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19杯目 マティーニを語る夜

『Bar風花-kazahana-』

マティーニを語る夜


※独立した短編・日常エピソードです

※バー・カクテル・マティーニ・静かな会話・大人の時間・心の拠り所が好きな方向け

※事件も恋愛もありません。グラスを傾けながら、ゆっくり語り合う夜をお届けします


開店直後のBar風花は、時間が止まったように静かだった。


微かに漂う桜の余韻と、エンヤの透明な歌声だけが、澄みきった空気に溶けている。


カウンターの向こうで、美和はひとり、グラスを丁寧に磨いていた。


そこにやってきたのは、すっかり常連となった彼。


いつもの端から二つ目の席に腰を下ろし、パイプの甘い煙を吐き出しながら、静かに呟く。


「美和、久しぶりにあのカクテルを作ってくれない?」


美和さんのヘテロクロミアの瞳——右は深いワインレッド、左は淡い琥珀——が、優しく、でも少し楽しげに輝いた。


「デュークス・スタイルのマティーニですか?……それとも、今日は少し違うレシピで?」


今夜は、いつもの一杯ではなく、マティーニというカクテルの「本質」を、じっくりと語り合い、飲み比べる夜になる。


スタンダードから自分だけの比率、ルーツから発展型まで。

グラスを傾けながら、美和先生の特別授業が始まる。


Bar風花へ、ようこそ。

今夜は、マティーニを語りながら、静かで深く、温かい時間を一緒に。

 「彼さんって、本当にマティーニがお好きですよね〜」


 カウンターの隅、いつもの席。


 彼はカクテルグラスを指先で軽く傾け、オリーブを一粒、静かに口に運ぶ。


 その仕草を、美和さんはグラスを磨きながら、そっと見つめていた。


 田舎町の飲み屋街の外れ、ひっそりと佇むBar風花。


 重厚な木の扉を開けると、柔らかなジャズが耳に触れ、薄暗い店内には直接照明と間接照明が絶妙に織りなす光のグラデーションが広がっている。


 隠れ家という言葉が、これほど似合う場所も珍しい。


 店の中央には、長い年月を経て深い飴色に艶を増した一枚板のオーク材カウンター。


 その上には、必要以上のものは一切置かれていない。


 水を張った大きなブランデーグラスに、特注の長めのバースプーンが一本。


 そして竹籠に無造作に盛られたオレンジ、レモン、ライムが仄かな柑橘の香りを漂わせるだけ。


 店内に時計はない。


 美和さんが言うには、「ここにいる間くらいは、時間のことを忘れてほしいから」。


 だから客は、腕時計を外し、スマホの通知を切り、ただグラスと向き合う。


 カウンターの背後の壁には、大きな一枚の絵。


 篝火に照らされた闇の中、能舞台の中央で神楽を舞う巫女。


 亜麻色の長い髪が揺れ、白い衣が炎に映える。


 一度、冗談半分で「これって美和さんじゃないですか?」と尋ねたことがある。


 彼女は小さく笑って首を振った。


 「遠野に住む、古い知り合いがモデルなのよ」



 視線を戻すと、そこには変わらぬ優雅さで立つ美しい女性バーテンダー。


 今日も純白のバーコートをぴしりと着こなし、黒髪を後ろで丁寧に束ね、精巧な銀細工の髪留めが控えめに光っている。


 いつもなら隣で元気いっぱいに喋りまくる山崎さんが、今夜はいない。


 昨日から台湾へ、女友達との2泊3日の豪華グルメツアーに出掛けてしまったのだ。


 「食べ過ぎて太って帰ってきちゃ駄目っすよ〜」


 と軽口を叩いたら、脇腹に強烈な一撃。


 挙句の果てに罰ゲームで美和さん特製ボロネーゼを奢る羽目になった。


 ……口は災いの元だ。本当に反省している(たぶん)。


 出発前、山崎さんは美和さんから数枚の名刺を受け取っていた。


 裏に何か走り書きされたそれを握りしめ、「紹介したお店の人に、まずこれ渡してね! 絶対忘れないで!」と念を押されていたっけ。


 そして「美和さんも彼さんも、お土産楽しみにしてて下さいね〜♪」と弾んだ声で旅立っていった。


 そんな訳で今夜の風花は、美和さんと彼、二人だけの時間。


 彼は久しぶりの静かな夜に、どこか浮かれた様子でグラスを傾ける。


 美和さんも、いつもより少しだけ口角が上がっている気がする。


 マティーニの表面に浮かぶ一本のレモンピールが、照明を受けてきらりと光った。


 「……もう一杯、いかがですか?」


 美和さんの声は、いつものように穏やかで、少しだけ甘い。


 彼は小さく頷き、空になったグラスをそっとカウンターに置いた。


風花の夜は、まだ始まったばかりだった。


 

