騎士団長様、三回ともお断りしたつもりはありません
「三度だ」
窓際の卓で、レオン・アルスター様がおっしゃった。私は焼き林檎を二つ載せた盆を持って、衝立の手前にいた。昼の混雑が引いた小麦亭には、鍋を洗う音と、街路を行く荷馬車の車輪の音が聞こえていた。
向かいに座る副団長のマルク様が、匙を置いた。
「団長、何の話です」
「断られた回数だ」
「……ああ。まだ続いていたんですか、その話」
「もう終わった」
終わったのなら、焼き林檎をお出ししてもいいだろうか。そう思って一歩進みかけたところで、マルク様が身を乗り出した。お二人の卓と厨房を隔てる衝立は、座っていれば顔が隠れる高さしかない。
「三度とも、はっきりお断りを?」
「そうだ。そろそろ迷惑になっている」
私は盆を持ち直した。王都第三騎士団長の恋のお話だったらしい。
レオン様は、半年前から王都の門を守る第三騎士団の団長を務めていらっしゃる。小麦亭に通い始めたのは、それより少し前だ。濃い灰色の上着をいつもきちんと着て、背の高い椅子でも背もたれを使わない。右の眉に古い傷があって、店へ初めて来た子供には、よく怖がられている。
その方に三度も申し込まれた女性がいるという。私は、焼き林檎の上でゆっくり溶ける蜜を見た。どこのご令嬢だろう、と少し気になった。
「最初は、河岸の市に誘った」
盆の上で、匙が触れ合った。
「今月の初めの日曜ですか」
「先月だ。昼過ぎからならどうかと聞いたが、その日は店に出ると」
「お店の方なんですか」
「ああ」
私は衝立の木の節を見つめた。
ひと月ほど前、帳場で釣り銭を数えていた私に、レオン様が次の日曜に立つ河岸の市の話をなさった。ちょうど叔母が小麦の仕入れ先と会う日で、私は開店から夕方まで店番だった。帳面に目を落としたまま「申し訳ありません、その日は店に出ますので」と答えた記憶がある。
団長様も、ほかの人を誘われたのだろう。同じ日に働いている女性は、王都にたくさんいる。
「二度目は、髪留めを返された」
私は目を閉じた。
「髪留め」
「銀の、小さなものだ」
「指輪ではなく?」
「いきなり指輪は渡せないだろう」
「ええ。それはそうです」
銀の葉が二枚重なった髪留めを、私は知っている。三週間前、薄青い箱に入ったそれを、レオン様から差し出された。
厨房の熱で髪が落ちてくるのを、よく気にしていただいていた。けれど、お客様から、私個人があんな高価なものを受け取るわけにはいかない。私は蓋を閉じ、「お気持ちだけ頂戴いたします」と、箱ごとお返しした。
レオン様は、それ以上すすめることもなく、内ポケットへしまわれた。次に来店したときも、いつもどおり私の名を呼んでくださったので、失礼には当たらなかったのだと安心していた。
「三度目は」
マルク様が促した。もう聞きたくない。いや、聞かなければ困る。
「先週、雨の降った晩だ。店を閉めたあと、家まで送ると言った」
「それも?」
「すぐそこだから結構です、と」
私の家は、店のすぐ裏にある。
裏口から細い路地へ出て、向かいの扉を開ければ着く。ひどい雨でも、軒の下を通れば肩が少し濡れるだけだ。鎧の上から雨外套を着て、馬まで連れていらしたレオン様に、わざわざ回り道をしていただくほどの距離ではない。
その日は、私も確かにそう申し上げた。すぐそこですので、ご心配なく、と。
「なるほど」
マルク様の声が低くなった。
「それで、終わりにすると」
「勤務中に何度も誘われれば、断るだけでも気を遣う。笑って応じてくれるからといって、こちらが甘えてはいけない」
盆を持つ指が痛くなった。私は端を握り直し、焼き林檎の皿を見下ろした。レオン様の分には、薄く焼いた皮を多めにつけてある。毎回きれいに召し上がるので、厨房の叔母に頼んで、今日は大きい方を取り分けてもらった。
ほかのお客様には、皮を残す方もいらっしゃる。その違いは、私はちゃんと覚えていた。
「ですが、団長。お好きなんでしょう」
少し間が空いた。
「……だから、もう困らせたくない」
