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38杯目 コープス・リバイバーNo.2 死んでもあなたと~閉店前の最後の杯~

【Bar風花-kazahana-】コープス・リバイバーNo.2 死んでもあなたと ~閉店前の最後の杯~


※Bar風花シリーズの短編・閑話です。本編を知らなくても単独でお楽しみいただけます。

※お酒(特にクラシックカクテル)、閉店後の静かなバー時間、疲れた心を癒す優しさ、ほのかな切なさが好きな方向け。

※派手な展開はありません。ただ、夜の終わりと「生き返る」一杯に込められた想いだけが静かに揺れます。


 風花町の路地奥、古びた煉瓦のBar風花。

 閉店まであと十五分。看板の灯りがそろそろ消える時間。


 カウンターの向こうで、美和さんはいつものように最後のグラスを磨いていた。

 右のワインレッド、左の琥珀——異色の瞳が、今日も一人残った常連「彼さん」を優しく見つめる。


 妻帯者で地元にUターンした彼さんは、疲れを隠せない。

 家に帰りたくないと、ただこの店に留まる。

 美和さんは静かに頷き、最後の1杯を振る舞う。


 死者を蘇らせる、と言われる伝説のカクテル——コープス・リバイバーNo.2。

 ジン、オレンジリキュール、レモンジュース、アブサン……彼女の指先が、儀式のように丁寧に動く。


 閉店前の静かな店内。

 ジャズの余韻とパイプの煙が溶け合う中、二人の心がそっと重なる。


 Bar風花へようこそ。

 今夜は、閉店までのわずかな時間に、優しく「生き返る」一杯をどうぞ。

 どうぞ、静かにグラスを傾けてください。

 風花町の飲み屋街は、夜も深く静まり返っていた。


 市街地から車で一時間以上離れたこの片田舎の外れ、古びた煉瓦の外壁に蔦が絡み、街灯の橙色にぼんやりと浮かぶ一角に、Bar風花はひっそりと佇んでいた。


 入口の重厚なオーク材の木製ドアに付いた磨き上げられた真鍮の取っ手がわずかに光を反射している。


 看板は控えめだ。


 真鍮の板に「Bar風花-kazahana-」の文字が浮かび、風に揺れるたびに鈍い輝きを放っている。


 今夜はもう、看板の灯りもそろそろ消える時間だった。


 閉店まであと十五分。風花町の夜は、静かに息を潜めていた。




 ドアを押し開けると、店内は閉店直前の柔らかな静けさに包まれていた。


 薄暗い空間に直接照明と間接照明が絶妙に配置され、カウンターの鉄刀木が深く艶やかな赤褐色に輝いている。


 鏡張りのバックバーには高級グラスが整然と並び、黒革のローチェアが並んで、まるで優しい止まり木のように客を待っていたが、この日の客はもう彼さんだけ。


 空気には微かな桜の香りが漂い、遠くから流れる静かなジャズ――今夜はビル・エヴァンスの『Waltz for Debby』が、ゆっくりと店内を満たしていた。


 ウイスキーとタバコの残り香が、いつものように店を優しく包んでいる。


 照明は少し落とし、閉店準備の柔らかな陰影が、店全体をまるで夜桜の木陰のように包み込んでいた。




 美和さんはカウンターの内側で、いつものように最後のグラスを磨いていた。


 20代半ばのスレンダーな体躯、165センチ程の身長に透き通る程白く美しい肌。


 ダークブラウンの髪に桜色のハイライトを入れ、ハイポニーテールにまとめ、銀のバレッタで留めている。


 左耳にはピジョンブラッドルビーのピアスが控えめに輝き、そして――彼女の最大の特徴は、あの異色の瞳だった。


 右目がワインレッド、妖しく深紅に燃えるような神秘の色。


 左目が琥珀、柔らかく銀のきらめきを帯びた優しい光。


 白オックスフォードシャツに黒ウールベスト、白スラックスというシンプルな装いだが、その佇まいはまるで夜桜のように優雅で、客の心を自然と引き寄せる。


 彼女はバーテンダーとしてだけでなく、この店の「優しい止まり木」。


 バーは港。


