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【Bar風花 閑話】 初冬の咆哮と淡金の処方箋 〜跳ねっ返りナースと助手席の茶色い相棒〜

【前書き】


※作中に登場する実在の車両、模型、ならびにポップカルチャー等の固有名詞は、登場人物たちの愛すべき日常を彩るモチーフとして、深い敬意を込めて引用しております。

※医療手技や機械工学、動物愛護管理法等に関する描写は、専門的見地を取り入れつつ物語としての演出を施しています。

※山あいの小さな町で、誰かのために懸命に走る人々の温かな息遣いをお届けします。


風花山から吹き下ろす初冬の風が、銀杏の枯れ葉をからからと転がす午後。

木造の平内科医院に響き渡ったのは、耳を劈くターボチャージャーの咆哮でした。

白衣の下に熱いモータースポーツの魂を宿した弾丸ナースと、助手席で丸くなる小さな相棒。

急変の処置室から険しい山道の往診まで、全力で駆け抜けた長い一日が終わり、路地裏に淡い暖色のランタンが灯る頃——張り詰めた過給圧を抱えた彼女は、静寂に満ちた止まり木の扉を押し開けます。

どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。

第一章:スリーダイヤの咆哮、あるいは助手席の茶色い怪異

 

 風花山から吹き下ろす初冬の風が銀杏の枯れ葉をからからとアスファルトの上で転がしていた。

 木造瓦葺きの平屋を増改築した平内科医院。

 午後一番の休診時間に包まれた院長室の空気はどこか長閑で同時に少しだけ張り詰めていた。

 七十を目前にした院長の平研造は湯呑みの八女茶を啜りながら白髪交じりの眉をハの字に下げている。

 向かいのパイプ椅子に浅く腰掛けた副院長で娘の茉莉はチタンフレームの銀縁ボストン眼鏡を中指で押し上げた。

 手にした一枚の履歴書へ穴が開くほどの視線を注いでいる。

「……信じられないわね」

 古びたカルテ棚が並ぶ部屋に茉莉の冷徹な声が落ちる。

「救急救命センター三年、ICLSプロバイダー、内視鏡技師第2種。おまけにトリアージナースの資格まで持ってる。福岡市内の大病院なら頭を下げてでも引っ張りたい即戦力よ。なんでこんな山あいの個人医院に応募してくるわけ?」

「まあまあ茉莉。人の縁というものは風の吹き回しじゃよ。過疎地の地域医療に志を持つ若者がおるのは素直に喜ばしいことじゃないか」

「怪しいわね。何か裏があるに決まってるわ」

 その疑惑を裏付けるように穏やかな午後の静寂が突如として耳をつんざく金属音によって粉々に打ち砕かれた。

 ——クオォォォォンッ! プシューーーンッ!

