【Bar風花】第二章 赤間関の夢と琥珀の丸氷 〜神々の止まり木に響く八百年の足音〜
【前書き】
※本作はお酒と歴史、そして町の人々の温かな営みを描いた連作短編小説です。
※作中に登場するウイスキーやカクテル、刀剣に関する描写は、実在の銘柄および伝承・工学の知見に基づいています。
※今夜の止まり木には、平内科医院の名物医師親子が時雨宿りと一杯を求めて暖簾をくぐります。
初冬の冷たい時雨が煙る夜。
白壁の路地裏に灯る琥珀色の明かりへ、町医者親子が転がり込んできました。
海のシングルモルトと冷徹なマティーニ、そして床の間に眠る無銘の太刀を巡る夜話。
八百年の時を超えて寄り添う神々の眼差しと、ちょっぴり抜けた親子の帰り道。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。
第一章:冬時雨の止まり木と赤間関の夢
初冬の冷たい時雨が風花町の古い軒並みを静かに濡らしていた。
風花連山の裾野から這い降りてくる夜霧は深く街灯の橙色をぼんやりと滲ませている。
軒先を伝う雨垂れの音と水路のせせらぎが重なり合い山あいの町の底へ吸い込まれていった。
細い路地の奥でしっとりと濡れたオーク材の扉が真鍮の鈴をかすかに鳴らして押し開かれる。
暖かな灯りと共に流れ込んできたのは冷たい雨の匂いと老医師のわずかに上気した吐息だった。
「こんばんは、美和さん。いやあ、今夜は一段と冷えるな。風花山の山手の方はもう霙になりそうだよ」
「いらっしゃいませ、研造先生、茉莉先生。お足元の悪いなか、ようこそお越しくださいました」
純白のバーコートを身にまとった櫻庭美和が静かな湖面のような一礼で迎える。
研造の後に続いて入ってきた茉莉は撥水加工のトレンチコートを脱ぎながらやれやれと肩をすくめてみせた。
「こんばんは、美和さん。……聞いてくださる? 今夜はもう往診も外来も終わって、カルテの整理だけだったのよ。それなのに、うちの院長ったら『雨の日は関節が痛む患者の顔が浮かぶ』とか何とか言って、勝手に晩酌を始めちゃって。挙げ句の果てに、ガレージのスバル360に火を入れてここまで乗り付けようとするから、慌てて私のレヴォーグの助手席に押し込んできたのよ」
「何を言うか。360の空冷二気筒はな、たまの湿気を含んだ空気のほうがキャブの吸気密度が上がって調子がいいんだ」
「雨の夜にデスビが湿気たらどうするのよ。立ち往生してJAFを呼ぶ院長の姿なんて、町の誰も見たくないわ」
茉莉の容赦のない指摘にカウンター最奥でノートパソコンを開いていた天が眼鏡の奥の目元を緩めて立ち上がった。
「大先生、茉莉先生、お疲れ様です。冷たい雨でしたから、まずはお身体を温めてください」
「おお、天くん。今夜も精が出るな。……美和さん、すまんがいつものようにロックで頼むよ。今夜は少し、喉を焼くような骨太なやつを美和さんに選んでもらいたいな」
「畏まりました。では、ハイランドのオールドプルトニーを。潮風と北海の厳しさを宿した、力強い一本でございます。……茉莉先生には、いつもの冷徹な一杯をお作りしてよろしいですか?」
「ええ、お願い。今夜は父の相手で神経をすり減らしそうだから、極限までドライなマティーニをちょうだい」
美和は氷室から掌大の純氷を取り出しアイスピックを迷いなく振るって鋭角を削ぎ落とし滑らかな丸氷へと仕立てていく。
削られた氷の破片が清冽な音を立てて水盤に散った。
大振りのロックグラスに氷を滑り込ませ飴色の液体を静かに注いでバースプーンを一回転させる。
鉄刀木の一枚板を滑るようにして琥珀の満ちたグラスが研造の前へと差し出された。
続いて美和はミキシンググラスへ純氷を滑らせ研ぎ澄まされたロンドン・ドライ・ジンとドライ・ベルモットを注ぐと氷の角を立てぬよう静かにバースプーンを走らせた。