 旅に疲れた船が体を休め、一時の安らぎを得て、次の旅へ出発する場所。


 そしてバーテンダーは止まり木……ただの板じゃなく、そこに彼女がいるから優しさが生まれる。


 観察力に優れ、客の微かな変化を瞬時に見抜く。話し方はいつも柔らかく、丁寧。


 疲れた魂がここに着地すれば、静かに癒されていく。それが、Bar風花の掟だった。




 その夜も、美和さんはいつもの仕草でカウンターを拭きながら、最後の片付けを進めていた。


 閉店まであと少し。


 もうラストオーダーも過ぎ、店内は静まり返っていた――はずだった。


 カウンター席の端、いつもの席。


 そこに、彼さんがいた。


 パイプを片手に、すでに空になったバーボンのロックグラスを指で軽く回しながら、うとうとと目を閉じている。


 煙が細く立ち上り、桜の香りと混ざり合って、独特の甘苦い余韻を残す。


 コートを羽織ったまま、肩が少し落ちている。


 妻帯者でUターンして半年、この町に戻ってきてから、Bar風花は彼の唯一の逃げ場だった。


 美和さんは磨いていたグラスをそっと置き、異色の瞳で彼さんを見つめた。


 右のワインレッドがわずかに細くなり、左の琥珀が優しく光る。


 「……彼さん」


 柔らかな声で呼びかける。


 心配がにじむ。


 疲れがたまっているのが、ひと目でわかった。


 頰の影、肩の落ち方、息の深さ、そしてグラスを回す指の微かな震え。


 彼女はいつもこうだ。言葉にせずとも、心を見抜く。


 彼さんはゆっくり目を開けた。パイプの煙を一吹きし、苦笑を浮かべる。


 指がグラスを止めた瞬間、朝の電話の残響がよぎったような表情が一瞬浮かんだ。


 「ああ、美和さん……ごめん、ついウトウトしてしまって……もう閉店時間でしょ?」


 「ええ。でも、いつでもいらしてくださいね。Bar風花は、彼さんのための止まり木ですから♪」


 彼女は微笑んだ。


 春の陽だまりのような柔らかな笑み。


 白い歯がわずかに覗く。


 照明の柔らかな陰が、彼女の異色の瞳をより深く、優しく照らしていた。


 彼さんは空のグラスをカウンターに置き、ため息を一つ。声が低く、疲労を隠せない。


 「まだ……帰りたくないんだ。家に帰っても、ただ疲れが積もるだけだから。ここにいると少しだけ息ができる……」


 彼の指が、グラスの縁をもう一度なぞった。


 美和さんはカウンター越しに身を寄せ、静かに聞いた。


 観察する瞳が、彼さんの心のひび割れを優しくなぞる。


 妻からの電話――「また遅くなるの?」という少し尖った響き、子供の寝顔を横目に「この町で本当にいいのか」と自問する視線。


 すべてが、彼の肩に重くのしかかっているのが、彼女には痛いほど伝わってきた。


 彼さんは続けた。


 まるで独り言のように。


 「家に帰れば妻はもう寝ているだろう。子供も……。上京時代は、仕事終わりにバーでパイプを燻らして、明日への力を蓄えられたんだ。でも今は……家に帰ると息が詰まるんだ……美和さんのいるこの店だけが、俺の港なんだよ」


 美和さんの胸が、静かに疼いた。


 だからこそ、彼さんの「港」を守りたい。


 守りたいという想いが、胸の奥で静かに燃える。


 「疲れがたまっていますね……。無理なさらないでください。もう閉店間近ですが、少しお休みになりますか?」


 「それは悪いよ……いや……でも、まだ帰りたくない……最後にもう一杯だけ、いいかな?」


 彼さんの言葉に、美和さんは小さく頷いた。


 彼女の胸に、いつもの温かな決意が灯る。


 この男を、ただの客としてではなく、守りたいと思う気持ち。


 カウンター越しに交わす時間は、彼女にとって特別だった。


 閉店前のこの静かなひとときが、今日一番の優しい瞬間だった。


 「では、最後の1杯をお作りしましょう。……コープス・リバイバーNo.2はいかがですか? 死者を蘇らせる、と言われる一杯です。こんな疲れた夜にはぴったりのカクテルですよ♪」


