ。」

「なあに?」

「シーザは、今とっても苦しいことがあるでしょ。でもこの先そのシーザの苦しみをいやしてくれる人が現れるから、ね。」

「だって、もう元には戻らないよ。」

「そうなんだけど、ね。なのにシーザが苦しまないようにしてくれるんだよ。凄いと思わない?」

「お兄ちゃんがそうなの?」

「違う違う。ジブンはそんな大したものじゃないよ。」

「本当にそうなったら、嬉しいな。」

「きっとそうなるから、だからあきらめないで信じていてね。」

「分かった。それと、ありがとう。嬉しい話を聞かせてくれて。なのに、ごめんなさい。泥棒と思ったりして、それに最初男の人なのにお姉ちゃんと思って。」

「いいんだよ。こんな髪をしているのがいけないんだ。ごめんね、こっそり入ってきて驚かせて。じゃあ、おやすみ。」

それは、そうそれだけの会話。



【第一章】

乗り越えようと手摺てすりに手を掛ける。

見通せない闇が俺をいざない口を開けて待ち受けるように眼下に横たわる。意を決したつもりでも、その深い闇にいだく恐れを完全にはぬぐえない。ただ恐怖心のその先に平穏と成就があると信じている。

…なのに、それなのに落下防止の為に屋上を囲んでいる手摺に掛けた手が震える。それも仕方ない、か。死を決意したのだ。自ら死を選ぶ決意をしたのだ。手の震えを止めようと力を込める。落とした視線の先では、揃えておいた靴と風に飛ばされないように靴の下敷きにして置いた手紙がはためいている。

それでも止まらない震えに苛立いらだちをつのらせる。もう心を決めたはずだろう、今更なんだっ。

ゴンッ

手摺に叩き下ろした拳が鈍い音を上げる。

カツンッ

硬い金属音が拳の音を追いかけるように響く。音を発したみなもとを追いかけて振り返れば、扇を逆にしたような影が在る。屋上の反対側の柵の縁石に人が座って、その長い黒髪が広がっている様だと気付くのに数瞬の時間がかかった。扇の弧を形成しているのが巨大な鎌だと、その足元に猫がいることに遅まきながら気付く。

「なんだ、お前は」

そのあまりにも奇妙で剣呑けんのんを覚える影に思わず誰何すいかの声を上げる。

「あぁ、ジブンのことは気にしないでいいよ。ただ、倉木和哉さん、あなたがそこから飛び降りるのを待ってるだけ、だから。」

「なんだ?」

俺が飛び降りるのを待っているっていうのは、なんだ?

何時からそこにいた?

何故、俺の名前を知っている?

結局、何者なんだ?

幾つもの首をもたげる疑問が胸中に渦巻く。

誰何をはぐらかされ、かといって自身の中に答えがあるはずもなく、結局答えを相手に求めるしかない、苛立ち。相手が年の頃なら十代半ば程の少年であるらしいとようやく気付くに至り、覚えるいきどおり。そして、手摺に向けた八つ当たりが相俟あいまって、おさえようもなく険のある物言いになる。

「俺が飛び降りるのがそんなに待ち遠しいのか。」

「そんなことはないよ、どっちかと言えばひたすらに面倒くさいんだけど。仕事だから。あなたほど熱心ってわけでもないけど、やらなきゃならないことだからちゃんとやり遂げるつもりでいるよ。」

「仕事っていうのはなんだ。俺が飛び降りようとしていたのを何故知っている。お前は何者なんだ。」

「そう矢継やつばやに質問されても、まぁ簡単に答えるとシブンはあなたの死後処理をしなきゃならないってだけ。」

こちらの憤懣ふんまんをいなすような口調に、一層腹立ちが募る。

「なら俺が飛び降りなければ楽が出来るってことか。だから止めようとしているのか。」

「心配しなくても大丈夫。止めたりしないから。あなたの前で口にするのは、はばかられるけど、これでもそこまで仕事に対して不真面目じゃないつもりなんだ。それに止めても無駄でしょ。あなたにはもう何もない。親も家族も、親しいと呼べる友人も、掛け値なく楽しいと思える時間や趣味も。そして夢や使命といったものも絶たれたと諦めたんだ。本当に何もない。あなたを生かしていたのは、誰かのためと思い込んでいるけどその実贖罪を置き換えただけの使命感と、忙しさにかまけて生きているってことと孤独と向き合わなかったことと、そのせいもあって死んだほうが楽かもしれないって発想が生まれなかったことと、死は怖いものだっていう漠然とした恐怖心だけだったんだ。でも、死んだほうが楽かもしれないってことに思い至ってしまって、使命を果たせると信じた場所を奪われ、生きようという心を折られて恐怖心を上回り、自分の命と引き換えに約束を果たせるなんて勘違いを信じこうもとしている今、あんたが死のうとしていることを止めるすべはないよ。だから、止めるではなく、待ってるんだ。」

子供ガキなんぞに何が分かるっ」

したり顔で話す長髪の少年への怒りは沸点を超え、怒鳴り声で応じる。

「分かる分からないの話ではないよ。あなたにとっては面白くないかもしれないけど、あなたのことは僕には筒抜けなんだ。」

ふざけるなよっ、そうは思うが、咽喉のど戦慄わなないてうまく声が出せず、即座に言い返すことが出来ない。

「アヤツ、放っておけばよかろう。おんしの仕事は自殺を止めることではなく、自殺した魂を運ぶことだろう。そうやって余計なことばかりするから、かげでどころか表立って“役立たず”って言われるんだろう。おんしだけが言われるならまだしも小生までそう言われるのは我慢ならん。」

その間隙をって別の場所から声が上がる。

「ショーセイ我慢なんかしてないじゃん。この前も役立たずって言った人たちを片っ端から引っ掻いてたじゃん。」

阿呆あほう、周りから役立たずと思われてることに絶えられんと言っておるのだ。小ばかにされて黙っておるいわれなどないわ。」

「猫が…喋って…るのか?」

あまりにも想定外のことばかりで、思考が追いつかない。先ほどまで怒りで戦慄いてはずが驚きで戦慄き声が震える。

「ふぅ」猫にしか見えないそれは器用にあからさまな溜息を一ついて続ける。「今更驚くのか。そもそもこやつが現れた時点でもっと驚いておくべきだろう。こんな容姿のくせにけったくそ悪いこんなに長い髪をしおって、不釣合いに大きくて物々しい鎌なんぞもって、『あなたがそこから飛び降りるのを待ってる』なんて言ってる奴が突然現れたのだぞ。猫が喋るぐらいなんだ。」

「なんかさ、ショーセイって人間と喋れるようになってから、絶好調だよね。」

妙に楽しげに長髪の少年が足元の猫に言葉と目線を向ける。

うるさい、話の腰を折ってくれるな。」少年に向けて一喝すると俺に向き直る。「いいか、小生にとってはかなり不本意なんだが、こんな風に尻尾が二本も生えてるような猫が普通の猫なわけがあるまい。」

ぴょこぴょこと揺れる二本の尻尾を見せ付ける。

つまるところこの一人と一匹はどちらも面妖な者であるらしい。にも関わらず不思議と恐怖心はなかった。それは既に死を決意したからではないような気がする。そう例えば自分の人生は順風満帆じゅんぷうまんぱんだと信じて疑っていなかった数年前に出遭ったとしても恐怖心を抱かなかったのではと思える。少年は物騒な大鎌なんぞを持っているのに。

「で、化け物かどうかは知らないが子供と猫に見えるものが、覚悟を決めてここにいる俺になんの用があるっていうんだ。」

だからなのかもしれない、分けの分からない珍妙ちんみょう闖入者ちんにゅうしゃに対して、躊躇ためらいなく言い返せているのは。

「あんまり、こういう場面で覚悟って言葉は使って欲しくないなぁ。生き続けるって決断をするほうがよっぽど覚悟がいるとジブンは思ってるから。」

「それをおんしが言うのか。」

「この言い合いをすると尽きないけど、そう思えるからこそジブンが最期にとったっていう行動には意味があったと思うんだ。まぁそのときのことなんて全然覚えてないんだけど、さ。」

「張り合いがないことこの上ないわ。」

「さっきからなんなんだ。俺の一世一代の決断を、なんでそんなつまらん無駄話でないがしろにさらねばならないんだ。」

「蔑ろも何もない。小生はアヤツと会話をしておるが、おんしがそこから飛び降りるのを止めるつもりなどないぞ。先ほどアヤツも言っておったが、おんしが飛び降りるのをただ待っていただけだ。忘れたのか、おんしが誰何すいかの声なんぞ掛けるから、おんしと話しただけだ。アヤツが仕事を終わらせるのに付き合わされる身としては、とっとと終わりにしたいのだ。だから本気で飛び降りるつもりなら、さっさと飛び降りればよかろう。」

絶句で息を飲む。

「ショーセイ、言い方言い方。」

「言いつくろったところで、言うべきことは変わらぬだろ。そもそもおんしだって、充分ズバズバ言っておるだろうが。」

「言われてみれば。じゃ、ズバズバついでにもう一つ。一世一代の決断?自分の命を自らの手で終わらすなんて愚行に使う言葉ではないよ。たとえば子供が学校でイジメにあって、学校以外の世界を知らないがために全てに絶望して自殺するしかないって追い込まれるのとは違う。あなたのそれは、単に思い通りにならなかった、気に食わない人生を、自分の命だから自由にしていいなんて傲慢ごうまんさと果たせない約束を命でそそげるなんて思い上がりで、終わらせようとしているだけでしょ。覚悟とか一世一代の決断とかを使って欲しくない。あなたの今しようとしていることは、そういう聞こえのいい言葉で、正当化していいようなものではないはずだよ。」

「お前に、俺の何が分かるっていうんだ。」

「なら、あなたはあなた自身のことがどれだけ分かっているっていうの?」

「俺自身のことは俺が一番分かってるに決まってるだろっ」

「本当に?なら、見てみる?あなたが知らないあなたのことを、あなたが忘れようとしているあなたのことを。どうせ終わりにしようとした命なら少しぐらい先延ばしになっても影響ないでしょ。」

俺の返事を待たずに、長髪の少年は、大鎌を構える。斬られるっ、そう思って反射的に両手をかざして身を守ろうとする。その間隙かんげきを縫って、感じたのは胸を軽く突かれる感覚だった。

咄嗟とっさつぶっていた目を見開いて、最初に飛び込んできたのは、見慣れないそれでも見紛うはずもない、ぐったりとした後姿とそれを抱える、長髪の少年だった。

なんで俺の後姿を後ろから見てるんだ?

