25杯目 開店祝いのヴェスパー ~旧知の探偵と、凍てつく警告~
【Bar風花】開店祝いのヴェスパー ~旧知の探偵と、凍てつく警告~
※これまでのゆるふわ贅沢回から一転、シリアス&ミステリー寄りの単発エピソードです。
※ヴェスパーマティーニ(Gordon's×Grey Goose×Kina L'Aéro d'Or)・コスモポリタンマティーニ・デュークスマティーニ・1947年カルヴァドス・G∴O∴T∴の因縁・銃の気配・過去の黄昏…が好きな方向け
※軽いR-18要素(殺気・色気)はありますが、本格戦闘なし。過去の影とカクテルの儀式が交錯する夜、ご注意を。
穏やかなBar風花に、突然の闖入者。
イタリアスーツの探偵・緋咲優矢。
ソーニャの殺気、美和の柏手で空気が一変する中、彼は「開店祝い」と称して1947年の希少カルヴァドスを差し出す。
そして注文するのは、James Bondも愛した幻のヴェスパーマティーニ。
古いキナ・リレ(Kina L'Aéro d'Or)の苦味が、過去の記憶を呼び覚ます。
ソーニャの苛立ち、美和の静かな微笑み、色男の戸惑い。
三つのマティーニがカウンターに並ぶ頃、緋咲は去り際に囁く。
「『G∴O∴T∴』の残党が動き始めました。気を付けて…」
Bar風花のカウンターに、初めて忍び寄る影。
でも、美和さんは今日も、静かにグラスを磨き続ける。
今夜は、少しだけ危うく、少しだけ懐かしい夜。
ゆっくり、味わってください。
穏やかな時間が流れる店内。
然しその空気が変わるのは一瞬だった。
美和さんとソーニャさん、超絶美人二人のじゃれ合いが突然ピタリと止み、カウンター内に立つ美和さんは入口のドアに目を向けると眉間に皺を寄せて何か困った様な表情を浮かべた。
一方ソーニャさんもゾッとする程恐ろしい表情を浮かべると、ガタッと椅子を蹴り立ち上がると素早く腰の後ろに右手を回し、その体勢のまま入口のドアを睨みつける。
暫しの静寂のあと、キィ⋯と微かな音を立てて店の入口のドアが開く。
「おやおや⋯歓迎して頂けるかと思いましたが随分と物騒ですね⋯此処は日本ですよ。南米のスラムやロアナプラでは無いんですから、平和的に行きましょうよ⋯。
ソーニャさん、貴女は折角のこの素敵なBarを血風呂にするつもりですか?」
声の主はそう言いながら店内に足を踏み入れて来る。
身長は170後半。スリムな身体をイタリアの高級ブランドのスーツで包み、ジュラルミン製のアタッシュケースを左手に下げている。
茶髪で長目のクルーカット。
ハンサムだが何処か神経質そうな印象がある。
口元は微笑みを浮かべているが、薄い色付きの眼鏡の奥にある瞳は全く笑っていない。
表面を取り繕っているだけの印象がある。
「緋咲ぃ⋯…あんた⋯…S∴T∴の人間が此処に何しに来たのよ⋯…」
先程の楽しげな笑顔は何処に行ったのか?
恐ろしい殺気を放ちながら険しい表情を浮かべたソーニャさんは彼にそう言い放った。
「おやおや、久しぶりにお会いしたのにご挨拶ですね⋯お互いあの黄昏の時代を生き延びた仲ではないですか⋯…たまたまですよ、たまたま…⋯。
仕事で此方に来た序に桜庭さんのお店があった事を思い出しましてね⋯…ちょっと寄らして頂いた次第ですよ」
薄ら笑いを浮かべながら緋崎と呼ばれた男はソーニャさんにそう言った。
二人の間に一触即発の空気が張り詰めて行く…⋯
パンッ!