 彼女の声は穏やかだが、どこか甘く響く。


 彼さんはパイプを手に持ったまま、軽く目を細めた。


 「いいね。それでいこう。でも美和さんの手にかかったカクテルなら、どんなカクテルを飲んでも俺は生き返るよ」


 美和さんは微笑みを深め、動き始めた。


 プロのバーテンダーとして、儀式のように丁寧に。


 まず、少し小さめのクーペグラスを取り出すと、氷を入れて軽くステアしてグラスを冷やす。


 次に、氷を捨てて水を切ったグラスにアブサンを少量注ぎ、グラス内側全体に回してリンスする。


 アニスの香りがふわりと立ち上がる。


 これが鍵。


 微かな苦味と香りが、全体を締めくくる。


 シェイカーに、Tanqueray No.10を30ml。


 ロンドンドライのボタニカルが、彼女の指先で優しく揺れる。


 右のワインレッドの瞳が集中し、左の琥珀が柔らかく輝く。


 次にCointreauを30ml、オレンジリキュールの甘い輝き。


 Cocchi Americanoを30ml――オリジナルに近いKina Lilletの代わりに、彼女はいつもCocchi Americanoを愛用する。


 軽いハーブと苦味が、完璧なバランスを生む。


 そしてフレッシュレモンジュース30ml。


 レモンを手で絞り、酸味を新鮮に。


 指先がレモンを握るたび、彼女の心に一枚の記憶が蘇った。


 ――彼さんが初めてこの店に足を踏み入れた夜。


 あの夜は開店直後だった。


 彼さんは迷うようにドアを開け、あの時は「ジントニックを……」と注文した。


 疲れた目、でもどこか懐かしそうな視線。


 美和さんは彼の心の渇きを一瞬で見抜き、完璧なジントニックを振るった。


 あの時、彼は一口飲んで「ここが、俺の港だ」と呟いた。


 以来、毎日のように通い、今日もまた彼はここに居る。


 ここでしか見せない本当の顔を、彼女だけに。


 シェイカーを閉じる。


 彼女の動きは優雅で、正確。10秒、15秒。


 リズミカルにシェイクする。空気を含ませ、ふんわりとした泡立ちを待つ。


 シェイクの音が、静かな店内に心地よく響く。


 照明の陰影の中で、彼女の白い手が優しく舞う。


 右の瞳が「彼さんを蘇らせたい」と願い、左の瞳が「この想いを、そっと」と優しく囁く。


 「このカクテル、1930年のサヴォイ・カクテルブックに載ったんです。ハリー・クラドックが作った、死者を蘇らせる一杯。No.1はブランデーベースですが、No.2のジンベースが一番人気で……四杯続けざまに飲むと、逆に死者を死なせてしまう、なんて警告がついているんですよ♪」