「何を…した?」

「あなたの身体から、魂だけを抜き出させてもらった、幽体離脱ってヤツだね。これからしようとしていることには、こっちのほうが便利なんでね。少し僕に付き合ってくれれば、元に戻すよ。」

混乱の極みは、長髪の少年の一言で一応は解消された。

そうか、肉体から魂が抜けたのか。前から突かれて魂が後ろから抜けたんだとしたら、魂が肉体の後ろにあって後姿を見ることになったのだって充分説明がつくな。そんな論理的な理屈らしきもので納得しようとしてみる。結局は、もう、どうにでもなれ、投げやりな心地で開き直ることしかできなかったが。

「結局こうなったか。」

「ごめんね、ショーセイ。」

「ふんっ、始めから、それこそわざとらしく鎌を打ち鳴らしたところからずっとおんしの思惑通りな上に、悪いなんて思ってないくせに謝ったりするな。」

「ひどいな。悪いとは思ってるよ、面倒ごとに毎度巻き込んで。思惑通りっていうか、最初っからこうするつもりだったっていうのは、否定できないけどね。」

そんな声を最後に俺の意識は、落ちて途絶えた。



【幕間ーショーセイの身の上話 其の一】

すこしだけ、アヤツと小生について触れておこうと思う。

いきなりこの顛末を目にすることになったおんしには、小生とアヤツのことがなんなのかが分からないだろうからな。

まずは、アヤツのことだ。

もともと名はあったはずなのだが。人ならざる者になってから、それを忘却しているそうだ。名無しのままだとあまりにも不便なので、しばらくの間、小生が呼んでいたあやつという言い方をそのまま名として、「アヤツ」と名付けた。特に不満も非難がましいことも言わないのだから、アヤツ自身、案外気に入っておるのかもしれんな。代名詞を名前にしてしまったことで多少会話がややこしくなることもあるが、まぁ致し方なかろう。そもそもアヤツ自身、自分のことを「ジブン」と称するのだ、既に充分ややこしいしな。

先にも述べたように人ならざる者になったのであって、最初はなから人ならざる者であったわけではない。もともとはどこにでもいる人間の少年であり、小生に食事を提供する者であった。それが他人を助けるために自分の命を投げ出すなんて、褒めた方がよいのか罵った方がよいのか分からん行動をとったため、魂の行き場をなくしたらしい。小生も詳しくは知らぬのだが、人に限らず全ての生物にはたましいというものが宿り、死して又新しい命へと生まれ変わることを繰り返すらしい。輪廻転生りんねてんせいとか言っておったな。大概の生物は死んだのち、輪廻転生によって魂はいずれ新しい命として生まれ変わる。だがその輪廻かられる魂がある。それが死してなお強い心残りを残している魂と自ら命を絶った魂だ。そうした魂が輪廻転生に戻るためには、強い心残りがある場合はその心残りを解消せねばならないし、自ら命を絶った場合はその罪をそそがねばならないのだそうだ。では何かを救うために自ら命を絶った者、命を落とす覚悟で行動した者はどうなるのか。その答えがアヤツの今の状況というわけだ。端的に言えば死神というものだ。自ら命を絶った者の魂を輪廻から切り離し罪を雪がせることと、現世に強い心残りを持ったために輪廻に戻れない魂のわだかまりを解消して輪廻に戻すことを生業なりわいにするものだ。アヤツはなんだか随分とこだわりがあるらしく、すこぶる出来の悪い死神ではあるが。

さてそして小生だ。

小生には元々名などない。アヤツが「ショーセイ」と呼ぶのは小生の一人称を受けてのことだ。アヤツがそう呼ぶからいつの間にか周りの者たちもショーセイと呼ぶようになった。小生は元々は猫であった。ただ猫として懸命に生きていた。懸命に生き抜いただけだったのだが。永く生き過ぎたらしい。いつしか猫から猫又と呼ばれるものになっておった。いつ猫から猫又になったかなどということは小生にも分からん。それでも小生の尻でぴょこぴょこ揺れる二本の尻尾が、普通の猫とは違っているのだと主張するのだ。

初めは忌々(いまいま)しく思ったものだ。あやかしなんぞにちて、天寿てんじゅまっとうするという生物としての根源から逸脱いつだつしてしまえば、何故生きるのかすら見失う。親しかった者たちのいなくなった世界で孤独に生き続けねばならないというのは、どう控えめに言っても絶望でしかなかったのだ。

だから、死神になったアヤツが現れて、協力して欲しいと言われた時は、妖に身を堕としても生きていけると思ったものだ。

それからは、死神と猫又としてバタバタしながらもアヤツに与えられる任に当たっている。まぁ先にも言ったが、その首尾はかんばしくないが。そもそも小生はアヤツがこれ見よがしに持ち歩いているあの大鎌を振るうところすら見たことがない。

まぁなんだかしまりがないが、これが小生とアヤツの置かれている現状だ。



【第二章】

気付いた時、俺は喧騒けんそうの中にいた。

何もかもが馴染んだ喧騒だ。喧騒を構成する全て、匂いも笑い声も怒鳴り声も無秩序な光景も。日々違った喧騒なのにーー喧騒を生み出している顔ぶれも日々変わるはずなのにーーもかかわらず、馴染みのと思ってしまうのは何故なのだろう。

あれからほとんど時が経っていないらしい。見慣れた天井近くの位置に掛けられた時計が22時を指している。正確にあの変な一人と一匹に出会った時間が分かるわけではないが、あの建物の屋上を目指して家を出たのが20時半頃だったことを考えれば、あの変な一人と一匹と出会ってからまだ僅かの時間しか経っていないらしかった。

その一人と一匹はどうした?

この事態を招いたと思われる一人と一匹の姿を探して、視線を彷徨さまよわせる。振り回した視線は、あっさりとその姿をとらえる。俺の左斜め後ろで、少年は立てた大鎌の柄に寄りかかるように気だるそうに立ち、猫はそっぽを向いて欠伸あくびをしている。何が、『これでもそこまで仕事に対して不真面目じゃないつもりなんだ』、だ。そんな態度が職務中の態度だと、仕事をめるなよっ。

「ここがどこか分かる?」

目が合うと、長髪の少年はそんなことをいてくる。

「そりゃあな、ことある毎に来ていた居酒屋の店内くらい一目見れば分かるに決まっているだろ。」

苛立ちで語気が強くなる。

なぜ苛立つのか、先ほどまでの屋上での交わしていた会話で感じていた苛立ちを引きっているのか、したり顔で話す長髪の少年が気に喰わないのか、人が死ぬしかないなんて下した決断を子馬鹿にされたのが許せないのか、事態を飲み込めぬままこうしていることが苦痛なのか。あるいはその全てか。

ただ苛立ち紛れの口調であっても、会話を成り立たせる程度の判断が出来るのは、唐突に放りこもれた光景が見慣れた居酒屋のおかげなのかもしれない。見慣れているからこそ感じる普段との違和感が際立ったりもするが。来客への対応の肌理細きめこまやかさが、店選びの決め手の一つである店内で、立ち尽くす俺に声を掛ける人間が一人もいない。それどころか、俺の存在に気付いてすらいない。

「生きている内に幽霊の体験を出来るのは、貴重でしょ。」

俺の心の内を見透かしたように、少年が声を掛けてくる。

「なんなんだ、これは。」

「これ、が何を指しているかはよくわからないけど、ジブンはあなたの肉体から魂を抜き出して、さっきの屋上からこの居酒屋に時間を掛けずに移動させたってだけ。あなたの身体が微かに透けて見えるのも、周りの人に認識されないのも、それから頭から出ている紐もあなたの肉体から魂を抜き出した影響だよ。」

その言葉を受けて見上げてみれば、頭から店内の壁に一直線に紐が伸びている。

「もう分かってるかもしれないけど、その紐ね、あなたの肉体に繋がってる。で、その紐が切れちゃうと死んじゃうから気を付けてね。ちょっとやそっとで切れるもんじゃないけど、この鎌の刃に触れると切れるから。」