 「世の中には星の数ほどカクテルのレシピがあるのに、貴方は毎回必ず一杯はマティーニをお飲みになられますよね。しかも、必ずデュークススタイルのマティーニを……」


 美和さんはそう言いながら、黒唐津の小さな小皿をそっと彼の前に置いた。


 大ぶりにカットされた自家製の胡瓜のピクルス。


 そこにパールオニオンとケッパーが彩りを添え、仄かな酢の香りが立ち上る。


 彼の好物を、いつもより少しだけ丁寧に盛り付けてあるのが分かった。


 彼は思わず顔をほころばせ、添えられた小さなフォークでピクルスを一口。


 カリッとした歯ざわりと、甘酸っぱい酸味が舌に広がる。


 すかさず、キンキンに冷えたマティーニを口に含むと、歯茎に染みるほどの冷たさと、ジンの鋭い切れ味が喉を滑り落ち、ベルモットの柔らかな苦みとハーブの余韻が口いっぱいに広がった。


 …まさに、至福。


 一息ついてグラスを置くと、彼は静かに答えた。


 「好きなカクテルは色々ありますけど、どうしても一杯はマティーニを飲みたくなるんですよね。それに、この店に初めて来た時に作っていただいた一杯ですし……思い出深いんです」


 そう言って、彼は空になったグラスを軽く掲げ、「少なくとも僕にとっては、このマティーニが最高の一杯だと思っていますよ」と言った。


 美和さんは一瞬、ぽかんとした表情になった。


 次の瞬間、にんまりと満面の笑みを浮かべて、カウンター越しに彼の肩を軽く突く。


 「もう、彼さん……そんなお世辞言っても、これ以上何も出しませんよ〜♪」


 彼女はしばらく一人でくすくす笑っていたが、ふと真顔に戻り、咳払いを一つ。


 「……でも、彼さん。一つだけ、言いたいことがあるんです」


 美和さんはカウンターに両手をつき、身を乗り出して彼の目を見据えた。


 「彼さんって、お客様としては本当に一流だと思うんです。飲み方がスマートで、変な酔い方をしないし、大声で騒がないし、私や他の人に絡んだことなんて一度もない……でもですよ!」


 そこで彼女は、ガバッと顔を上げ、少し頬を膨らませながら、勢いよくまくし立てた。


 「彼さん、お酒の知識がバーテンダー並みだから、私が『教えてあげる』って立場になれないじゃないですか!たまには、私がカクテルのこと、手取り足取り教えてあげたいんですよ……!わかります? 私のこの気持ち、わかって頂けますか……?」


 最後は少し拗ねたように、ジトッとした目で彼を睨む。


 でもその目は、どこか期待にきらきらしていて。


 (……何だこの、可愛すぎる生き物は)


 彼は内心でそう呟きながら、同時に自分の鈍感さに恥ずかしくなった。


 美和さんがこんなふうに思ってくれていたなんて、気づいていなかった。


 よし。


 せっかくの機会だ。今夜は、思いっきりカクテル談義に付き合おう。


 彼は姿勢を正し、改めて美和さんの方を向いた。


 「では、美和先生。改めて僕にマティーニのことをちゃんと教えてください」


 真剣な顔で頭を下げると、美和さんは一瞬キョトンとして、次の瞬間、ぱっと花が咲いたような笑顔になった。


 「承知いたしました!……でも、私の授業は結構厳しいですよ〜♪」


 彼女はそう言いながら、袖をまくり上げ、まるで本気の先生になったかのように、カウンターの後ろでボトルを並べ始めた。


 風花の夜は、いつもより少しだけ、甘く、深く、静かに更けていく。


 