突然、店内に大きな柏手が響き渡った。
同時に店内に漂っていた険悪な空気が消えていく……
驚いて音のした方に目を向けると、柏手を打った体勢のままにこやかに微笑みながら、二人を見つめている美和さんが居た。
然しその顔をよく見ると、口元は微かにひく付きこめかみには青筋が浮かんでいる⋯…
「ソーニャさんも緋咲さんもその位でお止めください。他のお客様の迷惑ですよ。緋崎さんいらっしゃいませ。お久しぶりですね」
緋咲と呼ばれた男は肩を竦めると、オーバーなリアクションを交えながら
「やれやれ、貴女には敵いませんね…⋯桜庭さんもお久しぶりですね。中々良いお店ではないですか…⋯。
然し、ずっと一所に留まらなかった貴女が根を下ろすとは…⋯。余程この土地がお気に召した様ですね」
と言った。
彼はそのまま店の奥にスタスタと歩を進めると、ソーニャさんの横に席を一つ開けて腰を下ろした。
そしてぐるりと店内を見回すと
「素晴らしい!私も仕事柄、色々な土地に足を運びますので有名店から場末のBarまで色々な店で飲みましたが、ここまで素晴らしBarはそうありませんでした。流石、桜庭さん⋯と言った所ですかね⋯…」
そう言いながら足元に置いていたジュラルミンのアタッシュケースを取り上げると膝の上に置き、中から1本のボトルを取り出して、美和さんの前に『開店祝いです』と言いながら置いた。
深い青みがかったガラス瓶。
ラベルは古めかしく、ところどころ金箔が剥げかけている。
だがそれがかえって本物らしい重厚さを醸し出していた。
彼はボトルを両手で持ち、まるで赤子を抱くような仕草でカウンターの上にそっと置いた。
「開店祝いです。……まあ、遅くなってしまいましたけどね」
美和さんは手を止めて、そのボトルに視線を落とした。
「これは……」
「カルヴァドス。1947年のものです。ノルマンディーの小さな蒸留所で、たった数百本しか作られてない希少な一本ですよ。
桜庭さんが昔、『いつか落ち着いたら、こういう酒を自分の店で出してみたい』って言ってたのを、覚えてましたからね…」
一瞬、店内に静寂が落ちる。
ソーニャが眉をひそめ、明らかに「そんな話、聞いたことないわよ…」という顔で緋咲を睨んだが、美和さんはただ静かにボトルを見つめていた。
「……よく、覚えていましたね……」
美和さんの声はいつもより少しだけ低く、柔らかかった。
緋咲は片方の口角だけを上げて笑う。
「私は嫌いな女のことは直ぐに忘れてしまいますけど、気に入った女性の言葉は妙に頭に残る性分なんですよ」
美和さんは小さく息を吐き、指先でボトルの肩をそっと撫でた。
「ありがとうございます、緋咲さん。でも……こういう高価なものは、いただくのに躊躇してしまいます」
「躊躇う必要なんてありませんよ。これは『祝い』なんですからね。」
彼は軽く肩を竦めてみせたが、その目は意外なほど真っ直ぐに美和さんを見ていた。
「それに……私みたいな男が、こんな綺麗な店に足を踏み入れる口実が欲しかっただけかもしれない。悪いですね…」
美和さんはふっと小さく笑った。
いつもの営業用の微笑みではなく、ほんの少しだけ本音が混じったような笑みだった。
「……口実にしては、随分と手の込んだものを選んでくださいましたね」
彼女はボトルを手に取り、光にかざして中身の琥珀色を確かめるように眺めた。
「大切にいただきます。ありがとう、緋咲さん」
その瞬間、カウンター越しに二人の間に流れた空気は、ほんのわずかだけ——だが確かに——柔らかくなった。
ソーニャはそれを横目で見ながら、舌打ちを小さく漏らした。
「ったく……調子いいんだから」
緋咲はソーニャの方を向いてニヤリと笑う。
