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22杯目 開店祝いのサロンと、懐かしい再会の夜

『Bar風花-kazahana-』

開店祝いのサロンと、懐かしい再会の夜


※独立した短編エピソードです

※バー・カクテル・ミステリアスな再会・静かな絆・少し危うい大人の夜が好きな方向け

※大きな事件や恋愛バトルはありません。静かで深く、温かい余韻の残る夜をお届けします


秋の冷たい風が吹き始めたある夜。

いつものようにBar風花へ向かう彼の前に、突然現れた一台の白いフェアレディZ。

そしてその横に立つ、金髪の白人女性――ソフィア(ソーニャ)。


高級ビジネススーツに身を包み、右腰に隠された小さな重みを抱えながら、彼女は彼に近づき、耳元で囁く。

「Увидимся снова♪ (またね、色男♪)」


柔らかな唇が頬に触れ、甘い香水が残る。

彼女は振り返りもせず車に乗り込み、夜の闇へ溶けていった。


気を取り直して店に辿り着いた彼を迎えたのは、いつもの美和さんの穏やかな笑顔。


しかしその夜、扉が再び開き、「今晩は♪ 久しぶりね、美和」と、ソーニャが現れる。


開店祝いの1996年サロン・シャンパン。

懐かしい再会と、微かな緊張感。

長い年月を越えた絆と、決して消えない鋭さ。


Bar風花へ、ようこそ。

今夜は、少し危険で、でも確実に温かい一杯を。

 扉が静かに開き、夜の冷たい風が一瞬だけ店内に忍び込んだ。


 入ってきたのは、漆黒の高級ビジネススーツに身を包んだ女性だった。


 シングルブレストのジャケットは完璧なテーラリングで体に沿い、肩のラインがシャープに決まっている。


 腰をきゅっと締め上げたタイトスカートは膝上丈で、歩くたびに上質なウールの生地が微かに音を立てる。


 黒のストッキングが脚をより長く、引き締まって見せていた。


 左手に持つのは、Hermèsのクラシックなブランドハンドバッグ。


 深い黒のレザーが照明を吸い込み、控えめな金具が鈍く光る。


 右手には、黒と金のリボンで丁寧にラッピングされたシャンパンボトルがしっかりと握られている。


 カツ……カツ……。


 細いヒールの音が、店内の静けさを優しく切り裂く。


 彼女はゆっくりと視線を巡らせ、唇に懐かしい笑みを浮かべた。


 「今晩は♪ 久しぶりね、美和」


 声は柔らかく、昔からの親友にしか出せない甘い響きがある。


 でもその瞳の奥には、変わらない鋭さが潜んでいる。


 カウンターに近づくと、ジャケットの裾が軽く揺れた。


 右腰のあたりで、スーツの生地の下に微かな膨らみ――コンシールドホルスターに収まったコルト・ディフェンダー。


 .45ACPの小さな重みが、彼女の歩調に合わせてわずかに位置を変える。


 美和には見えなくても、昔からの付き合いだからこそ、なんとなく「そこにある」ことを感じ取ってしまう。


 「貴女がお店を開いたって聞いたから、仕事のついでに顔を出させてもらったわ。

 小さいけれど…本当に素敵な雰囲気のお店ね♪」


 視線は棚のボトルをなぞりながらも、店内の隅々を素早く確認する癖。


 プロの習慣は、親友の前でも消えない。


 美和の横を通り過ぎ、カウンター前に立つ。


 ハンドバッグをそっと床に置き、ラッピングされたボトルを無造作に、しかし大切そうにカウンターに滑らせた。


 「はい、これ。開店祝い♪」


 美和は目を細めてボトルを見つめ、ラッピングを剥がした瞬間――息を飲んだ。


 「……これ、サロンじゃないですか!

 しかも1996年!? この年はシャンパンの超当たり年ですよ!

 一体これ、いくらしたんですか?