指先のわずかなスナップだけで氷が滑らかに旋回し冷気を含んだ液体が薄張りのカクテルグラスへと淀みなく注ぎ落とされる。
ピンに刺された一粒のオリーブが底へ沈み冷徹なまでのキレを湛えたドライ・マティーニが茉莉の前へと静かに置かれた。
「いただきます」
研造が節くれだった太い指先でグラスを傾けた。
力強い潮の香気と濃厚な麦芽の滋味が初老の医師の喉をカッと駆け抜ける。
ふう、と深く息を吐き出した研造の顔はすでに平医院の居間で引っかけてきた酒も手伝ってほんのりと赤みを帯びていた。
研造はロックグラスを指先で軽く揺らし丸氷をカランと転がしながらふと遠い目を宙へと泳がせた。
茉莉が隣でマティーニのステムを指で挟んだまま小さく身構える。
「……始まったわね」
「ん? 何がだ茉莉」
「父のアルコール血中濃度が0.1%を超えた時の、あの特有の遠い目よ。今夜の講釈は何かしら。スバルの水平対向エンジンの航空機由来の血統かしら、それともハセガワのプラモデルのすり合わせの美学?」
「馬鹿を言え。今夜のような蕭々たる雨の夜にはな、もっと深い……我が平家の原点の血が騒ぐのだよ」
研造は咳払いを一つするとカウンターの向こうで微笑んでいる美和へ向かって大真面目な顔で身を乗り出した。
「美和さん、知っとるかい。我が平家の血筋はな……遡れば、あの壇ノ浦で源氏の白旗に追われ、関門海峡の波間に消えたと見せかけて、密かにこの風花の山奥に落ち延びてきた『平家の武者』の末裔なんだよ」
茉莉が天井を仰ぎ深いため息とともにマティーニを一気に半分あおった。
「出たわよ……。『平家落人ファンタジー』。美和さん、真に受けちゃ駄目よ。この人の酒の肴なんだから」
「ファンタジーとは心外な! 壇ノ浦の赤間関で敗れた我が一門はな、長門から海を渡り、風花川を遡り、風花連山の険しい山襞に身を隠したのだ。平清盛公の栄華も壇ノ浦の藻屑と消えたが、その無念の魂がこの風花の清らかな水と土に癒やされ、やがて刀を捨てて薬草を摘み、病人を救う町医者へと転じた……。これほど辻褄の合った美しいルーツが他にあるか!」
「辻褄を自分で合わせにいってるだけでしょ! だいたいね、江戸末期の平家の過去帳を見たら、ただのあぜ道沿いの百姓と薬種商じゃないの。武士の記録なんて一文字も残ってないわよ。遺伝子検査でもしてみる? Y染色体のハプログループでも調べたら、あっさり『土着の農耕民』って結論が出て終わりよ」
「エビデンス、エビデンスと夢のないことを言うな! 志乃までがいつも『落人にしてはエンゲル係数が高すぎる』だの『税務署に平家の落人控除があるか聞いてきなさい』だのと冷や水を浴びせおってからに……!」
研造が悔しそうにグラスを揺らす横で美和はワインレッドとアンバーの瞳をいたずらっぽく細め鈴を転がすように低く笑った。
「ふふ……。平家のお武家様でしたのね、研造先生」
「おお、若奥さんには分かるかい! あの壇ノ浦の海は青かったが、無念の赤旗が夕日に染まってだな……」
美和は新しいチェイサーのグラスを静かに滑らせ夜の桜がふわりと匂い立つような穏やかで澄み切った声で言葉を紡いだ。
「ええ、とてもよく分かりますわ。……源平の合戦よりも、壇ノ浦の波の音よりも、ずっとずっと昔から……この風花町の山々は美しく色づき、傷ついた人々を優しく抱きとめてまいりましたもの。研造先生のご先祖様が、血に濡れた刀を捨ててこの地に根を下ろし、人々の命を救う道を選ばれたのだとしたら……風花の神様も、きっと大層喜ばれたはずですわ」
静かな店内に美和の声音が染み渡っていく。
研造はぽかんと口を開け吸い込まれるように美和の双眸を見つめた。
何か言い返そうとした唇が微かに震え、やがて凭れかかっていたカウンターからゆっくりと背を戻す。
