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第二章 零れ桜

第二章 零れ桜


※本編とは完全に独立した、静かな番外編です。

※戦闘・恋愛・コメディ一切なし。80年前の記憶と、たった一つのカクテルと、幽かな再会だけ。

※大戦中の出来事(特攻・戦死)を静かに扱っています。心の準備ができる方だけお読みください。


 今日のBar風花は、いつもと少し違っていた。


 カウンターの端、一番奥の席が「予約席」となっている。

 小さな漆塗りのお盆の上に、桜色の日本酒のボトルと薩摩切子のぐい呑みが、静かに置かれている。


 美和さんが、誰にも話したことのない記憶を、そっと語り始める。

 「80年前の今日、ある方が……お亡くなりになられました」


 無口で、穏やかに微笑みながらお酒を飲む人。

 故郷の奥様と生まれたばかりのお子様の話を、ぽつぽつと。

 そして最後の夜、「また来るよ。お化けになっちゃってるかもしれないけど……びっくりしないで、また美味しいお酒を飲ませてね」と言い残して、沖縄へ飛び立った人。


 そのために、毎年この日だけは席を一つ空けておく。


 今日、カウンターに座る彼の胸に、幼い頃に聞いた祖父の話が重なる。


 美和さんが静かにシェーカーを振る。

 小正醸造の『KOMASA GIN』と、サントリー『奏 -kanade- 桜』で作る特別なカクテル——『零れ桜』


 グラスを掲げ、二人で無言の献杯をする夜。


 そして、カウンターの奥に、ふと現れる影のような姿。


 Bar風花へようこそ。

 今日はいつもより静かなカウンターから、80年の時を越えた、優しい再会をお届けします。


 どうぞ、息をひそめて、グラスを傾けてください。

 今日の風花は、いつもと少し違っていた。


 カウンターの奥、一番端の席が、静かに「予約席」となっていた。


 小さな漆塗りのお盆が置かれ、桜の花を模した形の淡い桜色をした小さな日本酒のボトルと、薩摩切子のぐい呑みが、丁寧に並んでいる。


 ぐい呑みの底には、赤と青の細かな切子模様が光を捉え、カウンターの柔らかな照明の下で、静かにきらめいていた。


 彼はおしぼりで手を拭きながら、美和さんに視線を向けた。


「……あの、今日の予約席って…?」


 美和さんは一瞬、手を止めた。


 グラスを磨く布をそっと置き、長い黒髪を耳にかける仕草で、少しだけ躊躇を見せた。


 やがて、静かに息を吐き、神妙な表情で彼の方へ顔を寄せる。


 「……誰にも、お話ししたことはないんです。でも……貴方には、お話ししてもいいかなって…」


 彼女の声は、いつもより一段低く、どこか遠い記憶をたどるように震えていた。


 「80年前の今日、ある方が……お亡くなりになられました」


 一言一言を、丁寧に、ゆっくりと紡ぐ。


 「その方は、とても無口な方でした。でも、お酒を召し上がるときはいつも、穏やかに微笑んで……本当に美味しそうに飲んでくださって」


 「そして、お酒が進むと決まって、故郷に残した奥様と、まだ生まれたばかりのお子様のお話を、ぽつぽつと……」


 美和さんの瞳が、遠くを見るように細くなる。


 「亡くなる前日も、いつも通りここで一杯召し上がって……お帰りのときに、こうおっしゃいました…」


 彼女は、まるでその言葉を今も耳に残しているかのように、静かに再現した。


 「『また来るよ。でも、次に来るときはお化けになっちゃってるかもしれないけど……びっくりしないで、また美味しいお酒を飲ませてね』って……」


 美和さんは小さく息を吐き、続けた。


 「そしてその方は、次の日、沖縄に向けて飛び立たれたそうです。そして……二度と、戻ってこられませんでした」


 カウンターの向こうで、彼女は目を伏せた。


 「だから、毎年この日だけは……その方のために、席を一つ空けておくんです…」


 彼は、言葉を失っていた。


 美和さんの話を聞きながら、なぜか胸の奥で、写真でしか見たことのない祖父の姿が浮かんだ。


 祖母から幼い頃に何度も聞かされた話。

 

 寡黙で、お酒が好きで、優しかった祖父。


 知覧から一式戦闘機「隼」に乗り、沖縄へ向けて飛び立ち、二度と帰らなかったという。


 「……まさか」


 彼は無意識に呟いていた。


 美和さんが、静かに彼の顔を見上げる。


 その瞳には、驚きと、どこか確信のようなものが混じっていた。


 「良かったら……最初の1杯は、ご馳走させてくださいませんか?」


 彼女は神妙な面持ちで、しかし穏やかに言った。


 「一緒に……献杯して欲しいんです」


 彼は、喉の奥で何かが詰まるのを感じながら、ゆっくりと頷いた。


 「もちろんです。……ありがとうございます」

 