  「彼さんは、マティーニの定義って何だと思います?」


 美和さんは、カウンターに両肘をつき、真剣な眼差しで彼を見据えた。


 いつもの優しい笑みが、少しだけ引き締まっている。


 彼はグラスを置いて、少し考え込む。


  「……定義、ですか。ジンとドライ・ベルモットの組み合わせ……あと、とにかく冷たいこと、ですかね?」


  「はい、その答えは間違いじゃないんです。でも……」


 美和さんは小さく頷き、ふっと息を吐いた。


 「カクテルには、基本的に『公式レシピ』があって、その比率を守らないと、あっという間に別のカクテルに変身しちゃうんです。でもマティーニだけは、違う。作り手も飲み手も、自由に比率を変えていい……というか、変えてしまう。つまり、マティーニって『捉えどころのない』カクテルなんです。人の数だけレシピがある、究極の個性派カクテル」


  彼女はそう言うと、店の奥の棚から、封を切っていないタンカレーのジンと、ノイリー・プラットのドライ・ベルモットを両手で持ち、カウンターに並べた。


 「マティーニの起源は諸説あります。一番古いのは、19世紀の『ジン・アンド・イット』。ジンとスイート・ベルモットを1:1で混ぜた、甘口のカクテルが原型だって言われています」


  美和さんは背後の棚から、大きめのバカラのショットグラスを取り出す。


 透明なグラスに、赤みがかったベルモットと透明なジンを同じ量ずつ注ぎ、バースプーンで軽くステア。


  「どうぞ」


 差し出されたグラスは、照明を受けてルビーのように輝いている。


 彼が一口含むと、甘みが強く、でもアルコールの力強さが喉を滑り落ちる。


 「……結構強いですね。甘いけど……ぬるい」


  「そう。当時は製氷機なんてなかったから、氷は貴重品だったんです。先人たちは、そんな中で『どうやったらお酒を美味しく飲めるか』を考えて、進化させてきたんですよ」


 美和さんはそこで一度言葉を切り、タンブラーの水を一口飲んで喉を潤す。


  静かな店内に、氷の溶ける小さな音だけが響く。


  「……そして、マティーニが誕生します」


  彼女は、まるで物語の始まりを告げるように、静かに、厳かに言った。


  「起源にはいくつか説があって…… 一つは、イタリアのマルティーニ&ロッシ社が、自社のベルモットを宣伝するために『ジン・アンド・イット』をベースに名前を付けたという説。もう一つは、ゴールドラッシュ時代のカルフォルニア、Martinezという町で生まれたという説。そして、ニューヨークのKnickerbocker Hotelで、1900年代初頭に生まれたという説……どれも伝説みたいですよね」


 「20世紀初頭のKnickerbocker Hotelで作られたドライ・マティーニは、まだジンとベルモットが1:1。『ドライ』って言っても、今の感覚からするとかなりマイルドだったんです」


  美和さんは棚から別のボトルを手に取り、続ける。


 「それが時代とともに、どんどんドライになっていきました。 1930年代は3:1、40年代は4:1……そして今、IBA(国際バーテンダー協会)のオフィシャルレシピでは、ジン60mlに対してドライ・ベルモット10ml。つまり6:1です。 オレンジ・ビターズを1dash加えて、ステア。オリーブかレモンツイストで飾る」


 「極端になると、ベルモットのボトルを眺めながらストレートのジンを飲む『チャーチル・スタイル』まで出てきました」


  彼は思わず笑みをこぼす。


  「……チャーチル、らしいですね」


 「で、彼さんの好きなデュークス・スタイルは……」


  美和さんは少し得意げに目を細めた。


  「ロンドンのDuke's Hotelのバーテンダー、Gilberto Prediが完成させたスタイルです。世界一のマティーニを作るとサンデー・タイムズで評された彼のレシピは、『極寒のドライ』。グラスもジンも事前に凍らせて、ベルモットはほんのわずか……ほとんど香りだけを残す。だからこそ、ジンの個性が際立つんです」


 彼女はタンカレーのボトルを指で軽く叩き、微笑んだ。


 「だから彼さんが毎回デュークス・スタイルを頼むの、すごく分かるんですよ。……でも今夜は、私の授業ですから。 もう少し、昔の甘口から今の極ドライまで、実際に飲み比べてみませんか?」


  彼はグラスを軽く掲げ、頷いた。


 「もちろんです、美和先生。 続き、楽しみにしています」


 風花のカウンターに、 二つのグラスと、二つの微笑みが静かに並ぶ。


 夜はまだ、深く、穏やかに続いていた。




 「そして、これからお作りするマティーニは、銀座のとある名バーテンダーさんから直接レシピと技を伝授していただいた一杯です。彼さんが『世界一』と言われるデュークス・マティーニ(極限まで冷たく、剃刀のようにドライな一杯)と、どこがどう違うか……ぜひ、比べてみてくださいね」