大鎌をわずかにかかげて見せる。

「そ、そういうことは始めに言っておいてくれ。」

自分で思うより狼狽ろうばいしたのか、声が震える。

「なんだ、もともと死ぬつもりであの屋上にいたのではないのか。それが今更死ぬことを怖がったりするのか。」

「ショーセイ、意地が悪いよ。自分で踏み出そうとしたタイミングを逸して、他人に奪われるかもなんて思えば怖くなるものなんだよ、きっと、死ぬなんてことは。」

そうか、だから鎌で切られるなんて思った時も、気持ちは固まってていたと思ったのに防ごうとしたのか。妙に納得する心持で少年の言葉を受け入れていた。

「ふんっ。おんし、その物言いだと自分で心を固めたタイミングでなら、ほいほい命を捨ててしまって良いみたいに聞こえるぞ。」

「そんなつもりはないけど、悪かったよショーセイ。こういう話題になるといがみ合いみたいになるからなぁ。」

「おんしがすぐに折れて、いがみ合いになんぞにならんではないか。」

「だってね、ジブンは自分に関して思い出せないことが多すぎるから。言い返すことなんて出来ないでしょ。」

「本当に張り合いがない。」

放っておくと、この一人と一匹はどうも俺を蔑ろにして話を進めるきらいがある。

「いい加減そろそろいいか。なんでこんなところに連れてきた?」

この一人と一匹の会話の成り行きに多少の興味を覚えながらも、無理矢理口をはさむ。

「少しは自分で考えたらどうだ。馴染みの居酒屋なのだろう?」

猫が、いかにも面倒だと言いたげに、そう返してくる。

「勝手に連れてきて、自分で考えろだと、随分な言い草だな。」

「確かに。でも、ここにいるあなたに関係のありそうな人なんて、容易に想像できるんじゃない?」

それを取り成すように、長髪の少年が口を挟む。

「同僚…、元同僚か、正直に言えば、あまり顔を合わせたくはないな。」

「心配しなくても大丈夫だよ。あなたのことを見ることが出来る人なんていないから。」

「…そうだったな。」

現実離れした幽体離脱という状態を素直に受け入れながらも、俺が抱いていたそれとの印象の違いが拭えない。その違和感を口にしてみる。

「つまらないことなんだが、幽霊ってヤツはもっとふわふわ浮いたり、物質をすり抜けたり出来るもんだと思ってたがな。俺は今しっかり床を踏みしめている…よ、な。」

右足を二度、床を打ち鳴らすように踏み下ろす。

「突然、浮けるようになったり、すり抜けるようになったりすると制御出来なくて混乱するだけだから、魂を抜く時は大抵こういう処置をさせてもらうんだ。」

「こういう処置っていうのは?」

「霊子の構造を分子構造と類似させて、特に足の裏の霊子密度を分子密度が近似するようにしている。」

突然、猫が会話に割り込んでくる。

「な、なんだ、分かるように説明してくれ。」

「ショーセイさ、わざと分からないように説明するのはどうかと思うよ。要は、幽体になっても肉体があった頃と同程度の体重になるようにして、足の底が床や地面をすり抜けないようにしているんだ。肉体があった頃と比べてもそんなに違和感はないでしょ。まぁ、そのせいで浮いたり出来なくなってるんだけどね。ただ足の裏以外は壁でも人でもすり抜けるから。」

自分の右腕を手近な壁に伸ばしてみる。普段感じている手応えなく自分の手が壁の中に消えていく。視覚と触覚が一致しない気持ち悪さに、思わず手を引っ込める。

「なんで、全身をすり抜けないようにしないんだ。」

「少しは自分で考えないのか。」

「ショーセイ、手厳しいの範疇はんちゅうを超えて、なんていうか、そこまでいくと嫌がらせとかそういったたぐいだと思うよ。あなたの姿は他の人から見ることは出来ない状態だから、身体全体を何かと接触できるようにしてしまうと、周りの人達は見えない何かにぶつかったりすることになってしまうから。」

「なるほどな、…こういう事態には慣れているということ、か。」

「まぁそうだね。」

自殺を試みる人間への対処もお手の物ということか。莫迦ばかにしている。十把一絡じゅっぱひとからげに扱えると。短絡的だと。傲慢ごうまんだと。人の決断を見下し、揶揄やゆするのは見慣れているからだとでも。冗談じゃない、有象無象うぞうむぞうと一緒くたにされるほど安い命じゃないっ。

「その有象無象と現した命も誰かにとってかけがえない命で、どれもこれも安くはないとジブンは思ってるけど。命を安くする行為なんてそうそうあるもんじゃないと思うけど、自分で終わらせてしまおうとしている想いこそが、命を安くする最たるものなんじゃない?」

「…っ」

こちらの考えを読み取ったかのように、いや読み取ったからこそ投げ掛けられる言葉なのだろう。アヤツと呼ばれている死に…少年の口調は終始いたって丁寧なのに、こうも心をえぐる。母に叱られるように父に諭されるように。

だから、何度も何度も言葉につまる。

「おんしも小生にあれやこれやと言う割には、随分とまぁ辛辣しんらつだな。ところでここに態々来たのはこんな言い合いをするためではなかろう。」

「そうだった、そうだった。」

さっきまでと口調はさして変わらないのに言葉をつまされるような響きは消えている。

「ここに来たのは、さっきあなたが言ったとおり、あなたの元同僚がいるから、そして聞いて欲しい話があるから。見られることも声を届けることも触ることも出来ないから干渉することは出来ないけど、耳を傾けてみてほしいんだ。そっちの席にいるよ。」

一つ一つの席を胸の高さで仕切る間仕切りの上から指し示された席を覗き込む。身体をすり抜けると聞かされても、なんとなく人の通りそうな場所を避け、間仕切りの上から覗き込んでしまうことに微かな苦味と気恥ずかしさを覚えながら。

そこには見慣れた二人の顔があった。

「…だからさ、うちの情シは駄目なんだよ。」

覗いたその瞬間に愚痴を口にしているのは、元同僚の一人である篠崎しのざきだ。普段からはっきり物を言う性質たちで、酒が入ると絡み酒という悪癖が頭をもたげる男だ。もう既に酔いが回っているのか相手の肩に腕を回し、標的にしやすい自社の社内向けシステムを管理する部門をなじっている。

「まぁそう言うなって。そもそもうちの会社全体のシステムとインフラを管理するのに人数が圧倒的に足りないんだろ、きっと。」

篠崎に肩を組まれたままをなだめるように話すのは、同じく元同僚の田沼たぬまだ。気の良い男でその場にいない誰かのことを弁明する立場で話をしている様を、会社でも酒の席でも見ることが多い。

「だとしても、だ。社内メールの申請とかの対応が杓子定規なんだよ。今日も急遽来ることになった派遣さん用の申請を緊急でお願いしても、期日通りにしか対応出来ませんとか言い出すんだぜ。メールがないと社内システムも使えないっていうのに。だいたい社内システムのIDがないとIPアドレスの割当も対応出来ないしよ。そんなに対応に手間取るんだったらそんな仕組みにしとかなけりゃいいだろが。PCも使えずに仕事になるかよ。」

「そこは彼らのというより、セキュリティの問題なんだからしょうがないだろう。社外から持ち込んだ機器を簡単に社内ネットワークに接続出来ないためなんだし。」

「分かってるよ。分かってるけど腹立つんだからしょうがないだろ。」


なんと言うか、微笑わらってしまうくらいいつもどおりだ。

俺がいなくなったとしても、こうしてこういう光景が続いていくのだろうとぎってしまうくらいに。

「あの二人の話している話、意味がさっぱり分からん。」

声のあった方を振り仰ぐといつの間に移動したのか猫又が間仕切りの上で丸くなりながらぼそりとつぶやく。その脇には間仕切りの上に少年も腰掛ている。先ほどの猫又への腹いせのつもりで、篠崎と田沼の話を噛み砕かずに説明してやる。

「ある程度の規模の企業であれば、何処でもそうなのだろうが、俺の在籍していた総合商社も社内向けのシステムで社員管理やサービス提供をしていた。PCの初期設定マニュアルから資産管理まで、その用途は多岐に渡っている。その社内システムを利用するのに必須なのが、会社から各社員に割当てられるメールアドレスなんだ。そもそも社内システムを利用してPC名とMACアドレスを登録しないと社内ネットワークにも接続出来ないしな。そういうことを取り仕切っているのが、情シ、情報システム部という部門だ。そこが幾分融通が利かなくて、な、時折こうした酒の席でのさかなになるんだ。」

「説明を聞いてもさっぱり分からん。まぁ、小生が知らなければならないようなことでもないらしいな。」

さして興味もなさそうに一度擡もたげた頭を、丸の中に収める。

ならくなっ。

「でも、それだと初回に社内システムにPC名とMACアドレスを登録することは自分で出来ないってこと?」

少なからず、驚きを覚える。驚愕と言ってもいい。何処までかは分からないがあの説明である程度理解したらしい。

「君は、情報処理を勉強したことがあるのか?」

そのせいでなどと、質問を質問で返すことに対してつまらない言い訳が浮かぶ。

「まさか、こんな身体だからいろんなところでこっそり話を聞けるって、そのせいだと思うよ。」

納得はする。同時にそれだけではないのだろうとも思う。聞き流すだけで身につくようだ知識ではない。それ相応の労力ちからや時間をついやす必要があるはずなのだ。

「君の質問に全く答えてないな。指摘は正しい、そう社内システムに自分のPC名やMACアドレスを登録する作業など初期にしなきゃいけない作業は、各部門にいる社内システム委員という担当の人間が対応するんだ。」

「ふぅん。PCをネットに繋ぐのにある程度の手順踏まないといけないんだね。そうまでしてセキュリティって高くしないといけないものなの?」

「社内にある情報はその殆どが機密情報だからな。ある程度面倒臭い手順でも情報が漏洩ろうえいするよりはマシだと判断されることが多い、というよりおおやけの場で責任ある立場の人間は、情報が漏洩してもいいから手順を簡単にしろとは言えなくなっているっていうのが正しいかな。」