 こんな高価なもの受け取れませんよ!」


 慌てて返そうとするが、彼女は片手で軽く制し、もう片方の手は自然とジャケットの裾近くに落ちる。


 ホルスターのあたりに触れはしない。


 ただ、そこにあることを思い出させるような、静かな仕草。


 「あ~、気にしないでよ、お祝いなんだし。お祝いだから素直に受け取ってよ♪」


 「駄目!お返しします!」


 「一度あげたものは受け取らないよ〜。私の性格知ってるでしょ?」


 「もう……!」


 「だーめ♡」


 押し問答が延々と続く。


 最後には遂に美和さんが根負けして深いため息をつき、肩を落としながらボトルを胸に抱き寄せた。


 「……全く。この一本で、この店で何日飲めると思ってるんですか……。本当に貴女は相変わらずですね…。」


 ブツブツ言いながらも、目尻に嬉しさがにじむ。


 彼女は満足げにカウンターに顎を乗せ、親友の顔をじっと見つめた。


 「それ位たいした事無いわよ。美和の笑顔が見られるなら、そんなシャンパンなんかいくらでも持ってくるわよ♪」


 照明の下で、サロンの黄金色が優しく揺れる。


 カウンター越しに、二人の間に流れるのは、長い年月を越えた絆と、決して消えない微かな緊張感。


 右腰の小さな重みは、静かに、そこに在り続けた。



 「さてさて、では久しぶりに美和の作るカクテルをご馳走になりましょうか♪」


 彼女はそう言いながら、彼の横に席を一つ開けてゆっくりと腰を下ろした。


 漆黒のタイトスカートが軽く皺を寄せ、ヒールが床に軽く触れる音が小さく響く。


 ハンドバッグを足元に置き、右腰のあたりをわずかに意識するような仕草で体を預ける。


 彼女はコンシールドホルスターの重みが、座った瞬間に微かにずれるのを感じながらも、表情には一切出さない。


 「あら? Barのチェアーにしては少し低めね?」


 彼女は背もたれに体を預け、座面に両手を滑らせて感触を確かめる。


 指先が革の質感をなぞり、わずかに目を細めた。


 「でも……この座り心地、すごく良いわ。

 クッションの沈み具合も絶妙だし、背中のサポートもちゃんとしてる。

 結構良いチェアーじゃない。

 随分奮発したでしょ?」


 美和はカウンターの向こうでくすりと笑いながら、腰のポケットから取り出したコースターを彼女の前にそっと置いた。


 続けて、湯気がほのかに立ち上る温かいお絞りを差し出す。


 「はい。せっかくご来店いただいたお客様ですから、ゆっくり寛いでいただきたいですからね。

 色々なお店や工房を回って、試し座りしまくって選びましたよ。

 このチェアーだけは譲れなかったんです」


 彼女は受け取ったお絞りを両手で包み込み、ほっそりとした指を優雅に拭う。


 シミひとつ、傷ひとつない白い肌が、照明の下で柔らかく輝いた。


 「あ~、温かいお絞りって気持ち良いわよね……。あら、ミントの香り?」


 鼻先を近づけ、軽く息を吸い込む。


 その仕草さえ、どこか計算されたような優美さがある。


 「日本のBar独特の文化の一つですよね。

 外国のBarじゃ、まずお絞りなんか出ませんから。

 当店のは、ハッカ油を数滴入れたお湯でしっかり洗ってから巻いてるんですよ。

 さっぱりして、でも優しい香りでしょ?」


 美和がそう説明すると、彼女は両手を大きく広げ、オーバーなリアクションで目を丸くした。


 「相変わらずマメねぇ……本当に。

 昔からそうだったけど、開店したらもっとひどくなったんじゃないの?」


 呆れたような、でもどこか愛おしげな声。


 親友だからこそ許される、軽い毒舌。


 美和は肩をすくめて笑う。


 「マメって言われると、なんか負けた気がするんですけどね。

 でも、お客様が喜んでくれるなら、それでいいかなって」


 彼女は拭き終わった手を軽く振って、お絞りをカウンターに戻す。


 視線を美和の顔に戻し、柔らかく微笑んだ。


 美和さんはカウンター越しに軽く咳払いをして、彼の方を向いた。


 「彼さん、ご紹介いたしますね。この方は私の古い知り合いで、ソフィアさんです。

 ロシア系ですが国籍はアメリカの方。CI……じゃなくて、東京で古美術商を営まれている方なんですよ」


 美和の声に少しだけ棘が混じっている気がしたが、彼はそれに気づかないふりをした。


