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39杯目 ロブ・ロイ~英雄の名を冠した、優しい止まり木~

【Bar風花 -kazahana-】ロブ・ロイ~英雄の名を冠した、優しい止まり木~


※本編やこれまでの話を知らなくても、単独でお楽しみいただけます。

※おスコッチベースのカクテル、雨の夜のバー、静かな会話、疲れた心を癒す時間、ジャズのBGMが好きな方向け。

※アクション・恋愛・ドラマチックな展開は一切ありません。ただ、ゆったりと心を預けるだけの、大人の癒し回です。


 雨が静かに降りしきる田舎町の夜。

 飲み屋街の外れ、古びたレンガ壁に蔦が絡まる小さな店『Bar風花』


 長年続けた大規模プロジェクトをようやく終えた彼さんは、達成感よりも深い虚無感を抱えて店を訪れる。

 カウンターの向こうには、いつものように美和さんがいる。

 右のワインレッド、左の琥珀——二つの瞳が、静かに彼を迎え入れる。


 「今夜は、少し特別に……英雄の名を冠した一杯を」


 Johnnie Walker Black LabelとCarpano Antica Formulaが織りなす、甘くほろ苦いルビー色の液体。

 スコッチのスモークとベルモットの優しさが、疲れた心をそっと包み込む。


 Bar風花は、ただの飲み屋ではない。

 英雄でさえ、時には心を預けたくなる——そんな「優しい止まり木」。


 今夜も、雨音とジャズだけが流れるカウンターで。

 どうぞ、ゆっくりとグラスを傾けながら、おくつろぎください。

 雨が静かに降りしきる田舎町の夜だった。


 飲み屋街の外れ、古びたレンガ壁に蔦が絡まっている。


 淡いオレンジ色のランタンが雨に濡れて揺れ、真鍮のプレートに刻まれた文字——『Bar 風花 -kazahana-』——が柔らかく浮かび上がる。


 雪の結晶のような繊細な模様が、雨粒を反射してきらめいていた。


 彼さんは濡れたコートを羽織ったまま、息を吐いた。


 今日、長年携わっていた大規模プロジェクトがようやく完了した。


 達成したはずなのに、心にぽっかりと穴が開いたような虚無感だけが残っていた。


 家族への罪悪感も、どこか遠い霧のように胸にまとわりつく。


 足は自然と、この店に向かっていた。


 重厚なオーク材の扉を押し開ける。


 中から漂ってきたのは、ほのかに桜の花の香り——遠い春の風のような、甘く儚い匂い——と、古い木材のウッディノート。


 静かなジャズが、耳に障らない小さな音量で流れていた。


 薄暗い店内を、柔らかな間接照明が優しく包んでいる。


 カウンターは鉄刀木の一枚板。黒に近い濃い灰褐色で、鏡のように磨き上げられ、冷たく重い存在感を放っていた。


 七脚の本皮黒ローチェアが等間隔に並び、バックバーの鏡にボトルたちが宝石のように輝く。


 そこに、いつものように彼女がいた。


 櫻庭美和さん。


 二十代半ば、身長百六十五センチのすらりとした背筋。


 肌は透けるように白く、頰に自然な血色が差している。


 長いダークブラウンの髪に桜色のハイライトが控えめに散らばり、高めのハイポニーテールでまとめ、銀のバレッタが光を反射していた。


 瞳は美しいヘテロクロミア——右目は深いワインレッド、重厚で妖しく血の温度を感じさせる色。


 左目は淡い琥珀、柔らかく透明な金色。


 左耳にはピジョンブラッド・ルビーの小さな輝き。


 純白のバーコートは上から二つだけのボタンを留め、Hカップの胸元が柔らかに浮かぶ。


 白のスラックスに黒ローファー。


 右手薬指には極細のマットシルバーリング、内側に「月と星」の刻印。


 左手にはPatek Philippeのローズゴールド時計。


 彼女はグラスを螺旋状に磨きながら、静かに微笑んだ。


 キリッとした整った顔立ちが、柔らかな笑顔で別人のように優しくなる瞬間だった。


 「いらっしゃいませ、彼さん。今夜も、雨ですね」


 彼さんはいつもの左端の席にゆっくりと腰を下ろした。


 濡れたコートを脱ぎながら、椅子の背もたれに丁寧に掛ける。


 指先がわずかに冷えていた。声が出ない。


 美和さんはカウンター越しに、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。右のワインレッドの瞳が、彼さんの疲れた横顔を優しく捉える。