「そうなんだ、説明ありがとう。ジブンがいたからあの人達の会話から反れちゃったけど、あの人達の会話に耳をすませてみて。」

そううながされ、意識を二人の同僚の会話に向ける。


「まぁさ、言いたいことも分かるけど、規約にあるとおり申請してないんだろ。」

「だから緊急のお願いなんだろっ。結局、態々課長から一文書いてもらって対応させたんだけどさ。」

「まぁまぁ、こっちに言い分があるように向こうにも言い分があるだろうからさ。それでも一応事なきを得たんだったら、そんなにいきり立つなよ。なんか今日はいつにも増して絡むな。」

「あぁ……いきなり本題を切り出すにはちょっと話題が重くて。ちょっとした前置きのつもりだったんだけど、思った以上に熱くなっちまった。今日、飲みに誘ったのは、こんなことを話したかったんじゃなくて、さ…。」

「分かってるよ。倉木さんのことだろ。」

思わぬことにドキッとする。自分のいないところで自分の名前が出てくることなど予期していなかったためだ。そして身構える。どうせ当人のいないところで話す話など愚痴や陰口と相場は決まっている。実際、この二人は今しがた情シの愚痴を繰り広げていたのだ。会社の中でも特に気心が知れていると思っていた二人から、ののしられたりそしられたりするのはつらい。

そうは思うのだが、今まで以上に身を乗り出す心地で耳をそばだててしまう。

「あぁ、…田沼は正直、今回の倉木さんが会社を辞めたことをどう思ってる。」

「どうもこうもありえないと思ってるよ。倉木さんが何したって言うんだよ。確かに、上の方の決定に異論を唱えたけど、さ。」

「だよな。今回の件は酷すぎる。どう考えたってうちの会社が不義理を押し通そうとしていたからな。」

「あぁ、邪推じゃすいだけど、相手が発展途上国だと高をくくったか、足元を見たか、もしくはその両方としか思えないんだよな。そのくせ相手の状況を、相手に負い目と思わせるみたいな手段で責任転嫁しつつ、ね。」

「だな。それを正そうとした倉木さんに辞表を書かせたってことだからな。まぁ邪魔者を排除するって意味でも、周りへの見せしめって意味でも効果的だったよな。やり方は最低で最悪だけどな。」

「あぁ、その通りだと思うよ。でも篠崎はもっとそのことについて怒るのかと思ってたよ。」

「……理不尽とは思うさ。」篠崎は、少し置いた間を珍しく自虐的な笑みで埋めてから続けた。「でも、怒れる立場じゃないからな。上が下したその理不尽な決断に表立って反対することも出来ずに、ここでこうしてあれは間違ってるなんて愚痴を言うことしか出来ないんだから。」

「そういう考え方は篠崎らしいな。でも、なんでそこで自身の立場をかんがみて筋を通せるのに、うちの情シの立場を考慮して寛容かんようにはなれないのかね。」

「寛容じゃないのは認めるけど、うちの情シに対してかかえているのは怒りではなく不満のつもりだ。俺自身が明確に区別出来てるか怪しいし、田沼に愚痴をこぼすって結果は結局変わらないんだけどな。」

田沼は苦笑いで応じて、言葉を足す。「同期のよしみで愚痴ぐらいは聞くけどさ。…ごめん、話を脱線させた。」

「あぁ、そうだったな、倉木さんの件だ。俺は今回のことで倉木さんに辞表を書かせるよう仕向けたことを許せないと思ってる。そしてそれと同じくらい、倉木さんが進めていたプロジェクトの計画を変更したことが我慢ならないんだ。」

田沼は頷いただけで先をうながす。

「うちの会社にいる奴らは誰だって職務をまっとうするために頑張ってる、それこそ情シの奴らだって。そんなことは当たり前のことで今更口にするようなことじゃない。それでも倉木さんが積み重ねたものは誰しも認めるところだろ。諸外国でプロジェクトを推進するためには、国際規格であるEMS(環境マネジメントシステム)を取得しているほうが聞こえがいいからって取得の中心になって、ついでにその勢いで資源エネルギー庁の入札に参画できるからって、結局EnMSエネルギーマネジメントシステムまで取得して。簡単についでって倉木さんは言ってたけど、実際ついでで取得できるほどISO認証って楽ではないだろ。その上、毎年の外部審査の対応の中心も倉木さんがになってた。」

「それはその通りだと思うよ。数字だけで判断する上の面々の覚えも良かったくらいだから。今回の件では返ってそのことが悪いほうに働いたけどな。うちの連中の中には倉木さんを目標にしている奴は沢山いそうだよな。少なくとも俺と篠崎はそうだしな。」

「俺、そんな話を田沼に話したことあったけか?まぁ実際そうだけど、さ。ただあの時から、少し倉木さんの様子が変わった気がするんだ。そりゃ当時の倉木さんの様子は痛々しかったけど。その後立ち直ってから、少なくとも立ち直ったように振舞うようになってから、上手く言えないし、馬鹿みたいな表現なんだけどさ。不退転の決意って印象を抱くようになった。あんまりプライベートなことを話してくれる人じゃなかったから詳しく何があったのかは分からないけど。そして資源エネルギー庁公募の天然ガス埋蔵量調査であの国に行って帰ってきてから、更にその印象が強くなった気がするんだ。」

「いや、俺もそう思うよ。最初は切羽詰った案件のせいで、珍しくピリついているのかとも思ったんだけど。そうじゃなかった。案件が片付いてもその印象は変わらなかっもんな。だったらあの件を引き摺っているのかとも思ったんだけど。実際、引き摺ったって可笑しくないんだけど。痛みとか悲しみは吹っ切ってるみたいでも、何か思いつめる顔をするときはあったよ。言われてみれば、あの国から帰ってきてからその回数は増えたような気がするんだ。篠崎は馬鹿みたいなんていうけど、俺も不退転って言葉はしっくりくる気がする。」

「田沼もそうやって感じてたんだな。その不退転の印象を強くした倉木さんが立ち上げたのがあのプロジェクトだった。倉木さんがあの国で何を見聞してきたのかは知らないし、どうして思い立ったのかも分からない。でも倉木さんにとって、あのプロジェクトは、あの国であの場所で進めることが重要だったんだと思う。だから、上が決めたプロジェクトの変更にあんなに強硬に反対したんだと思うんだ。」

「…でももう、あのプロジェクトの変更はくつがえらないところまで進んでしまっている。」

「そう、別物になってしまったあのプロジェクトでは、俺達は純粋に倉木さんの意思を継ぐことは出来なくなった。たださ、もし倉木さんがどこかで、あの国でのプロジェクトを再開することがあったら、俺は協力したいと思ってる。」

「…会社に背いてもってことか。」

「今回、倉木さんを擁護ようごすることすら出来なかった俺が、その時にちゃんと決断出来るかなんて怪しいもんだけどな。少なくともそうしたいとは思ってる。」

「…俺が、どうするかとは訊かないんだな。」

「既婚者の田沼を巻き込めないだろ。話したのは、情けないけど言葉にしてしまえば引くに引けない状況になって決意が揺るがないんじゃないかと思ったからなんだ。」

「なるほど。でも篠崎だけに格好つけさせるのはしゃくだから、その話に俺も乗ろうかな。さっきも言ったろう、倉木さんを目標にしているのは篠崎だけじゃないんだ。」

「それは田沼の奥さんに恨まれるから勘弁してくれよ。最悪、会社を辞めなきゃならないことだってあるんだ。」

「俺の奥さんは、そんなことで恨み言を言うほど小さい人間じゃないよ。それに俺の稼ぎが無くなったら、私が食べさせるからいいわよって言ってくれるような出来た嫁なんだ。」

苦笑を滲ませた篠崎が漏らす。「なんだよ、のろけかよ。全くこれだから幸せなやつと飲むのは面白くないんだよ。」

「そうだぞ、できた嫁を貰うと頭が上がらなくて、尻に敷かれるんだぞ。幸せ者は苦労が絶えない。」

二人は飲みかけのジョッキをコンッと合わせて笑いあう。


俺は一緒に笑える気分にはなれなかったが。

交わした約束はもうどうあっても守ることが出来なくなった。それをただただ思い知らされ、ただただ打ちひしがれる。

「ねぇ、もしかして、今の話を落ち込むような話だと思っているの?」

音も無く板張りの床に降り立つと、うつむくしかなくなった俺に長髪の少年がのぞき込むようにしながら問いかけてくる。

「それ以外の何だっていうんだ。プロジェクトが別の場所で進められることが決定したって、そういう話だろ。」

どうしたって、語気が強くなることをおさえることは出来ない。

「そうした話でもあったけど、あなたにとってそれは予想通りでもあったんじゃないの?だから今の話のきもはあの二人があなたに力を貸してくれるってところでしょ。」

さも当然だとでもいうように、首をかしげて見せる。

「あんなの酒の席だけの話に決まっているだろうがっ。それを真に受ける馬鹿がいるかよっ」

八つ当たりだと自覚していても、自覚していながらも怒りをぶつけられるのはこの少年しかいなかった。

「あなたの知っているあの二人は、そういう話を軽はずみに話すような人達なの?あなたが信用していた二人なんでしょ。」

「仮にそうだとしても、二人が協力してくれたとして何が出来るっていうんだ。俺が目指していたのは天然ガス採掘事業なんだぞ。個人で、少人数でになえるような規模の事業じゃないんだよっ」

