第二章 知覧
【Bar風花】第二章 知覧
※本編とは完全に独立した、過去を静かに振り返る番外編です。
※戦闘・恋愛・コメディ一切なし。静寂と記憶と、たった一曲の歌だけ。
※大戦中の知覧を舞台にした、重く切ない回想を含みます。心の準備ができる方だけお読みください。
午前四時を過ぎたBar風花。
店内の灯りはすべて落とされ、カウンターの端に置かれた小さな卓上ランプだけが橙色の光を落としている。
誰もいない店内。
カウンターの奥に置かれたGretsch Black Penguinを、美和さんが静かに手に取る。
指が弦を爪弾き、声が低く響く。
それは、彼女がかつて知覧の粗末な酒場で、何度も何度も口ずさんだ——特攻の若者たちへ捧げる、鎮魂の歌。
神である彼女にとって、人間の命は一瞬の瞬きに過ぎない。
それでも、あの頃だけは、彼女は人間の時間に寄り添い続けた。
グラスを静かに置く仕草で「今日も来てくれたね」と言い、翌朝、飛び立つ彼らを見送った。
今夜、再びその歌を歌う彼女の瞳には、遠い知覧の空と、笑顔で扉を開けてくれた若者たちの姿が映っている。
Bar風花へようこそ。
今日はカウンターの向こうではなく、閉店後の静かな店内から、美和さんの記憶の奥底にしまわれた、たった一つの歌をお届けします。
どうぞ、静かに耳を傾けてください。
Bar風花 閉店後、午前四時を少し回った頃。
店内の照明はすべて落とされ、カウンターの端に置かれた小さな卓上ランプだけが、淡い橙色の光を落としている。
外の街灯が窓から薄く差し込み、静寂が店全体を包み込んでいた。
カウンターの奥、普段はグラスを並べる棚の横に置かれたGretsch Black Penguinが、黒いボディに仄かな光を反射している。
美和さんはカウンターを拭き終えると、ゆっくりとそのギターを手に取った。
ケースを開け、ストラップを肩にかけ、静かにスツールに腰を下ろす。
指先で軽く弦を弾いてチューニングを確認し、ため息のように息を吐いた。
誰もいない店内。
ただ、彼女の声と、Gretschの温かなトーンだけが、これから響く。
美和さんは目を閉じ、ゆっくりとイントロを爪弾き始めた。
それは、知覧の粗末な酒場で、ろうそくの灯りの下で何度も口ずさんだ、自らが生み出した鎮魂歌だった。
特攻の若者たちへ捧げる、声に出さずにはいられなかった別れの歌。
声は低く、抑え気味だった。
しかし、言葉の一つ一つに、遠い記憶が乗っているようだった。
Gretschのピックアップが、彼女の指の微かな震えを拾う。
木漏れ日のような柔らかいリバーブが、店内の空気を優しく震わせた。
ここで、彼女はわずかに間を置いた。
目を閉じたまま、息を吸い、再び弦を優しく鳴らす。
声が、ほんの少しだけ震えた。
しかしすぐに抑え、穏やかに続ける。
最後のサビ。
美和さんはゆっくりと目を開き、カウンター席の暗闇を見つめた。
まるで、そこに誰かが座っているかのように。
最後の言葉は、ほとんど囁くように消えた。
Gretschの残響が、静かに店内に溶けていく。
店内は再び、深い静寂に包まれた。
美和さんはギターを膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐き、指先で弦を軽く撫でる。
小さな音が、ぽつりと落ちた。
「……知覧か……」
声は小さく、でもどこか遠くを眺めるような響きがあった。
大戦中、美和さんは知覧で酒場を開いていた。
小さな、粗末な平屋。
屋根はトタンで、雨が降れば激しい音を立てた。
店名はなかった。
ただ、地元の特攻隊員や整備兵、近所の女性たちが「美和さんのところ」と呼んで通う、名もない酒場だった。
焼酎と、闇市で手に入れた芋や麦の酒。