その顔から酔客特有の粗雑な熱気がすうっと引いていった。
「……いやあ。若奥さんにそう言われると……なんだか、先祖の無念の魂までが、極楽浄土へ成仏したような心持ちになるな。……おい天くん、今の美和さんの言葉、平医院の七十周年記念誌の巻頭言にそのまま載せられないか?」
「載せるわけないでしょ!!」
茉莉の鋭い一喝が飛び天が苦笑しながらパイプの灰をタンパーでそっと押さえた。
第二章:無銘の古太刀と二人の鑑定眼
研造は照れ隠しのように残りのプルトニーを飲み干し氷をカランと鳴らした。
毒気を抜かれた老医師の視線は隣で呆れ顔をしている娘へと向けられる。
「まあ、先祖のルーツは藪の中としてもだ。……茉莉、昨日の休診日に、お前が実家の奥の間で何をしていたか、俺は知っとるぞ」
「な、何よ急に」
「床の間の刀箪笥から、先祖伝来の『無銘の太刀』を勝手に引っ張り出して、白手袋をはめて舐め回すように眺めておったろう。俺が大事に手入れしている宝物だぞ」
茉莉の眉がぴくりと跳ね上がった。
「勝手にとは人聞きの悪い! 丁子油が古くなって油膜が酸化し、刀身が変色するリスクがあったから、私が無水エタノールと新しい油で拭き直してあげたんじゃないの。だいたいお父さんの手入れは、打粉を親の仇みたいにポンポン叩きすぎなのよ。刀身の微細なヒケ傷の原因になるって、いつも言ってるでしょう」
「馬鹿を言え! 鹿皮で包んだ良質の打粉を打って、古い油を吸わせる瞬間のあの風情がいいんじゃないか。部屋の明かりを落として、白熱灯の光を斜めから当ててみろ。あの刃文の荒々しい沸の乱舞……あれは絶対に古伯耆の安綱か、さもなくば古備前の友成の系統だ。平安の昔、馬上の武士が兜ごと敵を叩き割るために打たれた、豪壮無比な剛刀だよ。我が平家の落人伝説を裏付ける、唯一無二の証拠品じゃないか」
「また始まった……!」
茉莉はマティーニのオリーブを銀のカクテルピンごと引き上げ呆れたように額に手を当てた。
「お父さんの古刀信仰は、ロマンという名の現実逃避よ。刃文の荒沸だの匂口の煙り方だの、金属組織学的に見れば単なる炭素濃度の偏析と冷却速度の不均一が生んだムラじゃない。あの刀の真価はそこじゃないわ」
「何だと?」
「地鉄の詰み方よ。ルーペで見たら、小糠肌とまではいかないけれど、折り返し鍛錬の層が極めて緻密で、不純物が極限まで叩き出されているの。刃文だって、大乱れの中にも整然とした直刃調の規則性がある。備前長船の初期……あるいは一文字派の高度な熱処理工学の結晶よ。オーステナイトからマルテンサイトへの相変態が、あれほど歪みなく計算されて焼き入れられた刀が、ただの力任せの剛刀なわけないでしょう。現代の医療用メスにも通じる、極限の機能美よ」
「工学だのマルテン何とかだの、風情のないことを言うな! 刀は鉄の命だ。打った刀工の気迫と、振るった武士の魂が宿っているんだ!」
カウンターに響く父娘の激論。
模型においては「ハセガワの職人技によるすり合わせ」を尊ぶ研造と、「タミヤの公差ゼロの再現性」を崇める茉莉。
その思想対立がそのまま日本刀の鑑賞眼においても寸分違わず再現されていた。
天はパイプを灰皿の縁に置き手帳を胸ポケットから取り出すと静かな口調で会話に割って入った。
「……あの太刀、以前大先生に見せていただきましたが、確かに尋常な作ではありませんね」
茉莉が眼鏡の奥の瞳を輝かせ身を乗り出す。
「天さんもそう思うでしょう!? 天さんは元自衛官で、武器や力学の構造には詳しいものね」
「ええ。僕が驚いたのは、その寸法と重量バランスです。刃長は二尺七寸強……現代の感覚からすればかなりの長寸ですが、手に取った瞬間、重さを感じさせないほど手元に重心が収まっている。元幅に対して先幅が狭まる、いわゆる『踏ん張り』が極めて強く、腰反りが高い。平安末期から鎌倉初期にかけての、典型的な騎馬戦用の太刀の姿です」