 彼女は軽く笑いながら説明する。


 バーテンダーとしての知識を、自然に織り交ぜて。


 だが心の中では、別の言葉が響いていた。


 死んでも、あなたと――。


 このカクテルを選んだのは、彼の疲れを、ただのアルコールではなく、彼女の想いで癒したいから。


 準備したグラスへ淡い黄色の液体が、泡を纏って注がれる。


 最後にオレンジの皮をひねり、香りを移す。


 皮の油がきらめき、グラスに美しい弧を描く。


 完成したコープス・リバイバーNo.2を、彼さんの前にそっと置く。


 グラスがカウンターの艶に映り、夜桜のように優しい光を放つ。


 「どうぞ、コープス・リバイバーNo.2です。お疲れの体に、優しく染み入るはずですよ」


 彼さんはパイプを置き、グラスを手に取った。


 香りを嗅ぎ、ゆっくり一口。


 ジンのボタニカル、オレンジの甘み、レモンのキリッとした酸味、リレのハーブ、アブサンの微かなアニス――すべてが調和し、喉を滑り落ちる。


 「……うまい。美和さん、美味しいよ……。美和さん、いつもありがとう。生き返るよ、本当に。こんな味が欲しかったんだ……」


 彼さんの声に、わずかな安堵と、家族への複雑な想いが混じる。


 美和さんはカウンターに両手をつき、微笑んだ。


 異色の瞳が、彼さんを優しく包む。


 言葉はまだ交わさず、二人は静かにグラスを傾けた。


 ジャズのメロディーが、まるで二人の想いを繋ぐように流れる。


 その瞬間、彼さんが静かに口を開いた。


 「美和さん、君がいると本当に生き返るよ……。この店がなければ、俺はもう沈んでいた」


 美和さんは少しだけ目を伏せ、温かな笑みを浮かべた。


 「私も……少しだけ、です♪」


 声は小さく、しかし心の底から溢れた。


 その瞬間、彼女は唇をわずかに動かした。


 声にならないほど小さく、息だけのような囁き。


 「……死んでもあなたと……」


 カクテル言葉。


 Corpse Reviver No.2に込めた、彼女だけの想い。


 死んでも、あなたと一緒にいたい――そんな、秘めたる願い。


 カウンター越しにしか伝えられない、優しい告白。


 聞こえないように、こっそりと。


 彼さんは気づかない。


 グラスを傾け、ただ穏やかな表情を浮かべる。


 美和さんは心の中で微笑んだ。


 この一杯が、彼の疲れを少しでも溶かしてくれますように……。


 夜桜がカウンターに咲く、このBar風花で、彼女はいつもそう祈る。


 店外では風が吹き、看板の桜が静かに揺れた。


 閉店までの残り時間、二人は言葉少なく、しかし心を通わせていた。


 最後の1杯が、静かな夜に温かな余韻を残す。


 彼さんはゆっくりと飲み干し、立ち上がった。


 「ありがとう、美和さん。また来るよ……本当に、生き返った」


 「ええ、いつでもお待ちしていますね♪ お気をつけて」


 ドアが閉まる音。


 彼さんの背中が見えなくなるまで、美和さんは微笑んで見送った。


 一人残った店内。美和さんは磨き終えたグラスを洗いながら、静かに息をついた。


 右のワインレッドが妖しく、左の琥珀が優しく光る。


 洗い桶の水面に、自分の異色の瞳が映る。


 そこに、今日の彼さんの疲れた笑顔が重なる。


 「……死んでもあなたと……」


 もう一度、誰にも聞こえない声で、彼女は囁いた。


 照明を完全に落とし、Bar風花の夜は静かに幕を閉じた。


 明日、また新しい夜桜が咲くのを待って。


 カウンターの向こう側で、彼女の想いは、そっと次の夜へ繋がっていく。

あとがき


 「コープス・リバイバーNo.2 死んでもあなたと」、いかがでしたでしょうか。


 この話は、閉店前の本当に静かな時間と、美和さんの胸に秘めた想いを描きたくて書きました。

 「死者を蘇らせる」カクテルに、彼女がそっと込めた言葉——「死んでもあなたと……」。

 聞こえないほどの小さな囁きなのに、カウンター越しにしか伝えられない想い。

 書いていて、自分も胸がぎゅっと締め付けられるような、甘くて切ない夜になりました。


 彼さんの疲れや、Bar風花が「港」であり「止まり木」である理由も、いつもより少し深く掘り下げてみました。

 1930年のサヴォイ・カクテルブックに載った伝説の一杯を、彼女が選んだ理由……そこに込めた気持ちが、少しでも読者の心に響いていたら嬉しいです。


 読みに来てくださった皆さん、本当にありがとうございます。

 この話が、夜の終わりにほんの少しの温かさと余韻を残せていたら幸いです。


 Bar風花の扉は、いつでも開いています。

 また次の閑話で、別の杯と想いをお届けできればと思います。


 それでは、閉店後の静かなカウンターで——。


天照(Bar風花)

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