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41杯目 離婚届と、最後のバルーション

【Bar風花 -kazahana-】41杯目 離婚届と、最後のバルーション


※Bar風花シリーズ41杯目です。

※離婚・人生の転機・静かな慰め・カクテルがテーマの、ちょっとシリアスな閑話です。

※派手な展開や恋愛要素はありません。ただ、大人が人生の分岐点で立ち止まる瞬間をお届けします。


 朝の冷たい光が差し込むリビング。

 テーブルに置かれた一枚の離婚届。

 妻の乾いた声と、すでに記入された親権・養育費・財産分与。

 彼さんはほとんど何も持たず——車とバイクと、たった一本の時計だけを残して——家を出た。


 雨の残る風花町の路地を、息を切らして駆ける。

 行き先は、いつものカウンター。

 そこにいるのは、右のワインレッドと左の琥珀の瞳を持つ美和さん。


 「ここは、旅立つ前の船が最後に休む港ですよ」


 美和さんが静かに振る舞う、最後の1杯。

 名前は「バルーション」——フランス語で『旅立ち』という意味。


 離婚届を抱えた朝に、甘く爽やかな赤い液体が、新しい航路を照らす。


 Bar風花へようこそ。

 41杯目は、人生の終わりと始まりの狭間。

 どうぞ、静かにグラスを傾けながらお付き合いください。

 朝の光がリビングに冷たく差し込んでいた。


 彼さんはテーブルに置かれた一枚の紙を、ただ黙って見つめていた。


 離婚届。


 彼が神戸旅行から帰ってきた数日後、彼の顔を見るなり、静かに置いたものだった。


 「これでいいんでしょう?」


 妻の声は、感情を削ぎ落としたように乾いていた。


 神戸旅行での不在、深夜の帰宅、スマホに残る短いメッセージ……すべてが、最後のきっかけになったらしい。


 すでに記入済みの欄には、子供の親権(妻側)、養育費の額、そして財産分与の項目が並んでいた。


 「この家も、貯金も、時計のコレクションも……全部貴方が持ってっていいわ。子供のためなら養育費だけで十分よ……」


 彼さんは離婚届を握りしめたまま、静かに頷いた。


 「わかったよ。でも子供のため全部渡すよ。只、申し訳無いけど、車とバイクはカスタムしすぎて高く売れない。車とバイクとパイプと就職して初めて買ったディトナだけは……僕が持っていく。身の回りの物も最低限でいい」


 妻は一瞬、驚いたような顔をしたが、何も言わなかった。


 必要最低限の言葉しか交わさない夫婦の、終わりを告げる書類だった。


 彼さんはペンを握ったまま、指先が震えるのを感じた。


 胸の奥で、罪悪感が渦を巻く。


 でも、同時に


 ——(……これで、自由になれる)


 そんな自分自身に、吐き気がするほどの自己嫌悪が襲ってきた。


 「サインして。今日中に役所に出すから」


 妻はそれだけ言い残し、寝室のドアを閉めた。


 カチッ、という音が、まるで彼の人生の終わりを告げるように響いた。


 彼さんは離婚届にサインを済ませ、封筒に入れた。


 自宅の鍵、銀行通帳、時計コレクションのリスト……すべてをリビングのテーブルの上に置いた。


 残るのは、TOYOTA GRヤリスとKawasaki GPZ900R、特に愛着のあるパイプ数本、就職して初めて買ったロレックスのディトナ、そしてキャリーケース一つだけだった。


 「……美和さん」


 呟いた瞬間、足が勝手に動いていた。


 封筒をコートの中に押し込み、玄関を飛び出した。


 雨がまだ残る風花町の朝の道を、彼は全力で走った。



 

 Bar風花の扉を押し開けたのは、開店直前の午前11時過ぎだった。


 店内はまだ薄暗く、カウンターの向こうで美和さんがグラスを磨いていた。


 彼女は彼さんの荒い息遣いに気づき、静かに顔を上げた。


 「……彼さん?」


 その優しい声が、彼の最後の堤防を崩した。


 彼さんはカウンターに突っ伏すように座り、震える手で離婚届の封筒を取り出した。


 言葉にならない嗚咽が、喉の奥から漏れる。


 「美和さん……俺……離婚します。……妻から……、さっき離婚届を突きつけられて……家も貯金も時計のコレクションも、全部渡した。子供のためなら、それでいいって……俺、全部手放したんです」


 美和さんはグラスをそっと置き、カウンター越しに彼さんの手に自分の手を重ねた。


 温かかった。

 神戸の夜と同じ、優しく包み込むような温かさだった。


 「そう……」


 彼女は静かに息を吐き、穏やかな瞳で彼さんを見つめた。


 右目のワインレッドと左目の琥珀が、朝の光の中で優しく揺れる。


 「ここは、旅立つ前の船が最後に休む港ですよ。次の航路は……あなたが決めるんです。財産も、過去も、全部置いていって大丈夫。私は、ここで待っていますから」


 彼さんは顔を上げた。


 涙で滲む視界の中で、美和さんの微笑みが、まるで救いのように見えた。


 「美和さん……俺、もう逃げない。ここで……ちゃんと、自分の人生を選びたい」


 美和さんは小さく頷き、特別なグラスを静かに置いた。


 鮮やかな赤い液体が、朝の光を受けて宝石のように輝いている。


 「彼さん、私から1杯、ご馳走させてくださいね」


 彼女はウォッカとストロベリーリキュールを優しく混ぜ、レモンの爽やかな酸味を加え、シェーカーを静かに振った。


 キン……という軽やかな音が、店内に響く。


 注がれたグラスは、甘く華やかな赤色で、まるで新しい朝焼けのようだった。


 「バルーション……フランス語で『旅立ち』という意味です。彼さんの、これからの道に……少しでも明るい光を添えられたら……」


 彼さんはグラスを両手で包み、ゆっくりと口に運んだ。


 甘いストロベリーの香りと、ほのかな柑橘の爽やかさが、胸の奥の重いものを優しく溶かしていく気がした。


 離婚届は、もう役所へ出される封筒に入ったままカウンターに置かれていた。


 でも、もう迷いはなかった。


 Bar風花の朝の光の中で、彼さんの新しい航路が、静かに始まろうとしていた。

あとがき


 41杯目 離婚届と、最後のバルーション、いかがでしたでしょうか。


 この話は、人生で一番重い「終わり」と、一番優しい「始まり」を同時に描きたくて書きました。

 離婚届を握りしめてBar風花に駆け込んだ彼さんの震える手と、美和さんの温かい掌。

 そして、ウォッカとストロベリーとレモンの優しい酸味で作る「バルーション」。

 甘さの中にほのかな苦味が残るように、過去を溶かしながら新しい朝を迎える——そんなイメージです。


 Bar風花はいつも、逃げてきた人が最後に寄りつく港。

 美和さんは決して説教せず、ただ1杯を差し出して「次の航路はあなたが決めるんです」と微笑む。

 それが、この店の優しさであり、強さだと思っています。


 読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。

 41杯目という節目で、少しだけ重いテーマに挑戦しましたが、読後感にほんのり温かさが残っていたら嬉しいです。


 次は42杯目……またどんなお客さんが、どんな1杯を求めて扉を押すのか。

 楽しみにお待ちいただけると幸いです。


 それでは、カウンターの向こうで——。


天照(Bar風花)

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