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27杯目 今夜はハイボール三昧 ~スパイシーチキンから神戸の記憶まで~

【Bar風花】今夜はハイボール三昧 ~スパイシーチキンから神戸の記憶まで~


※ゆるくて贅沢なハイボール&フードペアリングの単発エピソードです。

※角瓶ハイボール・マッカラン18年ハイボール・冷凍神戸ハイボール・黒胡椒ガーリックソルトチキン・岸本さんの思い出…が好きな方向け

※戦いも恋愛進展もなし。ひたすら「美味しい夜」と「優しい記憶」を味わうだけ。ほっこり癒し回、ご注意を。


 スパイシーチキンを頬張る彼に、美和さんが提案する。


 「もっとガツンと殴り合えるハイボール、飲んでみない?」


 今夜のスペシャルは三段変奏。


 まずは角瓶の力強いハイボールに黒胡椒をパラパラ。


 チキンの刺激を炭酸でぶっ飛ばす「角スパイシーハイボール」。


 次はマッカラン18年。


 シェリー樽のフルーティーな甘みを炭酸で優しく持ち上げた「究極の贅沢ハイボール」。


 そして最後は、グラスもウィスキーも冷凍庫でキンキンに冷やした「神戸ハイボール」。


 氷なしで澄んだ冷たさが、体をリセットする。


 美和さんの手つきはいつもより丁寧で、時折遠い目をする。


 それは、神戸の小さなバーで修業した頃の師・岸本さんの記憶。


 「ハイボールは、飲む人が素直に『ふぅ……』って息をつける味にしなさい」


 カウンターに並ぶ三つのグラス。泡の音とジャズと、チキンの湯気。


 今夜のBar風花は、熱くて冷たくて、優しくて、少しだけ切ない。


 ゆっくり、味わってくださいね。

 彼が二皿目のスパイシーチキンを平らげ、満足げに息を吐いた頃、美和さんはカウンターの奥で何かを考え込むようにグラスを眺めていた。


 店内のジャズのメロディーがゆったりと流れ、開店直後の静けさが少しずつ賑やかさへと変わり始めていた。


 外の路地からは時折、遠くの車の音が聞こえてくるが、この店の中は別世界のように穏やかだ。


 「彼さん…」


 「ん?」


 「このチキン、めっちゃスパイシーでしょ? 黒胡椒とガーリックがガツンと来てるから……今飲んでるトリハイももちろん合うけど、もう一段階、もっとチキンと殴り合えるようなハイボール、飲んでみない?」