「そう! そこなのよ!」
茉莉が膝を打った。
「あの刀身の重ねの薄さ! なのに鎬筋が高く立っていて、断面が綺麗な三つ棟に近い形状をしているから、曲げ剛性を決定づける断面二次モーメントが驚くほど高いの。薄くて軽いのに、絶対に折れないし曲がらない。現代のカーボンモノコックシャシーと同じ設計思想よ」
「ですが」
天は手帳のペンを走らせながら静かに眉をひそめた。
「重ねをあそこまで薄く鍛えながら、焼き入れの歪みを出さず、鎬の高さを保って剛性を確保するなど……当時の製鉄技術を考えれば神業です。平安末期、砂鉄の選別から炉の温度管理までを完全に掌握していた、ごく一握りの天才刀工にしか不可能な芸当ですよ」
「うむ……!」
研造が我が意を得たりと頷く。
「天くんの言う通りだ! だからこそ、俺は古伯耆の安綱一派だと思うのだよ。童子切安綱を打ったあの伝説の鍛冶集団なら、それくらいの奇跡は起こせる」
「だからって、なんでそれが平家の落人伝説に直結するのよ!」
茉莉がすかさず反論する。
「銘がないのよ、銘が! 茎を見ても、銘を削り落としたようなヤスリ目と錆色があるだけで、作者の手がかりは完全に消されてるじゃない。文化財の鑑定に出したって『無銘・古刀』で一括りにされて終わりよ。きっと明治の廃刀令の時に、困窮した没落士族からご先祖様が二束三文で買い取ったものに違いないわ」
「二束三文とは何だ! 俺が四十年間、毎月欠かさず油を塗り替えて、大切に守ってきた刀だぞ!」
二人の声が再び熱を帯びかけたその時。
美和が手元で回していたバースプーンの手を止めふっと遠くを見るように目を細めた。
第三章:薄氷の刃、木枯らしの気配
「……ふふ。『風の音』がいたしますものね、あの太刀は」
静かな、だが鈴のように凛と透る美和の声に父娘の口論がピタリと止まった。
茉莉が瞬きを繰り返す。
「え……? 風の音、ですか?」
美和は微笑み氷の満ちた水差しから天のチェイサーを満たしながら昔を懐かしむような眼差しで語り始めた。
「ええ。以前、研造先生が夜間の往診を終えた後、そのまま家へ薬を届けに寄ってくださったことがありましたでしょう。あの時、先生の白衣から、微かにあの太刀の匂い……古い鉄と丁子油の清冽な香りが漂ってまいりましたの」
「俺の白衣からかい? いやはや、往診の前に刀の手入れをしていたのがバレていたとは恥ずかしい」
「その時ですわ」
美和の声がかすかにトーンを落とした。
Bar風花の店内に流れる静かなピアノの残響がすっと遠のいていくような錯覚を覚える。
「先生が通り過ぎた瞬間、隣の此花神社の境内に咲いていた四季桜の枝が、ふっと音もなく揺れましたの。まだ秋の初めでしたのに……まるで、冬の訪れを告げる冷たい風が、一筋だけ頬を切り裂くように吹き抜けていったような気がいたしました。……そう、山から吹き降ろす、あの『木枯らし』のような風が」
「木枯らし……」
茉莉はその言葉を舌の上で転がし不思議そうに首を傾げた。
「美和さん、本当に詩人ね。でも、言われてみれば奇妙な符合だわ。あの刀、白手袋をして鞘から抜き身を滑り出させるとね……不思議と部屋の空気が二度くらいスッと下がるような錯覚があるのよ。刃文の光が青白くて、まるで氷の刃を見てるみたいで。手入れの油を拭き取る和紙だって、刃の上に落としただけで、何の抵抗もなくハラリと両断されるくらい切れるの。八百年近く前の鉄なのに、錆一つ浮いていないなんて……」
茉莉は何気ない調子で笑いチェイサーの水を一口含んだ。
だが。
その横で天の身体が完全に硬直していた。
(……木枯らし……!?)