 ソフィアはゆっくりと体を彼の方へ向け、漆黒のビジネススーツの襟を軽く整える仕草を見せた。


 右腰の微かな膨らみ――コンシールドホルスターの存在を、誰も気づかない位置で静かに保ちながら。


 「はじめまして、ソフィア・カヴェーリンです。ソーニャとお呼びください」


 柔らかな声とともに、彼女はスッと右手を差し出した。


 細く白い指先、完璧なネイル。


 まるで大理石の彫刻のような手だった。


 彼は思わず息を呑み、どぎまぎしながらその手を握り返す。


 瞬間、東スラヴ系の完璧な美貌が間近に迫った。


 高い鼻梁、透き通るような白い肌、長い睫毛の下に輝く氷のようなブルーの瞳。


 視線が絡み合った瞬間――世界が一瞬、色を失った。


 彼女の瞳は深く、底知れぬ湖のようだった。


 吸い込まれる。


 心地良いのに、どこか危険で、逃げられない。


 心の奥底から、懐かしいのに初めて会ったような、


 大切で、失いたくないような、ずっと昔から一緒にいたような想いが熱い波となって湧き上がってくる。


 (……誰だ? この人……)



 頭のどこかで警鐘が鳴っているのに、体が動かない。


 彼女の瞳から、目が離せない。


 ――パンッ!


 突然、店内に鋭い柏手の音が響き渡った。


 ハッと我に返った彼が音のした方を見ると、そこにはこめかみに青筋を浮かべ、普段の穏やかな笑顔が完全に消えた美和が立っていた。


 「ソーニャさん! な・に・や・っ・て・る・ん・で・す・か!!」


 声が裏返り、カウンターを叩く手が震えている。


 いつもニコニコで怒ったことなどほとんどない美和が、烈火のように激怒している。


 ……ああ、これが噂の「激おこぷんぷん丸」ってやつか……と、彼はぼんやりと思った。


 ソフィアはケラケラと子供のように笑いながら、美和に肩をすくめてみせる。


 「いやぁ、浮いた噂がとんと無かった貴女に、珍しく『憎からず思ってる男』がいるって聞いたから、どんな男か、つい確かめたくなっちゃってね♪」


 悪びれる様子は微塵もなく、むしろ楽しげだ。


 「貴方もごめんなさいね、色男♪ でも貴方も随分と面白い縁を持ってるみたいね……」


 そう言うと、ソフィアは彼の頭を両手で優しく抱き寄せた。


 柔らかな胸の感触がスーツ越しに伝わり、上品で深みのある香水――おそらくTom Ford - Noir de Noir――が彼を包み込む。


 そして、おもむろに頬に唇を寄せた。


 チュッ、という小さな音。


 「あ~! 一度だけじゃ飽き足らず、二度も~!」


 美和は目にうっすら涙を浮かべ、カウンター内で両手をバタバタさせながら大騒ぎしている。


 ソフィアはそんな美和さんを横目で眺めながら、彼の耳元でそっと囁くように舌をチロリと出して妖艶に微笑んだ。


 「ふふっ……美和ったら、本当に可愛いんだから。昔から変わらないわね」


 彼女のブルーの瞳が、再び彼を捉える。


 今度は、さっきのような「吸い込まれる感覚」ではなく、 どこか遊び心と、底知れぬ深さを湛えた視線だった。


 カウンターの向こうでは美和さんがまだプンプンしながらシェイカーを握りしめていた。



 ウンター内で不貞腐れていた美和さんが、ようやく機嫌を直し始めたのは、それから15分後のことだった。


 シェイカーを握りしめていた手が緩み、いつもの柔らかな笑みが戻ってくる。


 店内の空気が、再び「風花」の穏やかな雰囲気に戻った。


 彼はタイミングを見計らって、場を和ませようと口を開いた。


 ただし、心臓が少し速く鳴っているのを自覚しながら。



 「あ、そういえばソーニャさん……街中で見かけたんですけど、車で東京から来られたんですか?

 さっき、綺麗な品川ナンバーのフェアレディZの横を通りかかったときに、貴女が運転席から降りてくるのを見た気がして……」


 (……絶対に、絶対に街中でいきなり抱き寄せられて頬にキスされたことは言えない。 あの柔らかい感触と香水の匂い、まだ頰に残ってる気がする……)


 ソフィアはカウンターを指で軽く叩きながら、くすりと笑った。


 まだお酒は注文していない。


 彼女の前には、美和がさっき出した温かいお絞りとコースターだけが置かれている。


 「ええ、そうよ。

 飛行機だとどうしても持ち運びが大変な荷物もあるし、レンタカー借りるのも面倒くさいでしょ?