盆が傾き、二枚の皿の縁が触れ合って小さく鳴った。私は慌てて盆を水平に戻した。
「フィオナ?」
呼ばれてしまった。
私は背筋を伸ばし、卓へ出た。レオン様はいつものように、盆を置く場所を空けてくださった。背の高い方なので、座っていても顔が近い。さっきまで聞いていたお話が、その口から出たのだと思うと、皿を持ち上げる順番まで分からなくなった。
「お、お待たせいたしました。焼き林檎です」
「ありがとう」
レオン様の前へ、マルク様の皿を置いた。皮の多い方ではない。気づいて持ち上げかけたが、お二人とも不思議そうにこちらを見ている。
「どうした」
「お皿を、反対に」
「何か違うのか?」
マルク様が二つの皿を見比べる。私は、今度こそ盆を落としそうになった。
「その……こちらの方が、皮がよく焼けていますので」
「俺はどちらでも構わないが」
「レオン様は、そちらをお好きですから」
言ってから、顔を上げられなくなった。
マルク様は私の手元を見て、それから団長様へ目を向けた。何か言いかけた顔だったが、レオン様が先に私から皿を受け取った。
「いつも、そんなことまで見てくれていたのか」
「お客様ですもの」
口が勝手に答えた。
レオン様は「ああ」と頷き、礼を言って匙を取られた。今までなら、ここで厨房へ戻っていた。今日も戻るべきだった。盆を胸に抱えたまま立っている私に、彼はもう一度顔を向けた。
「何か、困り事か」
「いえ。あの、熱いので、お気をつけて」
焼き林檎は、もうそれほど熱くなかった。
お二人が帰られたあと、私は窓際の卓を拭いた。レオン様の皿には、皮まで何も残っていなかった。マルク様もいつもは食べ残さない方だが、今日に限っては見比べずに重ねた。
雑巾を絞り直して、同じ場所をもう一度拭く。窓の外では、向かいの雑貨屋が、日よけの布を巻き上げている。いつもならレオン様が店を出るのを見送るついでに、私も日差しの具合を見るところだった。
「フィオナ。そこだけ削れるよ」
厨房の入口に、叔母のベルタが立っていた。太い腕で粉の袋を抱えている。私は雑巾を持つ手を止め、袋を受け取りに行った。
「持つよ」
「重いから、一緒に運んでおくれ」
二人で袋を運び、作業台の下へ納めた。叔母は腰を伸ばしながら、私の顔を覗き込んだ。
「団長さんに、何か言われたかい」
「言われてはいないの」
「じゃあ、何をした」
「……三回、お断りしたらしい」
叔母の眉が上がった。
「らしい?」
「そういうつもりじゃなかったのに」
私は市のことと、髪留めと、雨の晩の話をした。叔母は途中で口を挟まずに、煮込み鍋の底を木べらでさらっていた。話し終わると、火を落としてからこちらを向く。
「どれも、お前が断ったことには違いないね」
「でも、お誘いを全部お断りしたかったわけじゃないの」
「だったら、それは本人に言わないと」
そうだった。その通りだった。
けれど、三つの用事にそれぞれ答えたつもりの私と、一人の女性を三度誘ったレオン様とでは、お話の始まりから違っている。明日来られたら何と申し上げればいいのか考えながら、私は棚の皿を数えた。十二枚まで数えたのに、何枚あれば足りるのか思い出せなかった。
「お前、何を言いに行くつもりだい」
「失礼なつもりではなかったと」
「うん」
「団長様を嫌っているわけではないと」
「うん。それで?」
私は叔母を見た。叔母は答えを教える様子もなく、余った焼き林檎を半分に割っている。
「それ以上、何を」
「もう一度誘ってもらいたいのか、断り方が悪かったと謝りたいのか。団長さんには、大事な違いだろうよ」
差し出された小皿を受け取った。叔母は自分の分を、作業台に腰を預けて食べ始める。私は匙で柔らかい実を崩した。いつもより蜜が多いはずなのに、甘さがよく分からなかった。
私が心配していたのは、嫌な娘だと思われたことだろうか。それなら、レオン様は今日も私に礼を言ってくださった。勘定を済ませるときには、来週から朝が冷えるそうだから、窓を拭くなら昼のうちに、と教えてくださった。