 彼の目がぱっと輝いた。


 汗ばんだ額を拭きながら、身を乗り出す。


 「スペシャルハイボール? もちろんお願いします!」


 美和さんはにやりと笑って、棚のさらに奥——普段あまり出さないボトルゾーンへ手を伸ばした。


 彼女の手つきはいつもより少し慎重で、まるで宝物を扱うようだ。


 「じゃあ、今夜の『ハイボール専用スペシャル第2弾』、発表しまーす♪」


 彼女が取り出したのは、少し背の低い、どっしりとした緑がかったボトル。


 ラベルには「角瓶」とは違う、でもどこか懐かしいフォントで「角」と書かれている。


 照明に映える黄金色の液体が、ボトルの中で静かに揺れている。


 「角ハイ……じゃなくて、今日はちょっと違う使い方をしますね♪」


 美和さんはそう言って、いつものハイボールグラスではなく、少し背が高めで口が広いタイプのグラスを選んだ。


 彼さんが首をかしげる。


 「グラス、いつもと違いますね…」


 「ええ。今日は『香りをしっかり楽しむ』バージョンだから。このチキンの黒胡椒とガーリックの攻めっ気を、もっとダイレクトに受け止めてくれる形にしました」


 彼女はまず、大きめの氷を四つ、カラカラとグラスに入れた。


 普段の三つより一つ多い。


 チキンのスパイシーさを冷やしつつ、ゆっくり溶かして味を丸くするためだ。


 氷がぶつかり合う音が、静かな店内に軽やかに響く。


 次に、角瓶を手に取る。


 ボトルを傾け、いつもより少し多めに——50mlほどを注ぐ。


 角の特徴である、穏やかだけどしっかりとした麦の甘みと、ほのかなスモーキーさがグラスに広がった。


 香りがふわりと立ち上がり、彼の鼻をくすぐる。


 「角瓶って実は『ハイボール専用』に生まれたようなウィスキーなんです。

 1960年代後半から、サントリーが『日本の水割り・ハイボール文化』を本気で広めようとして、飲みやすさとコスパを徹底的に追求して作ったのがこの角なんですよ」


 彼は興味深そうに頷く。


 チキンの余韻がまだ口に残る中、グラスをじっと見つめている。


 「へぇ……今まで角ハイって、ただの定番って思ってたけど、そんな背景があったんですね…」


 美和さんはにっこり。


 彼女の目が輝き、うんちくを続けるのが楽しそう。


 「そう。角瓶のハイボールは、昭和から平成、令和までずっと『庶民の味方』でい続けてる。

 居酒屋のカウンターで、焼鳥や唐揚げ、ポテサラと一緒に飲むあの感じ……あれを極めたのが角ハイなんですよ。

 トリスみたいに甘く柔らかすぎず、デュワーズみたいに華やかすぎない。

 ちょうどいい『中間』の存在で、スパイシーな料理と合わせるときは、角が一番バランス取れることが多いんです」


 彼女はソーダのボトルを手に取り、ゆっくりと注ぎ始めた。


 シュワシュワ……という軽快な音。泡がふわっと立ち上がり、角の琥珀色と混じって小さな夕焼けのようなグラデーションが生まれる。


 ウィスキー:ソーダ=1:3.5くらいの、やや強めの炭酸比率で、チキンの刺激をガツンと切るように調整している。


 「今日はね、炭酸をちょっと強めに入れてるの。

 チキンの黒胡椒の刺激とガーリックの油分を、炭酸でガツンと切ってくれるように」