 大気を鋭利に切り裂くウエストゲートの咆哮。

 アクセルオフとともに開放型ブローオフバルブが甲高い炸裂音を響かせる。

 研造と茉莉は同時に腰を浮かし窓ガラスへ額を擦りつけるようにして外を覗いた。

 医院の狭隘な砂利敷き駐車場へ四輪を小気味よくスライドさせながら漆黒の軽ハッチバックが滑り込んでくる。

 三菱ミニカ ダンガン ZZ-4。

 昭和の熱気を受け継ぎ平成元年に解き放たれた世界初の量産直列三気筒DOHC・十五バルブ・インタークーラーターボという狂気の内燃機関を積んだ走る化石だった。

 車体はミリ単位の寄せでタイヤ止め寸前にピタリと静止した。

 だが二人の視線を釘付けにしたのはその異常な車体そのものではない。

 助手席のフルバケットシートにサベルトの四点式レーシングハーネスでガチガチに拘束された異様に巨大な茶色い塊。

 丸みを帯びた頭部と突き出たモノアイレール。

 機動戦士ガンダムに登場するジオン公国軍の水陸両用モビルスーツ、SDアッガイの巨大ぬいぐるみだった。

「……な、何なのよあの車は!? それにあの助手席の茶色い頭は一体何事!?」

「おお……直三・十五バルブの排気脈動……! テイクオフの砲弾マフラーじゃな。いい音を響かせるわい」

「父さん! 感心してる場合じゃないでしょ!」

 バフンと重厚なドアが開く。

 運転席から降り立ったのは仕立てのいい濃紺のリクルートスーツに身を包んだ若い女性だった。

 襟足を剃り刃のように鋭く刈り上げた精悍な黒髪ショートボブ。

 背筋は定規を当てたように真っ直ぐ伸び手には黒革のビジネスバッグを提げている。

 足元から覗いていたのはパンプスではなくプーマとスパルコが共同開発した本革製のローカット・ドライビングシューズだった。


 診察室のドアが正確に等間隔で三度ノックされた。

「失礼いたします!」

 通る声とともに現れた水島渚は部屋の中央へ歩み出るや寸分の狂いもない四十五度の角度で深々と頭を下げた。

「水島渚、二十五歳であります! 本日は面接の機会をいただき心より感謝申し上げます!」

 机を挟んで座る面接官は三人。

 院長の研造と副院長の茉莉、そして一番奥で腕を組み氷のような怜悧な眼差しを向けている事務長の平志乃。

 志乃の視線が渚の足元へスッと落ちた。

 母指球に綺麗に重心が乗っている。

 クラッチを踏み抜く人間の骨格だった。

 咳払いをひとつして茉莉が書類を指先で弾く。

「ええと、水島さん。あなたの職務経歴や技術に関してはこれ以上ないほど素晴らしいわ。ただ……ひとつだけ伺いたいんだけれど」

「ハッ! 何なりとお答えいたします!」

「この免許・資格欄の最後。『大型二輪免許』の隣にある……『JAF国内A級ライセンス』って一体何のために看護師の履歴書に書いたのかしら?」

 渚は微塵も怯むことなく胸を張った。

「お答えいたします! 急変した患者の救命率は初期医療介入までの時間に反比例いたします! 特にこの風花町のような山間へき地において降雪や路面凍結に落石などの悪条件下で一秒でも早く現場へ急行するためにはタイヤの摩擦円の限界を掌でセンシングし荷重移動によって車体をねじ込む高度な操縦技量が看護師の必須教養であると愚考いたします!」

「……医療の話を聞いているのに、なんでモータースポーツの講義が始まるのよ」

 茉莉は額に手を当てて天を仰ぎ助けを求めるように研造を見た。

 院長は実に合理的じゃと深く頷いている。

 使い物にならない。

 茉莉は気を取り直しプロの臨床医としての鋭利な視線を渚の瞳へ突き刺した。

「じゃあ実務の質問よ。真冬の早朝、重度の脱水で運ばれてきた独居の高齢者。末梢血管は完全に虚脱して触知も視認も困難なショック状態。あなたなら点滴の静脈ルートをどう確保する?」

 渚の黒目がちな瞳孔がスッと収縮した。

 先ほどまでの体育会系の空気が霧散する。

 救命の最前線で修羅場をくぐってきたプロフェッショナルの研ぎ澄まされた静寂が立ち込めた。

「……目視には一切頼りません」

 渚の声のトーンが半音下がる。

「駆血帯を巻いたあと示指の指腹の微細な圧力センサーで深部結合組織に埋もれた静脈の弾性を三次元的にスキャンします。針の刺入角度は十五度。狙うべきは静脈弁を避けた直走路のクリッピングポイント——エイペックスであります。躊躇なく全開で一撃捕捉し逆血を確認と同時に外套管を滑り込ませ全開で維持輸液を叩き込みます!」

 茉莉は喉の奥を鳴らして息を呑んだ。

 頭の中に血管の立体配管図が見えている。

 本物だった。

 だが技術的な合格点を出しかけた茉莉の胸の奥で愛車家としての抑えきれない血が疼く。

「……いい腕ね。ところで水島さん。駐車場に停めてあるあの車、テイクオフの車高調と吸排気でガチガチに固めてるわね? 私、スバルのインプレッサ22Bに乗っているのだけれど」

 その瞬間、渚の口角が獰猛に跳ね上がった。

「22B……! 水平対向四気筒、名機EJ22を積んだ珠玉のハンドメイド工芸品でありますね! しかし副院長先生……! 九八年のWRCにおいて真紅のスリーダイヤを纏ったランサーエボリューションが刻んだ圧倒的なトラクションを前に、ボクサーサウンドの情緒だけで勝てると思ったら大間違いでありますよ!?」