 だからあの子で来たの。

 まぁ、東名や名神あたりでは走り屋っぽい車や高級スポーツカーに何度も何度も絡まれて、別の意味で大変だったけどね♪」


 彼女はあっけらかんと、まるで日常のドライブ話のように言う。


 しかし「何度も何度も」という言葉に、彼は思わず身を乗り出した。


 「何度も……? そんなに絡まれたんですか?」


 ソフィアは肩をすくめて、悪戯っぽく目を細めた。


 「そうよ。最初は『女が弄ったZに乗ってる』って舐めてたみたいで、1台目が並走してきて煽ってきたの。

 ウインカー出して抜かせって合図したら、無視してさらに加速。

 仕方ないからちょっと本気出したら、すぐにぶっちぎってやったわ。

 そしたら次のサービスエリア手前で、今度は2台組で挟み撃ちみたいに絡んできて……。

 結局、4回くらい本気で抜き去ったかしら?」


 美和が小皿を並べながら、さらりと口を挟む。


 「でもあのZでしょ? きちんとメーカー系の工房でボディから作り直して、エンジンも手を入れたRB26に載せ換えてりるから600馬力位出てるって言ってたじゃないですか。

 あれなら相手になんかならなかったでしょ?さらに貴女の運転技術があれば…」


 サラリと、当然のように言う美和さん。


 彼は内心で驚きつつ、必死に平静を装う。


 (……600馬力超えのZをサラッと乗りこなして、走り屋や外国の高級スポーツカーを何度も何度も振り切ってる……。

  街中で見たあの白いZ、確かに怖いくらい雰囲気のある車だったけど…)


 ソフィアはケラケラと笑いながら続ける。


 「まぁね。絡んできた連中、最初は調子に乗ってたけど、ちょっと本気になるとみんなビビって離れていったわ。

 最後の方は『もう勘弁してくれ』みたいな雰囲気が見えて、ちょっと可哀想になったくらいよ…」


 と言った。


 すると美和さんが少し拗ねたような、でも羨ましげな声で、


 「でも、なんで今回はLFAで来なかったんですか? 買ったって言ってましたよね? 98台しか生産されてない、ニュルブルクリンクパッケージ。

 あれならもっと楽に振り切れたんじゃないですか? 私、一度でいいから乗ってみたかったな〜、LFA…」


 ソフィアはそれを聞くと、


 「ん〜、あの子でも良かったんだけどさ。リアのスペースがほとんどないから、荷物が載せられないのよね〜。

 キャリーケース2〜3個なんて日常茶飯事だし……今回は調査が目的だから、結構荷物が多いのよ。」


 と言った。


 「調査……?」


 彼が思わず聞き返すと、ソフィアは軽くウィンクして言葉を濁した。


 「古美術商の仕事よ。希少な品を運ぶときって、意外と嵩張るのよね」


 美和が小さくため息をつく。


 「また『調査』ですか……ホント気を付けて下さいね…。」


 ソフィアは美和の言葉を聞くと、美和の頰を軽くつまんで、からかうように言った。


 「大丈夫よ、大丈夫。今までも何とかなったじゃないの♪」


 二人のやり取りを聞きながら、彼はぼんやりと思った。


 (……高速で走り屋に何度も挑まれて、全部振り切ってる……。 街中で見たあのZ、確かに目立ってたな…)


