ミコート自治州―――5
警戒を続けながら匍匐前進で森を抜けるのは体力よりも精神の問題だった。
常に何かに気を向けるという作業は精神をがりがり削り続けた。それでも、それでも常に理性は保たれた。冷静さを、胸に宿る炎を。発狂寸前の脳を常に保ち続けた。
その結果、
帝国軍の野営地へと到着した。
到着する頃には次の日の晩だった。損耗された精神を繋ぎ合わせながら森の中から、見張りのない場所から見た帝国軍野営地は巨大だった。流石2万5千の兵力だけはある。ここまで多くの人間が全員戦える人間だと思うと末恐ろしいものがある。森の中、木の上で隠行で姿を隠しながら眺める野営地は広大だが―――
―――ターゲットはあっさりと見つけられた。
大将という存在は常に狙撃や奇襲、暗殺を恐れて陣地の奥地、野営の場合で中央に天幕を張るのが常道だ。それは兵士に守られやすいからだ。だがこの野営地はその常識を覆し、天幕を森に近い位置に張っていた。まるで戦場へと駆けるのは自らが先であると言わんばかりに。
「第三皇子は英雄級の実力者……」
その話は本当だったか。それを理解する。
こんな位置で安全に眠れるのは単に自身の存在、その武に対する絶対的自信から生じるものだ。この相手は自分の腕前をもってすれば死ぬことがないと”確信”している、強者にのみ許された傲慢さ。
「……クソ……!」
それに、あの天幕が立っている位置は―――。
「コンッ」
狐が短く吠えるのと同時に哨戒中の見張りが接近しているのが見えた。怒りで少々気配を追うのを止めてしまっていた。カモフラージュクロークのフード部分に隠れている狐の頭を軽く撫で、
森の中へと隠れる。
◆
深夜まで数時間を完全に監視に回す。将軍からは行動パターンやそれに関する情報は一切ない。つまり見えた瞬間に殺せなければもうチャンスがないかもしれない。だからと言って焦って外せば、それで終わるのは俺の命だ。その辺の認識が大事なのが暗殺、そして―――狙撃だ。
森の中で比較的見張りが少ない場所を選び、短弓を握って弓を引き絞ったまま―――待つ。
到着した時間より数時間、常に観察しながら弓を構えたままでいる。
おそらく、二度のチャンスはない。それだけは確信できる。そもそも森を抜けられた時点で一種の奇跡なのだ。だから、与えられたチャンスは逃さないと決め、短弓を引き絞ったまま構え、殺気や気配を完全に殺す。狩りと同じだ。得物が通りかかるまで息をひそめ、そして確実に急所を狙い、撃つ。得られたチャンスの瞬間に一撃で仕留める。それだけだ。
もう、動物相手に何度も繰り返してきた事だ。
迷いはない。
そして数時間の監視の後に―――ようやく天幕が動く。
天幕の中に見える影が動き始める。ずっと全くと言っていいほど動きがなかった天幕の中だが、中の人物たちが動き始める。構えた弓の、矢を引く腕にさらに力を込める。一瞬たりとも抜けぬ気と緩められない力を維持し続けていたために腕にはもうほとんど感覚が残っていない―――精霊達が支援してくれていなければ今頃倒れている。
そして、天幕の入り口が開く。
そこから出てきたの銀髪の女性だった、服装からしてかなりの高位の身分の人物だ。だが知らない相手だ。即座に興味をなくす。次に出てくるのは初老の軍人……これも違う。次は騎士甲冑……これも違う。
次々と天幕から姿が出てくる。二人、三人と天幕から出てくる姿が増える中、
八人目でスケッチと一致する姿の人物が現れた。
―――迷うことなく射った。
深夜の闇に隠れる様に黒く塗られた矢は魔力などで生み出さず、街から待ちこんできた唯一の矢だ。二本目が存在しないのは二本目を撃つ事は不可能だからだ。故に持ち込んだ矢は一本だけで、そしてそれが持ち込んだ矢の全て。必殺の一矢であり、ミコートの運命を託した一矢。
弓の弦を犠牲に放たれた矢は風を切り裂き、風よりも早く天幕から現れた男の姿に―――
「殿下ァ―――!」
「ッ!」
皇子が吹き飛んだ。
「コンッ!!」
狐が離脱しろと吠えてくる。が、
「クッソォオオオオオオオオオ―――!!」
見た。見えてしまった。研ぎ澄まされた神経が何よりも過敏にその動きを察知してしまった。あの皇子は、敵は、標的は、狙撃される直前に笑っていた。
こっちを見て笑っていたのだ。
そして今、
矢を歯で受け止め、少し吹き飛びながらも致死の矢を完全に防ぎ切っていた。
「侵入者だ!」
「すぐさま捕えろ―――! 殿下を殺そうとした賊を許すなァ―――!!」
咆哮の様な声が響く。一斉に兵士たちが殺気立ち、得物を構える。その場にいる全ての―――2万5千の兵士全てが敵に回った。もはやどうにもならない。皇子の暗殺は不可能であり、そしてミコートの防衛は失敗した。逃げても俺は追われ、ミコートはすぐさま滅びる。だがここは一旦引いて、体勢を立て直し―――
―――退く?
