第二章 神様の初風邪、至福の「あーん」
【Bar風花 第二章】神様の初風邪、至福の「あーん」
※本編とは完全に独立した、甘々でほっこりする夫婦の日常回です。
※戦闘・シリアス・コメディ一切なし。ただの、看病と甘えと、至福の時間だけ。
※少しだけ濃いめのラブ要素(添い寝・あーん・スキンシップ)がありますが、健全な癒し系です。心が疲れている方や、甘いものが好きな方におすすめ。
風花町の桜の家。
神籍を剥奪され、一人の女性として生き始めた美和さんが、初めて風邪を引いた。
熱でふわふわする体。
潤んだヘテロクロミアの瞳。
そして、頼りきった甘えた声で「……天ちゃん」と呼ぶ彼女。
天ちゃんは執筆を放り出し、専属看護師に変身。
卵酒を作り、お粥を「あーん」で食べさせ、額に唇を寄せ、布団の隣でずっと手を握る。
神様だった頃には知らなかった、病の苦しみ。
でも、それ以上に知らなかった、誰かに看病される幸せ。
カウンター越しの距離も、神社の境界線も、もうない。
並んだ二つの布団の中で、ただの「夫婦」として溶け合う時間。
Bar風花の夜とは違う、もう一つの「家」の物語。
神様が人間になって初めて知った、至福の「あーん」と、朝の温もりをお届けします。
どうぞ、ゆっくりと布団に潜り込んで、一緒に甘えてください。
風花町の朝。
いつもなら、誰よりも早く起きて庭の柑橘に水をやる美和さんが、その日は布団の中から出てこなかった。
「……美和さん? 大丈夫?」
心配になって寝室を覗いた僕は、息を呑んだ。
いつもは透き通るような彼女の肌が、林檎のように赤く火照っている。
ヘテロクロミアの瞳は潤み、どこか熱に浮かされたように僕を見つめていた。
「……天ちゃん……。なんだか、体が熱くて、ふわふわするの。これが……『風邪』なのかな……?」
神籍を剥奪され、一人の女性として歩み始めて数ヶ月。
初めての病に戸惑う彼女が、たまらなく愛おしく、そして守るべき存在であることを痛感する。
僕は執筆用のパソコンを閉じ、甲斐甲斐しく「専属看護師」へと変身した。
「まずは、体を芯から温めよう」
僕は台所に立ち、丁寧な手つきで卵酒を作り始めた。
日本酒のアルコールを飛ばし、溶き卵と蜂蜜を加えて、とろりとした琥珀色の液体に仕上げる。
寝室に戻り、僕は横たわる美和さんの背中に腕を回し、自分の胸に預けるようにして上半身を起こした。
「はい、ゆっくり飲んで。火傷しないようにね」
「……ん。温かくて、甘い……」
僕の腕の中で、美和さんが小さく喉を鳴らす。
至近距離で伝わってくる彼女の熱い吐息と、かすかな柑橘の香りに、僕の鼓動も少しだけ速くなる。
飲み終えた彼女の唇に、薄く卵酒の跡がついているのを見つけ、僕は指先でそれをそっと拭った。
「……天ちゃんの手、ひんやりして気持ちいい……」
彼女は僕の手に自分の頬を擦り寄せ、甘えるように目を細めた。
かつての孤高な女神の面影はどこにもない。
そこには、ただ僕を頼り切っている、一人の可愛い女性がいた。
少し落ち着いた頃、僕は丁寧に炊き上げた真っ白なお粥を運んできた。
その上には、彼女が去年漬け込んだ、真っ赤な梅干しが一つ。
「美和さんが漬けた梅干し、最高に美味しそうだよ。はい、あーんして」
「あ、あーん……だなんて、子供みたい……」
顔を真っ赤にしながらも、彼女は素直に口を開けた。
スプーンでお粥を運び、梅干しの欠片を添える。
「……っ、酸っぱい……! でも、すごく美味しい。天ちゃんが作ってくれたお粥、体に染み渡るわ……」
一口食べるたびに、彼女の頬に微かな赤みが差し、生命の輝きが戻っていく。
お粥を完食させた後、僕は彼女の口元を優しく拭い、そのままおでこに自分のそれをぴたりと合わせた。
「……まだ、少し熱いかな」
「天ちゃん……近すぎるわ。私、今ひどい顔してるのに……」
「どんな顔だって、僕にとっては世界一綺麗だよ。……それに、カウンター越しじゃもう我慢できないって言っただろう?」
そう囁くと、美和さんはさらに顔を赤くして、僕のシャツの袖をぎゅっと握りしめた。