周りに気付かれないのを良いことに、声量の限り叫ぶ。

「そうなんだ。でもジブンはあの二人は氷山の一角なんだと思ってるんだけど。あなたが会社に勤めるようになってから15年。その期間で築いた人脈はそんなに小さくてもろいものなの?」

「幾ら築き上げた人脈があったとしても、利益度外視で協力してくれるような奴がそうそういたりするもんかっ。俺が築いた人脈は仲良しこよしの仲間じゃないんだよ。お互いが有益だから協力関係が築けただけだ。仕事の繋がりっていうのはそういうもんなんだよっ」

付け足した言葉は言い訳じみてむなしく響く。

「ふぅん。なら相手にも有益なら協力してくれるってことでしょ。そういうのってあなたの得意分野じゃなかったけ?あなたが発案する企画は参加した誰しもが有益になるように配慮されていて、毎回そうやってきたからこそ、太い人脈を培ったんだと思ったんだけど。あなたはよく口にしていたじゃない、『おれは方便とか誇張が苦手だから、嘘のない仕事をするんだ』って。」

「……」

呆気にとられる。この少年は何もかもを知っているのだろうか。自分が口にした言葉を他人の口から聞かされるという気恥ずかしさも、その言葉から自身が遠ざかりつつあるという後ろめたさも手伝って、発する言葉を見つけられない。

「気恥ずかしさは知らないけど、その後ろめたさを感じるにはまだ早いんじゃない?まだ、終わってないでしょ。」

長髪の少年にまたもや心を読まれて、追い討ちを掛けられる。

「まぁいいや。じゃあ次に行ってみようよ。」

「ここで終わりじゃないのか。」

もう沢山だと思った。どうしようもないのだと思い知らされるのは。

「だって、あなたはあなたのことがまだ分かってない、みたいだから。」

これ以上、何があるって言うんだっ

「そういえばショーセイ、後半何も言わなかったね。別に寝てるわけでもないのに。」

俺の心の叫びを無視して、これまた音も無く長髪の少年の足元に降り立った猫に話しかける。

「ふんっ、小生が何を言ったところでおんしは自分のやることを曲げるつもりなんぞないだろう。なら口をはさんで、余計に時間がかかるのも馬鹿らしい。小生はとっとと終わりにしたいのだ。」

「ごめんね、ショーセイ。」

「だから、悪いと思っていないなら……、もういい、さっさとしろ。」

「うん。ああ、そういえば倉木さん、あの二人の会話の途中で出てきたISOだの、EMSだのって何?後で説明してくれると嬉しいな。」

そんな声を最後に俺の意識は、また落ちて途絶えた。



【幕間ーショーセイの身の上話 其の二】

おんしは小生とアヤツの会話の中で違和感を感じるところがあるだろう、か。

ないなら、それはそれで構わないのだが。

違和感があるとしたら、先の小生の説明が足らなかったということなのだろう。

それを補填ほてんしておこうと思う。

小生は先ほど死神になる者のことを語ったが、かといってアヤツのような境遇きょうぐうの者ーー何かを救うために自ら命を絶った者、命を落とす覚悟で行動した者ーー皆が、必ずしも死神になるとは限らないのだ。

死神になるためには、一つの条件がある。それが生前の記憶を奪われるというものだ。それを承諾すれば死神となり、拒否すれば自殺者と同じように罪を雪ぐことになる。

死神の任は時に、残酷な決断を迫られることがあるんだそうだ。その時に、まかり間違って誤った判断なんぞしないように、判断がにぶらないように記憶を奪うそうだ。人間とは血縁の人間や知り合いにどうしても甘くなるらしい。

記憶を奪われて尚、甘い判断しか出来ないアヤツは一体どうなっているのだろう、と思うが。そのせいで小生まで役立たず呼ばわりされたりすれば、尚更その疑問は強くなる。

そんなわけで、小生がアヤツに自ら命を投げ出したことを責めても、覚えていないと言いながら謝ってくるだけなのだ。

信念があったとかなんとか、そんな言い合いが出来れば、張り合いもあるのだが。

そのくせ、自ら命を投げ出そうとする者を引き止めようとし続けているのだ。なんとも皮肉なものだ。



【第三章】

ここは?

またもや、意識が覚醒した時には目に映る光景は一変していた。

鬱蒼うっそうと木々が生い茂り、日没後の闇を更に、濃く深いものにしている。色合いをなくした木々はそれでも形状を浮き立たせて存在を打ち鳴らす。

その森を粗末な小屋の窓から漏れるオレンジ色の光が、僅かばかりに照らしている。深く濃く延々と広がる闇を払うにはあまりに心許こころもとない光ではあるが。

そんな中にあって、特徴と呼べるものを見つけるのも難しい。

夜になると不気味に見える森など世界中の至るところにあるだろう。

にも関わらず、俺は知っている、と確信めいた思いで最初に抱いた疑問を自ら晴らしていた。木々全ての根の張り出し具合を、幹の節くれ具合を、枝の伸び具合を、葉の繁り具合を記憶している森などありはしない。それでも懐かしさを覚えるのだ。何がそうさせるのかと、自問すれば、目に写る全てがと答えるしかない曖昧さなのに。

この一人と一匹が所縁ゆえんのない所に連れてくることもないのだろうしな。

「ここはあの場所の森か。」

喉に引っ掛かって掠れ震えた声が、俺の意図に逆らったかのように漏れるつぶやき。それをどこか他人事のように聞く。

紛争で傷つき、誰もが何を得るでもなく、失っただけの争いがただ争わなくなったというだけの終焉を向かえ、それでも、そこに暮らす人々の生活が改善されるきざしすらなく、戦災復興の名で呼ぶのすらはばかられる、片付けだけがのろのろと進むだけの国。

その国に訪れた時に立ち寄った採掘予定地と定めた場所からほど近い村。そのはずれにあった、集会所の前だと。

少年は首をかしげて見せる。

見たままでしょと、その仕草が物語る。

「どうして、ここに?」

「どうしても何も、ここが約束の場所でしょ?」

そう言われてしまえば、返す言葉はない。そうここが約束の場所なのだ。約束を交わした場所であり、約束を果たすべき場所でもあった。でも、もう約束を果たすことは叶わないのだ。だからこそ、命を賭した嘆願たんがんなどといったことを考えたのだ。

なぜ、ここへ。

「そんなの決まってるでしょ。あなたが聞かなきゃならない声は、ここにこそあるんじゃない?」

聞かなきゃならない、でも、今はもう聞きたくない声だ。上手くいっていた時は、励みになった、でも、今はもう…

「それは、ずるいよ。都合が悪くなると逃げ出すって、あなたが最も忌避きひした行為じゃないの。」

うるさいっ、しょうがないだろ。」

「そんな勝手が通るの?あなたのもたらしたもので変わりつつある人たちが、今、どうなっているかを見届ける必要があるでしょ。その顛末てんまつからすら目を背けるなら、他の誰かに行く末をゆだねるなんて、どだい無理なんじゃない?」

何度目だろう、言葉を失う。全う過ぎる正論が俺を切り刻み、い付ける。

「暫くこの村の人達と顔を合わせてなかったんでしょ。気になったりはしないの?」

声のトーンを幾らか落として、長髪の少年は言葉を続けてくる。

「それは、気にはなるけど。顔向け出来ない…だろ。例え少年のおかげでみんなに気付かれないのだとしても。」

「でも聞くべき声はきっとここにあるよ。」

それは、そうなのかもしれないが…

「ええい、まごまごと面倒くさい奴だの。とっとと聞くべきことを聞かんか。」

猫が飛び掛って俺の胸に体当たりをする。

うわっ、情けない声を上げる。情けないことにこの程度のことでよろけ、小屋の方へ倒れこむ。気付けば、情けないことこの上なく上半身を小屋の中、下半身を小屋の外に残した四つん這いの姿勢をとっていた。

目に飛び込んできたのはオレンジ色の灯りの中、懐かしい顔ぶれ、五十人ほどが一人を除いて同じ向きで座している光景だった。

遅まきながら、一瞬で少なくとも俺にとってはまたたく間だったと思える時間で、遠く離れているこの地にやってきたのだな、そんなことに思い至る。今更不思議に思うのも馬鹿らしいが。

一人だけ違う方向、一同に向かって座す初老の人物ーー村長むらおさーーが語りかけている、ように見える。

「…☆♯@$■△*▼∮∽♯@$■△*▼∮∽」

何を言っているのかを理解することは出来なかった。

この国に赴任していた際も、彼らの言葉を理解することが出来ず、通訳を通じて意思の疎通をはかっていたのだ。この状況で俺に何を聞かせるつもりなのだ。俺は姿勢を変えずに首をひねって長髪の少年をめ上げる。

「…皆に集まってもらったのは、伝えねばならないことがあるからだ。」

少年の口から言葉が紡がれていく。

それは、長髪の少年の意思が言葉になっているというよりも、ただなぞらえて口をついて出ているように感じられる。

ご都合なことばかりが起きているが、少年がウルドゥー語を理解できるなんてそこまで都合のいいことが起こるのか。いや仮に都合の良いことがおき続けているのなら、俺がウルドゥー語を理解出来ても良さそうなものだろう。

「阿呆、おんしの身体を幽体にすることで全てのことが叶うわけが無かろう。言語なんておんしらの都合で作ったものの全てをアヤツが理解できているだけでも、有難がたがるべきであろう。」

