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42杯目 境内の桜、永遠に散らない約束

【Bar風花 -kazahana-】42杯目 境内の桜、永遠に散らない約束


※Bar風花シリーズ42杯目です。

※桜・神話・ギターの調べ・隠された想い・永遠の約束がテーマの、切なく温かい閑話です。

※派手な展開はありません。ただ、雨の夜に響く歌声と、遥か昔の記憶をお届けします。


 彼さんを見送った後の、開店前のBar風花。

 カウンターに残るバルーションのグラス。

 雨音だけが響く店内で、美和さんは黒いGretschを抱き、静かに歌い始める。


 長沢ゆりかの「My Dear...」が、震える声で紡がれる。

 右のワインレッドと左の琥珀の瞳が、仮面を外した瞬間——そこに浮かぶのは、神話の時代から続く、たった一つの約束。


 丘の上の古い神社。

 満開の桜の下で交わした、小さな手の温もり。

 「また来年も遊ぼうね」


 人間の時間は儚く、神の時間は永い。

 それでも彼女は、ずっと見守り続けていた。


 雨の夜、スマホに届いた一通のメッセージ。

 「またすぐ、Bar風花に行きます。」


 Bar風花へようこそ。

 42杯目は、桜が永遠に散らない約束の物語。

 どうぞ、雨音とともに、静かに耳を傾けてください。

 駐車場まで彼さんを見送った後。


 美和さんは独り、降り始めた雨の中を歩き、Bar風花の重厚な扉を開けた。


 店内はまだ、開店前の深い静寂に包まれている。


 照明は点けない。窓の外を流れる街灯の淡い光と、雨の気配だけがカウンターに落ちている。


 さっきまで彼さんが座っていた席には、まだバルーションのグラスが残っていた。


 鮮やかな赤い液体は、もうほとんど空になっていた。


 「旅立ち」の一杯を、彼さんは静かに飲み干して帰っていった。


 美和さんはコートを脱ぎ、店の奥に置かれたギターケースを持ってくると、ケースの中から黒く輝くGretsch社のBlack Penguinを取り出し、そっと膝に抱えた。