天の頭の中で日本刀史の闇に埋もれた無数の古文書と、かつて防衛省やルポライター時代に調べ上げた各地の伝承が猛烈な勢いで一本の線へと繋がっていく。
(平安時代末期……平家一門の重宝。平清盛の父・忠盛、そして平忠度へと受け継がれたと伝えられる幻の名刀……『木枯』……!?)
天の背中に冷や汗がツーと流れた。
伝承によればその太刀は鞘を払えば初冬の木枯らしが吹き抜けるような凄まじい冷気を放ち、触れるものすべてを木の葉のように両断したという。
壇ノ浦の合戦において平家一門の都落ちとともに西海の底へ沈んだとも、あるいは残党の手によって人知れず隠匿されたとも伝えられ、歴史の表舞台から完全に姿を消した幻の宝刀。
(まさか……! 重ねが極限まで薄く、高い鎬筋を持ち、手元重心で驚異的な軽量高剛性を誇る平安末期の無銘太刀……! 追手に平家の宝刀と悟られないよう、茎の銘を意図的に削り落とし、風花山の山奥へ落ち延びた武者が命懸けで守り抜いた現物が……平医院の床の間に、八百年もの間、眠り続けているというのか……!?)
天は思わず隣の研造を見た。
赤ら顔で「俺の安綱説も捨てたもんじゃないだろう」と笑っているこの呑気な老医師の先祖は――本当に、壇ノ浦から落ち延びてきた平家の正統な武者だったのだ。
ホラ話でも、酒の席の与太話でもない。
平研造という男は本物の歴史の重みをその身に宿し、その証拠を自宅の床の間に無造作に転がしながら町医者として四十年間、汗と泥にまみれて生きてきたのだ。
(言えない……ッ!)
天は心の中で激しく頭を抱えた。
(『大先生、先生が酔っ払って語る壇ノ浦の落人伝説は正真正銘の事実で、床の間の無銘刀は失われた平家の重宝・木枯です』なんて口が裂けても言えるか! そんなことを公表した瞬間に、文化庁と国立博物館の学芸員が平医院に押し寄せて重要文化財指定の手続きが始まり、歴史学界がひっくり返る! 平医院の静かな日常が木っ端微塵に吹き飛んでしまう……ッ!)
天が額に手を当ててひとり戦慄しているとカウンターの奥からくすりと喉を鳴らす気配がした。
美和だった。
美和は天の激しい動揺のすべてを最初から見透かしていたかのように異色瞳を細めて悪戯っぽく微笑んでいた。
神代の昔からこの風花の山河と人々の営みを見守り続けてきた女神の瞳。
八百年前の源平の争乱など美和にとってはつい昨日のことのように鮮明な記憶の断片に過ぎない。
美和はあの太刀の正体を最初から知っていたのだ。
第四章:神々の微笑みと八百年の安らぎ
美和はグラスを拭く手を止め静かに研造と茉莉の間へと視線を落とした。
「天ちゃん」
「……は、はい、美和さん」
「名刀も、名車も……持ち主が深く愛して、大切に手入れをしていれば、名前なんて二の次でよろしくてよ。……ねえ、研造先生、茉莉先生?」
美和の柔らかな問いかけに研造は嬉しそうに白い眉を下げた。
「おお、若奥さんの言う通りだ! 安綱だろうが友成だろうが、あの刀は平医院の守り刀だ。俺が死んだら茉莉が継ぎ、茉莉が次の世代へ引き継いでいけばそれでいい。歴史の教科書に載せるために油を塗ってるわけじゃないからな」
「そうね」
茉莉もマティーニのグラスを傾けふっと誇らしげに目を細めた。
「誰が打ったかなんて、どうでもいいわ。あの完璧な熱処理と地鉄の美しさを、休診日の夜に父と二人で飽きもせず眺め合って、あーだこーだと喧嘩できる時間があるだけで……平家にとっては最高の宝物よ」