「妬かないで下さいよ、ソーニャさん。私は今、ただ純粋に開店を祝ってるだけなんですから」
「純粋? お前が? 笑わせんな!」
二人のいつもの応酬が始まるのを、美和さんは静かに見守りながら、そっとボトルをカウンターの奥、大切に飾る場所へと運んだ。
その背中を、緋咲は少しだけ名残惜しそうに、けれど満足げに見つめていた。
ソーニャさんは舌打ちをもう一度大きく鳴らすと、カウンターに肘をついて体を少し傾けた。
視線は完全に緋咲に向けられているが、言葉は明らかに「色男」——つまり彼——に向けられたものだった。
「色男」呼びかけに、君は思わず背筋を伸ばす。
ソーニャの目は相変わらず冷たく、しかしどこか楽しげに細められている。
「色男、コイツは緋咲優矢って言って、探偵を名乗ってるけど只のたちの悪いゴロツキよ。しかもキレやすくて喧嘩っ早くて女癖も悪いっていう最低男。コイツに関わるとろくなこと無いから色男も気を付けなさい。」
ソーニャさんは、さもウンザリと言った表情を浮かべながら彼にそう紹介した。
「緋咲です。横浜で探偵事務所を営んでいます。人探しや浮気調査から嫌いな人物の謎の失踪まで何でもご相談下さいませ」
名刺を差し出しゾッとする様な微笑みを浮かべながら彼にそう言った。
「あとね、色男」
ソーニャさんは顎を軽くしゃくって緋咲を指す。
「こいつの得意技は、女を口説いてベッドに連れ込んで、翌朝には借金のカタに借用書にサインさせてることだから。覚えときなさいね」
緋咲が大袈裟に両手を広げた。
「酷いな、それは冤罪ですよ。私はそんな下品な真似は——」
「嘘つけ。去年のマカオでやったでしょ!」
「……あれは向こうが積極的だったんですよ?」
「はいはい……」
ソーニャは完全に興味を失ったように顔を背けた。
美和さんは棚にカルヴァドスのボトルを丁寧に収め終えると、ゆっくりとカウンターに戻ってきた。
いつもの穏やかな笑みを浮かべながら、視線を緋咲に移す。
「緋咲さん。せっかくお越しいただいたんですから、何かお飲みになりますか?」
彼女の声は柔らかく、しかしどこか「ここは私の店」という確固たる響きを帯びていた。
緋咲は肘をカウンターに軽く乗せ、顎を指で支えながら少し考える素振りを見せた。
「そうですねぇ……」
一瞬、店内に静けさが訪れる。
ソーニャさんが「また面倒くさい注文考えてない…?」という顔で横目で見ているのがわかる。
緋咲はふっと口元を緩め、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「ヴェスパーマティーニをお願いします。」
美和さんの眉が、ほんのわずかに上がる。
「ヴェスパーマティーニ、ですか」
「そう。ジン6、ウォッカ1、キナ・リレ1。しっかりシェイクして、レモンピールのツイストを添えて」
彼はそう言いながら、薄い眼鏡の奥の瞳を細めた。
ソーニャが小さく鼻を鳴らす。
「懐古趣味かよ。キナ・リレなんて今じゃ手に入らないでしょうに…」
緋咲は肩を竦めて笑った。
「だからこそですよ。桜庭さんの店ならあると思ったんですがね、……違いましたか?」
美和さんは一瞬、目を伏せて小さく息を吐いた。
「……ございますよ……」
彼女はそう言うとカウンターの下から、ひんやりとしたボトルを三本取り出す。
ジン。ウォッカ。そして——古びたラベルのキナ・リレ。
「では、ヴェスパーマティーニを。シェイクでお作りしますね」美和さんはそう言って、シェイカーを手に取った。
その動作はいつもより少しだけ丁寧で、どこか儀式めいたものがあった。
緋咲はカウンターに頬杖をつき、静かにその姿を見つめる。
「腹黒いアンタは片桐のオリジナルカクテル『ブラックマンバ』でも飲んでりゃ良いのよ⋯」