 最後に、仕上げのアクセント。


 美和さんは小さな小皿から、粗挽きの黒胡椒をひとつまみだけ摘まみ、グラスの表面にパラパラと降らせた。



 さらに、乾燥ガーリックフレークをほんの少しだけ。


 そして、レモンの皮を——普段はスライスだけど、今日はジューサーではなく、皮だけを薄く削ってふわりと浮かべる。


 「これがポイント。レモンの果汁じゃなくて、皮の香りだけをプラス。そうすると、チキンのスパイスとぶつからずに、むしろ高め合ってくれるんですよ」


 軽くステアして完成。


 グラスの中では、角の琥珀色が泡と混じり合い、黒胡椒の粒がゆらゆらと舞っている。


 表面に浮かぶレモンピールが、ほのかに柑橘の香りを放っていた。


 全体がチキンの香ばしさとリンクするように、計算された一杯だ。


 「はい、彼さん。今夜のスペシャルハイボール、『黒胡椒ガーリックソルトチキン専用・角スパイシーハイボール』、どうぞ」


 彼さんはグラスを受け取り、まずは香りを深く吸い込んだ。


 黒胡椒のピリッとした香りと、にんにくの香ばしさと、レモンピールの爽やかさが全部混ざってる。


 でも角の甘みが下支えしてる感じがする。


 一口飲むと、シュワッ!と強めの炭酸が口の中を駆け抜け、角のしっかりしたボディが舌に広がった後、黒胡椒のスパイシーさが後からジワッと追いかけてくる。


 レモンピールの苦味と香りが、全体を締めてくれる。


 「……これ、ヤバい。チキンと一緒に食べたら絶対止まらなくなるやつだ…」


 美和さんは完全にドヤ顔で腕を組んだ。


 彼女のエプロンが軽く揺れ、満足げな表情が店内の照明に映える。


 「でしょー? 角の力強さと、炭酸のキレと、スパイスの香りを全部リンクさせた一杯。

 このチキンの黒胡椒とガーリックソルトが、角ハイの麦の甘みを引き出して、さらにレモンピールが全体を爽やかにまとめてくれるの。

 まさに『今夜限定の殴り合いハイボール』よ」


 彼はもう一口飲んで、すぐさまチキンを一口。


 スパイシーなチキンの刺激が、ハイボールの炭酸と角の味わいで一気に洗い流され、次の瞬間にもう一口飲みたくなる。


 チキンのザクザクした衣の食感と、ハイボールのシュワシュワが交互に口の中で踊るようだ。


 「美和さん、天才すぎる……これ、メニューに入れたら絶対人気出るよ。名前もこのままでいいんじゃない? 『角スパイシーハイボール』とか」


 美和さんはくすくす笑いながら、新しいチキンを揚げ始める準備をしながら答えた。


 「ふふっ。じゃあ正式に『今夜の角スパイシー』として、明日から黒板に書いちゃおうかな。

 彼さんが保証人ね」


 彼はグラスを掲げ、チキンを頬張ったまま笑った。


 「保証人、喜んで引き受けます! もう一杯、このスペシャルでお願いします!」


 美和さんは嬉しそうに頷き、角瓶を再び手に取った。


 「はいはい、了解。でも飲み過ぎ注意よ? この組み合わせ、ほんとに止まらなくなるから」


 カウンターの上では、熱々のチキンの湯気と、角スパイシーハイボールの泡がシュワシュワと弾け、黒胡椒の香りとレモンピールの爽やかさが混じり合い、Bar風花の夜をさらに熱く、賑やかに、美味しく彩っていた。



