【Bar風花】第二章 咲き誇るアネモネのグラス 〜虚栄のブラックカードと、はなむけのベル・エポック〜
【前書き】
※本エピソードは、風花町の夜に訪れる少し賑やかな「お客様」との一幕です。
※作中に登場するシャンパーニュや歴史的ヴィンテージの描写は、実在する銘柄と史実に基づいたものです。
※冷やかしや虚栄の夜も、カウンターの灯りの下では等しく一杯の物語になります。
賑やかな夜の街から、ふと迷い込んできた荒々しい足音。
金とプライドを武器に扉を押し開けた客たちを迎えたのは、ただ静寂を守り続けるバーテンダーと、重厚な歴史を纏った一本のシャンパーニュでした。
勝ち負けを競う夜の終わりに、そっと注がれる一杯の泡。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。
第1章:夜の乱入者
風花町の夜は深い。
静寂に包まれた『Bar風花 -kazahana-』の重厚なオーク材の扉が無遠慮な力で乱暴に押し開けられた。
カチリと真鍮のラッチが嫌な金属音を立て外の濁った空気が店内の静寂へと雪崩れ込んでくる。
「うわ、なにここ。すっごい静かじゃん。ウケるんですけど」
店内に入ってきたのは隣町である音成町の喧騒をそのまま煮詰めたような男女四人組だった。
先頭を歩いていたのは煌びやかなスパンコールのドレスに身を包んだ女だ。
音成町の歓楽街でナンバーワンの座に君臨するキャバクラ嬢のリナだった。
後ろには仕立てこそ高いが着崩したスーツのIT社長やギラついた高級時計を見せびらかす不動産ブローカーなど彼女の太客たちが赤ら顔で続いていた。
彼らが足を踏み入れた瞬間に店内に漂っていた微かな桜の香りが暴力的なまでに強い高級香水の匂いとアルコール臭によって掻き消される。
「バーテンさん、四人いける? 適当に座るからさ」
男の一人が尊大な態度で言い放ちリナをエスコートして鉄刀木のカウンターの中央に陣取った。
ドンと無造作に置かれたブランド物のクロコダイルバッグが磨き上げられた銘木の上に嫌な音を立てる。
カウンターの一番奥の席でロックグラスを傾けていた櫻庭天は思わず眉をひそめた。
背筋に冷たい汗が伝う。
地雷原のど真ん中でタップダンスを踊っているような危うさを肌で感じていた。
第2章:圧倒的な静寂と格の差
リナは自分が音成町の夜の女王であるという絶対的な自負を持っていた。
ドレスもジュエリーもルブタンのヒールもすべて自身の魅力と勝ち得た財力の証明だった。
どこへ行こうと自分が主役だと信じて疑わなかったのだ。
だがカウンターの中に立つ女性を見た瞬間に夜の女としての本能がけたたましい警鐘を鳴らした。
櫻庭美和。
純白の特注バーコートに黒シルクサテンのボウタイを締めた一切の華美を削ぎ落とした厳格な佇まいだ。
透き通る白肌と深いワインレッドと淡いアンバーに輝く異色瞳から放たれる気品は圧倒的だった。
立ち姿ひとつに最高峰の剣術の理合いが息づき神木のような清らかさと威厳に満ちている。
さらにカウンターの端ではもう一人の女が退屈そうにバカラのフルートグラスを傾けていた。
波打つ金髪に漆黒のトム・フォードのスーツ。
胸元にはミルク・アンド・ハニーのクリソベリルが妖しく輝く。
グラフィーニャ・ソフィア・アレクセーエヴナ・カヴェーリナ――ソーニャだ。
安っぽい虚栄とは無縁の存在。
そのダークフローラルな香りの奥底には幾多の修羅場を渡り歩いてきた者だけが放つ本質的な死と暴力の気配が潜んでいた。
(……なんなのよ、この女たち……)
全身を武装していても二人の前ではすべてが安っぽいメッキに過ぎない。
リナはプロだからこそその残酷な格の差を一瞬で悟ってしまった。
足元から這い上がる強烈な劣等感を塗り潰そうとリナは唯一の武器である太客の財力にすがりつく。
「ねえ、社長ぉ。あたし、喉乾いちゃった。ここ、シャンパンあるよね?」
甘えた声を上げるとIT社長が分厚い財布から漆黒のブラックカードを抜き出し鉄刀木のカウンターにパチンと叩きつけた。
「おい、バーテンさん! ここにあるシャンパンで『一番高いやつ』、じゃんじゃん持ってきてよ! ポンポン開けちゃって彼女の前に一番高いのを何本も並べてやってよ。どうせ田舎のバーだ、高くても数十万だろ?」
下品な笑い声が響いた瞬間に店内の空気が氷点下まで冷え込んだ。
ソーニャの黄金の瞳が細められ暗がりの中で猛禽のような冷徹な光彩を放った。
漆黒のトム・フォードの袖口へ細く白い指先が音もなく滑り込む。
相手に痛みを感じさせる間もなく頸動脈を裂く極限の暗殺術の間合いだった。
美和の制止がなければ一瞬で男たちの息の根を止めていたであろう絶対零度の殺気がカウンターの空気を凍りつかせる。
だが美和は微動だにしなかった。
異色瞳には怒りではなく深い慈愛と絶対者の静けさが宿っていた。
「……当店で一番高価なシャンパン、でございますね。かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
凛とした声とともに美和は革張りの分厚いワインリストを彼らの前に静かに開いた。
そこにはドンペリやアルマンドといった銘柄はなく美しいカリグラフィーで収穫年と伝説的な生産者だけが整然と並んでいた。
「現在、当店の地下セラーに眠るコレクションの中で、歴史的・市場的にも最も稀少なものは……そうですね。こちらの『1907年 エドシック・モノポール グー・アメリケン』でしょうか」