頬杖を付き明後日の方向を向いたソーニャさんが一人悪態をつく⋯
「ああ⋯バルカンウオッカにブラックサンブーカの素敵レシピのあのカクテル、それも良いですね⋯。
先日、元町の『Bar Black Lotas黒蓮』には顔を出して来ましたよ。片桐君も彼の女神様もお元気でしたよ。」
美和さんはシェイカーを手に取ると、静かに息を吐き、カウンターの上で準備を始めた。
まず、三本のボトルを丁寧に取り出す。
Gordon's London Dry Gin。
古くから変わらぬクラシックなラベル。ジュニパーの鋭い香りが、栓を開けた瞬間から空気に溶け出す。
次にGrey Goose。
フランスの柔らかな冬小麦から生まれた、滑らかで無表情な透明な液体。雑味のないその存在が、全体のバランスを静かに支える。
そして——Tempus Fugit Kina L'Aéro d'Or。
棚の奥に大切に置かれていた、黄金色のボトル。
剥げかけたラベルに刻まれた「L'Aéro d'Or」の文字が、遠い時代の光を思い起こさせる。
美和さんはそのボトルを手に取った瞬間、ほんのわずかに目を細めた。
彼女は計量カップを使わず、感覚だけで注ぎ始めた。
Gordon'sを60ml。
Grey Gooseを10ml。
Kina L'Aéro d'Orを10ml。
シェイカーの中に、液体が静かに層を成す。
キナの深い黄金色が、ほんのり全体を染めていく。
最後に、たっぷりの氷を投入する。
カラン、カラン……と氷が落ちる音が、店内に小さく響いた。
蓋をしっかりと閉めると、美和さんは両手でシェイカーを握り、ゆっくりと体を揺らし始めた。
カシャン、カシャン、カシャン……。
金属の乾いた音が規則正しく繰り返される。
それはまるで、古い時代の記憶を呼び覚ますような、静かなリズムだった。
シェイクの速度は一定で、決して乱暴ではない。
しかしその動きには、どこか厳粛で儀式めいたものが宿っていた。
緋咲はカウンターに頬杖をついたまま、じっとその姿を見つめている。
薄い眼鏡の奥の瞳が、珍しく笑みを消していた。
ソーニャは横目でチラリと見やりながらも、口を閉ざしていた。
ただ、指先でグラスの縁を軽く叩く音だけが、彼女の苛立ちを代弁している。
30秒ほど経った頃、美和さんはシェイカーを静かに止めた。
蓋を開けると、冷たい霧がふわりと立ち上る。
ストレーナーを当て、ゆっくりと冷えたマティーニグラスに注いだ。
液体は透明で、ほんのわずかに淡い黄金色を帯びている。
最後に、レモンピールを指先で軽く捻る。
オイルが霧のように舞い、グラスの縁に鮮やかな柑橘の香りが広がった。
美和さんはグラスを片手で持ち、そっと緋咲の前に置いた。
「ヴェスパーマティーニ、お待たせしました」
その声はいつもより少し低く、穏やかだった。
緋咲はグラスを手に取り、ゆっくりと持ち上げた。
「……美しい」
彼は小さく呟き、グラスを唇に近づける前に一度だけ、美和さんを見上げた。
「ありがとう、桜庭さん。これを飲むのは、何年ぶりだろうね」
美和さんは答えず、ただ静かに微笑んだ。
緋咲がグラスを傾け、一口飲む。
一瞬、彼の表情が凍りついたように見えた。
Gordon'sのジュニパーが鋭く舌を刺し、Grey Gooseの滑らかさがそれを優しく包み込み、そしてKina L'Aéro d'Orの深いキニーネの苦味が、喉の奥でゆっくりと広がっていく。
「……あの頃と、変わらない味だ……」
声は小さく、しかし確かに震えていた。
ソーニャが小さく舌打ちをする。
「感傷に浸ってる暇があったら、さっさと本題に入りなさいよ」
緋咲はくすりと笑い、グラスをもう一口。