 カウンターの向こうで、美和が新しいグラスを準備し始めた。


 氷の音が軽やかに響く。


 ソフィアは美和に向かって柔らかく微笑んだ。


 「さて……そろそろ、美和の得意のカクテルをいただこうかしら。」


  美和さんの目が一瞬、懐かしそうに細まる。


 「……了解。ちょっと待ってて下さいね。準備しますから…」


 美和さんはそう言うとカウンター内で何やらゴソゴソと準備を初めた。



 「さ、まずは何を飲ませてくれるのかしら?」


 ソフィアはカウンターに軽く肘をつき、男なら誰もが一瞬息を呑むような、魅惑的で少し意地悪な笑みを浮かべて美和に尋ねた。


 ブルーの瞳が照明を反射し、まるで宝石のように輝いている。


 美和はくすりと笑って、バックバーのワインセラーに視線を移した。


 「そうですね……先程、大変高価なお祝いをいただきましたし、お礼を兼ねて、まずは当店からシャンパンを一本プレゼントさせて頂きます。」


 そう言うと、美和はワインセラーの扉を開け、慎重に一本のボトルを取り出した。


 琥珀色の液体が透き通る透明なガラスに、金色のエレガントなラベルが輝く、まさに芸術品のような佇まい。


 ボトルをソフィアの前にスッと置き、美和は柔らかく説明を始めた。


 「ルイ・ロデレールのクリスタル、2008年ビンテージです。近年では最も評価の高い年の一つですよ」


 ソフィアの目がわずかに細まり、興味深げにボトルを眺める。


 「このシャンパンは1876年にロシア皇帝アレクサンドル2世の味覚を満たすために生まれたんです。

 透明なクリスタルボトルに象徴されるように、味わいは柔らかく丸みのある口当たり。

 フルーティなアロマに力強いミネラル、白い花と柑橘類のアクセントが加わって……本当に素晴らしい一本です」


 美和はそう言いながら、鏡のように磨き上げられた銀色のワインクーラーに水を張り、氷をたっぷり入れ、折り畳んだ白い布を下に敷いてセットした。


 次にバックバーを振り返り、グラス収納棚から一脚の背の高いフルートグラスを取り出す。


 ソフィアがそれを見て、目を丸くした。


 「あら……ロブマイヤーのパトリシアン・シャンパン・フルートじゃない。随分と良いグラスを使ってるのね?

 そんな高価なグラス使ってたら、管理が大変なんじゃないの?」


 少し呆れたような、でもどこか嬉しそうな声。


 美和は肩をすくめて微笑む。


 「せっかくなら、良いグラスでお酒を楽しんでいただきたいですからね。

 もちろん、お手頃な価格のグラスも使ってますよ。

 でも今日は特別です♪」


 そう言いながら、美和はグラスをソフィアの前に置き、ワインクーラーの中のボトルに手を掛けた。


 「あ、美和! 何やってるのよ! グラスが足りないじゃない。

 私に一人でフルボトルを開けろって言うの? 貴女も一杯くらい付き合いなさいよ。

 あとそちらの色男にもグラスを……」


 ソフィアはニッコリと笑いながら、悪戯っぽく目を細めて言った。


 その視線が一瞬、彼の方へ滑る。


 街中でいきなり頬にキスされた記憶がフラッシュバックし、彼は思わず視線を逸らした。


 (……こんな「超」の付く美人に、こんな笑顔で勧められたら……断れる男なんていないぞ…)


 美和は一瞬ため息をつきながらも、すぐに笑顔に戻った。


 美和はカウンターの向こうで、静かに息を吐いた。


 彼女は彼の方へ穏やかな視線を向ける。


 その瞳には、いつもの優しさと、どこか千年単位の時を越えたような、静かな深みがあった。


 だが彼には、それがただの「優しいバーテンダーの目」にしか見えなかった。


 「ごめんなさいね、彼女いつもこんな感じなんです。マイペースで気まぐれで気分屋で……まるで猫ですよね……」


 苦笑いを浮かべながら、美和はバックバーの棚からリーデルのシャンパンフルートをもう2脚取り出し、スピル・バー・マットに丁寧に並べた。


 その一連の動作は、まるで古い神事が繰り返されるように、無駄がなく、優美だった。


 腰のポケットから取り出したラギオールのソムリエナイフ――背面に精緻な彫刻が施された美しい一本――で、ボトルのシールを滑らかに切り取り、剥がす。


 ミュズレを外し、コルクを露わにすると、両手でボトルの底と首をしっかりと支え、ゆっくり回転させながら圧力を抜いていく。


 プシッ……という小さな、息を潜めたような音。


 泡が静まるのを待って、ナプキンで口元を拭い、3脚のグラスに交互に3回ずつ、優しく注ぐ。


 細かな泡がグラスの中で踊り、琥珀色の光が店内の照明を柔らかく反射した。


 ソーニャがグラスを軽く掲げ、柔らかな英語で、心からの響きを込めて言った。


「美和、Congratulations on opening.I pray for your health and good fortune.Let's make a toast. Cheers!」


 美和は目を細め、静かに応じる。


 「ソーニャ、ありがとう。乾杯」


 彼も慌ててグラスを掲げた。


 「Cheers……乾杯」


 グラスを軽く掲げて目線を合わせ、3人は微笑みながら乾杯すると、ほぼ同時にグラスに口をつけた。


 彼の舌に広がったのは、クリームのように滑らかな泡の感触。


 柔らかく複雑な味わい、白い花の香り、白桃や白ブドウ、柑橘類の透明感のあるフルーティーさが一気に広がり、圧倒的なみずみずしさ。


 飲み込んだ後も、香りの余韻が長く残り続ける。


 (……ロシア皇帝が愛したって話、納得だ。これ、ほんとにすごいな……)