「な、なんですってぇぇぇッ!?」

 茉莉がパイプ椅子をガタッと鳴らして立ち上がった。

 チタンフレームの眼鏡の奥で青い炎が燃え盛る。

「WRカーの規定に逃げず市販車ベースのグループAで戦い抜いたエボの意地は認めるわ! けれどね、EJ22の不等長エキゾーストが奏でる魂を揺さぶる重低音ボクサーサウンドと、シンメトリカルAWDの低重心が生む異次元の回頭性を舐めるんじゃないわよ!!」

「低重心結構! しかし限界領域で最後に物を言うのは四輪アクティブ・ヨー・コントロールが弾き出す暴力的な旋回性能でありますッ!!」

「まあまあ二人とも! ここは診察室じゃ、サーキットのパドックではないぞ!」

 研造が両手を振って割って入る。

 だがスバルと三菱の血を分けた宿敵の視線は火花を散らし誰にも止められない。

 ——パチンッ。

 その時、部屋の空気を絶対零度へと叩き落とす乾いた破裂音が響いた。

 机の上にプラスチックのバインダーを叩きつけたのは事務長の平志乃だった。

 診察室の温度が一瞬で氷点下まで急降下する。

 猛犬のように歯を剥き出し合っていた茉莉と渚が冷水を浴びせられたようにピタリと硬直した。

 志乃は無言のまま立ち上がりすべるような足取りで渚の正面へと歩み寄る。

 胸ポケットに差された使い込まれたジェットストリームの四色ボールペン。

 清潔に切り揃えられた爪。

 微動だにしない体幹の軸をレントゲン透視のように観察した。

「水島さん」

「ハ、ハッ! 志乃事務長閣下!」

「あなたの技術と度胸、当院の外来、そして内視鏡室に必要よ。明日から来なさい。採用です」

「お母さん!? スバルを愚弄するあんな危険分子を雇う気!?」

「お黙りなさい茉莉。優秀な看護師であることに何の疑いもないわ。……それに水島さん」

「ハッ!」

 志乃の唇の端が極めて優雅に吊り上がった。

「私の愛車……ランサーエボリューションVI トミ・マキネン・エディションの週末の油脂類点検と手洗い洗車。任せてもいいかしら?」

 渚の瞳がカッと見開かれる。

 トミ・マキネン・エディション。

 グループA黄金期の頂点に君臨したスリーダイヤの生ける伝説。

 渚の目頭に熱いものが込み上げてきた。

 両の踵を打ち鳴らし魂の底からの最敬礼を繰り出す。

「ハッッ!! スリーダイヤの至宝をこの手に預かれるとは我が人生最上の光栄! 命に代えましてもチリひとつ残さず磨き上げ過給圧の維持管理に全身全霊を捧げる所存でありますッッ!!」

「よろしくね」

 志乃は満足げに頷いた。

 研造はまた賑やかになりそうじゃと苦笑する。

 茉莉だけが信じられないと頭を抱えて机に突っ伏した。

 平内科医院の静寂を破る白衣の弾丸の配備が完了した瞬間だった。



 

第二章:ジャブロー工廠の目覚めと、風花ダウンヒル

 

 時計の針が午前七時三十分を指そうとしていた。

 風花町の外れに建つ築三十年の木造アパート、通称『風花ジャブロー工廠』の一室。

 朝日が差し込む部屋の壁一面にはガラスケースに整然と並んだ数十体のHGUCジム大隊が寸分の狂いもない射撃姿勢で部屋を見守っている。

 すべて水島渚がゲート二度切りからスミ入れ、丹念なつや消しトップコートを施した精鋭たちだった。

 カチャリとユニットバスの扉が開く。

「あっがい、朝飯の時間でありますよ」

 渚が呼ぶとバスタブの浅い水の中で仰向けになって浮かんでいた小さな影が身を起こした。

 クピッと短い鳴き声を上げる。

 濡れて艶めく褐色の毛並みと器用な小さな手足。

 正規の登録票とマイクロチップを備えた国内ブリード生後八ヶ月のコツメカワウソ——『あっがい』だった。

 渚はピンセットを使い小骨を一本一本丁寧に抜いたアジの切り身をあっがいの口元へ運ぶ。

 器用に両手で魚を挟みもぐもぐと美味しそうに咀嚼する愛くるしい姿。

 渚の精悍な顔立ちがデレデレに蕩けた。

「うむ、よろしい。今日も水密装甲に異常なし。出撃準備にかかる!」

 アパートの駐車場。

 ミニカ ダンガン ZZ-4の助手席ドアを開けると特大SDアッガイのぬいぐるみが鎮座している。

 腹部に誂えられた特注カンガルーポケットへ腹ごなしを終えたあっがいが自らスポンと潜り込んだ。

 顔だけをひょこっと出した状態のあっがいごとサベルトの四点式ハーネスを締め上げる。

「よし、車体との一体化よし。1G締め完了!」

 キュルルル、ドウンッ!

