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第二章 太陽の昇るグラス、沈むグラス

【Bar風花 -kazahana-】 第二章 太陽の昇るグラス、沈むグラス


※本編とは独立した、静かな特別編です。


 風花町のBar風花に、皇グループの頂点――天照大御神と称される「お祖母様」が訪れた。


 庭で採れたオレンジとグレープフルーツを使った

テキーラ・サンライズとサンセットの二杯。


 太陽のような祖母に、孫夫婦が捧げる「始まりの光」と「終わりの光」。


 義務ではなく、安らぎを求める一夜のカウンター。


 どうぞ、静かに味わってください。

 風花町の午後の陽光は、他の土地のそれとは少し違う密度を持っている。櫻庭家の庭に降り注ぐ光は、まるで金色の粒子が空気中に溶け込んでいるかのように、木々の葉を、そしてそこに実る果実を優しく、かつ峻烈に照らしていた。


 「――よし、これくらいかな。いい香りだ」


 櫻庭天(さくらば あまね)は、たわわに実ったオレンジの枝をそっと持ち上げ、妻の美和が差し出す籠に収めた。


 この庭は不思議な場所だ。四季を問わず、あるいは季節を先取りするように、最高の柑橘が実を結ぶ。天が収穫したのは、皮を剥く前から陽だまりのような温かな香りを放つ、完熟のオレンジ。そして、隣の木には月の光を吸い込んだような、淡い黄色を帯びた大ぶりのグレープフルーツが、その重みで枝を優しく撓ませていた。


 「ありがとう、天ちゃん。最高の出来ね。……今日はお祖母様がいらっしゃるから、この子たちの『命』を一番良い形で使わないと」


 美和がオレンジの表面を愛おしそうに撫でる。その指先は、すでにバーテンダーとしての感触を確かめているようだった。


 天は、庭の奥にある、一年中散ることのない桜の木を仰ぎ見た。


 今日の賓客は、(すめらぎ)グループの頂点にして、美和の祖母。この国の経済の太陽とも称される女性――お祖母様(天照大御神)だ。


 天はあえて、その神話的な背景を思考の隅に置いた。自分はあくまでルポライターであり、美和の夫。一人の人間として、愛する妻が最も緊張し、かつ最も大切に想っている「家族」を迎え入れる。それが彼の矜持だった。




 夕刻。街灯の橙色の光が路地を照らし始めると、『Bar風花-kazahana-』の周囲の空気が、微かに、しかし劇的に震えた。


 開店直後の静寂を切り裂くように、漆黒の高級リムジンが路地の入り口に音もなく止まる。


 扉が開かれ、一人の女性が降り立った。


 その瞬間、店内の照明が一段と輝きを増したかのような錯覚を覚えた。物理的な光源ではない。彼女自身の存在が放つ「陽」の気が、影をより深く沈ませ、光をより鮮明に浮き上がらせるのだ。


 「……ごきげんよう。相変わらず、ここは静かな場所ね」


 鈴を転がすような、しかし抗いようのない威厳を湛えた声。


 皇グループ会長、お祖母様が店内に足を踏み入れる。


 カウンターの中で、美和は背筋を真っ直ぐに伸ばし、最高位の賓客に対する「拝礼」のような深く、しなやかな一礼で迎えた。


 「ようこそお越しくださいました、お祖母様。お席へどうぞ」


 天はカウンターの隅の「いつもの席」で、立ち上がって会釈した。


 「お祖母様、お久しぶりです。今日はお元気そうで何よりです」


 「天、お前も相変わらずね。……その、美和の隣を頑なに守る、迷いのない眼差し。嫌いではないわ」


 お祖母様はそう言って、カウンターの中央に腰を下ろした。


 鉄刀木の一枚板がお祖母様の放つ覇気に当てられ、普段よりも深く、鋭い赤褐色の光沢を放っている。




 「美和。私に『始まりの光』を見せなさい。この庭(Bar風花)で、お前たちが何を育て、何を守っているのか。その証を」


 お祖母様の言葉は、孫娘への愛情であると同時に、皇を継ぐ者への厳しい試験でもあった。


 美和は無言で頷くと、先ほど庭で採れたばかりのオレンジを手に取った。


 彼女は、スクイーザーでオレンジを優しく搾り始める。飛び散る果汁の飛沫が、お祖母様の放つ光と共鳴して、カウンターの上で一瞬、火花のように輝いた。搾りたての果汁は、まるで液体の太陽そのものだった。


 美和がバックバーから選んだのは、琥珀色に輝く一本。


 『クエルボ・レゼルヴァ・デ・ラ・ファミリア』。


 三十年以上熟成された原酒を含む、テキーラの最高峰。


 氷を滑り込ませたトールグラスに、熟成されたテキーラと、庭の恵みであるフレッシュオレンジジュースを注ぐ。そして、最後の一手。自家製のグレナデンシロップをバースプーンの背に伝わせ、音もなく底へ沈めた。