「うむ! 珍しく茉莉と意見が一致したな! 美和さん、もう一杯だけプルトニーをくれ。今夜は本当に酒が美味い!」
「お父さん、もう一杯だけよ。明日の午前は内視鏡検査が入ってるんだから、手が震えたら承知しないわよ」
軽やかな笑い声が雨の夜のバーカウンターを満たしていく。
天は深く息を吐き出し張り詰めていた肩の力をゆっくりと抜いた。
手帳を閉じパイプの紫煙を天井へと燻らす。
(……そうだ。美和さんの言う通りだ)
失われた平家の宝刀『木枯』。
それは美術館のガラスケースの中で厳重に温湿度管理され、学者たちの論文の俎上に載せられるよりも、こうして風花町の古い木造家屋の床の間に置かれ、風変わりな町医者親子によって「あーだこーだ」と愛でられている方がどれほど幸せだろう。
八百年前、血で血を洗う戦乱の海から落ち延びてきた平家の武者が最後に願ったのは――己の血脈が武を捨て、平和な土地で人々の傷を癒やす存在になることだったのではないか。
その祈りは今、研造と茉莉という二人の医師の手によって完璧に果たされている。
ふと、カウンターの端の暗がりからトスンと柔らかな着地音が響いた。
純白の毛並みを持つ白狐――狐白がいつの間にか飾り棚から舞い下りていた。
狐白は琥珀色の瞳を細め喉を「くぅん」と心地よさそうに鳴らすと研造の足元へふかふかの尾をそっと擦り寄せた。
「おお、狐白くん。お前も平家の味方をしてくれるか」
研造が屈託なく笑い大きな手で狐白の頭を撫でる。
狐白は気持ちよさそうに目を細め、まるで行儀の良い小さな侍のように前足を揃えてちょこんと座り込んだ。
「ふふ。狐白も、研造先生の温かな手が大好きなんですのよ」
美和がプルトニーのボトルを傾け研造のグラスへ黄金色の雫を注ぎ落とす。
氷が澄んだ音を立てて回り芳醇な大麦の香りがふわりと立ち上った。
「研造先生、茉莉先生。……これからも、この風花町の人々を、どうかよろしくお願いいたしますね」
「ああ、任せておきなさい。俺の手が動く限り、どんな山奥のあぜ道へだって駆けつけてみせるさ」
「院長、これ以上飲んだら明日の回診に響くわよ。今夜はこのへんにしておきましょう」
研造は注がれたばかりの二杯目を惜しむように一気に呷り、茉莉も最後の一滴となったマティーニを喉へと流し込んで、コトリと静かにグラスをカウンターに置いた。
第五章:アイサイトと落人の千鳥足
空になったグラスを見つめた瞬間。
茉莉の動きが完全に止まった。
「……あ」
知的なチタンフレームの奥でアーモンドアイが点になる。
天が静かにパイプを灰皿へ置き冷徹な眼差しを茉莉へと向けた。
「……茉莉先生」
「……な、何かしら、天さん」
「先生、今夜は何でここまでいらっしゃいましたっけ?」
「……私の、レヴォーグSTI……」
研造がプルトニーで真っ赤になった顔をほころばせ陽気に千鳥足で立ち上がる。
「おう茉莉、帰りは安全運転で頼むぞ! アイサイトが付いとるから安心じゃ!」
「アイサイトXが付いてたって、酒気帯びを検知して車が勝手に家まで自動運転してくれるわけないでしょ馬鹿親父ィッ!!」
茉莉の絶叫が防音の店内に木霊した。
両手で頭を抱えカウンターに突っ伏す。
「やだ……どうしよう美和さん! 私、父の与太話に付き合ってイライラして、自分が運転してきたこと忘れてマティーニ頼んじゃった……ッ!!」
美和はワインレッドとアンバーの瞳を細め鈴を転がすように微笑むと、バックバーの片隅に置かれた真鍮装飾のアンティーク黒電話の受話器をそっと持ち上げた。