「そうだな。でも……1杯目は、こうして味わいたかったんだよ……」
美和さんは無言でシェイカーを片付け始めたが、その手つきはいつもより少しだけ優しかった。
美和さんはヴェスパーマティーニのグラスを片付け終えると、静かに息を整え、次のオーダーを受けた。
カウンターの向こうで、ソーニャが小さくため息をつきながら、空になったグラスをそっと置く。
「私も何か飲もうかしら……。コスモポリタンマティーニで」
彼女の声は、いつもの鋭い毒舌が少し抜け落ち、どこか疲れたような、かすかな甘えさえ感じさせる響きがあった。
先ほどの緋咲とのやり取りで張り詰めていた神経が、ようやく緩み始めたのかもしれない。
美和さんは軽く頷き、穏やかな笑みを浮かべて準備を始めた。
コスモポリタンマティーニ——今では世界中で定番となった、鮮やかなピンク色の華やかな一杯。
しかし美和さんの手にかかれば、それはただの流行りものではなく、酸味と甘みの絶妙な均衡が織りなす、洗練された宝石のような存在になる。
まず、ボトルを順番に手に取る。
Absolut Citron——レモン風味のシトラスウォッカを30ml。
透明な液体が注がれると、柑橘の爽やかな香りがふわりと広がった。
続いてCointreau——上質なオレンジリキュールを15ml。
甘く芳醇なオレンジのエッセンスが、全体を優しく包み込む。
フレッシュライムジュースを15ml。
美和さんはカウンターの端に置かれたライムを素早くカットし、搾りたての透明な汁を注ぐ。
酸味がピリッと空気に溶け、店内の空気を引き締めた。
そして次に、クランベリージュースを30ml。
深いルビー色の液体がゆっくりと流れ込み、シェイカーの中で淡いピンクのグラデーションを描く。
最後にシェイカーに透明な氷をたっぷりと入れる。
氷の角がカランと軽く鳴り、冷気がすでに立ち上る。
蓋をしっかりと閉め、美和さんは両手でシェイカーを握った。
カシャカシャカシャ……。
振る音は、ヴェスパーマティーニの重厚で儀式めいたリズムとは違い、軽やかで弾むようなものだった。
まるでソーニャの苛立ちを優しくほぐすような、軽快なステップを踏む音。
シェイクは15秒ほど。
氷が砕け、液体が均一に冷え、表面に細かな泡が立つまで。
美和さんはシェイカーを静かに止め、蓋を開けた。
立ち上る冷たい霧の中に、鮮やかなピンクが輝いている。
ストレーナーを当て、冷えたクーペグラスにゆっくりと注ぐ。
液体は淡いルビー色で、グラスの底から上へ淡くグラデーションを描き、表面に小さな泡が優しく浮かぶ。
最後に、新鮮なライムを指先で軽くピールし、ツイストしてオイルを散らす。
柑橘の鮮やかな香りがグラスの周りに広がり、ピンクの液体に爽やかなアクセントを加えた。
美和さんはグラスを両手で持ち、そっとソーニャの前に置いた。
「ソーニャさん、コスモポリタンマティーニです」
ソーニャは無言でグラスを受け取り、軽く持ち上げて色を確かめるように眺めた。
淡いルビーの輝きが、彼女の鋭い瞳に映り込む。
一口、ゆっくりと唇を寄せる。
クランベリーの甘酸っぱさが最初に広がり、ライムのキレがそれを引き締め、Cointreauのオレンジが優しく後を追う。
Citronのレモン風味が余韻に残り、全体を爽やかに締めくくる。
「……ふん。相変わらず、甘ったるいのにキレがあるわね」
彼女はそう呟きながらも、グラスをもう一口傾けた。
その表情は、先ほどまでの苛立ちが少しだけ溶け、肩の力が抜けていくように見えた。
美和さんは静かに微笑みながら、カウンターの向こうでソーニャの様子を優しく見守った。
この一杯は、ソーニャにとってただの酒ではなく、苛立ちを優しく包み込み、ほんの少しだけ心を解すためのものだったのかもしれない。