帰り際のお顔は、いつもと変わらなかった。だからこそ、明日はもういらっしゃらないのかもしれないと思うと、匙を持つ手が止まる。
「髪留め、お返ししちゃったね」
「それは、うちの決まりだもの」
「ああ。仕事をしている娘に、客が勝手に高い物を渡すようになったら、ろくなことにならない。あれは返してよかった」
叔母は空になった皿を水桶へ入れた。
「けどね。休みの日まで、あたしが何か決めた覚えはないよ」
私は半分ほど残った林檎を見た。二枚の銀の葉の形を、まだ覚えている。箱を閉じる前に、ほんの少しだけ、自分の髪につけたところを考えたことも。
翌日、窓際の席には、織物商のおじいさんが座った。
私はいつものように薄く切ったパンを出し、ぬるめのスープをお持ちした。奥歯が一本抜けてから、硬い物は食べづらいと聞いている。おじいさんは、今日も一切れずつパンを浸して、ゆっくり召し上がった。
その方が帰られると、親子連れが座った。子供が窓から顔を出そうとするので、母親が内側の席へ移す。私は椅子の下に落ちた匙を拾い、新しいものを出した。
何度も、扉が開いた。革の靴音がするたびに顔を上げたが、灰色の上着は入ってこなかった。
「あの席、予約にしておこうか」
昼の終わりに叔母が言った。私は積み重ねた皿を、少し乱暴に作業台へ置いた。
「そんなことしなくていい」
「そうかい。さっきから、誰かが座るたびに見ているから」
「見てない」
「じゃあ、あんたは裏で豆を剥いておいで。入口の見えないところでね」
大きな鉢を渡されて、私は裏の長椅子へ座った。日陰は昨日より冷えている。莢を割ると、よく太った白い豆が転がり出た。煮込みにするには少し手間がかかるけれど、レオン様はこれもお好きだった。
そこで私は、豆の莢を握ったまま俯いた。お客様の好みを覚えるのは仕事だ。けれど、今日はどの料理をご用意できるかと、来る前から考えているのは、誰に対してもではなかった。
父が亡くなり、領地も屋敷も手放して、母と王都へ来たのは二年前だ。ベルネの名を聞いて事情を尋ねる人は、少なくなかった。叔母の食堂で働くのを見て、気の毒にと言われたこともある。そのたびに、私はいつもの声より少し高い声で、困ってはいませんと答えていた。
レオン様が、私の家の名を口にしたことは一度もない。八か月前、初めて店へ入ってきたときも、私の手つきを見て「給仕に慣れていないのか」と聞いただけだった。
そのときの私は、三枚の皿を腕に載せようとしていた。叔母に教わったばかりで、うまくできれば格好がつくと思ったのだ。レオン様が一枚受け取ろうとなさったので、私は慌てて断った。
「できます。お席でお待ちください」
そう言ったのに、二枚目が滑った。
床へ落ちる前に掴まれた皿は、私の手からそのまま卓へ運ばれた。レオン様は席に着いてから、私に向かって「一枚ずつでも、食べ終わる前には来る」とおっしゃった。
叱られたのかと思って、私はむっとした。けれど次に来たとき、私が二往復して皿を運んでも、急かされなかった。三度目には、お盆を持つ私のために、ご自分の外套を隣の椅子からどけてくださった。
今は三枚でも運べる。うまく載ったところを見られると、私は時々、ほんの少し顎を上げる。レオン様は黙って見てから、口の片端だけで笑う。その顔を見ると、私も何か言い返したくなった。
莢を割り損ね、豆が一つ路地へ飛んだ。拾いに屈むと、向かいの家の窓で母が針を動かしていた。窓台には頼まれ物の胴着が積まれている。私を見つけると手を振ったので、拾った豆を持ったまま振り返した。
「それを振られても、よく見えないわ」
母が笑った。私はやっと、自分が何を握っているかに気づいた。
レオン様がいらしたのは、日が傾き始めた頃だった。
扉が開いたとき、私は叔母と、次の日曜に出す料理を相談していた。レオン様は靴の泥を入口で落とし、厨房へ軽く頭を下げてから、いつもの席へ向かう。私もついていきそうになって、手に何も持っていないと気づいた。