高飛車な物言いが心なしか増して聞こえる。…そうかそういうことか、思い至ってしまえばなんとも愛らしい理由で、思わず笑みが漏れる。

「何が可笑しい。おんしに愛らしい等と思われる謂れはないぞ。」

「いや、少年を悪く言われると口を挟んでくるんだな。なんだかんだ憎まれ口ばかりでも、ちゃんと少年のことが好きなんだと思ってな。」

「なんだそれは、小生とアヤツは好きとかそういった感情で繋がっているわけではないわ。大体そんな情けない格好で言ってもまらん。」

お前が体当たりなんかするからこうなったんだろうがっ。

そっぽを向く姿が可愛らしくて、声を荒げることを思いとどまって、素直に立ち上がる。

「小生を愛らしいとか可愛いなどと表現してくれるな。小生には凛々しいとか孤高とかが似合うのだ。大体そんな余計なことを考える暇があればアヤツの声に耳を傾けろ。おんしが聞くべきを声を、態々アヤツがおんしに分かる言葉に訳して喋るのだ。」

分かっている、目を背けたくて耳をふさぎたいものしかないのだとしても、そう、確かにここには聞かなければならない声がある。

おかしなもので、ここに連れてこられてからもも四つん這いの姿勢のままでも固まらなかった耳を傾ける心構えが、彼らを見渡せる場所で立ち上がった今は固まった心地になる。まるでそれを待っていたかのように、集会所の会話は再開する。

「…聞きおよんでおる者もいるかもしれんが、天然ガス採掘所の建設の話が白紙になった。」

理解できる言葉を話してくれるのは、長髪の少年だ。それでも集会所に座す人々に目を向ける。淡々と話す長髪の少年の言葉から感情を読み取るのは難しい、口を開く人の表情から読み取らなければならないことも多いだろう。それに声を上げる人の表情かおを覚えておこうとも思う。

村長むらおさからは、重い扉をじ開ける時の軋みを思わせる重々しさが滲んでいる。

「村長がこんなところで冗談を言うとは思っていないが、それは本当なのか。カズヤはあんなに固く約束してくれたのに。そのカズヤが約束を破ったというのか。」

村の青年団の代表であるイシャーナが村長の言葉をこばむように声を張り上げる。カズヤと下の名前で呼ばれるこそばゆさと親しみを感じる響きが、申し訳なさを倍増させる。

「…残念だが、本当だ。カズヤの上司だという男から連絡があった。」

村長は釈明も謝罪もする必要などないのだが、村にとって悪いことを説明せねばならない立場上、村の皆が抱く不満を受け止めねばならないのだろう。そうした真摯しんしな想いが顔つきから感じ取れる。

「じゃあ、俺達はカズヤに騙されたってことなのか。」

今度は村の青年団の副団長であるヘイマーズが声を上げる。若く発言力のある二人が村長に対峙たいじする形で話が進むのは、自然な成り行きに思えた。

「騙されたのとは違うだろう。カズヤに何かを騙し取られたというわけではないのだ。わしらと交わした約束が果たされないってだけのことだ。そして思い出して欲しい、その約束ですら契約とかではなく、単なる口約束だったのだ。」

村長は非難めいた疑問に対して、丹念に返答する。

「確かに契約ではなかったのかもしれない。でも、カズヤの話を、口約束を当てにしていた奴らだって多いんだ。『約束が果たされないだけ』で済ませられる話ではないだろっ。」

語気を強めて再び声を上げたヘイマーズの言葉に、賛同したと思われる追随ついずいの声ーーその大半が青年団の一員のようだーーがちらほらと上がる。その内容までを態々長髪の少年は訳したりはしないが。

「もし仮にカズヤの話が実現していたとしても、採掘場の工事に着手するまでも数年を要し、採掘場が稼動するまでは十年弱の期間が必要なのだ。儂らの暮らしが即刻改善されるというようなものではない。採掘場が出来ようが出来まいが直面している問題への対処は変わらんだろう。」

村長の感情を廃して理性的に積み上げられる言葉を聞くと悲しさは増すばかりだ。この近辺にシェールガスが大量に埋蔵されている可能性を伝えた時も、天然ガス採掘場を建設したいむねを伝えた時も、非常に喜んでくれた一人が誰あろう村長なのだから。

「確かに言うとおり、急激に俺たちの暮らしが良くなったりするものではないのかもしれない。それでも未来には暮らしが保障されると信じられることが、どれだけ大きな意味を持つか分からないあんたではないだろっ。」

声を荒げ過ぎたと自らをいさめたのだろうか、幾らかトーンを落としてヘイマーズが応じる。。

「この土地に暮らさない人間がもたらしたものにすがっても、本当の意味で、安心した生活を取り戻すことは出来んだろう。」

本心なのかを疑いたくなるその内容をやっぱり悲しい気持ちで聞く。分かっているつもりだ、叶わなくなった希望にすがっているようでは、一つの村を取り仕切ることなど出来ないのだろう。俺が約束を果たさなかったことでこうやって希望や期待を奪っていくのだ、と。

「そんなの理想にまみれた詭弁きべんだろ。村長は本当にそんなことが出来ると信じているのか。俺はとてもそうは思えないね。外からの力、大いに結構じゃないか。俺たちが元の生活を取り戻すのに必要な力は、どんな力でも借りるし、頼る。それが悪いことかよ。」

ヘイマーズの再度、張り上げた声が集会所の空気を震わせる。そしてヘイマーズに同調する声は、さらに大きくなっているようだ。

「待てよ、ヘイマーズ。先ずは今回の件がなんで白紙になったのか、その理由を聞こう。ここの地下に大量のシェールガスが眠っているのは間違いないんだ。いずれまた採掘場建設の話が立ち上がった時に、計画が頓挫とんざしないために何が足りなくて何が必要なのかを知る必要があるだろう。」

イシャーナがヘイマーズをなだめるように声をかける。

「白紙になった理由だと、そんなの決まってるじゃねぇか。この国の紛争に怖気おじけづいたからだろ。もう紛争は終わっってるのに、やっと紛争は終わったのに。それでも外の奴らは、まだ争いを続けてると思ってやがる。だからこの国は危険だって、そういうことだろ。」

ヘイマーズが張り上げた怒声は、向けるべき相手を見失ったまま、近しい人々を切り刻むように空しく響いた。

「カズヤの上司は、もっと条件の良い候補地が見つかったためだと言っておったがな。」

その中にあって村長は身動みじろぎすることなく、口を開く。

おさよぉ、まさかその言葉を鵜呑うのみにして信じてるわけじゃないよな。どう聞いたって、ていの良い言い訳じゃねぇかよ。結局都合の良いことを言ってった割には、自分の身が可愛くて逃げ出すんだ。カズヤは信用に足る男なのかもなんて思ったのがそもそもの間違いだったんだ。」

ヘイマーズは振り上げた拳を床に叩きつける。ヘイマーズに同調する面々は、とうとう立ち上がって声を上げるようになっている。

「みんな一回落ち着けよ、これじゃ話し合いなんて出来ないだろ。」イシャーナが諫めると、立ち上がっていた多くが青年団の人間だったため、代表の声に一旦は大人しく座る。すぐにでも噴き出す危うさははらんでるように見えたとしても。そして続ける。「…おさ、さっきからおさの話だとカズヤの上司から話を聞いているようだけど、カズヤ自身はなんて言ってるんだ。俺達は日本の会社というより、カズヤと交わした約束だと思っているんだ。長の言うとおり例えそれが口約束なんだとしても。」

イシャーナはつとめて、穏やかになるように言葉を選んだように見受けられる。俺の知る範囲では、イシャーナとてヘイマーズほどでないにしろ、感情をあらわにすることが多い人物だった。青年団の代表という立場が理性的な態度をとらせるのだろう。

「…カズヤは、」ヘイマーズの言葉には微塵みじんも変化を見せなかった村長がわずかに渋面じゅうめんを作る。それは言いよどみとなって話す言葉にも表れる。「…カズヤは、自ら会社を辞めたんだそうだ。だから問い合わせてもカズヤにもう話を聞くことは出来なかった。」

それでも言い切って言葉を締めくくる時には、毅然きぜんとした態度を取り戻している。

「…なんだよ、それ。それじゃ、カズヤも逃げ出したってことか。」

呆然と中空に視線を投げ出して、イシャーナが呟く。

青年団の代表が、打ちのめされる。そのことが引き金となった。

「やっぱりかよ。俺たちの前では甘い事ばっかり言ってやがったくせに。いざとなったら逃げ出すじゃねぇか。」

そして、ヘイマーズの張り上げた怒声が皮切りとなった。

「やっぱり日本人なんかあてにならねぇ。」「冗談じゃねぇぞ、糞野郎が。」「裏切り者が。」「出来ないなら期待なんかさせんじゃねよ。」「あいつのせいで。」「これで変われると思ったのに。」「ふざけんな。」

全ての声が俺を切り刻む。そう、この声は俺へ向けられた怒り。彼らが抱いていた絶望を一旦は、払拭ふっしょく出来ると示しておきながら、それを叶えられなかった俺に向けられた叫び。きっと俺は卑怯だから、生身の身体でこの声たちにさらされていたら、今のように受け止めることは出来なかったかもしれないが。

「待て、怒るのも無理からぬことだろう。それでもただ怒りに任せて怒鳴るだけでは、何も解決しないだろう。カズヤと交わした約束は果たされない。でもそれはそれだけのことだ。カズヤにどんな事情があって約束が守れなくなって、どんな事情があって会社を辞めることになったのかは、分からん。分からんがそれはカズヤの事情であって、ここで生きていく我々には関係の無いことだ。我々は我々の生活を取り戻すためにどうすればいいかを考えなくてはならん。」