 美和さんはそう言うと、バックバーの奥から一脚の特別なカクテルグラスを取り出した。


 逆台形のボウルに細やかなエッチングが施され、光を浴びて宝石のようにきらめく。


 チェコの熟練グラス職人にオーダーされた、Mマティーニ専用の逸品だという。


 「このグラスはそのバーテンダーさんが、そのマティーニのためだけに作ってもらったものなんです。ご無理を言って、数脚だけ分けていただきました」


 彼女は軽く身を屈め、足元の冷凍庫から霜で白く覆われたボトルを取り出す。


 続いて冷蔵庫から、もう一本。


 カウンターに並べられたのは、ブードルスのオールドボトルと、マンチーノ・ビアンコ。


 「ブードルスは、ある時期からレシピが変わってしまったので、今このスタイルのマティーニを作る時は、そのバーテンダーさんが京都の醸造所に特別に依頼して作ってもらっているジンを使うことが多いんです。でも今日は、せっかくですから……このオールドボトルでいきましょう。眠っていた頃の、骨太で重厚な香りが残っていますから」


 約-20℃まで凍らせたジンのボトルを、彼女は丁寧に扱う。


 「この極寒のジンを、通常の3倍近い時間をかけてステアすることで、ゆっくりと『眠りから覚ます』んです。急がず、優しく……それが大事です。」


 美和さんは後ろの棚からミキシンググラスを手に取り、長方形にカットされた大振りの氷を一つ、その上に少し小さめの氷を二つ重ねて入れる。


 「氷も命です。氷屋さんから届いたものを一度お湯で洗って表面の埃を落とし、気泡を抜いてから最低半日冷凍庫で寝かせる。そうすると、固く締まって溶けにくくなるんですよ」


