【Bar風花】第二章 里美さんとマーマレード
前書き
※超短編・完全なる日常回です
※戦闘も恋愛もドラマもありません。ただマーマレードとカクテルと里美さんの暴走だけです
※Bar風花のゆるい空気が好きな方向け
ある夜、Bar風花の扉が勢いよく開いた。
「美和様……聞いてくださいませ……!」
滑り込んできたのは、いつもの冷徹秘書官・天野里美。
彼女を泣かせた犯人は――なんと、持名ベーカリーの『桜印のマーマレード』完売。
絶望する里美に、美和がそっと差し出したのは
仕込み用に取っておいた“至高のマーマレード”と、
それを使った特製カクテル『風花マーマレード・フィズ』。
炭酸の泡に溶ける柑橘の香り。
焼きたてのカンパーニュにたっぷりのマーマレード。
里美の荒んだ心が、ゆっくりと溶けていく――
完全に何も起こらない、ただの甘くて優しい夜の話です。
どうぞ、のんびりお付き合いください。
細い路地の奥、真鍮のランタンが灯る『Bar風花』の扉が、開店の鐘を鳴らす間もなく勢いよく開いた。
「美和様……美和様、聞いてくださいませ……!」
滑り込んできたのは、完璧な夜会巻きもわずかに乱れ、瞳を潤ませた天野里美だった。普段の冷徹な会長秘書官の面影はどこへやら、彼女は鉄刀木のカウンターに縋り付くようにして、絞り出すような声を上げる。
「あの『腹黒カラス』……烏丸さんのせいですわ! 急な会議の議事録作成を押し付けられ、持名さんのベーカリーに辿り着いた時には……もう、棚には何も……影も形も……っ!」
里美は、ハンカチを握りしめてポロポロと涙を零し始めた。風花町支所の責任者でありながら、美和と天が丹精込めて作った『桜印のマーマレード』を買い逃した絶望。それは彼女にとって、世界経済の暴落よりも深刻な事態だった。
「あらあら、里美さん。そんなに泣かないで」
美和は困ったように、けれど慈しむような微笑みを浮かべ、バックバーの奥から小さな、ラベルのない瓶を取り出した。
「お店の仕込み用にとっておいた分があるの。宜しければ、ここで少し召し上がっていく?」
里美の動きが止まった。潤んだ瞳が、奇跡の琥珀色を捉えて大きく見開かれる。
「……宜しいのですか? 美和様の……美和様が直々に調合された至高の滴を、この不甲斐ない里美が……!」
「ええ、もちろん。天ちゃんも、里美さんがそんなに悲しんでいると知ったら、きっと心配するわ」
美和は手際よく、持名のカンパーニュを厚めにスライスし、トースターへと滑らせる。同時に、冷凍庫から極限まで冷やされたジンを取り出した。
夜の静寂を溶かす —— 風花マーマレード・フィズ
美和が里美のために構築したのは、マーマレードの芳醇さを炭酸で解き放つ、洗練されたロングカクテルだった。
ジン・マーレ:オリーブやハーブの香りが、日向夏の苦味と共鳴する。
桜印のマーマレード:4種の柑橘の複雑な甘みと酸味が味の核。
フレッシュレモンジュース:全体の輪郭を引き締め、キレを出す。
強炭酸水:柑橘のエッセンシャルオイルを鼻腔へ運ぶ。
ミキシンググラスの中で、マーマレードとジンがバースプーンによって丁寧に馴染まされていく。氷を入れ、シェーカーで一気に冷却された液体が、薄肉のクリスタルタンブラーへと注がれた。
「どうぞ、里美さん。心を落ち着かせて」
カウンターに置かれたのは、淡い黄金色の液体。そして、表面がサクッと焼かれ、たっぷりとマーマレードが乗せられた一切れのパン。
里美は、震える手でパンを口に運んだ。
オレンジの明るさ、ライムの青さ、そして日向夏の気高い苦味。それらが焼きたての小麦の香りと混ざり合い、口の中で「救済」が始まった。
「……あぁ……。美和様の……美和様の味がいたします……。日向夏のワタのこのほのかな苦味こそ、私の荒んだ心に沁み渡る慈悲の露……っ!」
続いてカクテルを一口。
炭酸の泡が弾けるたびに、煮詰めたマーマレードだけでは閉じ込められていたフレッシュな香りが、ジンのボタニカルと共に鼻を抜けていく。
「いかが? 炭酸を加えることで、ライムの酸味を少し立たせてみたの。お仕事でお疲れの時には、この方が心地良いでしょう?」
「最高ですわ……。烏丸さんへの殺意が、まるで春の雪のように溶けて消えていきます……。あぁ、なんて清らかな世界……」
里美は恍惚とした表情で、最後の一片、最後の一滴までを惜しむように味わった。
十分後。
そこには、先ほどまでの「暴走機関車」の姿はなかった。
口元を上品に拭い、背筋を真っ直ぐに伸ばした、完璧な秘書官・天野里美が座っていた。
「……失礼いたしました、美和様。取り乱した姿をお見せしてしまい、恥じ入るばかりです」
「いいのよ。ここはそういう場所だもの。少しは元気が出たかしら?」
「ええ。これでもう一ヶ月は、あの腹黒カラスの嫌味にも耐えられますわ」
里美は、懐から取り出した手帳に密かに記した。
『〇月〇日:風花にて美和様より直接の配給。カクテルとのマリアージュは、文字通り天上の味なり。次回のマーマレード販売日は、里美が全力で確保する……。』
「またいらしてね。天ちゃんにも、里美さんが元気になったって伝えておくわ」
「有難き幸せに存じます!」
里美は深々と頭を下げ、夜の路地へと消えていった。
その足取りは、先ほどとは比べ物にならないほど力強く、そしてどこか浮き足立っていた。
静まり返った『Bar 風花』のカウンターには、マーマレードの瓶から漏れた、微かなシトラスの残り香だけが、桜の香りと混ざり合って静かに漂っていた。
あとがき
里美さん、爆発してましたね(笑)
美和様のマーマレードが世界平和の鍵だということが、今回も証明されました。
烏丸さんへの殺意が春の雪のように溶ける様子、書いていてとても楽しかったです。
短い話ですが、Bar風花のカウンターらしい「ちょっとした救済」の一幕をお届けできましたら幸いです。
またいつか、別の閑話でカウンターにお邪魔できたら嬉しいです。
天照(Bar風花)