 三気筒ターボが目覚め太いアイドリング音が早朝の澄んだ空気を震わせた。

 渚の右手がアルミ削り出しのシフトノブを1速へ叩き込みクラッチをミートさせる。


 風花山の山裾を走るワインディングロード。

 朝露に濡れたアスファルトの上をダンガンが矢のように駆け下りていく。

 コーナーの手前で渚の右足が鋭いヒール&トゥを繰り出しアクセルをブリッピングして回転を瞬時に同調させた。

 フォンッ!と完璧な吸い込みとともにギアが3速から2速へ落ちてフロントが鋭利にインへ切れ込む。

 助手席のポケットの中で遠心力に身を任せながらあっがいは楽しそうにクピクピと喉を鳴らしていた。


 午前八時十五分。

 平内科医院の駐車場へ滑り込むとそこには既に二台の乗り物が並んでいた。

 受付の早坂小春が乗るSPOONのパーツで上品にまとめられたホンダ・S660。

 そして専任薬剤師の薬師寺律が通勤に使っている漆黒のFOCUS製カーボンロードバイク。

「目標、平医院前線基地へ着弾。これより午前外来防衛ラインを展開する!」



 

第三章:外来防衛ライン、あるいはエイペックスの穿刺

 

 更衣室で濃紺の特注スクラブに着替え足元をプーマ×スパルコで固めた渚が受付カウンターへ現れる。

 小春が花がほころぶような笑顔でカルテの束を差し出してきた。

「渚さん、おはようございます〜♪ 今朝は冷え込みましたから新患のおじいちゃんたちがもう並んでますよ〜。トリアージ、お願いしますね〜」

「了解であります、小春殿! 防衛ライン構築のため受付カウンターの右翼に警戒監視用の歩哨を配備いたします!」

 渚がポケットから取り出したのは完璧なスミ入れが施されたHGUCジム。

 カウンターの隅へカチリと配置した瞬間、小春が目を輝かせジムの両手に処方箋の整理用クリップを挟み込んだ。

「渚さん、このジムさんの腕、伝票挟むのにちょうどいい角度ですね〜♪」

「ああっ、我が小隊の精鋭が一瞬で事務什器に偽装無力化された……!」

 ガックリと肩を落とす渚だったが待合室の自動ドアが開いた瞬間に背筋がピンと伸びた。

 入ってきたのは腰をくの字に曲げて杖をつく近所の柿農家の甚八爺さんだった。

 渚は軍隊調を完全に消し去りふわりと柔らかい笑みを浮かべて駆け寄る。

「甚八じいちゃん、おはよう! 寒かったでしょ。外、霜が降りてたもんね」

「おお、渚ちゃん……。今朝から腰が鉛のように重とうてのう……」

「うん、歩くの辛いね。こっちのベッドで少し横になろうか。足元、ゆっくりでいいからね」

 渚の手が甚八の背中と肘を絶妙な力加減で支える。

 温かい手で触れてもらうだけで痛みが半分消えたようだと甚八が顔を綻ばせた。

 靴を脱ぐのを手伝いながら渚は優しく声をかけ続ける。

 待合室のあちこちから血圧を測ってほしいと声がかかった。

 救命救急の修羅場を駆け抜けた弾丸娘はいまや風花町の年寄りたちにとって最高に頼もしい町の孫だった。


 午前十時三十分。

 処置室のカーテンの奥で茉莉の緊迫した声が響く。

「血圧78の40、脈拍120で微弱!」

「重度の脱水症よ、急いで生食500全開で落として!」

「……くっ、血管が潰れて入らない……!」

 ベッドに横たわるのは独居の高齢女性。

 繰り返す嘔吐と下痢で完全に水分を失い腕の静脈はペシャンコに虚脱していた。

 研造が駆血帯を巻き直し茉莉がシリンジを構えるが青い筋すら浮かび上がらない。

「父さん、カットダウンの準備を……」

「待ちなさい」

 処置室の引き戸が開き志乃が鋭い視線とともに渚の肩を叩いた。

「水島さん、行きなさい」

「ハッ!」

 渚が処置台の脇へ滑り込んだ。

 手袋を嵌める乾いた音が響く。

 渚の右手が患者の冷え切った前腕に触れた。