 その言葉を聞くと、美和さんはカウンターのバーマットの上に、静かに道具を並べ始めた。


 大きめのバロンシェーカー、そしてロブマイヤーの繊細なカクテルグラスを三脚。


 さらに、見慣れない二本のボトル——一つは透明なジン、もう一つは淡い桜色のリキュール。


 彼女は穏やかな声で、しかし丁寧に説明を始めた。


 「ジンは、小正醸造の『KOMASA GIN』です。鹿児島で130年以上、焼酎造りを続けてきた蔵元が手がけた、焼酎ベースのジン。最大の特徴は、桜島小蜜柑をキーボタニカルに使っていること。蜜柑特有の甘みと、優しい柑橘の香りが、ふわっと広がるんです」


 美和さんはシェーカーにジンを注ぎながら、ゆっくりと語り続けた。


 透明な液体が、氷の入っていないシェーカーの中で静かに揺れる。


 「これに、サントリーのジャパニーズクラフトリキュール『奏 -kanade- 桜』を加えます」


 桜色のリキュールが、ゆっくりと注がれる。


 淡いピンクがジンと混じり合い、シェーカーの中で優しく渦を巻いた。


 バースプーンで軽くステアした後、彼女は小さなリキュールグラスに少し取り、味を確認する。


 一瞬、眉を寄せた。


 納得がいかなかったのか、もう少しだけリキュールを足し、再び口に含む。


 今度は小さく頷き、満足げに息を吐いた。


 シェーカーに氷をたっぷり入れ、両手でしっかりと握る。

 そして、素早く、力強くシェーク。


 キンキンキン!


 店内に、氷と金属が激しくぶつかり合う、甲高い音が響き渡った。


 いつもより少し強めのシェーク。


 そのリズムに、Bar風花の静かな空気が一瞬、震えるようだった。


 シェークが終わると、美和さんは三つのロブマイヤーグラスに、均等にカクテルを注いでいく。


 淡い桜色の液体が、グラスの中でゆっくりと広がり、表面に小さな氷のフレークが浮かぶ。


 最後に、塩漬けされた桜の花を一輪ずつ、そっと沈めた。


 花びらがゆっくりと底に落ちていく様子は、まるで春の夜に零れ落ちる桜のようだった。


 まず、リザーブ席のお盆の上に。


 次に、彼の前のコースターに。


 そして自分のグラス。


 彼女は静かに息を整え、グラスを手に取った。


零れ桜(こぼれざくら)です」


 その名を口にした瞬間、店内の空気がさらに深くなった。


 彼も急いでグラスを手に取り、彼女の視線に合わせる。


 美和さんは、静かに、しかしはっきりと告げた。


 「かの大戦(大東亜戦争)で散った、全ての魂と……あの方の御霊に、安寧を……」


 小さく呟くように言って、グラスをそっと宙に掲げる。


 彼も何も言わず、静かに自分のグラスを同じ高さに持ち上げた。

 

