ミコート自治州―――1
旧暦358年より20年間続いた地獄の様な泥沼の戦争を人はその規模から大戦争と呼んだ。それはそれ以上につける言葉が存在せず、人々はその戦争を過去最悪の戦争と呼ぶ。世界最大規模の帝国、グラナーダ帝国をはじめとし、フェルガ公国、そしてホウジン皇国の連合は突如として残りの世界に対して侵略を宣言した。従うか否か。その問いに対しての返答はもちろん否。これに対して世界最大の宗教国家ゼラグナートはエイリック共和国などと連合を組み、まだ巨大化を始めたばかりの帝国連合に真っ向から勝負を挑んだ。多くの中小国がその脅威に振るえる戦争はここに始まった。
後期に進むにつれて巻き込まれる国が増えたこの戦争は、領土拡大を狙った帝国の思惑としては成功と言って過言ではないだろう―――帝国の支配者、暴帝が討たれるその日までは。
戦争は帝国のトップが討たれたことにより急停止を得て、終わりを告げる。
これはまだ戦争が泥沼化が始まる前の、戦争初期の物語。
まだ男が少年だった時の話。
初めて戦場を知った話。
とある田舎に存在する自治州が帝国に抗った、小さな物語。
後の世に語り継がれる事のない英雄の、初の武勇の物語。
◆
部屋の中で、樫の木の椅子に背中を預けながらテーブルの上に広がられた情報を確認する。報告書には敵の様子や得物、編成が書かれている。だが今一番の問題はやはり人数の差であり、この小規模の自治州、ミコートに万の大群が押し寄せてきたのは過剰戦力としか言いようがない。最近戦争が始まったことは忘れようもない事実だが。
「ふぅ……」
彼我の戦力差は圧倒的だ。ミコートは自衛軍を所持しているがそれもそこまで練度が高いわけではない。基本的にミコートは商業によって成長を続けている自治州であり、交易の中間地としては中々優秀な場所にある。ここから自由都市へ、そして多種族連合へと続く街道が整備されているのが強みだ。商いを繰り返し、将来は素晴らしい成長を遂げるだろうが。
「困ったものだ」
金だ。
戦争にはコストが付き物だ。戦争とは一種のビジネスでもある。兵士には報奨が、武器が、食料が、と、何かと金というものは戦争には入用となる。これを国庫を空にしてやるのには文句を言わないが、帝国連合はもっと簡単な所に目を付けた。
つまりは略奪だ。
殺して奪えばいい。
なるほど、シンプルで野蛮な考えだ。今の皇帝の下品さが見える。中立地帯に対する攻撃はどういう意味かを理解して行っている。中立地帯、しかも商業関係の国家に対する攻撃はつまりもう二度と中立商業国家群との取引を行わなくてもいいという考えだ。自国領土内で完全な自給自足が確立されているのか、もしくは消費する以上に奪って埋めればいいのか、どちらかの判断がついているという事だ。今のグラナーダ皇帝は下品で野蛮ではあるが、愚かではない。恐ろしい程の狡猾さと戦略眼を持っている。潰せるところには確実に潰しにかかり、そして奪う。忌々しい事に立派な覇道を掲げてあの皇帝は大陸の征服を成そうとしている。その手段は気に入らないが、恐ろしい相手だと判断する。
「さて、この数をどうさばくか……」
此方の戦力は戦える人間だけで八千程度で、相手は約二万五千の軍隊だ。数を見るにここを占拠した上で次の進行の際の駐屯地にする予定だろう。だとしたらここをなるべく無傷で落としたいはずだ。帝国の法では奴隷制度が生きている。人間も貴重な資源として確保するべきものだ。
それが幸いしている。
「一気に襲ってこないのはそれが原因であろうな……」
少し伸びてしまった白い髭を掻く。エイリック共和国の方でようやく引退できて、息子夫婦の家族と一緒に文化的な街へ観光へ来たらこうだ。
「あまり、私の様な爺を働かせて欲しいものではないのだがなぁ……」
ようやく引退できると喜んでいたのも束の間だ。戦争なんかにはもう関わりたくないのに、不幸は何時も追いかけてくる。思えばそんな出来事ばかりだ。妻にプロポーズした時も結局何度も妨害が入った末での成功だった。いや、今のこれは余計な思考だ。勝利する方法だけを考えるべきだが―――
「―――無理だな」
この戦はどうやって勝利すべきかが問題ではない。
どうやって敗北するか、というのが問題だ。
このまま最後まで抗って皆殺しにされるか、早期に降伏して奴隷になるか、もしくは……。
コンコン、と木の扉にノックの音が聞こえる。
「入りたまえ」
「失礼します、ギルフリード将軍」
「ん」
扉を開けて入ってきたのは息子の姿だ。四十に入ったばかりの息子も、昔と比べて大分年長者としての貫録が出てきたものだと思う。エイリック共和国の軍服の袖に腕を通す姿も、昔とは違ってちゃんと着こなしている。と、そこで息子が手に持っているのは強い葉の匂いがする……紅茶だ。
「お疲れ様です。中々いい葉が売ってあったので少し購入してきました」
「ここには卿と私しかいない。いつも通りで良い」
「では、……いい葉を買ってきたので試してみませんか、父さん?」