長く美しい指先がリストの一行を静かに示す。
「1916年、第一次世界大戦中にバルト海で沈没したヨンショーピング号から引き揚げられた、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世に献上されるはずだった歴史的遺産でございます」
太客たちの下品な笑い声がピタリと止まった。
「あるいは、こちらのマグナムボトルの『1928年 サロン』。20世紀最高と語り継がれる奇跡のヴィンテージでございます。……もし現在の国際的なオークションにおける評価額をつけるとするならば、それぞれ最高級の輸入車が一台、あるいは都内にマンションが一室買える程度、数百万円から数千万円に達する価値がございますが……お客様。こちらを今、本当にお開けになりますか?」
静まり返る店内。
男たちの顔から血の気が引き冷たい脂汗が浮き出す。
ブラックカードの限度額を軽く吹き飛ばす歴史の遺産。
その途方もないスケールを前にリナもまた息を呑んで硬直していた。
美和は静かなトーンで言葉を継いだ。
「それに、これらのワインは現在、地下の特殊免震セラーにおきまして、年間を通じて十二度の暗闇の中、コンマ数ミリ単位の揺らぎもない完璧な環境で深い眠りについております」
そこには酒に対する途方もない愛が込められていた。
「仮に今夜お出しするとしても、急激な振動を与えぬよう静かにセラーから運び出し、何十年もの歳月が残した微細な澱をボトルの底へ完全に沈めるため、数週間からひと月以上の静置を要します。……お客様の『今すぐじゃんじゃん開けろ』というご要望には、物理的にお応えできないのです。大変、申し訳ございません」
金で叩き伏せるのではない。
圧倒的なロジックと酒への至高の敬意をもって諭す。
リナたちは己の浅薄さを痛感し今すぐ消え去りたい衝動に駆られていた。
男が震える手でカードを引っ込めようとする。
だが美和は彼らを冷たく突き放すことはしなかった。
「シャンパンは、誰かに自分の価値を誇示するための武器ではありません。共に過ごす時間を、優しく華やかに彩るための魔法なのです」
ふわりと温かな微笑みを浮かべると美和はバックバーから一本のボトルを恭しく取り出した。
エミール・ガレによる繊細な白いアネモネが描かれた『ペリエ・ジュエ ベル・エポック』だ。
無駄のない流麗な所作でソムリエナイフの刃を滑らせ静かにコルクを抜く。
淑やかな吐息のような音とともにバカラのフルートグラスへ淡い黄金色の液体が注がれた。
白い花や洋梨の瑞々しい甘い芳香が立ち上り店内の濁った空気を清らかに浄化していく。
美和は一番初めのグラスをリナの前へ優しく差し出した。
「今夜は、誰かと比べるのはおやめになって……ただこの美しいお花のボトルと、美味しい泡だけを、皆様で楽しんでいかれませんか?」
目の前に差し出されたのはマウンティングの道具でも自分を卑下する安酒でもない。
夜の荒波に晒される一人の女性に対するはなむけとして注がれた至高の一杯だった。
美和の底知れぬ包容力に触れリナの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
リナは目元を拭い震える手でグラスを持ち上げた。
口に含んだベル・エポックは虚勢を張りながら浴びてきたどんな高額な酒よりも優しく五臓六腑に染み渡っていく。
太客たちも完全に毒気を抜かれ大人の節度を取り戻して静かにグラスを傾けた。
やがて彼らは礼儀正しく勘定を済ませ美和に向かって深く頭を下げると静かに店を去っていった。
第3章:揺るぎない日常
重厚なオーク材の扉が静かに閉まる。
静寂が戻った店内でソーニャが呆れたように小さく息を吐き手元のクリスタルを傾けた。
「美和。アンタ、甘すぎるわよ。私なら『1907年のエドシック』の請求書だけ目の前に突きつけて、あのクソみたいな連中が泡を吹いて倒れるのを見て楽しんだのに」
シニカルに笑う魔女に対し天が苦笑しながら言葉を添えた。
「それじゃあ、このお店がただのぼったくりバーになっちゃいますよ、ソーニャさん。美和さんのあの対応が、一番彼らに効いたはずです」
「ふふっ。お花が描かれたボトル、あの方のドレスによく似合っていたでしょう?」
美和が空になったベル・エポックのボトルを愛おしそうに撫でる。
夜の街の虚栄すらも優しく包み込み本物の美酒の味を教えてくれる。
それもまたこの鉄刀木のカウンターが守り続ける『Bar風花』の揺るぎない日常であった。
【あとがき】
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
夜の街で背伸びをし、誰かと自分を比べながら生きる息苦しさは、きっと誰もがどこかで抱えているものかもしれません。
どれほど無礼で強がりな態度であっても、冷たく切り捨てるのではなく、プロとしての誇りと本物の美酒をもって優しく包み込む——そんな美和さんらしい「おもてなし」を描きたくて執筆いたしました。
ベル・エポックのアネモネの花が、傷ついたリナの心に少しでも優しく咲いてくれたなら幸いです。
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今夜も『Bar風花』のカウンターで、皆様のお越しを静かにお待ちしております。
天照(Bar風花)