 彼さんが角スパイシーハイボールを半分ほど飲み干し、鉄皿に残ったチキンの最後の一切れを口に放り込んだ。


 満足げに背もたれに体を預け、ふっと息を吐く。


 口の中に残る黒胡椒のピリッとした余韻と、角の麦の甘みが混じり合って、心地よい熱さが体を巡る。


 「……美和さん。この角スパイシー、ほんとにヤバいね。チキンのスパイスが角の甘みを引き出して、ハイボールがまたチキンを欲しくさせる……完璧すぎて怖いくらい……」


 美和さんは空いた鉄皿を片付けながら、にやりと笑った。


 「でしょ? 角ってこういう『ガツンとした料理』と本当に相性がいいんですよ。

 庶民の味方って言われるけど、実は料理次第でめちゃくちゃ攻撃的にもなれるんですよ。

 でも……今日はまだ、もう一段階、上の階に行ってみない?」


 彼がぴくりと眉を上げた。


 「上……?」


 美和さんはカウンターの奥、普段は鍵がかかっているガラス扉の棚に視線を移した。


 そこには、照明が柔らかく当たって宝石のように輝く沢山のボトルが並んでいる。


 特別な日のためだけに取ってある、店主の「宝物」たち。


 「高級ウィスキーを使ったハイボールって、実はすごく面白いんだよ。

 角みたいに『みんなの味方』じゃなくて、今日は『特別なあなたのための一杯』にしちゃおうかなって」


 彼女は扉の鍵をカチャリと外し、一本のボトルをそっと取り出した。


 ラベルは深みのある金色と黒。


 ボトル自体が重厚で、手に持つだけでずっしりとした存在感がある。


 「これ……まさか」彼さんの声が少し震えた。


 「そう。マッカラン18年。

 シングルモルトの王道中の王道で、シェリー樽由来のフルーティーでリッチな甘みと、オークの深みがすごいんですよ」


 美和さんは嬉しそうにボトルを彼さんに見せながら、ゆっくり語り始めた。


 「マッカランってスペイサイドの蒸留所の中でも特に『シェリー樽熟成』のイメージが強いんですけど、18年はちょうど熟成のピークを迎えてる感じがするんですよ。

 レーズンとかドライフルーツ、ダークチョコレート、ほのかにスパイスのニュアンス……それをハイボールにすると、普通のハイボールとは完全に別次元になるんですよ」


 彼さんはもう完全に興味津々で身を乗り出していた。


 「そんな贅沢なやつを……ハイボールに?」


 「はい。高級シングルモルトって、ストレートやロックで飲むのが王道だけど、実はハイボールにしてもすごく映えるの。

 特にマッカランみたいなリッチで甘みのあるタイプは、

炭酸で薄まっても味わいが崩れないし、むしろ爽やかさが加わって新しい魅力が出てくる」


 美和さんは今夜で3種類目となる特別なグラスを選んだ。


 これまでより少し背が高く、口が広がったチューリップ型のハイボールグラス。


 香りをしっかり捉えられる形だ。


 「今日はね、氷の量もいつもより控えめ。溶けすぎて味がぼやけないように、大きめの氷を二つだけ…」


 カラン……カラン……


 重厚な音が響く。マッカラン18年を注ぐ。


 量はいつもより少なめ——40ml。


 濃厚なウィスキーなので、これで十分に主張してくれる。


 黄金色が濃く、グラスの中でゆっくりと揺れる。


 すでにシェリー樽由来のフルーティーな香りがふわりと立ち上がっていた。


 「ソーダはね、今日は少し柔らかめの天然炭酸水を使う。

 強すぎる炭酸だと、マッカランの繊細な香りが飛んじゃうから」


 シュワ……シュワ……


 控えめな泡立ちで、ゆっくりと注いでいく。


 ウィスキー:ソーダ=1:4くらいの、やや薄め比率。


 これが高級モルトをハイボールにする時の黄金比の一つだ。


 最後に、仕上げのアクセント。


 美和さんは小さなピンセットで、オレンジの皮を薄く削ったものを一枚だけ。


 果汁ではなく、皮のオイルだけを軽く表面に浮かべる。


 「オレンジピールで、ほんのり柑橘の華やかさをプラス。

 マッカランのドライフルーツ感とすごくマッチするんですよ」


 軽くステアして完成。


 グラスの中では、深い琥珀色が泡と混じり合い、オレンジピールの小さな粒がゆらゆらと舞っている。


 香りだけでもう、贅沢な空気が店内に広がっていた。


 「はい、彼さん。今夜の『究極の贅沢ハイボール』、マッカラン18年ハイボール、どうぞ」


 彼はグラスを受け取り、まずは深く深く香りを吸い込んだ。


 「……すごい。レーズンとかオレンジピールとか、チョコレートみたいな甘い香りが……でもちゃんと炭酸の爽やかさも感じる」


 恐る恐る一口。口の中に広がるのは、想像を遥かに超えた滑らかさ。


 シェリー樽由来の濃厚なフルーツの甘みが最初に来て、

その後にオークの深みとほのかなスパイスが追いかけてくる。


 炭酸がそれを優しく持ち上げ、喉を通った後も長い余韻が残った。


 「……これ、ヤバい。ハイボールなのに、まるでカクテルみたい。いや、カクテルより贅沢かも」


 美和さんは完全に満足げなドヤ顔で、カウンターに両肘をついた。


 「でしょ?高級シングルモルトのハイボールって、意外と知られてないけど、実は一番『贅沢を実感できる飲み方』の一つなんだよ。

 ストレートだと重たく感じる日でも、ハイボールならスイスイ飲めて、しかもウィスキーの本質がちゃんと味わえる。

 角の『親しみやすさ』から一歩進んで、『特別な時間』をくれる一杯」


 彼はもう一口飲んで、目を閉じた。


 「美和さん……本当にありがとう。今日の仕事のモヤモヤ全部吹っ飛んだ。この一杯で、なんか全部許せちゃう感じですよ」


 美和さんは柔らかく微笑んだ。


 「それが聞きたかった。高級ウィスキーって、味だけじゃなくて『特別な時間』をくれるものだから」


 彼はグラスを掲げ、静かに言った。


 「じゃあ……この贅沢ハイボールで、乾杯しよう。今日という日と、美和さんと、この店に」


 美和さんも自分の分(もちろん薄めで少量)を同じグラスで作り、軽く合わせた。


 カチン。


 小さな音が、ジャズのメロディーに溶けていく。


 