 Eマイナーの重く低い音が、雨音に溶け込むように響く。


 長沢ゆりかの「My Dear...」が、震える吐息とともに、彼女の唇から溢れ出した。


 『降り続ける 夜の激しい雨の中 涙を隠してる人がいるね……』


 歌いながら、彼女の視線は虚空をさまよう。


 右目のワインレッドが、静かに燃え、左目の琥珀が、金色の涙のように揺れる。


 誰もいない店内で、ヘテロクロミアの瞳が剥き出しになる瞬間——それは、神の仮面が剥がれ落ちる瞬間でもあった。


 「……彼さん……」


 小さな呟きが、雨に飲み込まれる。


 胸に、遠い記憶が蘇る。


 それは、神話の時代から数えて、何百年も何千年も後の、ただ一つの春。


 丘の上の古い神社。


 桜の木々が境内を覆い尽くし、風が吹くたびに花びらが雪のように舞い落ちる、あの場所。


 小さな彼さんは、まだ5つか6つ。


 両親の仕事で一人ぼっちの日が多く、いつも石段に座って、空を見上げていた。


 寂しげな小さな背中。


 神として、無数の人間の孤独を見てきた美和さんなのに——あの子の背中だけは、なぜか特別に痛かった。


 「ねえ、ひとりで何してるの?」


 桜の花飾りを髪に挿した少女の姿で、彼女はそっと隣に座った。


 彼さんはびっくりして顔を上げ、大きな瞳で彼女を見つめた。


 その瞳に映るのは、純粋な驚きと、ほんの少しの希望。


 「……お母さんが忙しくて、誰も遊んでくれない……」


 その言葉が、木花咲耶姫の胸を鋭く刺した。


 神として、人の恋を、悲しみを、何世紀も見てきた。


 でも、こんな小さな子の「誰も遊んでくれない」という一言が、こんなにも深く抉るなんて。


 それから、彼女は毎日のように境内に現れた。


 彼さんが来る時間を見計らって、桜の木の下で待つ。


 一緒に鬼ごっこをしたり、石蹴りをしたり、花びらで冠を作ったり。


 彼さんの小さな手が、彼女の指に絡まるたび、心が温かくなる——神なのに、人間のような温かさを感じてしまう。


 「見て見て! お姉ちゃんの似顔絵!」


 彼さんは地面に桜の花びらを並べて、笑顔の絵を描いた。


 美和さんは笑って、そっと頭を撫でた。


 「ありがとう。でもね、私、本当はもっときれいなもの知ってるよ」


 彼女は彼さんの手を引いて、本殿の裏の小さな祠へ。


 そこに一本だけ、特別に古い桜の木が立っていた。


 満開の花が、まるで天から降る光のように輝く。


 「ここは私の秘密の場所。絶対に誰にも言っちゃダメだよ?」


 彼さんは真剣に頷いた。


 「うん! 約束! お姉ちゃんの秘密、ずっと守る!」


 小さな手が、ぎゅっと握り返す。


 その温もりが、神の永遠の時間に、初めて「今」という瞬間を刻んだ。


 やがて、最後の春が来た。


 家族の引っ越しが決まり、彼さんは最後の日、境内いっぱいの桜の下で立っていた。


 「お姉ちゃん、また来年も遊ぼうね」


 小さな声で、約束した。


 美和さんは笑顔で頷いたけど、心の奥でわかっていた。


 人間の時間は儚い。


 この子は大きくなり、きっと忘れる。


 神の時間は永い。


 この記憶だけが、永遠に残る。


 『泣くだけ泣いたっていいじゃないの…… つらいつらい時も、見守り続けてる……』


 ギターの弦を強く弾き、ビブラートが深くかかる。


 声が途切れ、喉が熱くなる。


 今、彼さんは離婚したばかり。


 家庭の責任と罪悪感をようやく手放し、このBarに通い続けている。


 深夜の電話で、カウンター越しで、渇望の後の悲しみを吐露する。


 美和さんはそれを受け止める。


 神として、見守ることしかできない。


 でも、あの境内で握った小さな手は、今も掌に残っている。


 彼の疲れた笑顔を見るたび、胸が裂けそうになる。


 あの頃の純粋な瞳が、今は罪悪感と恋心で曇っていた。


 「あなたの魅力わかってるよ」


 「あなたの痛みわかってるよ」


 ——それは、あの桜の下で交わした約束の続き。


 最後のフレーズを、震える声で繰り返す。


 『降り続ける 夜の激しい雨の中 恋を捨てきれずに彷徨ってる……Dear my friend』


 弦の余韻が消えるまで、息を殺す。


 瞳を開くと、頰に熱い雫が伝う。


 彼女は気づかないふりをして、指で拭う。


 でも、もう止まらない。


 涙が、雨のように、次から次へと零れ落ちる。


 「……彼さん……あの桜の下で、約束したよね。私が、ずっと見守ってるって」


 その時——。


 カウンターに置いていたスマホが、微かな振動とともに光った。


 画面に浮かび上がったのは、つい先ほど別れたばかりの、彼さんからの通知。


 『今日は本当にありがとう。またすぐ、Bar風花に行きます。』


 美和さんは、はっと息を呑んだ。


 「またすぐ」——。


 悠久の年月待った彼女にとって、その短い言葉が、どれほどの救いになるか。


 「……待ってる。ずっと、待ってるから……」


 彼女はスマホを胸に抱きしめ、声を殺して泣いた。


 やがて美和さんはゆっくりと立ち上がり、涙を拭った。


 ポニーテールを直し、再び「神の仮面」を被るように、白いバーコートに腕を通す。


 外では雨が降り続き、あの神社の社の裏では、桜が永遠に咲き続けている。


そして、ここBar風花では——彼女の想いが、今日も静かに、彼を待っている。

あとがき


 42杯目 境内の桜、永遠に散らない約束、いかがでしたでしょうか。


 この話は、ずっと書きたかった美和さんの“もう一つの顔”を、ようやく出せた回です。

 木花咲耶姫として、神話の時代から人間の孤独を見てきた彼女が、ただ一人の小さな男の子と交わした約束。

 あの桜の下で握った手の温もりが、今も掌に残っている——そんな切ない想いを、雨の夜のギターと「My Dear...」の歌声に乗せて描きました。


 41杯目の「バルーション」で旅立った彼さんが、離婚の傷を抱えながらも「またすぐ」とメッセージをくれる。

 その短い言葉が、神の悠久の時間の中でどれほど尊いものか。

 美和さんが涙を拭って再び仮面を被る瞬間、胸が熱くなりました。


 読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。

 シリーズも42杯目となり、少しずつ美和さんの秘密が明らかになってきました。

 でもBar風花は変わらず、ただ寄り添うだけの店。

 次は43杯目……彼さんが再びカウンターに座ったとき、どんな1杯が注がれるのか。

 どうか引き続き、お付き合いいただけると嬉しいです。


 雨の夜も、桜の季節も、Bar風花の扉はいつでも開いています。


 それでは、カウンターの向こうで、静かに待っています——。


天照(Bar風花)

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