「遅いお昼ですか」
「少し。北門の交代に立ち会っていた」
「お昼を召し上がっていないのですか」
「途中でパンを買った」
「それだけ?」
言い方が近すぎた。私は口をつぐんだが、レオン様は別に気になさらなかった。
「焼きたてだった。悪くはなかったよ」
「パンだけでは足りません。今日は白豆の煮込みがあります」
「では、それを」
厨房へ戻ろうとすると、呼び止められた。
「フィオナ。昨日は、何か話があったんじゃないか」
もう気づかれていたのだろうか。私はお腹の前で指を組んだ。彼は私の返事を待っている。逃げ込めるほど忙しい時間でもなかった。
「少し、ございます。でも、お食事のあとで」
「分かった」
それだけ言って、彼は手袋を外した。手の甲に、新しい擦り傷がある。私は水差しと布巾をお持ちし、ついでに小さな塩壺を、いつも彼が手を伸ばす側へ置いた。
皿を運ぶ頃には、若い職人が三人、入口近くの卓についていた。一人が壁の品書きを読み損ね、煮込みに肉が入っていると思ったらしい。皿を覗き込み、「肉は」と私に聞いた。
「今日は白豆と玉葱です。お肉でしたら、別に腸詰めをおつけできます」
「じゃあ、それ。一本でいい」
私は品書きの横へ値段を指で示し、注文を受け直した。戻る途中、レオン様がこちらを見ていた。彼の匙は止まっている。
「どうなさいました」
「いや。前は、ああいうとき、先に謝っていたから」
「私が間違えたときは、謝ります」
「そうだな」
彼は煮込みへ匙を戻した。笑ったのが分かり、私はその場へ一歩だけ近づいた。
「何か、おかしいですか」
「いいや。さっきも、食事が足りないと叱られた」
「叱ってはいません」
「君は、そういう声が出るようになった」
どういう声ですか、と聞き返そうとして、やめた。
家のことを尋ねられたときに出していた声は、今でも自分で分かる。丁寧で、明るくて、早く話を終わらせたがっている声だ。レオン様には、ずいぶん前から、その声を使わなくなっていた。
「……おかわりも、ございますから」
「うん」
彼が頷いたので、私はもう一度厨房へ戻った。叔母は私の顔を見るなり、小鍋に二杯目の分を移した。何も頼んでいないのに。
「おかわり、するよ」
「まだ召し上がっているところよ」
「今日は豆を剥いたのが誰か、言ったかい」
「そんなこと、お客様には言わない」
叔母は小鍋に蓋をした。私は布巾を取りに棚へ向かい、ふと、足を止めた。日曜には叔母が一人で昼の店を回す。仕込みを前日に済ませれば、洗い場は近所の子に頼める。叔母は毎月、その子に半日だけ手伝ってもらっていた。
「ベルタ叔母さん」
「何だい」
「日曜、少し早く出て、仕込みをするから」
叔母の目が、私の顔へ戻った。
「お昼から、お休みをいただける?」
声に出すと、急に怖くなった。レオン様が日曜にお休みかどうかも知らない。もう私とどこかへ行きたいとは思っていないかもしれない。それでも、話をするために食後まで待っていただいている。
叔母は壁の暦を見て、それから、私が朝つけた仕入れの帳面を開いた。
「午後だけでいいのかい」
「うん」
「じゃあ、いいよ。洗い場は頼んでおく。ただし土曜に、玉葱を剥いていきな」
「ありがとう」
「あとは、話しておいで」
私は頷いて、盆を持った。何も載っていない。
気づいた叔母が、そこへお茶を二杯置いた。一杯には、私が普段使っている、縁の欠けた湯呑みを使っていた。
レオン様は、二杯目の煮込みも召し上がった。空いた皿を片づけて、お茶を置くと、向かいの席へ目を向けられた。
「君の分か」
「はい。少し、休ませてもらえることになりました」
椅子を引こうとしたら、彼が立った。背もたれに手を掛けられ、私は思わず「自分でできます」と言いかけた。それを半分ほど飲み込み、引かれた椅子へ座る。
「ありがとうございます」
彼も席へ戻った。向かいに座ると、いつもよりずっと目が合う。お食事を運ぶときは、皿の置き場所を見ていればよかったし、勘定のときは、金貨や銅貨を数えていればよかった。