彼が半分ほど飲み干した頃、美和さんは冷凍庫の扉を開けた。


 「まだ終わりませんよ〜♪最後は、極端にシンプルで、極端に冷たいやつ。

 グラスもウィスキーも冷凍してある神戸ハイボール」


 キンキンに冷えたハイボールグラスを取り出す。


 ガラス全体が白く霜を帯び、触ると指先が痛くなるほど冷たい。


 「グラスを冷凍しておくと、注いだ瞬間に温度が急激に下がるし、飲んでいる間ずっと冷たさが持続する。

 これだけで味の印象が全然変わるんですよ」


 次に、角瓶ごと冷凍庫で冷やしておいたウィスキー。


 ボトル表面にうっすらと霜が浮き、注ぐときにゆっくりと流れ落ちる。


 「ウィスキーも冷凍庫で冷やしておく。これで氷を使わなくても、最初から最後まで『冷え』が保てる。

 溶けた氷の水で味が薄まらないし、ウィスキーの甘みと香りがシャープに立つんですよ」


 冷凍グラスに45mlを注ぐ。


 霧のような結露が一瞬で発生し、強い冷気が立ち上がる。


 冷えた神戸の伏流水炭酸をゆっくり注ぐ。


 泡立ちは細かく、音も静かで上品。


 ウィスキー:ソーダ=1:4くらい、やや薄めに。


 最後に、レモンを一枚だけ底に沈める。


 絞らず、飾らず、ただ香りと微かな酸味を移すだけ。


 ステアは最小限。


 バースプーンを軽く回すだけで混ざる。


 氷は一切入れていない。


 完成したグラスは、霜に覆われ、底のレモンが淡く光る。


 冬の湖面のような静かで凍てつく美しさ。


 「はい、彼さん。これが『グラスもウィスキーも冷凍してある』神戸ハイボール。

 氷なし、演出なし、ただ冷たくて澄んだ一杯よ」


 天ちゃんはグラスを両手で包み、冷たさを掌で感じながら一口。


 「……これ、ヤバい。冷たさが気持ちいい。飲むたびに体がリセットされるみたい。今日一番、締まる味かも」


 美和さんは静かに頷いた。


 「そう。氷を入れない分、ウィスキーと水とレモンの味がストレートに伝わる。冷えが強すぎるくらいが、ちょうどいいんですよ」


 彼さんはグラスを眺めながら、ゆっくりと言った。


 「美和さん……この冷たい神戸ハイボール、なんかすごく心に残る。今日の全部が、ここでちゃんと終わった感じがする」


 美和さんはグラスを拭く手を止めて、ふっと視線を落とした。


 「彼さんにそう言ってもらえると、嬉しいです。

実はこの『グラスもウィスキーも冷凍』の神戸ハイボールを作るとき、いつも思い出す人がいるんです…」


 彼は静かに聞き入った。


 「神戸で1年ほど修業させてもらった、バーテンダーのおじいさん。もう何年も前に亡くなっちゃったんだけど……岸本さんって言ってた……」


 美和さんの声は少し低く、でも温かかった。


 「私は以前、三宮の裏路地にあった小さな『Bar岸本』で働いてた事があるんです……カウンター6席だけの、ほんとに小さな店。でも岸本さんのハイボールは、常連さんたちに『別格』って言われてた」