 二つのグラスは触れ合わない。


 ただ、同じ高さで一瞬だけ止まり、それぞれの灯りが互いの液体の中で揺らめき合う。


 二人とも、無言でグラスを口に運ぶ。


 柔らかなジンの苦味と、蜜柑の優しい甘みがまず広がり、続いて桜の花のような、ほのかに塩気のある香りが鼻腔を抜ける。


 強いアルコール感はあるのに、決して尖らず、飲みやすい。


 喉を通った後、胸の奥に温かな余韻が残った。


 彼はグラスを下ろし、静かに息を吐いた。


 美和さんは、グラスを胸元に寄せ、目を閉じる。


 長い睫毛が、わずかに震えているように見えた。


 「……ありがとうございます」


 彼女の小さな声が、Bar風花の夜に、優しく響いた。


 暫し、二人は無言でグラスを傾けていた。


 零れ桜の余韻が、喉の奥に柔らかく残る。


 蜜柑と桜の香りが、静かに鼻腔を抜け、胸の奥に温かな疼きを残していた。


 ふと、彼は奥の予約席に、誰かの気配を感じた。


 ゆっくりと視線を移す。


 そこに、いた。


 陸軍士官の軍服を着た、精悍な顔立ちの若い軍人が、静かに座っていた。


 国防色の軍服に、肩章は通常の陸軍と同じだが、航空兵科を示す空色のパイピングが縁に細く走っている。


 階級章は金色で、よく磨かれている。


 左胸には、勲章略綬のほかに航空徽章が銀色で大きく輝いている。


  髪は短く刈り込まれ、頬はわずかに日に焼け、しかしその瞳は穏やかで、どこか遠くを見るような優しさがあった。


 彼は驚きのあまり、手に持っていたロブマイヤーのグラスを落としそうになった。


 指先が震え、グラスがカタンとカウンターに当たる小さな音が、Bar風花の静寂を破った。


 軍人はゆっくりと彼の方を向き、彼の顔をじっと見つめた。


 その視線に、懐かしい温かさが宿っている。


 やがて、軍人は優しく微笑んだ。


 そして、美和さんに向かって、静かに頭を下げた。


「まさか……孫と一緒にこんな洒落た酒場で酒が飲めるとは思わなかった……」


 声は低く、しかしはっきりと響く。


 まるで、80年前の夜に、ここで交わした言葉の続きのように。


 「ありがとう……美和さん……」


 軍人はそう言い終えると、スッと、影のように薄れていった。


 空気が、ふっと揺れた気がした。


 彼は我に返り、慌てて予約席に目をやる。


 お盆の上に置かれていたカクテルグラスは、空になっていた。


 桜の花びらは底に沈んだまま、静かに揺れている。


 小さな日本酒のボトルは、跡形もなく消えていた。


 「……え?」


 彼が呆然としていると、どこからともなく、歌が聞こえてきた。


 『……万朶の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く 大和男子と生まれなば 散兵線の花と散れ……』


 古い軍歌の調べが、Barの空気に溶け込むように、かすかに、しかし確かに響く。


 BGMでもない。


 誰かの口ずさみでもない。


 ただ、風のように、記憶のように、漂っていた。


 美和さんは、静かに立ち上がり、空になった席に向かって深々と頭を下げた。


 長い髪が、肩から滑り落ちる。


 彼女の瞳は、涙で潤んでいる。


 しかし、泣き顔ではなく、優しい、諦めと愛しさが混じった表情だった。


 「……日本酒は、靖国で皆様と飲まれるために持って行かれちゃったんですね……」


 彼女は小さく呟き、空いた席に向かって、そっと微笑んだ。


 「もう、またツケが増えちゃいますよ……」


 その言葉に、どこか甘やかな、懐かしい響きがあった。


 彼は、胸の奥で何かが熱くなるのを感じた。


 祖父の顔を、写真ではなく、今、確かに見た気がした。


 グラスを握る手が、わずかに震える。


 美和さんはゆっくりと席に戻り、彼のグラスに視線を落とした。


 「……もう一杯、いかがですか?」


 彼女の声は、いつも通りの穏やかさを取り戻していた。


 しかし、その瞳の奥には、80年の時を越えた、静かな灯りが灯っていた。


 彼は、ゆっくりと頷いた。


 「……お願いします」


 Bar風花の夜は、まだ終わらない。

あとがき


 「零れ桜」、いかがでしたでしょうか。


 この話は、ずっと心の奥にしまっていた想いを、ようやく形にできた一編です。

 80年前の今日、実際に多くの若者たちが知覧や各地から飛び立ち、二度と帰らなかった歴史があります。

 美和さんが毎年空ける「予約席」と、祖父の記憶が重なる瞬間は、僕自身が書いていて胸が熱くなりました。


 美和さんは神様です。

 永遠の時間の中で、人間の「一瞬」を忘れずにいる。

 「お化けになっちゃってるかもしれないけど……」という最後の言葉を、今も覚えていて、毎年グラスを用意する。

 そして、孫と一緒にその席で酒を飲めた夜——神様であっても、失った人との再会は、こんな風に静かで、優しく、儚いのかもしれません。


 最後に流れた軍歌の調べも、桜の花びらが底に沈むグラスも、すべて美和さんの長い長い記憶の一部です。

 「もう、またツケが増えちゃいますよ……」という彼女の呟きに、僕は少し微笑みながら、でも涙が出そうになりました。


 ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。

 少しでも、遠い記憶に思いを馳せる時間が持てたなら幸いです。


 Bar風花は、ただの酒場ではありません。

 時折、こんな夜に、80年の時を越えた灯りがそっと灯る場所です。


 それでは——どうか、静かな夜をお過ごしください。

 またいつか、カウンターの向こうで、別の杯をお届けできたらいいなと思っています。


天照(Bar風花)

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