今は、お茶しかない。私は湯呑みを両手で包み、親指で欠けた縁を探した。ちょうど手の反対側にあった。
「昨日、お話が聞こえてしまいました」
レオン様の手が止まった。
「マルクとの?」
「はい。お料理を運んでいたときに」
彼は一度、衝立を振り返った。私が立っていた場所を見て、それから自分の椅子を少し引いた。重い椅子の脚が、床を短く擦る。
「すまない。あんな場所でする話ではなかった」
「私が、先に声を掛ければよかったのです。けれど、途中で、自分のことだと分かって」
「……ああ」
眉の傷のあたりまで赤くなるところを、初めて見た。
私の方も、お客様の会話を盗み聞きしたようで落ち着かない。申し訳ありませんと言いかけて、湯呑みに目を落とした。謝りに来たのか、それとも誘ってほしいのか。叔母の言葉を思い出す。
「レオン様。三回とも、お断りしたつもりはありませんでした」
彼は顔を上げた。
「その、誘われたこと自体を、お断りしたつもりは」
私はゆっくり言い直した。彼の目が私から離れない。こんなふうに一言ずつ聞かれると、自分の言葉に自分が追いつくまで、待ってもらわなくてはならなかった。
「市の日は、本当に店番だったのです。叔母が仕入れへ出るので、私が残らなければいけなくて。別の日ならと、私から申し上げればよかった」
「いや。俺も、ほかの都合を聞かなかった」
「髪留めは、お店の決まりです。でも、綺麗だと思いました」
そこで声が小さくなった。レオン様が身を寄せかけ、途中で止まる。私は思い切って、お茶から手を離した。
「あの銀の葉が、髪についたらどんなふうになるのか、考えました。嬉しくなかったわけではありません」
レオン様はしばらく黙っていた。私がもう一度口を開きかけると、彼の方が先に、短く息を吐いた。
「ずいぶん、ひどい選び方をしたと思っていた」
「ひどい?」
「気に入らない物を渡して、困らせたのかと。あの店では、三十近くも箱を開けてもらったんだが」
私は思わず笑った。
レオン様が宝飾店の椅子へ座り、一つずつ髪留めを見比べている。気に入らないという顔をするたび、店の人が別の箱を開ける。きっとその席でも、彼は背もたれを使わなかっただろう。
「三十も?」
「数えたわけではない。店員に言われた」
「それで、あの葉を」
「うん。飾りの多いものは、君の髪だと重くなるかと思って」
私は耳の後ろへ手をやった。仕事の間はいつも、茶色い髪をねじって留めている。春に先を切りすぎて、首のあたりに、短い毛が少し残っていた。レオン様がそこまで見ていたとは知らなかった。
髪留めのことをもう少し話していたくなったが、最後の一つが残っている。
「雨の晩は、家が、本当にすぐそこなのです」
「近いとは聞いた」
「裏口の向かいです」
レオン様の視線が、厨房の奥へ向かった。
「裏口というのは、この店の」
「はい。青い扉の家です。あの晩は、馬で回っていただくより、私が裏から出た方が早かったので」
彼は口元を手で覆った。怒ったのかと思って身を固くしたが、目が細くなっている。
「俺は、そんなに近いとは思わずに断られたつもりでいた」
今度は、二人で笑ってしまった。誰かに送っていただくといえば、以前の私は、馬車を玄関へ回してもらうところから考えた。
彼が手を下ろし、お茶を一口飲む。私もようやく湯呑みを持ち直した。欠けたところを唇に当てないよう、少し回した。
「事情は分かった。話してくれてありがとう」
穏やかなお声だった。言うべきことは済んだと、そのまま席を立つこともできそうだった。
私は、湯呑みを卓へ戻した。思ったより大きな音がして、彼がこちらを見る。
「それで、日曜なのですけれど」
「日曜?」
「明後日の。お仕事は、ございますか」
彼は、すぐには答えなかった。私が自分の膝を見下ろすより先に、「昼からはない」と言った。
「河岸の市へ、私と行っていただけませんか」
厨房で、何かが落ちた。
