表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/48

閑話 バレンタイン特別編

いつもBar風花のカウンターにいらっしゃる皆さんへ。

今日は特別な日のお話です。

雪の降る夜、閉店前の静かなバーで、いつものように不貞腐れた常連さんと、バーテンダーの美和さんが交わす、ちょっと拗ねて、ちょっと照れて、でも確かに温かい時間。

甘すぎず、苦すぎず、ブールヴァルディエの後味にオレンジピールがそっと寄り添うような、そんなチョコレートのようなお話に仕上げてみました。

義理でも本命でもない、でも確かに「本気」の気持ちが、カウンター越しに伝わったらいいなと思いながら書いています。

ゆっくり、カウンターの灯りの下で読んでいただけたら嬉しいです。

それでは、どうぞお楽しみください。

Bar風花 閉店前


 2月14日、午前0時を少し過ぎた頃。


 Bar風花の重厚な木製の扉は内側から鍵がかけられ、外では雪が静かに降り積もり始めている。


 店内の照明は一段落と落とされ、カウンター上の小さなランプだけが赤みがかった柔らかな光を投げかけていた。


 カウンターの内側で、美和さんは最後のグラスを拭き終えていた。


 彼はいつもの定位置に座ったまま、パイプの火を落とし、空になったブールヴァルディエのグラスをじっと見つめている。


 「……俺だけ、もらってないんだね…」


 声は低く、少し拗ねた響きがある。


 でもどこか寂しげだ。


 美和さんは手を止めて、静かに彼を見た。


 「義理チョコなら、他の常連さんと同じように渡せましたけど……」


 「義理はいらないって、毎年言ってるから……?」


 「はい」


 「……そっか」


 彼は小さく息をついて、グラスの底に残った氷を指で軽く回した。


 美和さんはくすっと笑って、カウンターに両肘をついた。


 「拗ねてます?」


 「……拗ねてない。ただ、ちょっと……寂しかっただけ…」


 彼は顔を少し背けながら、ぽつりと付け加えた。


 その声はいつもよりずっと柔らかく、照れくさそうだった。


 美和さんの目が優しく細まる。


 「他の人が嬉しそうにチョコ持って帰っていくの、見てましたよね」


 「……見てた。みんな笑顔で帰ってくの見ると……俺も、そうなりたかったなって…」


 彼は耳まで赤くなって、視線を窓の外の雪に逃がした。


 美和さんは少し間を置いて、柔らかく尋ねた。


 「じゃあ、どうしてほしいんですか?」


 「……わからない。でも、美和さんが作ったものなら……ちゃんと受け取るよ」


 美和さんはゆっくり立ち上がって、棚の方へ視線を移した。


 「じゃあ、まずは機嫌を直してもらおうかな♪」


 彼女はそう言うと、Godiva Chocolate Liqueurと、Rémy Martin VSOP、生クリームの容器を取り出した。


 「今日はクラシックなアレキサンダーじゃなくて、『ゴディバ・アレキサンダー』にしますね」


 彼は小さく首をかしげた。


 「……なんだ、それ?」


 「飲めばわかりますよ♪」


 美和さんはクープグラスを冷やしておきながら、シェイカーの準備を始めた。


ゴディバ・アレキサンダー(1杯分)

- Godiva Chocolate Liqueur 30ml

- Rémy Martin VSOP 45ml

- 生クリーム(乳脂肪分35%以上) 30ml

- Tempus Fugit Crème de Cacao 15ml(甘さの調整用)

