ミコート自治州―――4
亀の様に鈍い行進だが、確実に前へと進んでいる。
服装は完全に隠密向きの、体にフィットするタイプの服装になっている。その上から緑のカモフラージュクロークを羽織り、全身を隠せるようにしている。昼であっても木々が日を遮る森の中ではこれだけ準備しておけば目をごまかす事が出来る。それでも匍匐前進で、大地に体を押し付ける様にゆっくりと動かなければ姿を捉えられてしまうぐらいには帝国兵の偵察は優秀だ。
「……コン」
光が一切存在しない闇の中、クロークの中に隠れている狐が耳元で小さく鳴き声を放つ。俺にしか聞こえないほど小さな声はこの闇の中で目が利く狐だからこその役目であり、合図を貰った瞬間大地に張り付くように動きを止める。息を、気配を、存在そのものを殺す様にその場でじっと動きを止める。
数秒後、足音が聞こえてくる。土を踏み、そして草を踏む足音。鉄の鎧が擦れる音、軍靴の足音。思考する必要すらない。帝国兵が警戒をしつつ見回りをしているに過ぎない。森の向こう側に本隊が存在するとはいえ、見回りをする部隊を森の中にはなっていてもおかしくないだろう。魔法による多重な結界が張られている事から、踏み出す一歩が全て慎重にならざるを得ない。
「……クン」
たっぷり数分が経過したところで狐が動き出していいと合図を送る。再び亀の様なゆっくりとした動きで深い森の中へと潜って行く。ゆっくり、ゆっくりと前に進んでいる間隔が無くなるような速度だ。だが、それでも前に、確実に前に進んでいる。水を飲む時間も、食べる時間も極力削って全神経を隠行へと向ける。
『コッチ』
『アブナイ』
『ドカーン』
『バラバラー』
『アブナイ』
精霊達がどこに魔導地雷が存在するかを告げてくれる。おそらく地雷という存在自体は知らないのだろうが、その構成から踏んではいけない物、危ないものだという事を察知して教えてくれている。この森に住まう精霊達は長年の友だ。彼らは俺に対して警告とアドバイスをしてくれている。森がこんなことになっててっきり既に逃げてしまったのではないかと寂しい思いをしていたが、そんな事はなかった。彼らはここで生まれ、此処で死んで行く。森と共に運命をするのが彼らだ。彼らはここで待っていてくれた。その姿に感謝する。
狐の夜目、精霊達の魔法探知、そして俺の隠行。この三つを持って確かめながら森を進む。
森の中にはもう動物の気配は感じられなくなっている。おそらく食料として帝国軍に狩られてしまったのだろう。2万5千の大軍を維持するための食料を現地調達である程度賄うのは良くある話だが、それでもこの森は―――もう二度と元の生態系を取り戻す事はないだろう。
『イタイノ?』
『カナシイノ?』
『トンデケー』
『ダイジョウブ?』
知らずの内に唇を噛んでいた。血の匂いは強く鼻につく。その匂いが散らばる前に素早く唇を舌でなめ、唾液で匂いを隠す。素早く辺りを警戒しながら、周りの様子を浮かべる。ここにもし、鼻の利くの獣人がいればこの匂いで所在がバレてしまうかもしれない。そんな愚かなミスだけは回避したい。見つかった理由が自爆だなんて恥ずかしすぎる。精霊にも将軍にもあの世の父にも顔見せできない。
だから気配を確認し、狐から何もない事を安全だという事を把握し、
再び匍匐前進で動き出す。
余計な匂いを体に付けないために食料などない。
体を軽く保つために水も最低限の分しかない。
正直な話、このペースで進み続けた場合―――おそらく体は持たない。
まだ未熟な体でありながら無理をして通せば待っているのは確実な破滅だ。魔法を使って治療でも、森の気で身体を活性化させたいところだが、それも使用したら気配でバレてしまう。だから補助魔法でさえ使えないのが今の状況だ。
普通なら確実に死ぬ話だが、
「コンッ」
「……」
狐に接近を伝えられ、動きを止める。カモフラージュクロークがある程度接近しても景色へと溶け込むようにごまかしてくれる為、ある程度の安心を持って隠れるが、警戒だけは怠らない。
距離が近い。
声が聞こえてくる。
「―――トの方はどうだ」
「定期的に報告は来ている。籠城の様子を見せている」
「やはりか」
「あぁ、それ以外に選択はないだろうな」
二人組の魔族だった。話をしながら回るだけの余裕があるようだ。前方からやってくる姿がまっすぐこっちへと向かうコースとなっている。少々ヤバイかもしれない。が、話題となっている事は若干興味深い。此方を見つけない事を祈りながら声に耳を向ける。
「それにしても皇帝様は一体どうしたのだ。ほとんど無抵抗の国を蹂躙するようなお方ではないはずだぞ」
「それは我々軍人の考える事ではない。戦争の理由は皇帝様が考える事であり、プロパガンダは政治や連中に任せればいい。俺達兵士は盲目的にそれに従うのが仕事だ」
「それは……」
「思考放棄と職務の遂行は違う。我々は望まれた繁栄の為に全力を尽くせばいい」
「まあ、そうなんだが……」
……中々興味深い話だ。
全ての兵士が心から皇帝に対して従っているわけではないようだ。ただ不満はあっても忠誠心は高いらしく、そこから切り込むことはどうも無理そうだ。そこらへん、意識の問題なのだろう。戦勝国と、これから滅ぶかもしれない国との間の、絶対的意識の差。兵力も練度も技術力も相手が圧倒している。繁栄は約束されている。次がある。故に恐れはない。死兵にだってなれる。
……勝てる要素がない。
装備の充実も交易都市という点を見ればミコートもかなり充実しているが、帝国はそこらへんも充実している。それ以外の要素で負けているミコートが勝てる可能性はない。
だから、こうやって必死に命を削っている自分がいる。
……あぁ、負けてたまるかよ。
『ガンバレ』
『ガンパレ』
『ガンホー?』
『ガンホー!』
森の精霊達が勇気づけてくれている。背中に感じる狐の存在がまだ自分が生きている事を知らせている。そう、俺はまだ生きている。そして生きているという事はまだ動ける。そして目的を果たせるという事だ。ならば、まだ体を動かさなければならない。任務を受け、そして目的を果たすためには―――手足がなくなっても、歯で射ってみせる。
「……異常なし!」
「異常なし、此処も大丈夫そうだな。探知の方はどうだ?」
「問題ないな。密偵の話じゃ何やら暗殺者を送りこんだらしいが」
「正直俺達よりも強い皇子相手に護衛が必要か疑わしいな」
「ま、仕事は仕事だ。手を抜く理由にはならない」
「だな。次は西の方を見るか―――」
そう言って此方へと向かわず、途中で違う方向へ向かい始める。その姿に少しだけ胸をなでおろし―――再び匍匐前進での移動を開始する。動きはゆっくり、なるべく森の中に存在していたという痕跡を残さないために、進む時は絶対に草を折らない様に気を付ける。
『エッホ』
『ガンバッテ』
『テツダウヨ』
『カクレロー』
『カメレオン?』
精霊達が勝手にフォローしてくれている事に感謝する。ここで生まれ、育ったことは決して間違いではなかったと教えてくれる。
―――待ってろ、帝国……!
歯を強く噛み、森の奥へと向かって牛歩の如く行進を続ける。