 ソーニャも目を閉じて一口味わい、満足げに微笑んだ。


 「ありがとう、美和。私の好きな銘柄を、ちゃんと覚えてくれていたのね」


 空になったグラスをコースターに置きながら、彼女はそう言った。


 美和は優雅に2杯目を注ぎ足しながら、静かに答える。


 「当たり前ですよ。古いお付き合いなんですから……

 でも、貴女と初めてお会いした当時のお友達も、随分と減りましたよね……」


 その言葉に、微かな寂しさが混じる。


 美和の笑みは優しいのに、どこか永遠の時を生きる者の孤独を宿しているように見えた。


 だが彼には、それがただの「昔の友達が減った寂しさ」にしか聞こえなかった。


 ソーニャもグラスを軽く回しながら、静かに頷いた。


 「そうね……随分減っちゃったわね……」


 二人の間に、長い年月を越えた重い空気が流れる。


 失われた友人たちの影が、静かに店内に漂った。


 それを振り払うように、ソーニャが明るく声を上げた。


 「あ、そう言えばこの間仕事で岩手に行ったんだけど、瑠璃音に会って来たわよ。

 あの子も貴女に会いたがっていたわ。

 ここで店を開いたって話したら、『中々遠野を離れられないけど、一度時間を作って絶対に尋ねるから宜しく』って」


 美和の顔がパッと輝いた。


 まるで山の頂に咲く一輪の花が、突然陽光を浴びたように、満面の笑み。


 「瑠璃音に会ったんですか!? 彼女、元気にしてましたか? 会いたいです!」


 ソーニャはくすりと笑い、彼の方へ視線を移す。


 「ああ、貴方は知らないわよね。私たちの古い知り合いの子よ。

 遠野の神社で巫女を勤めているわ。きっと貴方も、近い内に会えるわよ……きっとね♪」


 整った唇が微かに動き、男なら誰もが心を奪われるような美しい微笑みを浮かべながら、彼女はそう言った。


 その瞳の奥に、遊び心と――古い神々に仕える者の静かな覚悟が、ほんの一瞬だけ垣間見えた。


 だが彼には、それがただの「妖艶でミステリアスな笑み」にしか見えなかった。


 彼はシャンパンをもう一口含みながら、ぼんやりと思った。


 (……美和さんはただの優しいバーテンダーさんで、ソーニャさんはちょっと変わった古美術商さん。

  瑠璃音って子も、遠野の普通の巫女さんなんだろうな)


 カウンターの向こうで、美和さんが瑠璃音の話を楽しげに聞き始め、ソーニャがからかうように笑う。


 2008年のクリスタルが、三人のグラスの中で静かに泡立ち続けていた。


 夜は、まだ深く、優しく、穏やかに続いていく。


 彼は知らない。


 目の前の女性が、かつて桜の木の下で神々の愛を一身に受けた姫であり、 もう一人が、旧き神の眷属であることを。


 彼はただ、美味しいシャンパンを味わいながら、二人の笑顔に癒されていた。

読んでくださってありがとうございます。


この話は、

「静かなバーに突然現れた、古い知り合いとの再会」

と「長い年月を越えた絆と、決して消えない緊張感」を描きたかっただけの一場面です。


街中で出会った金髪の女性と、黒猫との不思議な会話。

「またね、色男♪」という囁きと、頬に残る口紅の跡。

そして店に現れたソーニャが持ってきた1996年のサロン・シャンパン。


美和さんの「駄目!お返しします!」と慌てる姿、ソーニャの「だーめ♡」と押し切る様子。

二人の間に流れる、長い年月を越えた絆と、微かな危険の気配。


派手な事件も大きなドラマもない、ただ「昔からの知り合いが帰ってきた」ことの温かさと、どこか底知れぬ深さを、誰かの胸にそっと残せていたら嬉しいです。


Bar風花は、どんな過去が訪れても、どんな秘密を抱えていても、静かに扉を開けていられる場所であり続けたいと思います。


またふらりと寄ってくださいね。

次はどんな再会と、どんな一杯が待っているのか……私にもまだわかりません。


それでは、今夜も良い夜を。


天照(Bar風花)

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