叔母の「ああ、もう」という声が聞こえる。私は振り返らなかった。レオン様も、今度は席を動かさずに、私を見ていた。
「お店は」
「休みをいただきました」
「仕入れか、何かの用事が?」
「いいえ。私が、行きたいのです」
早口にならないよう、膝の上で指をほどいた。どの言葉までお客様に使えて、どこからは私自身が言わなくてはならないのか、今まで考えたことがなかった。けれど、ここで曖昧にしたら、彼はきっと私を気遣って帰ってしまう。
「レオン様と。お仕事でも、お店のお礼でもなくて」
彼の口元が、少し動いた。何か言おうとしたのに、声が出なかったようだった。
「私も、お休みの日のレオン様を知りたいのです。いつも、こちらに来ていただくばかりでしたから」
「それは……」
彼が椅子へ座り直した。長い脚が卓の下で当たったらしく、湯呑みの中に波が立った。私たちは同時に器を押さえ、手元を見て、また少し笑った。
「行きたい。俺も、君と」
私は頷いた。頷きすぎた気がして、途中で止めた。
「嬉しい」
レオン様がそうおっしゃったので、私はもう一度頷いた。返事になっていない。でも、声を出したら妙なものが混じりそうだった。
彼は急かさずに、お茶を飲んだ。さっきまでしっかり巻かれていた手袋が、卓の端でほどけている。自分で広げたのに、片方が床へ落ちそうになっていることにも気づいていない。
私がそれを押し戻すと、彼は手袋を見てから、困ったように笑った。
「仕事の話なら、もう少し、まともに答えられるんだが」
「今ので、分かりました」
「そうか」
「はい」
厨房から叔母が顔を出した。私とレオン様を交互に見て、何事もなかったように、水差しを隣の卓へ置く。私のお茶はまだ半分も残っているし、レオン様の方にも継ぎ足す必要はなかった。
私は叔母の背中へ、心の中で、あとで話すから、と言った。
「河岸の市で、行きたいところはある?」
レオン様に聞かれて、私は顔を戻した。
「白い天幕の、揚げ菓子のお店へ」
「ああ。前にも言っていたな」
「覚えていらっしゃるのですか」
「だから、あのとき誘った」
私は湯呑みを置き直した。自分で話したことまで、彼の好意と結びついていなかった。
市へ行ったお客様が、温かい揚げ菓子に木苺の煮たものを詰めてくれるのだと話していた。私は皿を下げながら、冷めていないものを一度食べたいと口にした。そのときレオン様は、窓際で夕食を召し上がっていたはずだ。
「持ち帰ってもらったことはあるのです。でも、冷めてしまうと、生地が少し重くて」
「では、店先で食べよう」
「立ったままになりますけれど」
「構わない。俺も食べる」
私は、彼が蜜で指を汚しながら揚げ菓子を食べるところを想像した。小麦亭では、ナイフも匙も音を立てずにお使いになる。その手が紙包みを持ったら、どんなふうに見えるのだろう。
レオン様の手に目を落としていたら、こちらへ向けて掌を開かれた。
「何かついているか」
「いえ。……少し、楽しみになって」
「今から?」
「はい」
彼も自分の掌を見て、何が楽しみなのか分からないという顔をした。説明するには恥ずかしく、私は市の場所をもう一度尋ねた。川沿いのどこから店が並ぶのか、橋を渡るのか。彼は一つずつ、指で卓に道を描いて教えてくれた。
道をなぞる指が私の湯呑みにぶつかり、そこで止まった。私は器をずらした。今度の日曜には、この人の隣を歩くのだと思った。
待ち合わせは午後二時、小麦亭の表口に決まった。市までは歩いて行けると聞いて、少しほっとした。もし立派な馬車などで迎えに来られたら、乗り方より先に、ご近所への挨拶に困ってしまう。
立ち上がったレオン様は、お茶の代金まで払おうとなさった。私が自分の分を別にすると、出しかけていた硬貨を一枚、財布へ戻された。
「日曜は、揚げ菓子を買わせてほしい」
「では、飲み物は私が」
「分かった」
それだけの相談をするのにも、少し時間がかかった。私が何かを言うたびにレオン様がこちらを見て、そのたびに、私もお金を数える手が止まってしまうからだった。
扉のところで、彼は一度振り返った。