- 飾り:ナツメグパウダー 少々


 美和さんはシェイカーにまず液体を順番に入れ始めた。


 「最初にゴディバを30ml。これが主役なので、ケチらずに」


 「次にブランデー45ml。彼さんの好きなRémy Martin VSOPを使いますね」


 生クリーム30mlを加え、最後にクレーム・ド・カカオを15ml。


 「ゴディバだけだと甘さが強すぎるので、少し苦味を足して……彼さんの好みに寄せました」


 ここまで液体をすべて入れたところで、美和さんは大きめの氷をシェイカーにたっぷり投入した。


 「氷は最後に。こうすることで、液体が冷えすぎず、クリームがきれいに乳化します」


 蓋をしっかり閉めて、強く短く10〜12秒シェイク。


 カシャカシャという音が静かな店内に響く。


 蓋を開けると、濃厚なチョコレートの香りがふわりと広がった。


 ストレーナーで冷やしておいたクープグラスに注ぎ、ナツメグを軽く振って完成。


 美和さんはグラスを彼の前にそっと滑らせた。


 「はい。ゴディバ・アレキサンダー、どうぞ」


 彼はグラスを手に取り、一口飲んで、目を細めた。


 「……うまい。……美和さん、俺のことよくわかってるね」


 声に小さな笑みが混じっていた。


 美和さんは満足そうに微笑んで、自分の分も小さく作って隣に置いた。


 「少しは機嫌、直りました?」


 「……だいぶ。でも、まだちょっと足りないかも」


 彼はグラスを回しながら、照れくさそうに呟いた。


 美和さんはくすっと笑って、カウンターの下にしゃがみ込んだ。


 「じゃあ、これも一緒にどうぞ」


 深紅のリボンで丁寧にラッピングされた大きな箱を取り出し、そっとカウンターの上に置く。


 そして、顔を少し赤らめながら視線を横に逸らした。


 「……これ」


 彼はリボンを解き、包装紙を剥がす。


 現れたのは、艶やかなダークチョコレートの大きな板。


 表面に金箔で「M」のイニシャルが控えめに輝いている。


 「他のお客さんがいる時は、恥ずかしくて渡せませんでした…」


 美和さんは耳まで赤くなりながら、ぽつりと続けた。


 「他の人には義理で小さいのをあげてたけど……

彼さんには、義理じゃ意味ないって、いつも言ってるから…」


 彼女は深呼吸して、ようやく彼の方をちらりと見た。


 「だから、これは……本気です」


 彼はチョコレートをじっと見つめ、端っこをぱきりと折って一口かじる。


 濃厚で深いカカオの苦味がまず広がり、そのあと、たっぷりと練り込まれたオレンジピールの爽やかな香りとほのかな酸味が追いかけてくる。


 甘さは抑えめで、ビター寄りの仕上がり。


 ブールヴァルディエの苦味を愛する彼の舌に、ぴたりと寄り添うように作られていた。


 「……うまい。……これ、俺のために?」


 美和さんは小さく頷く。


 「彼さんがいつもブールヴァルディエを飲んでるのを見て……甘すぎるチョコは苦手だろうなって思ったんです。

 だから、ビター気味にして、オレンジピールをたっぷり練り込みました。

 後味が、飲んだあとのカクテルに邪魔にならないように」


 彼はもう一口かじって、目を細めた。


 「……完璧だね。ありがとう、美和さん」


 美和さんの肩から力が抜けた。


 「良かった……」


 二人はカウンターを挟んで、チョコレートとカクテルを交互に口に運ぶ。


外では雪が静かに降り続け、窓の外は白く霞んでいる。


 時計の針は0時40分を回り、店内はさらに静かになった。


 グラスの中の氷が溶け、残ったカクテルがわずかに揺れる。


 彼がぽつりと、ほとんど囁くように言った。


 「……美和さんがここにいる限り、俺もここにいるから」


 美和さんはグラスをそっと置いて、今度はまっすぐ彼の目を見つめた。


 頬がほんのり赤く染まり、瞳がランプの光を受けて優しく揺れている。


 「ずっと……待ってます」


 その言葉に、彼は小さく息を吐いた。


 カウンター越しに身を少し乗り出し、美和さんの顔をそっと見つめる。


 二人の距離が、ゆっくりと縮まる。


 彼の手が、カウンターの上を滑るように伸びて、美和さんの指先に触れた。


 冷たいグラスの感触と、温かな肌の温度が混ざり合う。


 「……美和さん」


 小さな呼びかけ。


 美和さんは目を伏せずに、静かに彼を見つめ返した。


 雪の音だけが聞こえる店内で、二人の視線が絡み合い、時間だけがゆっくりと止まったように感じられた。


 ほんの少しだけ、息が近づく。


 その先にあるものは、言葉にしないまま、ただ柔らかく、甘く、静かに漂う。


 雪の降る夜に、二人はそのまま、何かが起こるかもしれないという予感だけを抱いて、静かに目を閉じた。

お読みいただき、ありがとうございました。

バレンタインデーの夜、閉店前のBar風花で起こった小さな出来事。

不器用で、素直になれなくて、でもちゃんと想っている二人の距離が、ほんの少しだけ近づいた瞬間を切り取ってみました。

美和さんのチョコレートは、彼がいつも飲んでいるブールヴァルディエの苦味を邪魔しないように、ビターに、オレンジピールをたっぷり練り込んで。

そんな細かいところまで考えてくれた彼女の気持ちが、

伝わっていたらいいなと思っています。

最後、カウンター越しに縮まった距離と、雪の音だけが聞こえる静かな店内。

そこで起こるかもしれない「何か」を、想像しながら閉じていただけたら嬉しいです。

この話を読んで、少しでも胸が温かくなった方がいたら、それだけで十分です。

またいつか、Bar風花のカウンターでお会いしましょう。それでは、おやすみなさい。

雪の降る夜に、乾杯。


天照

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