 視線は皮膚を見ない。

 渚の脳内モニターに皮下組織の断層図が立ち上がる。

 示指の腹がわずかな筋膜の隙間をなぞった。

 橈側、深さ二ミリ。

 微細な弾性を捉える。

 ここがエイペックスだった。

「22ゲージ、針入ります!」

 迷いのない十五度。

 針先が皮膚を破り虚脱した血管の内腔へ吸い込まれた。

 カチリと内筒のフラッシュバックチャンバーに深い暗赤色の血液がツッと満ちる。

「逆血確認! ルート確保完了であります!」

「なっ……一発で……!?」

 茉莉が息を呑む間もなく渚の手は外筒を進めラインを接続してクレンメを全開にした。

 落ち始める点滴の滴下筒を睨み据える。

「生食全開投与開始! ——加圧注入、急速負荷をかけます!」

 数分後、虚脱していた末梢循環に生食が満ちるにつれ血圧計のデジタル表示が息を吹き返した。

「バイタル再検、血圧86まで浮上! 防衛ライン、死守いたしました!」

「……見事じゃ。職人技じゃな」

 研造が深く息を吐き眼鏡を拭いた。

 茉莉は悔しそうに唇を噛みながら手袋を外す。

「……認めるわよ。あなたのその指先のセンサー、私の超音波エコーより正確だわ」

「恐縮であります、副院長先生!」



 

第四章:内視鏡室の音速レスポンスと、裏庭の潜水訓練

 

 午前十一時四十五分。

 午前外来の山を越えた医院の最深部で内視鏡室の照明が落とされた。

 薄暗い部屋にハイビジョンモニターの青白い光が浮かび上がる。

 執刀医の茉莉がスコープの操作部を握りミリ単位の繊細さで大腸の屈曲部をクリアしていった。

 隣に立つのは内視鏡技師第2種の資格を持つ渚だ。

「S状結腸クリア。脾弯曲部を通過……横行結腸に入るわよ」

「スコープ先端の湾曲角、追従良好であります。送気圧、微調整中」

 二人の間に無駄な言葉は一切ない。

 モニターの映像が上行結腸へ達した瞬間、粘膜のヒダの裏にわずか八ミリ大の平坦型ポリープが姿を現した。

 茉莉の瞳が細まる。

「ポリープ視認。スネ……」

 ——カチャリ。

 茉莉が言い終わる前のコンマ五秒。

 渚の両手から差し出されたスネア鉗子のシースがスコープの鉗子口へ完璧な角度で滑り込んだ。

 先端のループが開口スタンバイされる。

 術者の視線と呼吸の間合いを先読みしていなければ不可能な神業だった。

「……スネアリングするわよ」

「通電装置、設定確認。スネア緊縛……テンション均一であります」

「通電!」

 ペダルを踏むと同時に青い高周波電流が病変部を焼き切った。

 渚が電光石火の早業でスネアを引き抜くと同時に挿入された回収ネットが舞い落ちる病変を完璧に捕らえる。

 一気に体外へ引き抜いた。

 全処置時間はわずか三分だった。

 検査室の明かりがついた時、茉莉は額の汗を拭いながら信じられないものを見る目で渚を睨んだ。

「あなた……私の脳みそにテレパシーの電極でも繋いでるわけ?」

「副院長先生のモニターを見つめる視線の角度、そして左手の親指のわずかな撓みを見れば次に要求されるデバイスの種類とサイズは自ずと見えてくるのであります!」

「……生意気。でも、最高の助手よ」


 十二時四十五分。

 スタッフルームのカッターマットの上で三つ巴のイデオロギー闘争が勃発していた。

「水島君! なぜそう毎回毎回、同じ量産型のジムばかり組むんじゃ! ハセガワの繊細なパネルラインを誇る大戦機を見たまえ、この紫電改の美しいスジ彫りを!」

「父さん、ハセガワ至上主義は時代遅れよ! タミヤのパーツ精度の狂気の擦り合わせこそが世界標準なの! ……それに水島さん、あなたのそのジム、足首の接地角が甘いわよ! スバルのサスペンションのようにキャンバー角を付けなさい!」