しわがれてなお通る村長の声は、暴徒の一歩手前といった様相の面々に対して辛抱強く切々と言葉を繋げていく。

「長、あんただって思ってるはずだ。カズヤさえ約束を守ってくれていれば、こんなことにならなかったのにって。」

ヘイマーズは涙をにじませて、叫ぶ。

「だとしても、だ。叶わない希望にしがみつくことにどんな意味がある?」

村長は再び、微かな渋面を作ってなお、目線を下げずに語りかける。

「意味?俺達は意味のないことをしちゃいけないのか?カズヤのことを信じていたんだ。カズヤの語ってくれることは疲弊ひへい仕切っていた俺たちの、この村の希望になったんだ。それが裏切られたのになげくこともするなって言うのか。紛争や内戦なんかやってる国の人間は裏切られるのにも慣れてるんだから。その程度のことで感情をたかぶらせたりするなって言うのか。」

イシャーナの怒号が集会所を震わせる。

「……」

毅然と青年団を中心とした面々を見返していた村長も、顔を伏せる。

「××××」「××××」「××××」「××××」「××××」「××××」「××××」「××××」「××××」「××××」

せきーー堰の役割をになっていた村長の制止がなくなってーーを切ったように、面々の怒りは際限なく溢れ出し、どこにぶつけることも出来ずに口汚い罵詈雑言ばりぞうごんとして吐き出される。

その奔流ほんりゅうは、この場にいる誰も意識せずとも俺への胸をえぐる。

「もうやめてよ、カズヤをこれ以上悪く言わないでよ。」バンッと集会所の扉を勢いよく押し開けて、少年が飛び込んできて叫ぶ。幼い絶叫は奔流に抗って響く。両の義足でなお、力強く大地を踏みしめながら。イファーズ、か、俺の呟きはただ少年の名前をなぞっただけになった。イファーズのうったえは続く。「カズヤは言ったんだ。必ず力になるって。今回のことはもしかしたら上手くいかなかったのかもしれない。それでもカズヤだったら、絶対何とかしてくれるはずだよ。僕はカズヤのおかげで歩けるようにも走れるようにもなったし、妹も右手で字を書いて勉強が出来るんだ。妹はカズヤに会う前はいっつも泣いていたのに、今は笑うんだ。また右手で字が書ける、ご飯が食べれるって。すごいよねお兄ちゃんって笑うんだ。そんなカズヤが僕らを見捨てたりするもんかっ。」

イファーズの叫びは奔流に対してあまりにも小さな波紋を投げかけただけなのかもしれない。ただ、奔流はこのまま押し流して掻き消してしまって良いのか、僅かな逡巡によって集会所の中に一瞬の静寂が落ちる。

「お前の義足も妹の義手も俺たちを抱きこむための、口実だったんだよ。所詮、物で釣られる馬鹿な奴らだと思ってたんだ、あいつは。」

その静寂を振り払うように、拒むようにヘイマーズが叫び返す。

「僕らが義足や義手を貰った時は、もうとっくにみんなはカズヤのことを信じてたじゃないか。そんな理由でカズヤは、くれたんじゃないよ。」

イファーズの必死に訴える姿が、さらに俺の心を抉る。

「ガキが、勝手に集会所に入ってきて、大人の話に入ってくんな。お前が持ってる期待とか希望とかそんなものは、もう何の役にも立たないんだよ。」

ヘイマーズは容赦なく、怒声を叩きつける。大人に向けられた怒りを受け止めきれずに、叩き潰されイファーズの肩が震える。まるで実際に腕を振り下ろされたように。

それを見て、ヘイマーズは苦い表情で顔ごとそっぽを向く。ヘイマーズは確かに感情的な男だが、普段であれば面倒見の良い男なのだ。幼き者達とたわむれる姿を幾度も見たことがある。

「長、もう今夜は話し合いなんか出来る状態じゃないだろ。帰らしてもらうわ。」

ヘイマーズが、沈んだ声で告げて集会所から出て行く。俺らも、その一言を残して青年団の面々が集会所を後にする。半数ほどになった集会所からはその後も肩を落として、徐々に人々が出て行く。入り口脇にうつむいてたたずむイファーズに気遣わしげな視線を送りながら、でも声をかけることが出来ずに。

最後まで残ったイシャーナと長が集会所の灯りを消すと、入り口から差し込む村からこぼれる灯りと、月明かりだけが集会所の中を微かに照らす。先に入り口に向かうイシャーナが項垂うなだれるイファーズの肩に無言で優しく手を置いて出て行く。その後を村長がイファーズの背中にそっと手を添えて、うながしながら、集会所から出て行く。

バタンッ

集会所の扉が閉まると、闇に包まれた。


取り残された心地で、その扉が閉まる音を聞いていた。

「…これが、俺のしでかしたことか。」

暫くの時間を要して、やっとそれだけを呟く。

「そうだね。あなたはこの村で、天然ガス採掘という大きな事業を展開させると約束した。そしてその約束が守られないと知った人達の戸惑いや怒り、嘆きは今、見たとおりだね。でもそれはしょうがないことでしょ。長年の紛争と内戦で畑を焼かれ、多くの男手を失った人たちにとって、天然ガス採掘場が建設されることは、この村再生の唯一の希望だったんだから。」

長髪の少年が、ただ事実だけを紡ぐ。それでも俺の心は抉られる。

「…こんなにも憎まれ、恨まれてるんだな…」

それ以上言葉を続けられない。

「倉木さん、また間違っているよ。ここで見るべきは村の人たちが怒っている姿ではないよ。だってこの村の人たちが怒っていることは、程度は別として、予想できていたことでしょ。だからその声に打ちひしがれることじゃなくて、重要なのは、それでもあなたを信じて疑わない人がいるってことだと思うけど。」

顔も見えない闇の中、温かくも冷たくもなくただ穏やかに長髪の少年の声が響く。

「…信じて疑わない人がいるからどうだっていうんだ。」

言い返せるほど、強くはいられない。

「それが分からないあなたではないと思うけど。あの子が抱いている想いを妄信にするのか信用にするのかは、あなた次第でしょ。」

変わらない穏やかさで俺を追い詰める。

「例え盲信になったとしても、そんなの俺のせいだけじゃないだろ。会社が更にリスクをさげるために計画の場所を変更したことだって、俺のせいじゃない。俺はここでやりたかったんだ。ここでやるべきだと思っていたんだ。」

逃げ場を失えば、反撃するしかなくて手当たり次第にものを投げつけるような心地で声を荒げる。

「集会所の誰かも言ってたけど、あの子も信じてるのは、見たこともないあなたが勤めていた会社のことなんかじゃなくて、あなたのことでしょ。」長髪の少年は、あっさりと首を傾げて俺の言葉をいなし、俺から言葉を奪うと続ける。「ねぇ、あの子はなんであなたを信じて疑わなくなったんだと、思う?」

俺の口から答えを言わせるためだけの問い。それが分かっていながらも、逃げ場を失くした俺は答えるしかない。

「あの子に最新の義足を、あの子の妹に最新の義手をプレゼントしたことが、…きっかけだろ。」

「だよね。でも贈り物をしたからあなたを信じているわけではないよね。贈り物をしたときあの兄妹はどうしたの?地雷で両脚をなくしたあの子と、同じく利き腕を失くしたあの子の妹は絶望の淵にあったはずなんだ。そんな子たちがあなたの贈り物で、どうしたの?」

「…笑った。」

「笑ったんでしょ?なんで笑ったのかも分かってるんでしょ?」

「…分かっている。」

あの兄妹が未来に希望が抱いてくれたからだ。沢山のことを話した、兄妹の生活のこと、そして村の未来のことを。義足や義手によって日常生活を恙無つつがなく送れるようになるのと同様に、天然ガス採掘場を建設することで村が潤い、立ち直るきっかけになると、明るい未来を語って聞かせたのだ。そこには嘘も誇張もなかった。俺自身がそうなると信じて疑っていなかった。だから屈託のない笑顔を向けてくる兄妹の目を見据えて語れたんだ。

「その抱いたくれた希望をなかったことに出来るの?」

「だとしてもだ、職を失った俺に何が出来る?」

「果たさなきゃならない約束って、立場が変わったからといってなくなるものじゃないでしょ?」

「企業という力がなくて事業など起こせるわけがないだろっ」

「協力してくれる人がいるかもしれない。話を上手く進めれば、さらにその協力者は増えるかもしれない。そして、この村近辺の地下に眠る天然ガスが消えてしまったわけでもない。何一つなくなってなんかないじゃない?」

「じゃあ、具体的にどうすればいいっていうんだよっ。教えてくれよ。約束を守る方法を。俺はもう遺言を残して死ぬしかないと思ったんだ。」

「でも、それじゃもう叶わないって分かったでしょ。」

「俺は、会社の中でプロジェクトを進める以外の方法を知らないんだ。それ以外の努力の方法をお前が教えてくれるとでも言うのか。」

「ジブンには無理だね。ただ既に出来たことや出来ると分かっていることだけをやることが努力ではないでしょう?」

「それがいかに難しいことか分かって言ってるのか?」

「そぅ、だろうね。でも、難しいからっていうのは、やらない理由にはならないんじゃない。命を投げ出して約束を守ろうとするんなら、やれることなんていくらでもありそうだけど。」

