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43杯目 深夜の此花神社 此花の刻

【Bar風花 -kazahana-】深夜の此花神社 此花このはなとき


※Bar風花シリーズの続編です。

※41杯目「離婚届と、最後のバルーション」の直後のお話になります。

※ここから少しだけ、幻想・神話・桜・転生の香りが強くなります。現実的なバー日常が好きな方はご注意ください。

※派手なバトルも恋愛もありません。ただ、長い長い時間の果てに、たった一人の「彼さん」がたどり着く場所を描いた話です。


 バルーションの甘い余韻を残したまま、彼さんは深夜の風花町を歩いていた。

 美和さんが最後に残した言葉だけを胸に——「……今夜、深夜零時。此花神社の裏……あの場所に来て」


 雨の止んだ石段を登るたび、世界が変わっていく。

 幻の桜が狂い咲き、太古の森が現れ、純白の小袖と緋袴で舞う彼女は、もう「バーテンダーの美和さん」ではなかった。


 右のワインレッドが夜を焼き、左の琥珀が月を映す。

 神楽鈴の音が魂の鍵を外していく。


 数千年の孤独と、幾度となく繰り返された別れ。

 そして、ようやく思い出す「本当の名前」。


 Bar風花の扉をくぐった男が、たどり着いたのは——此花の刻。


 Bar風花へようこそ。

 今夜は、カウンターではなく、神社の裏で。

 どうぞ、桜の舞う闇に、静かに身を委ねてください。

 その夜、彼さんは自宅を出て、雨の残る風花町の道を一人で歩いていた。


 バルーションの甘い余韻が、まだ舌の奥に残っている。


 美和さんの瞳の色が、頭から離れない。


 店を出る直前、彼女が静かに呟いた言葉が、耳に蘇った。


 「……今夜、深夜零時。此花神社の裏……あの場所に来て」


 その言葉を最後に、美和さんは一度も彼さんと目を合わせなかった。


 磨き上げられたカウンターに置かれたバルーションの入ったカクテルグラス。


 彼さんの手が無意識にそれに触れ、カチリと小さな音を立てる。


 それが、二人の間の静寂を切り裂く唯一の合図だった。


 彼さんは、手持ち無沙汰な左手の薬指に視線を落とす。


 そこには、先程まで嵌められていた銀色の輪の跡が、薄い日焼けの残り香のように白く浮き出ていた。


 家も、地位も、積み上げてきた時計コレクションも、すべてを置いてきた。


 今の彼さんの手元に残っているのは、駐車場に眠るTOYOTA GRヤリスのキーと、わずかな身の回り品、そして、空っぽになった自分という器だけだ。


 自由になったはずなのに、今の彼さんには、彼女の瞳を真正面から覗き込む勇気がまだ足りない。


 すべてを捨てて逃げ込んできた「港」で、彼女というあまりに美しい花に目を焼かれるのを恐れている。


 そんな男だ、彼さんは。


 しかし、目の前でグラスを拭う美和さんの背中は、いつになく細く、そして夜の闇を吸い込むように透き通って見えた。


 「美和さん、俺は……もう、何も持っていないんだ。美和さんの前に立つ資格なんて、最初からなかったのかもしれない」


 「……何も言わないで。今夜、すべてを見せるから。私が誰で、貴方が——本当は誰なのかを」


 彼女の声は、命を吹き込まれた鈴の音のように凛としていた。


 店を出る際、背中に浴びたのは雨の音ではなかった。


 それは、数千年の孤独をようやく解き放とうとする、彼女の祈りにも似た、深い溜息だった。


 


 深夜。


 風花町は深い闇に沈んでいた。


 此花神社の鳥居は、現世と隠世を分かつ巨大な口のように、彼さんを待っていた。


 一歩、石段を踏みしめる。


 (……懐かしい……)


 不意に、鼻腔をくすぐる匂いがあった。


 それは線香の煙でも、湿った土の匂いでもない。


 もっと甘く、胸が締め付けられるような、圧倒的な「春」の香り。


 二歩、三歩。登るほどに、僕の意識は混濁していく。


 「彼さん、こっちだよ!」


 鈴を転がすような少女の声が、耳の奥で木霊する。


 (そうだ。僕はここにいた。この場所で、誰かを待っていたんだ)