 オレンジ・ビターズを一滴、ぽたりと落とす。


 メジャーカップを使わず、目分量でジンとマンチーノ・ビアンコを注ぎ入れる。


 迷いなく、バースプーンを握る白く細い指が動き始めた。


 クルクル、クルクル……


 ミキシンググラスの中で、氷と液体が静かに、しかし確実にダンスを踊る。


 音はほとんどしない。


 ただ、長いステアの音だけが、店内のジャズに寄り添うように響く。


 確かに、いつもよりはるかに長い。


 彼女はじっくりと、通常の3倍近い時間をかけてステアを続けると、


 スッとグラスに注ぎ入れる。


 短冊型に剥いたレモンの皮をグラスの上で捻り、油分を飛ばして香りを移す。


 最後に、カクテルピンに刺した大振りのオリーブを、静かに沈めた。


 「お待たせしました。『M・マティーニ』です」


 美和さんは、コースターの上にそっとグラスを置く。


 チェコ製のグラスが、カウンターの照明を受けてキラキラと輝き、中身の液体が、淡い金色に揺れている。


 彼はグラスをこぼさないよう慎重に持ち上げ、ゆっくりと口に運ぶ。


 傾けると、程よい冷たさの液体が、トロリと舌の上に広がった。


 ……重厚。


 ブードルスの角が丸く取れ、ドライなのにまろやかで、柔らかい。


 マンチーノ・ビアンコの柑橘とジンジャー、スパイシーな苦みが、ふわりと香り立つ。


 確かに、デュークスのような歯茎を刺す極寒さはない。

剃刀のような鋭いドライさもない。


 でも、水っぽくなく、アルコール度数の強さを全く感じさせない……すいすいと飲めてしまう、


 深くて優しい一杯だった。


 「すごい……こんなマティーニもあるんだ……」


 彼は呆然と呟きながら、もう一口。


 「美和さん、ありがとう。 自分がどれだけ狭い世界に閉じこもっていたか、よく分かりましたよ」


 グラスを置いた彼の声は、少し震えていた。


 美和さんは、にっこりと柔らかく笑う。


 カウンター越しに、そっと彼の目を見つめて。


 「……よかった。 彼さんがそう言ってくださるなら、このグラスを分けてもらった甲斐がありました。

 マティーニって、結局のところ……『その人が、その時に、一番飲みたい一杯』なんですよね」


 彼女は小さく息を吐き、いつもの優しい笑顔に戻る。


 美和さんは、彼の言葉を聞いて、にっこりと柔らかく微笑んだ。


 カウンター越しに、そっと目を細めて。


  「……ふふ、ありがとうございます。 でも、まだまだですよ。彼さん」


 彼女はグラスを磨く手を止め、静かに続ける。


  店内のジャズが、穏やかに流れる中、その声は優しく、でも確かな熱を帯びていた。


  「マティーニって、ただの一杯じゃないんです。 人生みたいに、深くて、広くて、無限に広がっていくもの。 だからこそ、焦らず、ゆっくり味わってほしいんですよ」


 美和さんは指を一本ずつ折りながら、まるで大切な教えを伝える先生のように、言葉を紡いだ。


 「まずは、『スタンダードを知ってください』。 同じレシピ、同じ材料でも、バーテンダーによって微妙に味が変わるんです。ステアの回数、氷の扱い方、温度の上げ方…… それぞれのこだわりが、グラスの中に宿る。だから、いろんなバーのマティーニを飲んでみて。『この人は、こんな風にジンを生かそうとしてるんだ』って、感じ取れるようになるんですよ」


 彼は小さく頷き、耳を傾ける。


  「次に、『自分だけのマティーニを見つけてください』。ジンとベルモットの銘柄、比率……それだけで、世界が変わります。 2:1から、始まりは甘めで。だんだんドライに、6:1、8:1…… 極端にいくと、ベルモットを香りだけ残すスタイルまで。自分の舌で、試して、試して。『これだ』って思える一杯に出会った瞬間、マティーニが『自分のもの』になるんです」


 美和さんの目が、きらりと光る。


 「そして、『ルーツを探ってみてください』。ジン・アンド・イットから始まって、クラシックなドライ・マティーニ。 マルティネス・カクテル(ジン、スイートベルモット、マラスキーノ、ビターズ)とか、 マティーニの祖先みたいな一杯を飲むと、歴史の流れが、グラスの中で繋がるんです。時代とともに、甘口からドライへ、ドライから極ドライへ…… 進化の軌跡を、舌で辿れるんですよ」


  彼は思わずグラスを眺め、微笑んだ。


 「さらに、『発展型マティーニに挑戦してください』。ジンとベルモットに、少しのリキュールやジュースを加えたもの。ネグローニ(ジン、カンパリ、スイートベルモット)とか、 パリジャン・マティーニ(ジン、ドライベルモット、クレーム・ド・カシス)とか、 ピカデリー・マティーニ…… 『あ、これもマティーニの仲間なんだ』って、驚きながら楽しめるはずです」

 

 最後に、美和さんは少し悪戯っぽく目を細めた。


  「そして、『最後は……もっと大胆な発展系へ』。『これ、マティーニ?』って思うような一杯たち。エスプレッソ・マティーニ、フレーバード・マティーニ、フルーツを入れたスタイリッシュなもの…… 21世紀になっても、マティーニの世界は止まらないんです。次はどんな新しいマティーニが生まれるのか。この『カクテルの王様』を、これからも一緒に、じっくり楽しんでいきましょうね♪」


  彼女はそう言って、空になったグラスをそっと手に取り、 「さて、次は何にしましょうか? デュークスに戻る? それとも、もう少し私の『M』で……?」 彼は笑って、首を振った。


 「美和先生の授業、まだ続きがあるなら…… もう少し、お願いします」


 風花のカウンターに、二つのグラスが並ぶ。


  マティーニの香りが、静かに店内を満たし、 夜はさらに深く、優しく、更けていく。

読んでくださってありがとうございます。


この話は、

「マティーニという一杯を通じて、静かなバーで誰かと深い話をしながら、心が少しずつほどけていく」という、シンプルで贅沢な夜を描きたかっただけの一場面です。


美和さんがグラスを磨く姿、パイプの甘い煙とジンの鋭い香りが混ざり合う瞬間、ヘテロクロミアの瞳が優しく瞬くとき。


派手な出来事も大きなドラマもない、ただ「今ここにいる」ことの心地よさと、「マティーニって、結局のところ、その人がその時に一番飲みたい一杯なんだよね」という言葉。


そんな小さな気づきと、グラスを傾ける時間が、誰かの疲れた心にそっと寄り添えたら嬉しいです。


Bar風花は、どんな夜が来ても、静かに扉を開けていられる場所であり続けたいと思います。


またふらりとカウンターに寄ってくださいね。

次はどんなマティーニと、どんな話が待っているのか……私にもまだわかりません。


それでは、今夜も良い夜を。


天照(Bar風花)

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