「何をおっしゃる副院長先生! ジムの魅力はこの素っ気ない工業製品感にこそあるのであります! 泥臭い量産機が束になって敵のエースを包囲する絶望感こそが……」

 ガチャリ。

 スタッフルームのドアが開いた。

 漆黒のサイクルジャージを着た専任薬剤師の薬師寺律が無表情で仁王立ちしている。

「……先生方、ならびに水島看護師。模型論争で交感神経を無駄に昂らせる暇がおありなら、先週の院内薬品在庫の棚卸しデータとご自身の先月のγ-GTPの数値を再確認されてはいかがですか」

「「「……すみません」」」

 研造と茉莉と渚の三人が一斉に正座した。


 十二時五十分。

 お説教から解放された渚はケージからあっがいを抱き上げ医院の裏庭へ向かった。

 手入れの行き届いた日本庭園には清らかな湧水を引き込んだ錦鯉の池がある。

「あっがい、1250演習を開始する! 協定に基づき、1300完全乾燥を死守せよ!」

 ドボンッ!

 あっがいは嬉しそうに水煙を上げて池の中へダイブした。

 優雅に泳ぐ錦鯉の群れを先導するように滑らかなS字を描いて潜水演習を繰り広げる。

 ツツジの木陰にはストップウォッチを手にした志乃が静かに佇んでいた。

 十二時五十八分。

 渚の口笛とともに水面から飛び出してきたあっがいを吸水マイクロファイバータオルで包み込む。

 毛並みの一本一本まで高速で完璧に拭き上げた。

 ピピッ。

 志乃のストップウォッチが電子音を鳴らした。

 時計は十二時五十九分五十秒。

 志乃はあっがいの背中にそっと指先を触れ湿り気のないことを確認すると微かに口元を緩めた。

「……乾燥度、完璧ね。合格よ、あっがい」

「クピィ!」

 あっがいは満足そうに志乃の手のひらに鼻先を擦り付け渚はビシッと敬礼した。



 

第五章:強襲往診、そしてアニマルセラピーの奇跡

 