美和さんは微笑み、次に視線を「色男」——彼——に移した。
「彼さんも、何かお作りしますか?」
彼は少し照れたように笑い、軽く首を振ってから、静かに言った。
「……デュークスマティーニでお願いします」
美和さんは穏やかに頷き、すぐに準備を始めた。
デュークスマティーニ——ロンドンの名門Duke's Barで生まれた、極めてドライで冷徹な一杯。
甘さを極限まで削ぎ落とし、ジンの純粋な力と微かなベルモットの影が際立つ、静かな強さを持ったカクテル。
ここではタンカレー(Tanqueray)とノイリー・プラット(Noilly Prat)のみを使い、仕上げにレモンの皮をピールして沈めるスタイルで。
まず、冷えたマティーニグラスをカウンターに用意する。
グラスにノイリー・プラット・ドライを数滴注ぎ、軽く回して内側をコーティングする。
余分なベルモットは捨てる。
次に、凍るほど冷やしたタンカレーをグラスに直接注ぐ。
シェイクもステアもせず、ただ注ぐだけ。
氷を使わない「ダイレクト」な方法で、極寒の温度がジンの粘度を高め、まるでオイルのように重厚に仕上がる。
最後に、新鮮なレモンの皮を大きくピールし、指先で軽く捻ってオイルをグラス表面に散らす。
皮をグラスの縁に軽く擦りつけ、香りを移した後、そのままグラスの中に沈める。
「彼さん、デュークスマティーニです」
グラスをそっと差し出され、彼は少し緊張した様子で受け取った。
「ありがとうございます……」
一口飲むと、ジンのドライな味わいとベルモットのハーブ感が喉を滑り落ちる。
「……うまい。」
彼は素直に呟き、グラスをもう一口。
美和さんは三つのグラス——ヴェスパー、コスモ、デュークス——を前に、静かに三人を見つめた。
それぞれの味は違う。
それぞれの過去を映している。
ソーニャはピンクのグラスを傾けながら、ふっと小さく笑った。
「ったく……こんなところで、昔の味を再現してるなんてね……」
緋咲はヴェスパーをゆっくり味わいながら、眼鏡の奥で微笑んだ。
「それが、この店のいいところですよ……」
彼はデュークスマティーニの付け合わせのオリーブを口に運びながら、ただ静かに思った。
——このカウンターに集まる人たちは、みんな少しずつ、毒と甘さと苦味を抱えている。
そして、美和さんはそんな彼らを、静かに、優しく、グラスに注いでいる。
カウンターの向こうで、氷が溶ける音が、穏やかに続いていた。
緋咲はヴェスパーマティーニのグラスを静かに空にすると、ゆっくりと息を吐いた。
最後の雫まで味わい尽くした後、彼はグラスをカウンターに置き、薄い眼鏡の奥で小さく微笑んだ。
「素晴らしい一杯だったよ、桜庭さん……ありがとう…」
美和さんは穏やかに頷き、片付けを始めようとしたが、緋咲はすでにアタッシュケースを膝の上に引き寄せていた。
彼は内ポケットから財布を取り出し、数枚の紙幣を数え始める。
「じゃあ、そろそろお暇するよ。ヴェスパーの分と……先程の2人のマティーニの分……まあ、俺の奢りってことでいいかな?」
ソーニャがピシャリと睨む。
「待ちなさいよ、緋咲!まだ本題を聞いてないでしょ!」
緋咲は肩をすくめて、苦笑いを浮かべた。
「本題? ああ、仕事の話か。残念だけど、今日は本当に『寄っただけ』なんだよ。それとも、今すぐ引き金を引くかい?」
ソーニャの右手が一瞬、腰の後ろに伸びかけたが、美和さんが静かに手を上げて制した。
「緋咲さん……」
美和さんの声は穏やかだが、どこか強い。
「今日は本当に、ただの開店祝いだったんですか?」
緋咲は一瞬、動きを止めた。
眼鏡の奥の瞳が、ほんのわずかに揺れる。