返す言葉を失くして、項垂れるしかなくなる。

やれることはいくらでもあるだろう、でも俺にやれるのか。その自問が渦巻く。

約束を守りたい、彼らの生活を取り戻してあげたい、その気持ちに嘘はない。でも…。

「ねぇ、もう一箇所連れて行きたいところがあるんだけど、いいかな?」

物思いに沈む俺に長髪の少年が訊いてくる。

「ここまで勝手に連れまわしてきて、今更確認するのか。」

悪態で返そうとするが、言葉に強さが乗らない。

「それも、そうだね。」

微かに苦味の込もった声で、長髪の少年が応じる。

俺も長髪の少年も互いにかける言葉を失くして黙ると、「もうやっていることに口を出すのも馬鹿らしいが、アヤツ、どこからおんしの思惑通りなんだ?イファーズの妹の名前は確かシーザと言ったか。」呆れ声を猫が上げる。

「ショーセイ、そういうのを聞くのを野暮って言うんだよ、きっと。それにしてもショーセイってよく人間の名前を覚えるようになったね。昔は興味もないし、人間の顔の見分けなんかつかんわ、とかって言ってたのに。」

「煩いわ、おんしのせいだろうが。毎回毎回、小生を連れまわして人間と関わらせるのだ。嫌でも見分けがつくようになるし、名前も覚えるわ。」

そんな猫の声を最後に俺の意識は、また落ちて途絶えた。



【幕間ー序章の後、倉木と出会う前】

「ジブンのことを覚えてる?」

「…手品師の…お兄ちゃん。」

「ジブンのことを覚えていてくれたんだね。ならジブンがお願いしたことも覚えている?」

「…うん。」

「『あきらめないで信じていてね。』ってお願いしたよね。シーザは、分かったっていってくれたはずなんだけど。」

「…」

「今、しようとしているのは何?」

「だって、左手だけじゃ、…字を書くのもご飯を食べるのも上手く出来ないんだもん。それに皆がそれを…馬鹿にするんだもん。」

「でも、だからって死んで良い事にはならないよ。それにお兄ちゃんを一人ぼっちにするの?」

「…お兄ちゃん。」

「もう一回言うね。諦めないで信じていてね。必ずシーザが不便と感じていることも、悲しいことも解消されるから。」

「なんでそんなことが言い切れるの?」

「ジブンは、予言も出来る手品師なんだ。」

「ヨゲン?」

「そう、予言。未来に起こることを言い当てることが出来るんだ。シーザが苦しんでいることを解消してくれる人は、君のお兄ちゃんの苦しみも解消してくれるんだ。」

「本当に?」

「本当だよ。お兄ちゃんがそうなったら、嬉しいでしょ?」

「うん。」

「だから、もう少しだけ信じていてね。お願いだよ。約束できる?」

「うん。」

そう、これもこれだけの会話。



【第四章】

ここは…

三度みたび、目を見開くとまたもや広がる光景は一変していた。

そして何処なのかを一瞬で理解して、一気に視界が滲む。

「ここが何処だか分かる?」

嗚咽おえつによって、声を出せない俺は内心で応じる。分からないわけがない。どんなに様変わりしていてもここは俺の生まれ育った場所だ。

「そう、あなたの故郷だね。」

そうだ、地震と津波によって全てが破壊されていようとも、ここは俺の故郷だ。なんでここに連れてきた?

「あなたが目をそむけようとしていることを、思い出して欲しいと思って。」

俺がこの惨状さんじょうから目を背けているというのか。それとも奪われたものを忘れようとしているとでも言うつもりか。

「そんなことを言うつもりはないよ。あなたはあの震災で沢山のものを失った。あなた自身は都心にいたおかげで大きな被害に見舞われることはなかったけど、あなたの両親も兄弟も友人も亡くなって、育った家も跡形もなく、こうしてその家の基礎部分が残っているだけだ。」

だったらなんなんだよ。俺にこれを見せてどうなるって言うんだっ。

「ここにあなたの心残りがあるでしょう?」

…心残り…

「そう、心残り。震災の後、あなたは奪われたものが多すぎて、この街の片付けや復興に殆どたずさわれなかった。それを責める人なんて誰もいないけど、あなたにとっては悔いの残ることだったんでしょ、そしてそのことを、あなた自身で許せていないんだ。でもだからこそ、理由は違うにしろ、ここと同じように沢山のものを奪われて、それでも再生を求めるあの村に手を差し伸べることに躍起やっきになったんじゃないの。あなたが心残りの解消のためにやっていたなんて言うつもりはないけど。でも故郷と重ねたあの場所の再生の約束を放棄することは、故郷を見放すに等しいんじゃない。」

………

「だってね、あなたがあそこでしようとしていたのは、まさしく再生のための足ががりづくりでしょ。きっと天災にしろ戦災にしろ、それに見舞われた人たちは、いつか復興から日常の生活へ移行していかなければならない。そのためにはそこに暮らす人々が、そこで暮らすために必要な物を生み出せるようにならなきゃならない。あそこに採掘場があって、あそこに暮らす人々が採掘場で働くようになるんだったら、まさにそういうことでしょ。そうなることで、あなた自身も救われる気がしていたんでしょ。」

………分かってたんだ。分からないわけがない。あの村を救うことは俺自身を救うことなんだってことは。でも会社という後ろ盾を失くした俺には、何もない。だから、俺の命一つで何とかなるならと思って、あの屋上に行ったんだ。実際やってみれなければ、結果は分からないだろ。

「命を懸けた嘆願たんがんなんて方法をとったところで、会社が方針転換してくれるとは限らないでしょう。そんな淡い期待にかけてどうするの?それで方針転換されなければ、無駄死になんだよ。その結果残された人たちはどうなるの?あの場所に採掘場は出来ない。もしかしたら、あの村の人たちだけでたくましく再生を成し遂げるかもしれないよ。でもそれは、採掘場があるよりもきっと困難で長い道のりになるんじゃない?あなたならあそこに採掘場建設を実現できるかもしれない。だってそういう計画を立てたんでしょ。そしてその実現を誰よりも願ってるのはあなただけなんだよ。」

………

「それとね、忘れて欲しくないことがもう一つあるんだ。ここであなたが強く思ったことを覚えてる?」

………覚えてる。

「あの時、この場所で凄惨せいさんなあの光景を見て、大事な人たちを根こそぎ奪われて、その時に一緒に死んでしまおうではなく、みんなの分まで生きてやるって決意したあなたは、自殺なんて方法をとっちゃいけないんだと思うんだ。『お前らが生きられなかった未来に俺が連れてってやる』って思ったんでしょ。『お前らが生きた時間ぐらいの意味を、俺の人生にも持たせてやる』って思ったんでしょ。」

………その通りだ。

「唐突に人生をやり直すことが出来なくなることがあるって事を知っているあなたは、やり直せることがどれだけ貴重なのか、が身にみているでしょ。」

どこまでも穏やかなのに、どこまでも優しくない声が俺の耳を打つ。

まだ漏れ続ける嗚咽で声は出せないが、代わりに拳を強く握り締める。決意も一緒に固まってしまえと、願いながら。



【終章】

ビルの屋上のへりに腰掛けて、空へと投げ出した両足をブラブラさせる。

なんとなく気に入っているこの姿勢で風に吹かれるのは悪くない。

その足の遥か下で、沢山の人がせわしなく行き交っている。そのなかに、横断歩道を小走りで駆けていく、倉木さんの姿を見止める。

「こんな遠くから態々、倉木の姿を見るんだか。大体、本当にこれで良かったのか?」

ショーセイがジブンの横で丸くなりながら、億劫おっくうそうに声をかけてくる。

「良いも悪いも、自殺した人は一人もいなかったんだ。ジブンらに出来ることなんて何もなかったでしょ。だってジブンとショーセイにに与えられている役目は、自殺した人の魂の回収なんだから。」

幾分言い訳じみたな、と僅かに自嘲を覚える。

「おんしが手を貸したから、自殺を思いとどまったのではない、か。」

「突然、現れた者にちょっと手心を加えられたくらいで、思い止まるんだとしたら、それはもともと死ぬべきじゃなかったってだけなんだと思うよ。」

「あれを、ちょっとというのか。でも、なぁ、今度も余計なことをして回収する予定だった魂を回収出来なかったのだぞ。また役立たずと言われるではない、か。」

「その時はショーセイが役立たずといった人を、引っ掻いてくれるんでしょ。なら、やっぱり良いんじゃない。」

ふんっ、ショーセイが照れ隠しに鳴らす鼻の音は、心地良い。

「生きるってそれだけですごいことだと思うんだ。生きてきたどの時間でも、生きることを諦めてしまったらその瞬間はこないんだから。普通なことや良い事が続くだけであれば、生きることを諦めるなんてことはないのかもしれないけどさ。生きていくってそれだけじゃ絶対済まないから。生まれてきた奇跡だってすごいことなんだけどね。生まれてからこの瞬間までを生き抜いたことだって途轍もない奇跡なんだよ。だから誇っていいことだと思うんだ。倉木さんはただそのことをちょっと忘れてただけなんだ。」

「たとえ悪いことが重なろうとも猫であった頃から小生は自ら命を絶とうなどとは思わんがな。それにしても、それをおんしが思い出させてやったというのであれば、、やっぱりおんしの力で自殺を思い止まらせたってことではないのか。」

「そんなことはないと思うけど、ね。」

微かに笑いを含んだ言葉を、風が浚っていく。

-了-


最後まで、目を通して頂けているようでしたら、本当にありがとうございました。

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