 「今夜も、お疲れのようですね……。雨に濡れたコートがずいぶん重たそうですわ。どうぞ、ゆっくりおくつろぎください」


 彼さんは小さく息を吐き、ようやく口を開いた。


 「……ありがとうございます。今日は、長年続けてきたプロジェクトがようやく終わったんです。でも、終わってみたら……なんだか不思議な感じで」


 美和さんはグラスを置く手を止め、彼の言葉に耳を傾けた。


 「達成感よりも、むしろ空虚さが先に立ってしまう……そんな夜もありますよね。彼さんらしいですわ。いつも一生懸命に、何かを深く背負っていらっしゃるから」


 彼さんは鉄刀木のカウンターに肘をつき、視線を少し落とした。


 「そうかもしれません。家族にも、もっと時間を取ろうと思っていたのに……結局、ただ疲れだけが残ったような気がして。ここに来ると、ようやく肩の力が抜けるんです」


 美和さんは静かに微笑みながら、桜色のハイライトが揺れる髪を軽く耳にかけた。左手でPatek Philippeの時計をそっと撫でる仕草は、まるでこの時間を長く引き留めたいかのようだった。


 「嬉しいお言葉です。このBar風花が、あなたの港になれているなら……それだけで、私は充分です。でも今夜は、少しだけ特別にしたい気分なんですの。いつもより、深く、あなたの心に寄り添える一杯を」


 彼さんは彼女の言葉に、わずかに目を細めた。美和さんの声はいつも通り優しく、詩的だった。どこか甘い響きが、雨の夜に溶けていく。


 「特別な一杯……ですか?」


 「ええ。ロブ・ロイという名前のカクテルです。英雄の名を冠した、甘くほろ苦い一杯。まるで……貴方の心をそっと、奪いたいような味わいだと言われています」


 「彼さん、今夜は私に、少しだけ心を委ねてみませんか? 言葉にしにくい疲れも、虚無も、全部このカウンターに預けてくださいね」


 彼さんはしばらくグラスのないカウンターを見つめ、それから静かに頷いた。


 「……わかりました。お任せします」


 美和さんは一瞬でその虚ろな目を読み取った。


 右のワインレッドの瞳が、ほんの少し細められる。


 彼女はバックバーから、Johnnie Walker Black LabelとCarpano Antica Formulaをそっと取り出す。


 指先の動きは、まるで大切なものを慈しむように優しく、静かだった。


 「彼さん……今夜は、少し特別な一杯を。ロブ・ロイ、と申します。十八世紀のスコットランドの英雄、ロブ・ロイ・マクレガーの名を冠したもの。反逆者でありながら、誰よりも自由を愛した男の物語……。甘く、ほろ苦く、それでも芯の強い味わい……そんな一杯です」


 彼さんは少し目を細めたが、ただ美しい比喩だと受け取った。


 美和さんの声はいつも通り、詩的で穏やか。


 彼女の左の琥珀の瞳が、カウンター越しに彼を優しく包み込むように輝いていた。


 「……お願いします」


 美和さんは静かに頷き、作業を始めた。


 ミキシンググラスに氷をたっぷりと。


 Johnnie Walker Blackのスモーキーな蜂蜜香を静かに嗅ぎ、Carpanoの濃厚なハーブとバニラを思い浮かべる。


 比率は直感で二対一。


 アンゴスチュラビターズを二ダッシュ。


 バースプーンを握る手は、まるで恋人の指を絡めるように丁寧だった。


 長く静かにステア——二十秒、三十秒……氷が少し溶け、液体が深みを増す。


 ルビー色が、カウンターの鉄刀木に映り込む。


 チルドしたバカラのクープグラスに、そっとストレイン。


 最後にLuxardoのマラスキーノチェリーを一本、まるで「預かった心の鍵」のように沈める。


 「カチ」という小さな音が、静かな店内に響いた。


 間接照明がルビー色を鏡に反射し、桜の香りと混ざる。


 彼さんはグラスを手に取った。


 一口。スコッチのスモークが胸の奥に広がり、ベルモットの甘さが虚無を優しく包み込む。


 ビターズのほろ苦さが、静かに囁く——「もういいよ」。


 「……美味しい」


 声がわずかに震えた。


 美和さんはカウンターに両手を置き、左の琥珀の瞳を細めて微笑んだ。


 指先が、グラスの縁をそっと撫でる。


 「お疲れのようですね……お顔は穏やかでも、心は遠くを見ていらっしゃる……。ロブ・ロイは英雄の名です。でも英雄だって、時には誰かに心を預けたくなる。今夜は私が、少しだけ、優しい止まり木になりましょうか?」