待て、冗談じゃない。
「あぁ、冗談じゃないね……!」
カモフラージュクロークを二技捨てる。フードの中にいた狐が抗議と驚愕の声を上げるがそれを無視し、左腕に刻まれた刺青に魔力を通す。弦の切れた弓を魔力が覆い、それが変質し始めると同時に、右手に矢が生成される。
冗談じゃない。
逃げる?
逃げるだと?
森を壊した奴らに背中を見せる?
父の墓を荒した連中から逃げる?
冗談じゃない。
ここで逃げてしまったら”俺”という絶対的なアイデンティティーを崩壊させることになってしまう。父から受け継いだ森の民としての誇りを糞まみれの汚物にしてしまう。そんな事は絶対に魂が許さない。だからそう、
「―――森を穢す蛮族共が、父の墓を荒す恥知らず共がっ!」
弦の切れた弓は魔法によって作り直され、より上位の素材を用いた弓となる。昔に少しだけ街の知り合いに見せて、そして触れさせてもらった事のあるスピリットウッドの木、精霊に対する親和性が最も高い木の弓へと創造し、矢を弓につがえ―――射る。
全てが鉄で生成された矢はなによりも貫通力に勝っている。タメのない、速射ではあるが精霊達のバックアップ、そして魔法による補助で矢は高速で飛翔し、皇子を貫こうとする。
が、
「知れ者が!!」
初老の騎士風の男がそれを素手で砕く。鉄の矢、をだ。どちらにしろこの男も十分人外と呼べるような領域に踏み込んでいる。つくづく帝国の幹部たちは人間を止めていると思う。自分の命がもう長くはない事を悟りながら、
新たに矢を生み出す。殺される前に、
……最低でも後一矢……!
そんな覚悟をした瞬間、
「―――沈まれ―――!!!」
威厳を込めた叫び声が響く。殺気立っていた全ての存在が一斉に動きを止め、無傷の姿を見せる皇子に視線を向け、臣下の礼を取る。その存在に矢を向けるが―――指が動かない。無防備に、隙だらけのはずなのに、背中を冷や汗が流れ、矢を握る指を放させてくれない。全ての人間の視線を受けている事を自覚し、優雅に皇子は振る舞う。
「―――余は嬉しい」
此方を見る視線には確かな歓喜が満ちている。暗殺者の存在を認め、楽しんでいる。頭が狂っている。なのにこいつからは目が離せない。圧倒的カリスマに飲まれ、こいつになら負けてもいい、そんな気分が湧いてくる。それを鋼の精神で跳ね除ける。こいつはやってはならない事をやったのだ。
「余は今、命の危機に瀕している」
ふざけた事を抜かしやがる……!
そう思うが、この皇子は今、自分が殺されるかもしれないと信じている。そう、まるでこの世には絶対と言えるものは存在しない。それを理解しているかのように。
「余は楽しい。ワザと狙撃されやすい位置を作ったのは全てこうやって誘い出すため―――」
……クソ。
一さえも最初から把握されていたのだ。それは反応できるわけだ。来る場所が解っていれば後はタイミングの問題で、それもある程度絞り込める事だ。
「だからと言って実際にする者がまだ残っているとは思いもしなかった故にもう一度言おう、余は嬉しい、と。見よ我が敵手を! 余の命を狙っている! 余が圧倒的だと知りながら刃向う! 正規の暗殺者であれば失敗した瞬間に逃げる―――が、この敵は誇りで立っている。故に余はこの者を称賛しよう! 喝采せよ! 我が敵手に誇りあり!」
「―――イカレてる……!」
これが、これが帝国か! おかしい。頭がおかしすぎる。闘争を、敵と争うことを喜んでいる。それを純粋に恐怖ではなく圧倒的才気とカリスマ、見事に兵を率いている。覇王の道だ。こんな、こんな存在を、
対帝国連合軍は本当に勝てるのか―――?
皇子が剣を抜いた。美しい白い剣だ。その刃は真の力を解放されてないというのに、既に強大な魔力を発していた。おそらくその力の大部分が主に、この皇子によって封じ込められている。
「余の、グラナーダ帝国第三皇子シュバルツヒルト・フォン・ゲオルギアの名において、その無謀さを称え―――三射許そう。その三射の内に余の体に一太刀でも入れればそれをそなたの勝利として生還を許そう」
刃を構える様子は一切の慢心も油断もなく、全力で来る証拠だ。そしてその場にいる誰もがその皇子を信頼し、口を挟まない。この場において皇子の言葉が絶対であり、そしてそれが法である。覆せるのは皇子のみで、全ての忠誠を誓う臣下達は信じて結果を待つ。
異常な光景だが、
実に都合がいい……!