「日曜だな」
「はい。二時に」
「……楽しみにしている」
私もです、と答えるまで、ちゃんと待っていてくださった。
その晩、母は袖口に細かな襞のあるシャツを直していた。窓辺の作業机から針箱を食卓へ移し、灯りのすぐ下に手元を寄せている。私は食事を済ませた皿を重ね、流しへ運ぶ前に立ち止まった。
「お母様。青い外出着は、まだ着られるかしら」
「あなたの? 着られるでしょう。背はもう伸びていないもの」
「袖が、少し昔の形だけれど」
母は縫い目から目を上げた。何に着るの、と尋ねるより先に、私の顔を見て、針を布へ休ませた。
「持っていらっしゃい」
箪笥の下の引き出しを開けると、薄紙に包んだ服が二枚残っていた。その上にある青い一枚を取り出す。何度も着た服だったけれど、叔母の店に立つようになってからは、しまったままになっていた。
着替えて食卓の脇に立つと、母は椅子に座ったまま、袖口を指でつまんだ。
「ここを詰めましょう。あとは襟元のレースを外せば、すっきりするわ」
「明後日までにできる?」
「できるけれど。ずいぶん急ね」
「さっき、決まったの。日曜に、人と出かけることになって」
母の指が止まったので、私は続けた。
「河岸の市へ」
「そう。どなたと?」
「レオン・アルスター様。お店によくいらっしゃる方なの」
「ああ、背の高い」
母は私の背後へ回り、肩の布を指でならした。窓から店の裏口を眺めることはあっても、表を通るお客様まで見ているとは思わなかった。
「ご存じなの?」
「名前までは。雨の日に傘を貸してくださったでしょう。ベルタに聞いたわ」
あの夜、私は送っていただくのは断りながら、たたんだ傘だけは預かっていた。翌朝、叔母が表へ出る用事に使い、乾かしてからお返しした傘だ。
母が裾に触れようと屈んだので、私は椅子の背へ手をついた。
「私から、お誘いしたの」
言ってみると、つま先の置き場まで落ち着かなくなった。母は裾の長さを左右で比べ、待ち針を一本留めた。
「それなら、歩きやすくしておかないとね」
翌日は約束どおり、叔母のために玉葱をむいた。昼の仕込みに使う分を終えても籠にはまだ半分ほど残っていて、皮の薄いものばかり底に隠れている。最後の一つまでむき終えて、指先の匂いを気にしていたら、叔母に、切るのはこっちでやるよと籠を取り上げられた。
夜、母が袖を直してくれる間に、私は外出用の靴を磨いた。右の爪先に小さな擦り傷があった。布を替えて何度かこすると、傷そのものは残ったけれど、窓の灯りが丸く映るくらいには光った。
服と靴を並べてからも、寝る支度に移れなかった。青いリボンを添えたり、やっぱり白に替えたりしているうちに、母が手元の灯りをこちらへ少し寄せてくれた。
日曜は、朝からよく晴れた。
昼の給仕を終えると、叔母は約束の時刻よりずいぶん早く、私を裏口から追い出した。皿洗いに来てくれた近所の娘さんに礼を言い、路地を渡る。母は直した服を椅子の背に掛けて待っていた。
着替えた私の袖口で、小さな白い釦が二つ光った。もとの袖には飾り紐がついていたのに、きれいに外されている。手首を曲げても何も引っ掛からず、指を伸ばすと母が満足そうに頷いた。
「おかしくない?」
「昨夜から三度目よ、フィオナ」
「……もう聞かないわ」
鏡の前で髪を結び直した。仕事のときより少し低い位置でまとめ、最後に白いリボンを結ぶ。振り向いた拍子に短い毛が首に触れて、指で押さえた。あの銀の葉なら、ここに留められるのだろうと思って、頬が熱くなった。
母が上着を差し出してくれた。受け取って袖を通しながら、台所の小さな時計を見た。まだ二時まで二十分もあった。
「店で待っていることにするわ」
「表からね。ベルタにまた皿を持たされないように」
笑いながら家を出たのに、角を曲がる手前では、胸のあたりを押さえなくてはいけなかった。通りの音がすぐそこに聞こえる。荷車の軸が軋み、どこかの窓から布をはたく音がした。
小麦亭の前には、もうレオン様がいらした。
