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40杯目 帰路の記憶 〜神戸の夜が、雨に溶けて〜

【Bar風花 -kazahana-】40杯目 帰路の記憶 〜神戸の夜が、雨に溶けて〜


※Bar風花シリーズの第40杯目・短編です。

※本編を知らなくても単独でお読みいただけますが、シリーズの空気感を味わっていただけるとより深く感じられると思います。

※戦闘・アクション・ハッピーエンドもありません。ただ、雨に溶ける記憶と、ほろ苦いカクテルの余韻だけです。

※既婚者・不倫感情・切ない想い・クラシックカーの描写が含まれる、大人の物語です。苦手な方はご注意ください。


 神戸からの帰路。

 246GTのV6エンジンが夜の高速を咆哮する。

 助手席から見つめる美和さんの瞳——右はワインレッド、左は琥珀。

 桜の花びらが舞う春の夜道で、二人は静かに言葉を交わす。


 ……そして風花町の駐車場に滑り込んだ瞬間、現実は冷たい雨に変わる。


 自宅の薄暗いリビングで、彼は妻の寝息を聞きながら、ブロンクスのグラスを傾ける。

 甘いオレンジの陰に隠れた、ジンの鋭い刺激。

 「あの夜」は、ただの「まやかし」だったのか。


 雨の音だけが響く深夜。

 胸に残るエンジンの余韻と、美和さんの体温。

 Bar風花のカウンターで交わした約束は、今も静かに燃え続けている。


 Bar風花へようこそ。

 今夜は、助手席から見える夜景と、雨に濡れた帰路の記憶をお届けします。

 どうぞ、静かにグラスを傾けながらお付き合いください。

 風花町の自宅、リビングの隅に置いた小さな作業机。


 彼さんはパソコンのブルーライトに照らされながら、持ち帰った資料に目を通していた。


 妻はもう寝室に引き上げ、ドアの向こうからはテレビの音も聞こえない。


 ただ、キーボードを叩く乾いた音と、窓を叩く細かい雨音だけが部屋に響いている。


 ふと、手が止まった。


 資料の端に挟まっていた、神戸旅行のときの領収書が目に入った。


 246GTのガソリン代。


 美和さんが笑いながら「次は私が運転するね」と言った、あの日の記憶が、一気に溢れ出す。


 ……あの夜の帰路。




 246GTの赤いボディは、神戸から高速に乗り、山陽自動車道を南下していく。


 夜の闇が窓外を覆い、遠くの街灯が点々と流れる。


 美和さんは運転席でハンドルを握り、時折アクセルを優しく踏む。


 V6エンジンが低く「ゴロゴロ……」と喉を鳴らし、回転が上がると「フォン! クォン!」と甲高く咆哮する。


 クラシックフェラーリの鋭いサウンドが、夜の高速に長く尾を引いていた。


 助手席の彼さんはシートに体を預け、美和さんの横顔をそっと見守っていた。


 彼女の瞳——右目が微かにワインレッドに輝き、左目が琥珀のように温かく光る——が、ダッシュボードの灯りに映える。


 彼さんはふと気づき、静かに尋ねた。


 「美和さん……瞳の色、違うよね。右と左で。改めて気づいたけど……なんか、神秘的だ。めぐみちゃんの瞳と似てるかも……」


 美和さんはくすっと笑い、視線を前へ戻した。


 声は穏やかだが、どこか遠い記憶を帯びる。


 「うん。ヘテロクロミアって言うの。生まれつきで……昔、神社で出会った頃から、ずっと変わらないよ。あの桜の下で、誰かと大切な約束をしたみたいに……永遠に散らない記憶みたいにね……」


 彼さんは少し首をかしげ、微笑んだ。


 「神社? 子供の頃の話?なんか、美和さんらしいな。桜の下で遊ぶ美和さん、想像したら可愛いよ」


 美和さんは頰を少し赤らめ、アクセルを軽く踏んだ。


 エンジンが「クォォン!」と応え、車は闇を切り裂くように進む。


 桜の花びらがボディに残り、夜風に優しく舞う。


 二人は言葉少なに、旅の思い出を胸に秘め、風花町へ向かう。


 春の夜道が、優しく二人を包み込んでいた。



 

