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【Bar風花】第二章 高瀬さんのぼやき~酒精の鏡 ―欠けた月と、満ちる陽光―

前書き


※静かな夜の告白編

※戦闘も恋愛もありません。ただグラスの中の赤と、過去の影と、優しい言葉だけ

※Bar風花の癒しを求める方向け


夜が深まり、店内に残ったのは高瀬美由紀だけ。

カウンターで静かにグラスを傾けながら、彼女は初めて自分の過去を零した。


元夫の影。

銀の指先が傷ついた日々。

そして、天様のまっすぐな眼差しが、胸を締め付ける理由――。


美和さんが差し出したのは、深紅の「ジャック・ローズ」。

酸味とほろ苦さが、まるで薬のように美由紀の心を溶かしていく。


欠けた月のような過去と、満ちる陽光のような今。

カウンター越しの、静かで優しい一夜の記録です。


どうぞ、そっと耳を傾けてください。

 風花町の夜が、静かにその深みを増していく。


 商店街の街灯が一つ、また一つと眠りにつく頃、『Bar 風花』の店内には、外界から切り離されたような濃密な沈黙が漂っていた。


 最後の一人が店を去り、重厚なオークの扉が閉まる。

 鉄刀木タガヤサンのカウンターは、照明を吸い込んで静かな艶を湛えていた。


 第六席。

 高瀬美由紀は、背筋を伸ばしたまま、自分の細い指先を見つめていた。


 プロのエステティシャンとして、数多の美を造形してきた「銀の指先」。


 だが今、その指先はクリスタルグラスの縁をなぞりながら、微かに震えている。


 カウンターの中に立つ美和は、何も言わなかった。


 ただ、棚から一本のボトルを手に取る。


 それは、フランスの古いリンゴのブランデーだった。


 静かな所作でシェイカーが振られる。


 氷がぶつかる硬質な音は、どこか遠い記憶の扉を叩く音にも似ていた。


 脚の長いグラスに注がれたのは、深いザクロの赤。


「……ジャック・ローズです。今夜のあなたには、この酸味が必要な気がしましたから」


 美和の声は、夜の空気に溶けるように穏やかだった。


 美由紀は、差し出された赤い液体を一口、含んだ。


 カルヴァドスの芳醇な香りの後に、ライムの鋭い酸が舌を突き、最後に自家製グレナデンのほろ苦い甘みが残る。


「……美味しいですね。……毒のような、薬のような味がします」


 美由紀は自嘲気味に微笑み、視線を落とした。


「今日、天様に……櫻庭さんに、私のプジョーを診ていただいたのです。……ガレージで油にまみれ、機械の声を聞くあの方の指先は、とても澄んでいました」


 美和はクロスを動かす手を止めず、ただ黙って耳を傾ける。


「あの方は、どうしてあんなに……あなたのことを、まっすぐに見つめていられるのでしょう。……まるで、この世に淀みなんて存在しないと信じ切っているような、あの眼差し。……あれを見ていると、胸の奥が締め付けられるのです」


 美由紀の言葉に、苦い熱が混じり始めた。


「天様が、あなたの愛車を宝物のように慈しんでいるのを見て、私は……思い出さずにはいられなかった。……かつて私が、自分の人生を預けてしまった、あの男のことを」


 美由紀の指が、グラスの脚を強く握りしめた。


「私の元夫は、天様とは正反対の生き物でした。……働くことを厭い、酒とギャンブルに溺れ、最後には私に手を上げることでしか、自分の価値を証明できないような男。……私は、そんな男のために、若さも、希望も、なけなしの自尊心さえも差し出し続けたのです」


 彼女の目から、一筋の雫が零れ、赤い酒精の中に吸い込まれていった。


「天様という『光』を知るほどに、私は自分の惨めさを突きつけられます。……どうして私は、あんな泥のような男を選んでしまったのでしょう。……プロのエステティシャンなんて名乗りながら、人間の本質を見抜く目さえ持っていなかった。……自分という人間が、情けなくて、空っぽに思えてしまうのです」


 美由紀は震える手で、グラスを一気に煽った。


 ザクロの赤が、彼女の唇を血のように濡らす。


「……櫻庭美和という女性が、天様という最高の幸運を手に入れた一方で、私は……。……醜いですね。こんなことを、あなたの前で零すなんて。……あなたの幸福を妬んでいるわけではないの。ただ、自分の過去が、あまりにも暗い穴のように思えて……」


 美和は、ゆっくりとクロスを置いた。


 カウンター越しに、彼女は美由紀の目をまっすぐに見つめた。

 ワインレッドとアンバーの瞳が、月光のように静かな光を宿している。


「……美由紀さん。お酒の世界には、熟成という考え方があります」


 美和の言葉は、断定を避けながらも、確かな重みを持って響いた。


「単体では尖りすぎていたり、あるいは深みが足りなかったりする原酒が、過酷な樽の中で長い時間を過ごす。……そうしてようやく、至高の一杯へと完成されるのです。……あなたが過ごしたその苦い時間は、あなたの『見る目が無かった』証拠ではありませんね」


 美由紀は、息を呑んで顔を上げた。


「……天ちゃんがあなたを敬愛しているのは、あなたがただ美しいからではありません。……あなたが、自分の痛みを知り、それでも美しくあろうと立ち上がった……その『熟成』を知っているからですね。……私は、そう思います」