三射。
たった三射。
―――されど三射。
これが―――ラストチャンスだ。
「森に満ちる精霊よ……!」
魔力を込め、矢を放つ。魔法が発動し、速度、貫通力、そして殺傷性の増した矢は加速を受けて一瞬でシュバルツヒルト皇子に届かんとする。が、魔族の王子はそれを完全に見切っていた。目の前に迫ってきた矢を完全に両断する。
「一射目―――」
が、その瞬間には既に次の矢を放っている。全く同じコース。だが今度はさらに加速を得ている。一矢めを放った瞬間から既にその次の矢は準備にあった。
”爪弾き”という技術だ。
本命の矢を普通に用意しておきながら、薬指や小指で弦を弾く技術、それを弓へと転用した、エルフの指の器用さであるからこそ許された技術―――その矢が皇子を襲う。
「二射目―――」
それを皇子は叩き斬る。が、
「ほう」
叩き斬った矢の背後にはもう一本矢が隠れていた。全く同じ軌道で、前の矢に隠れる様に同時に射られた影の矢―――二重撃ち。
「良い。これをも二射目と認めよう」
人体に存在するはずの硬直時間を打消し、シュバルツヒルトは矢を叩き斬った。
「荒れ狂え精霊よ! 汝の居場所を荒す蛮族に森の怒りを与えよ―――」
最期の矢を生み出し、それで腕を傷つける。血の付いた矢が輝き一際強い魔力を、そして精霊の力が纏わりついて行く。血は対価として、生贄として捧げられ、
「供物は天高く捧げるべし―――!」
最期の矢が放たれるのと同時に弓が壊れ、矢が放たれる。その矢を見ながら皇子が笑みを浮かべる。
「良き闘争で―――」
刃を振るう瞬間を見切り、
「散華せよ!」
「ぬっ」
皇子の正面で矢が破裂し、幾多の鉄の破片となって皇子の正面からばらまかれる。素早くそれを剣で振り払う動作に入るが、それが皇子の体に確かに、小さな切り傷を生むのが見えた。
見えた瞬間、弓を捨てて、森へと向けて走り出す。
「見事……!」
同時に皇子が膝を大地につく姿も見える。
相手が強くて良かった……!
「貴様ぁ―――!! 毒とは誇りがないのかぁ―――!!」
騎士の怒りの咆哮が聞こえる。誰かが追ってくる。だが逃げる。相手が本当に強くて良かった。無駄に強さを持っていると避ける事をしなくなる。あんな風に皇子が絶対的な自信を持っている人物なら、絶対に防御に入ると確信できていた。
だから、
矢を破裂させる寸前で血を―――自分が知っている中でも一番の猛毒に変化させた。これでいい。そう、誇りがない等と言われても知るか。俺は目的は果たした。ざまぁみろ。
「俺の―――勝ちだ……!」
クロークを拾い、逃走を開始する。
◆
「止まれ」
素早く皇子が命令を下す。その動きを受けて追跡に入りかけた者たちの動きが止まる。
「追う必要はない。あの者は余に傷を射れた。そして余は皇族―――口約束であれ、いかなる約束でも破れぬ。故に放っておけ。今は余の敵手が再び余の前に立つ事を祈ろう。未熟だと侮りはしなかった―――完全な敗北である」
皇子はまるで毒の影響がないかのように立ち上がる。否、毒の影響がないのではない。
それは浄化されてしまったのだ。
皇子の握る聖剣の加護により、この皇子は如何なる毒を受けようともそれから即座に回復する。たとえそれが世界を殺す毒でさえも、聖剣を超えるだけの力がなければ聖剣の前では無力に等しい。故に、毒の使用に咎めはしない。寧ろ天晴と褒めたたえよう。
アレは、敵手だ。
あの若い暗殺者は明確に誇りを守るために手段を選ばなかった。
故に、
「ナターシャ」
「ハッ、お傍に」
「進軍を1日遅らせる。軍を動かし森を避けるルートで進め」
「……ハッ」
「狩りに出かけた者も呼び戻せ。此度の一騎打ち、余の敗北。敗者は敗者の矜持を持ってあの少年を称えよう。父君の墓を知らぬとはいえ荒してしまったか。あぁ、いかんな。死者を冒涜するような真似はいかんな。良い、余は敗北を許そう。そしてそなたの姿、しかとこの胸に刻み込んだ―――まだ咲かぬ英雄の花よ、余の敵手よ。次はこの汚名を勝利にて注ごう。良い、実に良い。余は楽しい」
―――帝国。
それはこの世に置いて最強と言われる国家。
そして皇族の順位とはすなわち、
総合的な能力による強さ―――その順番である。
第三皇子―――それは帝国皇族において、三番目に強いものを言う。
帝国はまだ、世界に恐怖を刻み始めたばかりだ。