 グラスの底から、深紅のシロップが「夜の底から昇る朝日」のように、一切混ざり合うことなく鮮やかな層を作っていく。


 「お待たせいたしました。……『テキーラ・サンライズ』です」


 お祖母様は、そのグラスを手に取り、透過するランプの光に透かした。


 「……美しい。夜の暗闇を押し退けて昇る朝日の、その一瞬の峻烈さが閉じ込められているわ」


 お祖母様が一口、その液体を喉に通す。


 「……っ。テキーラの持つ大地の力強さと、この庭のオレンジの、驚くほど純粋な慈愛。……美和、お前はこの一杯で、私に『統べる者の孤独』を思い出させるのね」


 お祖母様は、窓の外の夜空を仰ぐように目を細めた。


 「常に万物を照らし続けなければならない、太陽という名の責務。日の出は美しいけれど、それは同時に、新たな義務の始まりでもある。……この味には、その覚悟が宿っているわ」


 お祖母様の横顔は、最強の経営者としての、厳格で孤独な「神」のそれだった。




 しばらくの沈黙が流れた。レコードの針が落とすピアノの余韻だけが、店内の静寂を丁寧に紡いでいく。


 やがて、お祖母様はふう、と小さく溜息を吐き、少しだけ肩の力を抜いた。


 「……太陽も、たまには水平線の向こうへ隠れたくなるものよ。美和、今の私に相応しい『終わりの光』を。……義務ではない、安らぎとしての光を」


 美和は、お祖母様のその言葉の中に、一人の「祖母」としての弱さと、自分たちへの信頼を見出した。


 「かしこまりました。……では、こちらの太陽を」


 美和が次に手に取ったのは、月の光を吸い込んだようなグレープフルーツだった。


 彼女はそれを丁寧に搾り、先ほどとは違うレシピの準備を始める。


 彼女はグラスの縁をレモンで濡らし、そこに雪のような結晶塩を纏わせた。スノースタイル(ソルト・リム)。風花町に舞う「風花」に見立てたその塩が、これから訪れる「夜」の冷たさと安らぎを予感させる。


 ベースとなるのは、同じく熟成されたアニェホ・テキーラ。そこに庭のグレープフルーツジュースを合わせ、テキーラの土着的な香りと、グレープフルーツのほろ苦い酸味をぶつける。


 そして仕上げに、深い紫を帯びたブラックベリー・ブランデーをフロートさせた。


 グラスの中に、燃えるような夕焼けが、深い紫の夜に溶けていくマジックアワーが再現される。


 「……『テキーラ・サンセット』でございます」


 お祖母様は、スノースタイルの塩を唇に触れさせながら、その一杯をゆっくりと傾けた。


 「……ああ、美味しいわ。サンライズが『覚悟』なら、このサンセットは『包容』ね」


 ブラックベリー・ブランデーがゆっくりとグレープフルーツの層に染み込み、夜が昼を飲み込んでいくような静止した時間の流れ。


 「お前たちの庭のグレープフルーツは、どこか切なくて、優しい。……塩の冷たさが、火照った私の心を鎮めてくれる。……太陽が沈まなければ、星は見えないのね。……ここに来てようやく、私は明日を忘れられることができるわ」


 お祖母様の表情が、みるみるうちに柔らかくなっていく。そこにはもう、皇グループの会長としての冷徹な顔はなかった。


 孫夫婦を眩しそうに見つめ、その安らかな暮らしを慈しむ、一人の愛すべき「おばあちゃん」がそこにいた。


 「天、美和……。お前たちが守るこの小さな灯火、このBarのカウンターこそが、今の私にとっての天岩戸(あまのいわと)なのかもしれないわね」


 お祖母様は、サンセットの最後の雫を惜しむように飲み干し、ふふ、と悪戯っぽく微笑んだ。


 「ここなら、私はただの『おばあちゃん』として、岩戸に隠れていられる。……お前たちの仲睦まじい姿を見ながら、外の騒がしさを忘れられるのだから」




 お祖母様は、一瞬だけ美和の手を強く握ると、名残惜しそうに立ち上がった。


 「……さあ、夜は明けてしまうわ。私はまた、私の『空』へ戻らなければ」


 彼女が店を後にする際、店内の照明がふっと元の穏やかなアンバー色に戻った。


 黒塗りの車が路地の向こうへ消えていく。


 店内に残されたのは、金色の粉塵のような微かな残り香。そして、庭の柑橘が放つ清々しい余韻。


 天は、カウンターの中で大きく息を吐いた美和の肩を、優しく抱き寄せた。


 「お疲れ様、美和さん。最高の二杯だったよ」


 「……ありがとう、天ちゃん。お祖母様、最後に少しだけ『おばあちゃん』の目になってたわね」


 美和は、お祖母様が触れたグラスの跡を、丁寧に拭き上げた。


 「太陽が沈む場所を守るのが、私の仕事。……天ちゃん、これからも一緒に、この『夜』を守っていきましょうね」


 天は頷き、鉄刀木のカウンターの上、空になったグラスに残った小さな塩の結晶を見つめた。


 そこには、神話のような永遠の威光ではなく、ただ一人の人間として、大切な家族を思いやる、未完成で愛おしい調和だけが、静かに息づいていた。


 風花町の夜は、さらに深まっていく。


 『Bar 風花』の琥珀色の時間は、太陽をも包み込む安らぎの夜陰として、二人を優しく照らし続けていた。

あとがき


 お読みいただき、ありがとうございました。


 お祖母様に捧げたサンライズとサンセットの夜を、少しだけ神話の香りを添えて描きました。


 太陽のような人にも、水平線の向こうに隠れたくなる瞬間がある――そんな優しい一瞬を、Bar風花のカウンターに残せたら嬉しいです。


 また次のグラスでお会いしましょう。


天照(Bar風花)

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