 石段の両脇には、あるはずのない幻の桜が、蕾を膨らませていた。


 登るにつれ、蕾は一斉に綻び、五分咲き、七分咲きへと、僕の歩調に合わせて狂い咲いていく。


 まるで、僕の記憶が呼び覚まされるのを、世界が祝福しているかのように。


 最上段に辿り着いた時、風花町の夜景は消えていた。


 そこにあるのは、銀色の月光に照らされた、太古の森だった。




 拝殿の裏、そこには天を覆い尽くさんばかりの、巨大な桜の大木が鎮座していた。


 幹の太さは数人がかりでも抱えきれず、枝先からは、白銀の光を放つ花びらが、絶え間なく降り注いでいる。


 その中心で、彼女は舞っていた。


 「……っ!」


 声が出なかった。


 そこには、僕の知る「バーテンダーの美和さん」はいなかった。


 純白の小袖に、鮮やかな緋袴。


 長く艶やかな黒髪は、金の水引で結わえられ、激しい舞に合わせて生き物のように躍動している。


 神楽鈴の音が、空間を震わせる。


 シャラン……シャラン……。


 その音は、僕の魂の深奥にある「鍵」を、一つずつ外していく。


 彼女が翻るたび、右目のワインレッドが夜を焼き、左目の琥珀が月を映し出す。


 その瞳は、もはや人間を見つめるものではなかった。数千年の時を統べる、神の視座。


 (ああ、綺麗だ……。でも、なんて哀しい瞳なんだ……)


 彼女が袖を振ると、猛烈な突風が吹き荒れた。


 舞い散る花びら。


 それが僕の頬をかすめるたび、脳内に「映像」が流れ込んでくる。


 それは、彼女が孤独に歩んできた、億劫の記憶だった。


 燃える知覧の空。


 若き隊員の手に、彼女はそっと満開の桜の枝を渡した。


 灰燼に帰した戦後の街。


 絶望の淵に立つ人々に、彼女は一杯の「水」を差し出した。


 そして、幾度となく繰り返される「彼さん」との別れ。


 五歳の僕。


 十歳の僕。


 二十歳の僕。


 そのたびに、彼女は姿を変え、名前を変え、僕の傍らにいた。


 ある時は近所の年上のお姉ちゃん。


 ある時は旅先で出会った見知らぬ少女。


 僕はそのたびに彼女を忘れ、別の女性と恋をし、年老いて死んでいった。


 彼女だけを、この「Bar風花」のような止まり木に置き去りにして。


 「思い出して……彼さん……!」


 舞い狂う桜の嵐のなか、彼女の叫びが聞こえた気がした。


 その瞬間、彼のなかで何かが、轟音を立てて砕け散った。


 「——お姉ちゃんっ!!」


 叫んでいた。


 喉が裂けるほどに。


 混濁していた記憶が、一本の太い線となって繋がる。


 彼は、ただの客ではない。


 彼は、この女性を、この神様を、幾星霜もの間、孤独にさせ続けてきた張本人だ。


 既婚? 責任? そんな言葉、この数千年の愛に比べれば、塵芥にも等しい。


 「お姉ちゃん! 僕は、僕はここにいるよ!」


 彼は、禁足地の境界を越え、彼女のもとへ走り出した。

あとがき


 深夜の此花神社 此花の刻、いかがでしたでしょうか。


 41杯目の重い朝から一転、夜の闇に飛び込んだ特別編になりました。

 正直、ここまで神話寄りに踏み込むとは自分でも思っていませんでした。

 でも、書いているうちに美和さんの瞳の奥にずっとあった「数千年の孤独」が、勝手に溢れ出してきて止まらなくなったんです。

 桜の狂い咲き、神楽の音、知覧の空、戦後の灰……すべては彼女が彼さんを待ち続けた証。

 そして彼さんが、ようやく「思い出して」しまった瞬間。


 Bar風花はただのバーじゃなかった。

 彼女はただのバーテンダーじゃなかった。

 でも、それでも彼女は毎晩、グラスを磨き続けていた。


 この話が、読んでくださった皆さんの胸に、静かな桜の花びらを一枚でも残せていたら嬉しいです。

 ここから先は、もう少しだけ「Bar風花」の本当の姿が見えてくるかもしれません。

 42杯目……いえ、次の「刻」で、またお会いしましょう。


 それでは、此花神社の月明かりの下で——。


天照(Bar風花)

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