 美和の微笑みに、美由紀は深く、深く吐息を漏らした。凍りついていた何かが、ゆっくりと溶け出していく。


「……本当に。……あなたは、罪な女性ですね、美和さん。……そんな風に言われたら、私はまた、明日から完璧な『高瀬美由紀』を演じなければならないじゃないですか」


 二人の間に、柔らかな笑みがこぼれた。


 美由紀は、最後の一口を飲み干し、席を立った。


「……さて。私も、夜風に当てながら歩いて帰るとしましょう。……少し、頭を冷やしたい気分ですわ」


 重厚な扉をくぐり、風花町の夜道へ出る。


 石畳に響く自分の足音が、妙に心地よかった。

 冷たい夜風が頰を撫で、銀の指先を優しく冷ます。

 ヴァーティゴ・ブルーのプジョーはガレージで待っているが、今夜は歩きたかった。

 胸の奥に残る熱を、少しずつ夜空に溶かしたかった。



 

 翌日。

 

 真理亜ちゃんが学校へ向かう背中を見送ったあと、美由紀は紅茶を一口含み、窓の外に広がる桜並木を眺めた。


 今ではこの町が「家」だ。


 でも、昔は違った。


 二十代半ば。

 都内の高級エステサロンで、将来を嘱望される若手エステティシャンだった頃。

 銀の指先と呼ばれるようになる前。

 まだ、人の肌に触れるたびに「この人は幸せになれるだろうか」と本気で祈っていた頃。


 出会いは、客として訪れた彼だった。

 派手な笑顔と、口達者な話術。

 「君みたいな綺麗な人が、こんなに頑張ってるなんて勿体ないよ」と言いながら、毎週のように通ってきた。

 美由紀は、初めて「自分を甘やかしてくれる人」に出会った気がして、心を許した。


 結婚は早かった。

 真理亜を妊娠した頃には、もう彼の本性が見え始めていた。

 仕事は続かず、酒とギャンブルに金をつぎ込む。

 「俺は君を幸せにするために頑張ってるんだ」と言いながら、実際は美由紀の稼ぎを吸い上げるだけ。

 最初は言葉の暴力。

 やがて、手が上がるようになった。


 「銀の指先」が、初めて自分の肌に触れたときの記憶が、今でも鮮明だ。

 鏡に映る青あざをファンデーションで隠しながら、彼女は自分に言い聞かせた。

 ――これは、家族を守るための代償だ。


 真理亜が生まれた夜、彼は病院に来なかった。

 代わりに、照代おばあちゃん――彼の母親――が駆けつけてくれた。

 「お前はもう、十分頑張ったよ」と、涙を浮かべて言われたあの言葉が、すべてを変えた。


 離婚は泥沼だった。

 慰謝料も養育費も、ほとんど取れなかった。

 彼は「美由紀が浮気した」と言い張り、裁判で争った。

 結局、真理亜の親権だけを勝ち取ったが、代償は大きかった。

 都内のサロンを辞め、貯金をすべて使い果たし、精神も限界に近かった。


 風花町へ越してきたのは、照代おばあちゃんの提案だった。

 「お前はもう、誰かのために生きなくていい。自分のために生きなさい」と。

 彼女は亡くなった夫の遺した小さな家を譲ってくれ、サロンの改装資金まで工面してくれた。

 「銀の指先」を、もう一度、自分のために使ってほしい――それが、照代さんの願いだった。


 開業初日。

 まだ客も少なく、店内ががらんとしていた頃、初めてBar風花の扉を叩いた。

 美和さんの異色瞳と出会った瞬間、美由紀は胸の奥が震えるのを感じた。

 ――この人は、きっと私の傷を見抜いている。

 でも、決して詮索しない。

 ただ、静かにグラスを差し出してくれる。


 それから、毎夜のように通うようになった。

 響子ちゃんの明るい声、沙耶さんの毒舌、常連たちの粋な気遣い。

 そして、天ちゃんの静かな眼差し。

 彼らがいるBar風花が、彼女にとって「もう一つの聖域」になった。


 今、真理亜はすくすくと育っている。

 照代おばあちゃんは、孫娘の笑顔を見て毎日幸せそうに笑う。

 そして美由紀自身も、朝の光の中で鏡に映る自分の顔を、ようやくまっすぐに見つめられるようになった。


 銀の指先は、もう誰かのために傷つくためのものではない。

 自分のために、誰かのために、優しく触れるためのものだ。


 美由紀は紅茶のカップを置き、静かに微笑んだ。


「……今日も、完璧に整えましょうか」


 彼女は白い施術着に袖を通し、一階のサロンへ降りていく。

 風花町の朝は、今日も静かに、けれど確かに彼女を照らしていた。

あとがき


高瀬さんのぼやき、胸にじんわりきました。


完璧な「銀の指先」の裏側にあった、暗い過去と、それでも立ち上がる強さ。

美和さんの「熟成」という言葉が、美由紀さんの心にゆっくり染みていく様子を書いていて、私も救われた気分になりました。


Bar風花は、ただお酒を飲む場所じゃない。

傷を映す鏡であり、優しく照らす陽光でもある――そんな夜の温度を、少しでも感じていただけたら嬉しいです。


第二章、読んでくださってありがとうございます。

また次の夜に、カウンターでお待ちしています。


天照(Bar風花)

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