食後、薬を飲ませて寝かせようとしたが、彼女は僕の袖を離そうとしなかった。
「……行かないで、天ちゃん。あなたがいないと、急に寒くなる気がするの」
「わかったよ。隣にいる。君が眠るまで、ずっと手を握ってるから」
僕は布団の脇に座り、彼女の細い指を優しく包み込んだ。
神様だった頃には知らなかった、病の苦しみ。
そして、それを分かち合える「誰か」がいることの、圧倒的な幸福。
「……幸せ。風邪を引くのが、こんなに幸せなことだなんて思わなかった……」
「次は僕が引くから、その時は美和さんが看病してね」
「ええ……約束よ。大好き、天ちゃん……」
安らかな寝息を立て始めた彼女の寝顔を見ながら、僕は誓う。
この短くて、脆くて、けれど愛おしい人間の時間を、一秒たりとも無駄にはしない。
明日にはきっと熱も下がる。
そしてまた、二人で庭のレモンを収穫し、当たり前の、けれど奇跡のような一日が始まるのだ。
深夜の風花町。
卵酒とお粥で体が温まった美和さんは、僕の看病のおかげで、ようやく深い眠りの淵に立っていた。
僕は台所の片付けを終え、二人の寝室へと戻る。
十畳の和室に、二つの布団が隙間なく並んでいる。
かつてはBarのカウンター越しに一メートルの距離を保ち、またある時は神社の拝殿と禁足地という、決して超えられない境界線に隔てられていた僕たちが、今は同じ畳の上で、同じ空気を吸って眠っている。
横たわる彼女の隣に、僕も静かに潜り込んだ。
「……天ちゃん? お片付け、終わったの?」
眠りかけていた美和さんが、布団の中で小さく身じろぎをして、僕の方を向いた。
熱が下がり始めたのか、彼女の瞳には少しだけ確かな光が戻っている。
「終わったよ。もう寝よう。……まだ、寒くない?」
「ううん。……でも、なんだか欲張りになっちゃったみたい」
美和さんは自分の布団から、そっと細い腕を伸ばしてきた。
僕は迷わずその手を握りしめる。
二つの布団の境界線を跨いで、僕たちの指先が絡まり合う。
「神様だった頃はね、眠る必要なんてなかった。夜はただ、あなたがまたここへ来てくれるのを待つためだけの、長い長い孤独な時間だったの……」
彼女の指先が、僕の掌をなぞる。
「でも今はね、こうして隣にあなたの気配を感じて、一緒に目を閉じるのが、世界で一番の幸せ。……風邪を引いて、心細くなった分、あなたの体温がもっと欲しくなっちゃった」
僕は布団から少し身を乗り出し、彼女の火照ったおでこに、自分の唇をそっと寄せた。
以前、卵酒を飲ませた時よりも、熱は確実に引いている。
「……ん。天ちゃん、冷たくて気持ちいい……。でも、ダメよ。風邪、うつっちゃうわ」
「うつったって構わないよ。その時は今度は、美和さんがお粥を炊いてくれるんだろう?」
「……ええ。とびきり酸っぱい梅干しを乗せてね」
美和さんはくすくすと笑い、僕の手を自分の頬に押し当てた。
暗闇の中で、彼女の右目のワインレッドと左目の琥珀が、吸い込まれるように美しく揺れている。
「ねえ、天ちゃん。明日、目が覚めても隣にいてくれる?」
「当たり前だろう。明日も、明後日も、数十年後の朝も。……そして、いつかお祖母ちゃんが迎えに来るその時まで、僕は君の隣で眠って、君の隣で目を覚ますんだ」
「……ふふ。おやすみなさい、私の大切な人」
「おやすみ、美和さん。……大好きだよ」
美和さんは僕の手を握ったまま、今度こそ深い、安らかな眠りに落ちていった。
等間隔に刻まれる彼女の寝息。
窓の外では、神社の森が夜風に囁き、庭の柑橘が静かに香っている。
並んだ二つの布団。
それは、神話の終焉であり、名もなき二人としての新しい物語の、何より確かな「目次」だった。
翌朝。
和室の障子越しに、柔らかな春の陽光が差し込み、畳の上に格子状の光を描いていた。
ふと意識が浮上した僕は、自分の布団の中に、「昨日まではなかったはずの温もり」を感じて目を覚ました。
ずっしりと心地よい重みと、ふわりと鼻をくすぐる、微かな柑橘と石鹸の香り。
「……ん。天ちゃん……あったかい……」