 午後二時三十分。

 平内科医院の午後は自力での通院が困難な山間部の患者を巡る訪問診療の時間だった。

 本日の編成は二台。

 先行するのは茉莉が駆るスバル・R1S。

 直列4気筒DOHCスーパーチャージャー——スバル自慢のクローバー4を積んだ街乗り用スペシャルだった。

 後ろにピタリと張り付くのは渚とあっがいが乗るミニカ ダンガン ZZ-4。

「後方視界よし。先行するR1Sを追従、強襲往診部隊、発進であります!」

 目指すのは風花町の最奥部、風花山の尾根近くに建つ独居老人・トメさんの家だ。

 道幅は車一台がやっとの激狭舗装林道。

 右は切り立った岩肌で左は深い谷底。

 ガードレールすら途切れ途切れの悪路を茉莉のR1Sが軽快に駆け上がる。

 だがバックミラーを覗いた茉莉は思わず舌打ちした。

「……くっ、ぴったり張り付いて離れないじゃないの」

 渚のダンガンは急勾配のヘアピンカーブでも四輪の接地感を完璧に保っていた。

 テイクオフの強化サスがロールをミリ単位でいなす。

 ステアリングを握る渚の目には路面のグリップ限界が手に取るように見えていた。


 トメさんの古い木造家屋に到着すると二人は手際よく医療機器を運び込んだ。

 だがトメさんはベッドの上で浮かない顔をして固く縮こまっている。

「茉莉先生……腕が痛うてのう……血圧の測られるのも注射されるのも怖うてたまらんのじゃ……」

 独居の不安と持病の痛みが老人の心を頑なに閉ざしていた。

 血圧計のマンシェットを巻こうとする茉莉の手をトメさんは怯えるように引っ込めてしまう。

 無理に測れば緊張で収縮期血圧が二百を超えてしまう危険があった。

 その時、渚がスッと膝をついた。

「トメばあちゃん、こんにちは。……ちょっと特別なお客さんを連れてきちゃったんだけど、会ってくれる?」

「……お客さん?」

 渚が胸元のバッグのファスナーを静かに開けた。

 くりくりとした漆黒の瞳を持つあっがいが顔を覗かせる。

 畳の上にそっと前足を下ろすとトメさんのベッドへトコトコと歩み寄り布団の上にピョンと飛び乗った。

 枯れ枝のような手のひらの横でコロンと丸くなり器用に体育座りのポーズをとる。

「まあ……! まあまあまあ……!」

 トメさんの顔に見る間に驚きと歓喜が広がった。

「なんね、この可愛い子は……! カワウソかね……?」

「そうだよ、あっがいっていうの。トメばあちゃんの手があったかくて気持ちいいんだって」

 トメさんの強張っていた指先がおずおずとあっがいの柔らかな背中を撫でた。

 あっがいは喉を猫のように鳴らしてトメさんの手首に自分の小さな手をそっと重ねる。

 その瞬間、トメさんの瞳からハラハラと大粒の涙が零れ落ちた。

「……ずっと、ひとりで寂しかったんじゃ……。可愛いねえ、あったかいねえ……」

 渚が茉莉へ目配せをした。

 茉莉は息を潜めてトメさんの反対側の腕へ滑らかにマンシェットを巻き送気球で静かに加圧する。

 バルブをわずかに緩めるとシューッと微かな減圧音が漏れた。

 聴診器に神経を研ぎ澄ませていた茉莉が小さく息を吐く。

「血圧、百二十八の七十四。脈拍六十八、整。……完全に平常値よ」

 渚は胸の前で小さく拳を握りしめた。

「これぞ我が部隊の誇る精神的平定作戦——アニマルセラピーであります!」

「……ふふ、あんたたち、本当にいいコンビね」

 茉莉が心からの笑顔を浮かべトメさんの背中を優しくさすった。



 

第六章:『Bar風花』の止まり木、あるいは眠れる弾丸

 

 夜の八時半。

 激動の一日を終えた風花町の目抜き通り、白壁通りの古い石畳にダンガンの静かなアイドリング音が溶けて消えた。

 細い路地の奥で古いレンガ壁に這う蔦と真鍮製ランタンが淡い暖色光を放っている。

 オーク材の重厚な扉に掲げられた小さな真鍮プレート——『Bar 風花 -kazahana-』。

 カランとドアベルが澄んだ余韻を響かせた。

「こんばんはであります……」

 白衣を脱ぎミリタリージャケットを羽織った渚があっがいを胸元に抱えて入ってくる。

 店内には古いレコードの針が落ちるような微かな残響と遠い春を思わせる山桜の香りが漂っていた。

 磨き上げられた鉄刀木の一枚板カウンターの向こうで純白のバーコートを纏った櫻庭美和が右のワインレッドと左のアンバーの異色瞳を柔らかく細める。

「あら、渚ちゃん。いらっしゃい。……今日もお疲れ様だったわね」

「美和さん……! ただいま帰還いたしました……」

 渚はカウンターの端の黒革ローチェアーへドサリと沈み込んだ。

 隣のスツールの上に柔らかいクロスを敷いてあっがいを座らせる。

 前足を揃えて行儀よく美和を見上げるあっがいへ美和が指先を差し出すと甘えるように鼻先をすり寄せた。

 カウンターの奥からネルシャツにウールベストを着た櫻庭天が穏やかな笑顔で顔を出す。

「渚さん、こんばんは。今日も一日、風花町を守ってくれてありがとう」

「天さん! ううっ、天さんの顔を見ると全身の過給圧が抜けて廃車になりそうであります……」

「ふふ、じゃあ最高のエネルギーを補給しなくちゃね」

 美和の手がバックバーに整然と並ぶボトルから緑色の無骨な一本を迷いなく引き抜いた。

 スコットランド・アイラ島の至宝——『アードベッグ 10年』。

 美和はメジャーカップを一切使わない。

 氷室から取り出した純度百パーセントの氷を手作業で角のない丸氷へと削り出しロックグラスへ滑り込ませた。

 ボトルを傾けると流速と手のひらの感覚だけで注がれた完璧なシングルが丸氷の頂点から淡い黄金の滴となって滑り落ちる。

 ステアはわずか一回転半。

 コトリと置かれたグラスから爆発的な泥炭の煙香と潮風の香りが立ち上った。

「どうぞ。あなたのための一杯よ」

 渚は両手でグラスを持ち上げまずその香りを深く吸い込んだ。

「……はぁぁぁ。このアイラ島の強烈な燻煙香……フルブーストで全開走行した直後の焼き焦げたエキゾーストノートと同じ匂いがして最高に五臓六腑へ染み渡るであります……!」