「……本当ですよ。でも、もし私が嘘をついていたら……君たちはどうします?」
美和さんは答えず、ただ静かに彼を見つめた。
緋咲は小さく笑い、紙幣をカウンターに置いた。
金額は、3人の飲んだカクテルの値段の倍以上だった。
「これで足りますかね? 足りなかったら、次に来た時に払わせて頂きますよ」
彼は立ち上がり、スーツの裾を軽く払う。
「ソーニャさん、また……。……そちらの彼も……君は美和さんの店、気に入ったみたいだね。こんな店は滅多に無い、大事に通いなよ……」
彼は少し慌てて頷いた。
緋咲は最後に美和さんに向き直り、軽く頭を下げた。
そして、ドアに向かう足を止めて、振り返った。
その表情は、いつもの薄ら笑いではなく、珍しく真剣味を帯びていた。
「君達に一つだけ、伝えておくよ」
声は低く、店内に静かに響く。
「『G∴O∴T∴』の残党が動き始めました。お気を付けて…」
一瞬、店内の空気が凍りついた。
ソーニャの瞳が鋭く細まり、美和さんの手がグラスを磨く動きを止めた。
彼は知らない単語に戸惑いながらも、二人の異様な緊張を感じ取った。
緋咲はそれ以上何も言わず、ただ小さく頷いてドアを開けた。
カラン……とベルが鳴る。
彼の背中が夜の闇に溶けていく。
ドアが閉まると、店内に重い静寂が落ちた。
ソーニャが低く呟く。
「……G∴O∴T∴……あのクソみたいな連中が、まだ生きてたなんてね……」
美和さんは無言で、棚の奥に置かれたカルヴァドスのボトルをもう一度、優しく撫でた。
彼女の表情は穏やかだったが、こめかみに青筋が薄く浮かんでいる。
色男は空になったデュークスマティーニのグラスを握りしめながら、ふと思った。
——緋咲優矢は、本当に「たまたま」寄っただけだったのか。
それとも、この一言こそが、彼が今日ここに来た本当の目的だったのか。
カウンターの向こうで、美和さんが新しいグラスを磨き始める。
氷が溶ける音が、静かに、しかし確かに響いていた。
今夜のBar風花、いかがでしたか?
これまで「ただの贅沢なバー日常」だった風花に、ようやく「過去の影」が顔を出しましたね。
緋咲優矢——ソーニャの旧知で、腹黒く調子いい探偵。
彼の登場で一気に緊張感が増しましたが、結局「たまたま寄っただけ」なのか、それとも警告を届けるのが目的だったのか…まだわからないままです。
ヴェスパーマティーニの再現は、原作『カジノ・ロワイヤル』のレシピ(Gordon's 6:Vodka 1:Kina Lillet 0.5)をベースに、現代のTempus Fugit Kina L'Aéro d'Orで代用。
キニーネの深い苦味が、あの時代の味を呼び戻す感じを出せたかなと思います。
デュークスマティーニは、Duke's Hotelの伝説的な「凍ったジンをダイレクト注ぎ」スタイルを忠実に。
コスモポリタンは、ソーニャの苛立ちを優しく溶かすピンクの癒しとして。
そして1947年のカルヴァドス……本当に数百本レベルの希少ヴィンテージを「開店祝い」に持ってくるあたり、緋咲の金回りと執念が怖いですよね(笑)。
美和さんが「よく覚えていましたね」と柔らかく返すシーンは、彼女の過去の一端を匂わせつつ、でも決して明かさない——そんな含みが好きです。
「G∴O∴T∴」の残党……これは今後の本筋に繋がる伏線……かな?
ソーニャの殺気、美和の柏手、緋咲の薄ら笑い。
この三人が絡むと、風花のカウンターはただのバーじゃなくなる。
でも、だからこそ、美和さんは今日も穏やかにグラスを磨き続けるんでしょうね。
読みに来てくださって、本当にありがとうございます。
次はどんな夜が待ってるのか、私も楽しみです。
それでは、またカウンターで、あるいは影の中で。
天照(Bar風花)