 彼さんはグラスを眺めながら、初めて本音を零した。


 長年のプロジェクトが終わったのに、何も残らなかったこと。


 家族への罪悪感。


 言葉が自然と溢れ出た。


 美和さんは決して慰めなかった。


 ただ、静かに聞き、時折「ええ」と相槌を打つ。


 その視線は、右のワインレッドが深く、彼の瞳の奥まで覗き込むように優しかった。


 時折、彼女のハイポニーテールの桜色のハイライトが照明に揺れ、まるで彼を誘う桜の花びらのように見えた。


 「このロブ・ロイのように……芯の強い自由を、少しずつ取り戻してくださいね」


 ジャズのピアノが、Bill Evansの静かな旋律を奏でる。


 二杯目を注ぎながら、美和さんは同じ所作を繰り返した。


 ステアの音だけが、雨音と重なる。


 彼女の左手が、Patek Philippeの時計をそっと押さえる仕草——まるで、時間がこの瞬間だけ止まってほしいと願うように。


 雨が小降りになった頃、彼さんは空のグラスを見つめた。初めて、小さく笑った。


 「美和さん……今夜は、本当にありがとう。心が、随分軽くなった気がします」


 美和さんはカウンター越しに、左の琥珀の瞳を柔らかく輝かせて微笑んだ。


 「ふふ、預かったのは私ではなく……このロブ・ロイです。いつでも、返しに来てください。バーは港。あなたが次の旅に出るまで、ここはあなたの止まり木ですよ……♪」


 彼さんが店を出る背中を見送りながら、美和さんはそっとグラスを磨き続けた。


 鉄刀木のカウンターに、ルビー色の残光と桜の香りが静かに残る。雨は、もうほとんど止んでいた。


 外のレンガ壁に、桜の枝が雨滴を落としている。


 彼さんの足音が遠ざかる。


 美和さんはリングを指先で軽く撫でた。


 「また、明日も……彼さんの心を、少しずつ、奪っていけますように」


 独り言は、誰にも聞こえない。


 だが、Bar風花はいつもそうだった。


 夜の桜が、カウンターに静かに咲く場所。


 英雄の名を冠した一杯が、今日も一人の心を優しく、そっと預かった。


 彼さんは帰り道、胸の奥に残るスモーキーな余韻を感じていた。


 甘く、ほろ苦く、それでもどこか温かい。


 ロブ・ロイ。英雄の名。


 空っぽだった心に、初めて小さな灯がともった気がした。


 雨上がりの空に、淡い月が浮かんでいた。

あとがき


 ロブロイ、いかがでしたでしょうか。


 この話は「プロジェクトが終わった後の虚無感」を抱えた人が、ただ静かに心を預けられる場所を描きたくて書きました。

 ロブ・ロイ・マクレガーという18世紀のスコットランド英雄の名を冠したカクテルは、甘くほろ苦く、それでも芯の強い味わい。

 まさに、疲れ果てた心に「もういいよ」と囁きかけてくれるような一杯です。


 Bar風花のカウンターは、いつもそんな「優しい止まり木」でありたいと思っています。

 美和さんがグラスをステアする音、雨の音、Bill Evansの静かなジャズ……。

 何も起こらない夜こそ、実は一番大切な時間なのかもしれません。


 読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。

 ここまでお付き合いいただけて、作者としてもとても嬉しいです。

 これからも、Bar風花のカウンターでは様々な一杯を、静かに、丁寧に、お届けしていきたいと思います。


 次はどんなカクテルが待っているのか……少しだけお楽しみに。


 それでは、また雨の夜に、あるいは晴れた夜に。

 グラスを片手に、Bar風花でお待ちしています。


天照(Bar風花)

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