隣に並べていたはずの布団はもぬけの殻で、美和さんが僕の腕の中にすっぽりと収まっていた。
寝ぼけて潜り込んできたのだろう。
彼女の冷たい足先が僕の足に絡まり、熱の引いた滑らかな肌が、パジャマ越しに僕の胸に押し付けられている。
「美和さん……おはよ。熱、すっかり引いたみたいだね」
僕が囁きながら彼女の背中に手を回すと、美和さんは「ふふ……」と力なく笑い、僕の胸に顔を埋めたまま、さらに深く潜り込んできた。
「……おはよう、天ちゃん。……なんだか、自分の布団が急に広くて、寂しくなっちゃったの。気づいたら、あなたの匂いがする方に吸い寄せられちゃって」
顔を上げた彼女の瞳は、昨日の潤んだ虚ろさとは違い、澄み渡るような輝きを取り戻していた。
右目のワインレッドが朝日を浴びて宝石のように煌めき、左目の琥珀が僕を優しく射抜く。
至近距離で見つめ合うと、彼女の長い睫毛の震えまでが手に取るようにわかった。
「……もう、どこも痛くない? 体、重くない?」
「ええ。……ただ、あなたの腕の中が心地よすぎて、心が重いわ。ここから出たくなくなっちゃうもの」
美和さんは僕の頬にそっと手を添えた。その指先は昨日よりずっと温かく、確かな「人間の熱」を帯びている。
「……天ちゃん。私、昨日のお粥と卵酒の味、一生忘れないわ。あなたが私のために一生懸命、不慣れな台所に立ってくれたこと……」
「不慣れじゃないよ。君のために作るなら、なんだって最高のものにしたいからね」
僕は彼女の腰をぐっと引き寄せ、額に唇を落とした。
かつてBar風花のカウンター越しに、指先すら触れられなかったあの時間が、今では嘘のようだ。
「……ねえ、天ちゃん。あと五分だけ、このままでいてもいい? バーテンダーでも女神でもない、ただの『甘えたがりの美和』でいさせてほしいの」
「五分と言わず、一時間でも、一生でも。……今の君を独り占めできるのは、世界中で僕だけなんだから」
「……ふふ、欲張りね。……でも、お腹が空いちゃった。今日は私がお返しをする番。とびきり美味しいフレンチトーストでも焼こうかしら。昨日のお粥のお礼に」
「それ、最高の快気祝いだね。……でも、もう少しだけ。美和さんの体温、もう少しだけ充電させて」
僕は彼女の柔らかな髪に顔を寄せ、深く息を吸い込んだ。
並んだ布団の境界線を越えて、僕たちの時間は今、完全にひとつに溶け合っている。
窓の外では、神社の桜が風に舞い、鳥たちが新しい一日の始まりを告げていた。
神話でもなく、悲劇でもない。
一分一秒を愛おしむ、二人だけの「ただの日常」が、今日もここから始まっていく。
あとがき
「神様の初風邪、至福の「あーん」」、いかがでしたでしょうか。
この話は、僕が一番書きたかった第二章のひとつです。
美和さんは神様でした。
永遠に強く、孤独で、誰にも弱さを見せたことのない存在。
でも天ちゃんと結婚して、人間になった途端、初めて風邪を引いて……。
その瞬間、彼女は「ただの可愛い妻」になったんですよね。
卵酒を飲むときの小さな喉の音。
「あーん」って照れながら口を開ける仕草。
布団の中で「行かないで」と袖を握る手。
そして朝、勝手に潜り込んできて「あったかい……」と顔を埋めてくる寝ぼけ顔。
全部、書いていて胸がきゅんきゅんしました。
神様でも、風邪を引けば甘えたくなる。
病気の苦しみも、看病される幸せも、全部人間の時間だからこそ味わえる奇跡なんだなって。
この第二部では、Bar風花のカウンターとは違う「家」の顔を、少しずつ見せていけたらと思っています。
次は庭でレモンを収穫する話とか、海里くんがまた遊びに来て三人で過ごす話とか……甘い日常がまだまだ続きそうです。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
少しでも「ふふっ」って笑えたり、胸が温かくなったら嬉しいです。
風邪なんて引かないでほしいけど、もし引いたときは、誰かに「あーん」してもらえるといいですね。
それでは——また桜の家の布団の中で、お待ちしています。
天照(Bar風花)