時折、米軍の空襲で電気が消えると、ろうそくの灯りで皆が歌った。
美和さんはいつもカウンターの向こうに立っていた。
神である彼女にとって、人間の寿命など一瞬の瞬きに過ぎない。
それでも、あの頃は、なぜか人間の時間に寄り添っていた。
特攻隊員たちが、最後の夜を過ごしに来る。
「美和さん、俺、明日飛ぶんだ……」
「そう……もう一杯、飲みなさい……」
彼女は静かにグラスを注いだ。
言葉は少ない。
ただ、グラスを置く仕草で「今日も来てくれたね」と、伝えていた。
ある夜、二十歳そこそこの若い少尉が一人で来た。
顔は青白く、手が震えていた。
「美和さん……俺、怖いんです……」
美和さんは黙って焼酎を注ぎ、そっとグラスを滑らせた。
少尉は一口飲んで、ぽつりと続けた。
「死ぬのは怖くない……でも、家族に会えなくなるのが……」
美和さんは静かに答えた。
「……会えるよ。いつか、きっと……」
それは神の言葉だった。
悠久の時を知る者の、確かな予言。
少尉は涙をこらえ、笑った。
「美和さんみたいな人がいてくれて、よかった」
翌朝、彼は飛んだ。
美和さんは店の前で見送った。
エンジンの音が遠ざかり、空が静かになると、彼女は一人で店に戻り、カウンターを拭いた。
いつもと同じように。
戦争が終わった後も、美和さんは知覧にしばらく留まった。
焼け跡に小さな酒場を再建し、復員兵や遺族が訪れるようになった。
誰も彼女の正体を知らなかった。ただ、皆が口を揃えて言った。
「美和さんは、ちっとも変わらないね」
それから何十年。
美和さんは風花町に移り、Bar風花を開いた。
知覧の記憶は、胸の奥深くにしまわれたままだった。
でも、時折、夜の静かな時間に、ふと焼酎の匂いや、特攻隊員たちの笑い声がよみがえる。
今夜も、美和さんはカウンターに肘をつき、目を閉じた。
耳に、遠いエンジン音が聞こえる気がした。
「……また、会えたらいいね……」
店内のランプが、わずかに揺れた。
外の街はもう完全に眠りについているのに、
ここだけは、美和さんの悠久の時間が、ゆっくりと流れ続けていた。
神である彼女は、永遠に待てる。
いつかまた、あの若者たちが、笑顔で扉を開けて入ってくる日を。
グラスを置く仕草で、「今日も来てくれたね」と言いながら。
あとがき
「知覧」、いかがでしたでしょうか。
この話は、ずっと書きたいと思っていたのに、なかなか筆が進まなかった一編です。
知覧の特攻基地は、実際にあった歴史の場所です。
美和さんがかつて営んでいた小さな酒場も、もちろん架空のものです。
けれど、あの時代に本当にいた若者たちや、彼らを見送った人々の想いを、少しでもそっと受け止めるような気持ちで書きました。
美和さんは神様です。
永遠に生き、永遠に待つことができます。
それでも彼女がギターを手に取り、震える声で歌うのは、あの頃の「一瞬の人間の時間」が、彼女の胸の奥に今も確かに刻まれているからだと思います。
「また、会えたらいいね……」
最後のその一言を書きながら、僕自身も胸が詰まりました。
神様であっても、失ったものは失ったまま。
でも、いつかまた笑顔で扉を開けてくれる日を、彼女は本当に信じて待っている。
Bar風花という店は、ただの飲み屋ではありません。
時折、こんな静かな夜に、過去の記憶がそっと顔を出す場所です。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
少しでも心に残るものがあれば幸いです。
またいつか、カウンターの灯りの下で、あるいはこんな夜更けの店内で、別の物語をお届けできたらいいなと思っています。
それでは——どうか、静かな夜をお過ごしください。
サザンオールスターズさんの『蛍』を聴きながら……
天照(Bar風花)