 グラスを傾け澄んだ淡金の液体を舌の上へ転がす。

 強烈なスモーキーさの奥から麦芽の繊細な甘みとレモンの爽快感が広がった。

 喉を通った瞬間、張り詰めていた神経の結び目がぷつりぷつりと解けていく。

 天がサイフォンで淹れたばかりの温かい八女茶ブレンド珈琲をそっと差し出してくれた。

「はい、渚さん。胃を温めてね」

「天さん、ありがとうございます……。美味しい……本当に美味しいであります……」

 ふと視線を上げるとカウンターの中で美和が天の淹れた珈琲を一口含み二人が言葉もなく微笑み合っていた。

 互いへの深い敬意と何十年もの歳月をかけて育まれた絶対の信頼。

 その甘やかで静謐な空気感は世界中のどんな荒波も寄せ付けない完璧な聖域そのものだった。

 渚は丸氷をカランと揺らしながらとろけそうな目で二人を見つめてぽつりと呟く。

「……はぁぁぁ。やっぱり天さんと美和さんは見ているだけで私の汚れた魂が純白に洗われていくようでありますよ……」

「え? 僕たちが?」

「そうであります! この完璧な調和、絶対的な相互補完……完全に『機動戦士ガンダムSEED』のキラとラクスでありますよ……! 美和さんがラクス様で、天さんがその愛を背負ってフリーダムに乗るキラ・ヤマトであります……尊い……尊すぎて過給圧計が振り切れる……✨」

「ふふ、渚ちゃんたら、また不思議なたとえ話をして」

 美和がくすくすと上品に喉を鳴らして笑いあっがいの頭を優しく撫でた。

 丸氷がグラスの中で涼やかな音を立てる。

 静かなピアノの残響とカウンターの隅で香る微かな山桜の匂い。

 ウイスキーの温もりと相棒の体温、そして世界で一番温かい夫婦の笑顔。

「……もう……一歩も……走れないであります……」

 呟いた瞬間に渚のまぶたが限界を迎えてストンと落ちた。

 グラスをコースターへ戻した渚はスツールから身を乗り出してきたあっがいを胸の中に抱きしめ鉄刀木の滑らかな木肌の上へコテンと突っ伏してしまう。

 規則正しい小さな寝息が静寂へ溶けていった。

 白衣の弾丸娘の長くて熱い一日がようやく終わりを告げた瞬間だった。

「……ふふ。本当に、可愛い人ね」

 美和は店の奥から持ってきた柔らかなカシミアのブランケットを眠る渚の肩へそっと掛けてあげた。

 あっがいはブランケットの中からひょっこり顔を出し美和と天に向けて小さく挨拶するように鳴くと腕の中で丸くなって目を閉じる。

「天ちゃん」

「うん、美和さん。明日の朝までゆっくり休ませてあげようね」

 二色の瞳が優しく細められた。

 二人は寄り添いながらカウンターで泥のように眠る小さな戦士をあたたかな眼差しで見守り続ける。

 風花町の夜はどこまでも深く優しく更けていくのだった。

【あとがき】


最後までお付き合いいただき、心より御礼申し上げます。

今回は、風花町の医療を最前線で支える平内科医院の「白衣の弾丸」こと、水島渚のめまぐるしい一日を描かせていただきました。

理屈や数字だけでは割り切れない命の現場で、誰よりも真っ直ぐに患者と向き合い、自らの手でハンドルを握り続ける彼女の情熱と不器用な愛らしさが、少しでも皆さまの胸に届いていれば嬉しく思います。

目まぐるしく回る一日を終え、すべてを脱ぎ捨てて泥のように眠る彼女をそっと包み込む『Bar風花』の止まり木が、画面の前の皆さまにとっても、深く息をつける穏やかな場所でありますように。


もし本作を少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークへのご登録や下部の評価(★マーク)、温かなご感想などをそっと寄せていただけますと、書き手として何よりの励みと過給圧になります。


冷え込む夜には、どうぞ温かい一杯をお手元に。

天照(Bar風花)

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