 ……午前1時を回った頃、風花町の小さな駐車場に246GTの赤いボディが、静かに滑り込んだ。


 美和さんはブレーキを優しく踏み、エンジンを切った。


 その瞬間——V6の力強い咆哮が徐々に収まり、「フォン……」という高く澄んだ余韻だけが、夜の闇に長く尾を引いて消えていった。


 車内を包んでいた甘い旅行の熱が、ふっと冷たい現実へと変わるのを感じた。


 神戸の街灯、笑い声、二人だけの密やかな時間……すべてが、エンジン音とともに遠ざかっていく。


 美和さんはハンドルからゆっくりと手を離し、助手席の彼さんの方へ体を向けた。


 彼女の瞳はまだ旅の興奮でほんのり輝いていたが、微笑みの奥に、わずかな寂しさが滲んでいるように見えた。


 「私の方こそ……今日は、本当に楽しかった。彼さんの笑顔を、こんなに近くで見られて……」


 声が少し震えた。


 彼女は彼さんの手を、そっと両手で包み込むように握り返した。


 温もりが、ほんの少しだけ長く続いた。


 桜の花びらが、ダッシュボードの灯りに照らされて、静かに舞い落ちる。


 彼さんは頷き、彼女を軽く抱きしめた。


 「うん。絶対に行くよ。美和さんのそばに……」


 二人は名残惜しそうに体を離した。


 ドアを開ける音が、夜の静寂に響く。


 美和さんは駐車場に降り立ち、夜空を見上げた。


 山の麓から運ばれてくる桜の香りが、急に遠く感じられた。


 彼さんは助手席から降り、彼女の肩にそっと手を置いた。


 「今日は……本当にありがとう。美和さんと一緒で、特別な旅だった」


 美和さんは微笑んだ。


 でも、その笑顔は、どこか儚かった。


 「またBar風花で待ってるね。いつでも来て……あのハイボールを飲みに」


 二人はもう一度、軽く抱きしめ合った。


 246GTの赤いボディが、夜の闇に溶けていった。



 

 彼さんは一人、冷たいアスファルトを踏みしめながら自宅へと向かった。


 玄関の鍵を開ける音が、妙に大きく響く。


 リビングの明かりを付けると、妻が寝室のドアを閉めたままの冷たい空気が、旅行の余韻を一瞬で飲み込んだ。


 彼さんは電気を消し、月明かりと雨の気配だけが漂う暗いキッチンに立った。


 戸棚の奥からロックグラスを取り出し、氷を静かに入れた。


 ジン、ドライベルモット、スイートベルモット、オレンジジュースを順に注ぎ、バースプーンでゆっくりとステアする。


 氷がグラスの中で優しく回る音だけが、静まり返った部屋に響いた。


 ショートグラスに注がれたその液体は、美和さんの琥珀色の瞳を思わせる、淡く濁ったオレンジ色をしていた。


 カクテル「ブロンクス」


 一口啜ると、オレンジのフレッシュな甘みが広がり、その直後にジンの鋭さとベルモットの複雑な苦みが追いかけてくる。


 「……まやかし、か……」


 彼さんは独り言のように、そのカクテル言葉を呟いた。


 甘いジュースの陰に隠された、強いアルコールの刺激。


 それは、平穏な日常の仮面を被りながら、心の奥底で美和さんとの記憶に身を焦がす自分そのもののように思えた。


 この温もりも、エンジンの咆哮も、彼女の瞳の輝きも、すべては夜が作り出した「まやかし」なのだろうか。


 リビングのソファに深く沈み込み、彼さんはスマホを手に取った。


 指先が、短いメッセージを綴る。


 『今日は本当にありがとう。またすぐ、Bar風花に行きます。』


 送信ボタンを押すと、画面のブルーライトが消え、再び部屋は深い闇に包まれた。


 窓の外では、雨がしとしとと降り続いていた。


 妻の規則正しい寝息が、壁の向こうから聞こえる。


 胸の奥に残る「ブロンクス」のほろ苦さと、消えない美和さんの体温。


 あの帰路の記憶は、現実と虚構の境界線で、今も静かに燃え続けている。

あとがき


 40杯目 帰路の記憶、いかがでしたでしょうか。


 この話は、神戸旅行から帰ってきた“その後”を、雨の夜に独りで振り返る話です。

 246GTのエンジン音、桜の花びら、美和さんの二色の瞳、そして自宅で飲むブロンクスのほろ苦さ……。

 甘い記憶と冷たい現実が、雨に溶けていくような感覚を、できるだけ丁寧に書きました。


 実はこの話は、以前の「神戸旅行」の続きとして書いたもので、車好きの自分としてもフェラーリ246GTのサウンド描写にはかなりこだわりました(笑)。

 「まやかし」という一言に、主人公の胸の内を全部詰め込んだつもりです。


 読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。

 Bar風花は、派手な恋愛でもなく、ただ静かに心に残る場所でありたいと思っています。

 この雨の夜に、少しでも胸の奥がざわついたり、温かくなったりしたら嬉しいです。


 次は41杯目でまたお会いしましょう。

 雨が止んだら、またカウンターでハイボールを——。


天照(Bar風花)

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