いつもの上着と似た濃い灰色でも、今日は襟に騎士団の徽章がない。手袋は左手にまとめて持ち、空いた右手で、上着の裾を一度引いて整えていた。私を見つけると、店の扉から体を離された。
「お待たせしました」
「いや。早く来てしまった」
私のほうへ一歩近づき、それきり、何もおっしゃらなかった。視線が顔から肩へ下がったので、私は上着の合わせ目を引いた。何かおかしいのかしら。釦を掛け違えた覚えはないけれど。
「……あの」
「似合っている」
思ったより近くで言われて、手が止まった。
「よく似合っている。その色も、髪も」
「ありがとうございます。母が、少し直してくれて」
そう言って袖を見せたら、レオン様は釦を覗き込み、きちんと二つともご覧になった。服のことまで分かるのかしらと見ていると、目が合った。
「すまない。気の利いたことが言えなくて」
「十分、言っていただきました」
私の手は、さっきから袖口に掛かったままだった。この服を片づけるときには、今のことを思い出すのだろう。母に何を言われたか聞かれても、全部は話さずにおきたい。
店の中から、叔母が窓を叩いた。こちらを見て、さっさと行きなさいというふうに手を振っている。私が振り返すと、レオン様も深く会釈なさった。
「ベルタさんには、お礼を言わなければ」
「昨日、私が玉葱を全部むきましたから、大丈夫です」
レオン様は一瞬黙り、私の指先を見た。それから、肩を揺らして笑い出された。
「そんな交換条件だったのか」
「大きな籠に、一杯です」
「それは……ありがとう、フィオナ」
店を休むために玉葱をむいた、と考えれば、いつもの手伝いと変わらないはずだった。それなのに、名前まで添えてお礼を言われると、昨夜磨いた靴の先を見るほかなかった。
しばらくして顔を上げると、彼はまだ私を見ていた。
「嬉しくて、少し困っている」
「困るんですか」
「ああ。君が俺と出かけるために支度をして、ここに来てくれたと思うと」
私の髪へ視線が向いた。選び直した白いリボンを見られているのだと分かって、耳のあたりが熱くなる。昨夜、母に灯りを寄せてもらったことまで、知られてしまったようだった。
レオン様は手袋を持ち直した。
「君が好きだ、フィオナ。今日は、それを隠さなくていいんだな」
母の縫ってくれた袖口を、指でそっと撫でた。さっきまで風が冷たかったのに、上着を着てきたのが間違いだったような気がする。
「……はい」
それだけ答えて、息をついた。レオン様の口元が緩む。私はその顔を見たまま、もう一度口を開いた。
「私も、好きです。レオン様」
持っていた手袋が、彼の手から落ちた。
拾おうとして二人で屈み、額がぶつかる寸前で止まった。すぐ目の前に、眉の古い傷があった。こんなに近くで見たのは初めてだった。
「俺が拾う」
「はい」
今度は素直に手を引いた。立ち上がったレオン様は、手袋の埃を払うと、もう持っているのはやめて上着の内側へしまわれた。私が口元を押さえているのをご覧になって、ご自分でも笑われた。
「剣は落としたことがないんだが」
「今日が手袋で、よかったです」
差し出された腕へ、そっと手を掛けた。袖の下はしっかりしていて、台所から大鍋を運んでくださるときと同じ腕なのに、置いた指の力をどのくらいにすればいいか分からなかった。
レオン様が足を止めて待っていてくださったので、私は少し深く腕を取った。
「レオン様。私、今日はゆっくり帰りたいです」
「では、帰りは向こうの橋まで歩こう。川の両側を回れる」
「はい。そうしたいです」
最初の角まで来たとき、小麦亭の扉が開く音がした。振り向こうかと思ったけれど、隣でレオン様が、揚げ菓子の店の話を始めたので、そちらへ顔を上げた。
今度は彼の指が蜜で汚れても、台拭きを取りに戻らなくていい。私は上着のポケットに入れたハンカチを確かめて、彼の腕に添えた手を、もう少しだけ寄せた。
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