 彼はグラスの中の溶けかけた霜を見つめながら、そっと言った。


 「……岸本さん、すごい人だったんですね……」


 「うん。すごく厳しかったけど、すごく優しかった。

『ハイボールは派手な酒じゃない。飲む人が素直に「ふぅ……」って息をつける味にしなさい』って、よく言ってたわ」


 美和さんの目が少し潤んでいるように見えたが、すぐに柔らかい笑顔に戻った。


 「岸本さんが亡くなったのは、私が東京に行って3年目の冬だった。

 お通夜に行ったとき、常連さんたちがみんな『岸本さんのハイボールが恋しい』って泣いてた。私も、ずっと泣いてた……」


 彼は静かに頷いた。


 「それで……この冷凍バージョンの神戸ハイボールを作るとき、いつも岸本さんのことを思い出すんだね」


 「そう。今でもグラスを冷凍庫から出すとき、ウィスキーを冷やしておくとき、全部、岸本さんの手つきを真似してるつもりなの。

 『美和ちゃん、水を信じなさい。水がいいと、酒は勝手に美味しくなる』って言葉が、耳に残ってる」


 美和さんは自分のグラスに残っていた最後の滴を飲み干して、目を細めた。


 「……岸本さん、今でもこの味、覚えててくれるかな」


 彼はグラスをそっと掲げた。


 「絶対、覚えてるよ。だって、美和さんのハイボール飲むたびに、すごく優しい気持ちになるもん。それって、岸本さんの味がちゃんと生きてる証拠だと思う」


 美和さんは少し驚いたように天ちゃんを見て、それから柔らかく微笑んだ。


 「……ありがとう、彼さん……。

そんなふうに言ってくれる人がいるなら、岸本さんも、きっと喜んでると思う…」


 二人は静かにグラスを合わせた。


 カチン。


 冷えたガラスの小さな音が、ジャズのメロディーと混じり合う。


 彼が、ふっと息を吐いて口を開いた。


 「……ねえ、美和さん。いつか……2人で、神戸に行かない?」


 美和さんの手が、ぴたりと止まった。


 「神戸に……?」


 「うん。岸本さんがいた路地とか、六甲の伏流水が湧いてる場所とか、美和さんが修業してた街を、一緒に歩いてみたいんだ。

 岸本さんの話をもっと聞かせてほしいし、神戸の水で作ったハイボールを、現地でちゃんと味わってみたい」


 美和さんは目を少し見開いて、それからゆっくりと微笑んだ。


 その笑顔は、いつもより少し幼く、どこか懐かしそうだった。


 「……彼さん、そんなこと言ってくれるなんて……」


 彼女は小さく笑って、カウンターに両肘をついた。


 「いいですよ……いつか、絶対に行きましょう。

 岸本さんがいた路地を探して、神戸の水で作ったハイボールを飲んで、あの頃の話を、ゆっくり聞いてもらう。

 ……約束ですね♪」


 彼はグラスを軽く持ち上げ、残っていた最後の滴を飲み干した。


 「約束。そのときは、俺が美和さんのハイボールみたいに、ちゃんと冷たくて澄んだハイボール、用意するよ」


 美和さんはくすっと笑って、自分のグラスも掲げた。


 「楽しみにしてる。でも……そのときも、結局私が作っちゃうと思うけどね♪」


 二人は静かにグラスを合わせた。カチン。小さな音が、ジャズの最後の音色と重なり、Bar風花の夜に優しく溶けていった。


 カウンターの上には、霜が溶けきったグラスと、

底に残ったレモンの輪切り。


 外の路地は静まり返り、小さな看板の灯りが、神戸の水のように澄んで、静かに光り続けていた。


 いつか2人で向かう神戸の街が、今夜のハイボールのように、冷たくて、優しくて、確かにそこにあることを、二人はもう知っていた。

 今夜のハイボール三昧、いかがでしたか?


 角瓶の「庶民の味方」から始まって、マッカラン18年の贅沢ハイボール、そして氷なしの神戸スタイルで締めくくる……書いてて自分でも「これは止まらなくなる組み合わせだな」と思いながら、チキンと一緒に妄想で何杯も飲んじゃいました(笑)。


 角瓶の歴史(1937年誕生、サントリーがハイボール文化を広めるために生まれたブレンド)を少し織り交ぜたのは、ただのうんちくじゃなくて、美和さんの「料理と寄り添う一杯」を作る姿勢を表したくて。


 黒胡椒をパラパラ、レモンピールだけ浮かべるアレンジは、チキンのスパイシーさを最大限引き立てる実践的な工夫です。


 マッカラン18年ハイボールは、ストレート派が多い銘柄をあえて割る贅沢さ。


 シェリー樽のレーズン・チョコ感が炭酸で軽やかになる瞬間が、最高に「特別」ですよね。


 そして神戸ハイボール。


 冷凍庫でキンキンに冷やして氷なし……これは神戸の老舗バー(サンボアなど)の伝統スタイルを参考に。


 岸本さんという師のエピソードは、フィクションだけど、美和さんの「バーテンダーとしてのルーツ」を初めて少しだけ明かしたくて書きました。


 亡くなった人の味を今も守り続ける……そんな優しい記憶が、冷たいグラスに宿ってる感じがして、書いててちょっと胸が熱くなりました。


 彼の「いつか神戸に行かない?」の一言と、美和さんの「約束ですね♪」で締めくくったのは、このシリーズの「日常の先に続く何か」を感じてほしくて。


 Bar風花は、ただのバーじゃなくて、そんな小さな約束が生まれる場所なんですよね。


 読みに来てくださって、本当にありがとうございます。


 次はどんな一杯が待ってるのか、私も楽しみです。


 それでは、またカウンターで。冷えたグラスを傾けながら。


天照(Bar風花)

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