「ふふ。では、平医院の事務長室へお電話をお繋ぎいたしましょうか? 『院長と副院長が揃ってBarで泥酔したため、お迎えをお願いします』と」
一瞬で研造と茉莉の顔から血の気が引いた。
二人は揃って直立不動の姿勢のままガタガタと震え上がる。
「「そ、それだけは絶対に駄目だ(駄目よ)!!!!」」
「そりゃそうですね」
天が至極もっともだと頷く。
「今から志乃事務長を呼んだら、真紅のランエボⅥ T.M.Eがチタンアルミタービンを唸らせて路地に突っ込んできますよ。二人まとめてトランクに放り込まれた上で、平医院のガレージ前で夜明けまで正座、かつ全口座凍結コースです」
「私の22B購入資金が……ッ! 経鼻内視鏡に化けちゃう……ッ!!」
茉莉が悲痛な叫びを上げカウンターに額を押し当てた。
美和は受話器を置き穏やかに微笑んで二人の前に温かい白湯を差し出す。
「まあまあ。お車は今夜、駐車場に置いていらしてくださいな。明日の朝、天ちゃんが医院まで責任をもってお届けしますから。雨も上がりましたし、お二人で千鳥足のまま、夜風に吹かれて歩いてお帰りになればよろしいのですわ」
研造は深く息を吐き出しハンガーから取った着古したハーフコートに腕を通すと、トレンチコートを着直した娘の肩を神妙な面持ちで叩いた。
「……うむ。歩こう、茉莉。壇ノ浦の落人も、きっと関門海峡から歩いて山を越えたに違いない……」
「落人の話はもういいから、しっかり歩きなさいよお父さん!! 側溝に落ちたら明日の外来が休診になるわよ!!」
カラン、とドアベルが鳴り冷え切った夜気の中へ二つの影が転がり出ていく。
前足を揃えた狐白が扉の隙間から「くぅん」と喉を鳴らして見送った。
雨上がりの風花町に親子が並んで千鳥足で歩いていく靴音が遠ざかっていく。
鉄刀木の一枚板の上には空になった二つのグラスが温かな橙色の光を宿して静かに佇んでいた。
【あとがき】
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
今回は平内科医院の院長・平研造先生と、副院長の茉莉先生による、賑やかで少し切ない冬の夜のお話をお届けしました。
酒が回ると「壇ノ浦の平家の落人」を熱弁し始める親父殿と、それを冷徹なエビデンスで叩き斬る娘。
そして二人が夜な夜な愛でている床の間の無銘刀――実はそれが、歴史の波間に消えたはずの平家の重宝『木枯』だったという、ちょっとした歴史の悪戯です。
本物の神様である美和さんと天ちゃんの前で大真面目に平家の無念を語る研造先生の愛嬌と、それを悠久の愛で包み込む美和さんの優しさを描きたくて筆を執りました。
……まあ、最後は最新鋭の高度運転支援(アイサイトX)を過信した娘先生の絶叫と、お母様(志乃事務長)の影に怯える親子の千鳥足で締めくくられてしまいましたが(笑)。
作中に登場した『オールドプルトニー』は、北海の潮風を存分に吸い込んだ、力強くもどこか懐かしい麦芽の甘みが広がる素晴らしいウイスキーです。
寒い夜のロックにぴったりですので、機会があればぜひグラスを傾けてみてくださいね。
もし今夜のお話が少しでも心に残りましたら、ページ下部の【★★★★★】評価やブックマーク、温かなご感想などをいただけますと、次の夜を紡ぐ大きな励みになります。
時雨の降る寒い夜が続きます。読者の皆様も、お帰りの際はお足元を冷やさぬよう温かくしてお過ごしください。
また次の夜、この止まり木でお待ちしております。
天照(Bar風花)