「うむ、その方が好みだ」
笑顔と共にカップを息子から受け取り、それを口に運ぶ前に匂いを楽しむ。強いが、眠気を覚ます匂いがそこにはある。少しずつ、どこか眠っていた部分の脳が刺激される気がする。願わくば、
「ここにブランデーでもあればまた良いのではあるが」
「流石にお酒は無理ですね、父さんももう歳ですし」
「息子よ、卿は私を年寄り扱いしすぎだ。私はまだ八十だ」
「世間では既に墓石の下にいる年齢です。全く、何故父さんはまだそんなに元気でいられるんですか……」
「老兵の贅沢な悩みというやつだな」
そう。生き残っている事を悩むのは贅沢だ。この状況では何故生き残っているのを悩むべきではなく、どうやったら生き残れるかを考えるべきなのだ。紅茶を口にし、その味をゆっくりと確かめながらテーブルの上に並べられた情報を確認して行く。そこには多くの情報が並べられているが、それを整理し、確認するのは長年の将軍職として慣れた事だ。
しかし、本当に不幸な話だ。
ミコートも、他国の退役軍人に指揮を執ってもらわなければいけない状況に追い込まれている事も、そんな状況になってしまった自分の立場も、
「本当についていない」
「百戦錬磨のギルフリード将軍がご冗談を」
ちゃかす息子の言葉に少し笑い、
「この状態から勝利するのは奇跡でもなければ無理だろう」
「援軍は?」
「申請しましたが到着は絶望的でしょう」
「だろうな。ここから最寄りの連合軍所属国領土まではそれなりに距離がある。だからこそ警戒が薄かったのだが―――」
それを逆手についてきた。遠いという事はそれだけ連絡が届きにくいという事でもある。連合軍による介入が入る前にミコートを攻め落とし、此処の近くも落とす気だ。そうだな、
「持って―――三日か」
「三日ですか?」
不思議そうな顔をする息子に対して指を三本上げる。一本目を折る。
「まずは周辺の調査に一日。ここを拠点にするつもりだろうから確実にここらの地形を把握してくるだろう」
二本目の指を折り曲げる。
「次に此方の様子を見るためだ。おそらく既に間者が紛れ込んでここの状況、人的資源、財産の確認などを行っている。探すだけ無駄だからとりあえず警戒はやめろ。この部屋は外からは何も見えないし何も聞こえない様に魔法をかけてある。卿は心配はするな」
少しだけ殺気立つ息子を抑え込み、最後の指を折り曲げる。
「三日目。総攻撃の日。我々が全力で抵抗した場合の話しだ」
ま、それはありえない。抵抗して死ぬなんてことは絶対したくない。勝てない戦いはしない。勝てる戦いはする。それが常勝の法だ。それさえ守れれば死ぬことはない。だからこそ、
「これはどうしても避けたい一戦だな」
紅茶の中身を飲み終わるとテーブルの上に置かれた報告書を確認する。偵察兵が生きて帰ってこれた事実はつまり、今のミコートを完全に舐めきった帝国連合の姿がそこにあったというわけだ。この自治州の自衛軍の練度で見つからずに生きて帰ってくるのは不可能なのだ。それは軽く見ただけでもわかった。
「メイジ、シャーマン、バリスタに……ネクロマンサーか。こりゃあかなり本気で来てるな」
「ネクロマンサーですか……手段を選びませんね」
「唯一神教が邪法認定している魔法だから、ありゃあ優秀だぞ。殺した敵も死んだ味方皆が武器であり防具だ。戦えば戦うだけ敵が増える姿はトラウマを生み出すだけはある」
「新兵の大半はネクロマンサーの術を見て戦場に出られなくなるんですよね……どうにかならないんですか」
「私は退役軍人だ。卿の頭で考えろ」
「ですよね……」
溜息を吐きだす息子の姿を心の中でまだまだ子供だと評価しながら、一枚の報告書を持ち上げる。その内容は敵の編成について書かれているものだが、非常に興味深い事実が記されていた。それと似た内容の報告書を捜し、視線をテーブルの上を彷徨わせ、一枚の紙を引き上げる。
「これか」
「父さん?」
「ふむ……」
書かれている内容は敵の編成、そして部隊を率いる人物たちに関する情報だ。
「……息子よ」
「なんでしょうか父さん?」
「どうやら我らの悪運は予想外に強いらしい」
「と、言いますと?」
「―――私にいい考えがある」
「止めてください父さん。それ、失敗しそうな気がします」
いやいや、これは運がいい。煉獄の中で咲く花を見つけたような気分だ。これは実に運がいい。この報告が正しければ、本当に万に一つの可能性だが無傷で勝利できる可能性がある。いや、それは望みすぎだろう。狙うべきは―――。
「ならば、ここらの地理に詳しい者が必要だな。望みとしては弓術と狩りに秀でた者だ。それに……そうだな、孫娘が丁度いい人材だな。あぁ、この感じはいいぞ」
「……さりげなく娘が巻き込まれているような気がするんですが」
そんな声は聞こえない。しかし、分の悪い博打だがどうしてか。
久しぶりに血が滾ってきた。
そう、これはまさに、
「戦争の気配だな……!」
語られない英雄の始まりは、この将軍のこの策から始まった。