【Bar風花】番外編 冷えた麦酒と出汁巻きの湯気 〜金曜夜の居酒屋ちどりと愛され末っ子のコアラな日常〜
【前書き】
※本作品は『Bar風花』の日常を描いたサイドストーリーです。
※風花町の居酒屋で繰り広げられる、女性たちのお酒と温かな雑談をお楽しみください。
※神々の気配を静かに胸に秘めた、等身大な彼女たちの金曜日の夜を描いています。
一週間の終わり、夜の風花町に灯る赤ちょうちん。
香ばしい炭火の匂いと、出汁巻き玉子から立ち上る温かな湯気の向こうで、
大人たちがグラスを傾けながら、愛おしい「小さな妹」の物語を紡ぎます。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。
第一章:冷えた麦酒と、出汁巻きの湯気
一週間の仕事を終えた金曜の夜、風花町の路地裏にぽつんと灯る『居酒屋 ちどり』の暖簾をくぐると、炭火で香ばしく炙られた肉の脂と、豊かな出汁の匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。
使い込まれて飴色に艶めく木造りのカウンターの端に、並んで腰を下ろしたのは、風花署刑事課の武井沙耶、弁護士の橘栞、そして市役所の山﨑響子の三人だ。
「はぁ〜……効く。この一口のために今週一週間を生き抜いたと言っても過言じゃないです!」
響子が両手で大切そうにグラスを包み、冷えた生ビールをぐっと喉に流し込んで小さな歓声をあげる。明日は実家の豆腐屋の手伝いが休みということもあり、その表情には隠しきれない解放感が滲んでいた。
「おいおい、響子。一杯目からいい飲みっぷりだな」
沙耶が苦笑しながら、手元のロックグラスを傾ける。カランと可憐な音を立てる大ぶりの氷の隙間から、芋焼酎・黒霧島の芳醇で少し香ばしい蒸留香が立ち上る。
「言わせておいてあげなさい、沙耶」栞が手元の純米酒の盃を静かに傾け、微かに目を細めた。「私たちだって似たようなものでしょう。現場や法廷で擦り減った心が、この湯気と酒精で少しずつ解けていくのがわかるわ」
酒というものは不思議だ。単に脳を麻痺させるためだけの液体ではない。醸造家や蒸留家が年月をかけて穀物や果実の命を醸し、注がれた一杯。それが胃の奥に届いた瞬間、張り詰めていた日常の緊張をそっとほどき、人間を「素」の自分へと引き戻してくれる。
「まずはこれを摘まんでみな。できたてだから」
カウンターの向こう側から、白髪混じりの大将が静かな所作で一皿を差し出した。
綺麗な黄金色に焼き上げられた、出汁巻き玉子。端に小さく添えられた大根おろしに、醤油がひと垂らしされている。箸を入れれば、閉じ込められていた鰹と昆布の豊かな出汁がジュワッと溢れ出し、温かな湯気が立ち上った。
「……うわぁ、おいしい。出汁が身体の奥まで染み込んでいくみたい」
響子がほっこりと頬を緩ませる。
「酒も料理も、ただ腹を満たすためだけのものじゃないからね」大将が包丁を布巾で拭いながら、穏やかに言った。「疲れ切った心と体を温めて、また明日を生きるための器を整える。そういうもんさ」
「素に戻る、か……」沙耶が出汁巻きを味わいながら、ふと目を細めた。「素に戻ると言えばさ。私たちにとって、本当の意味で自分らしくいられる場所と言えば……やっぱりあの家の末っ子の話になるよな」
「深雪ちゃんですね」栞が眼鏡のブリッジをそっと押し上げ、唇に小さな微笑を浮かべた。
「そうなんです!」響子が身を乗り出した。「私、この前市役所の近くで昼間の深雪ちゃんを見かけたんですけど……もう、あまりの可愛さに胸が苦しくなりましたもん!」
「あー、例の『スリープモード』か」沙耶が芋焼酎を一口煽り、思い当たる節があるように苦笑した。
深雪は極度の低血圧と冷え性だ。日中の彼女は、まるでバッテリーの切れた精巧なからくり人形のようにぽんこつ化する。
「そうなんです! 天ちゃんの背中に、無表情のままコアラみたいにぴったり張り付いてて……! 天ちゃんが歩くたびに、ちっちゃな体が一糸乱れずくっついて移動してるんですよ。天ちゃんを何だと思ってるんでしょうね?」
「『高性能外部バッテリー』兼『人間湯たんぽ』だろ」沙耶が心底愛おしそうに呟く。「天ちゃんの体温を無感情に吸いながら、頭を撫でられると『……ふにゃ』って微かに力を抜くんだよ。あの姿を見せられたら、どんなに強硬な犯人を追ってる最中だって脱力しちまうよ」
「可愛いと言えば、あの猫舌の儀式もね」栞が盃を置き、静かに言葉を添えた。「温かいお茶やスープをいただく前、小さな口をほんの少し尖らせて、最低三分は真剣な顔で『ふー……ふー……』と冷まし続けるでしょう。あの真摯な眼差しは、法廷でのどんな精密な議論よりも人の心を動かすわ」
「そりゃあさ」大将が焼き台の炭を整えながら、くすりと笑った。「そんな健気な姿を見せられたら、誰だって手元を温めてやりたくなるのが人情ってもんだよ」
第二章:疾走するミニンジャと、完璧な静寂
「でもな、響子」
沙耶がグラスの氷をカランと鳴らし、表情を少しだけ真剣なものに変えた。
「あの子の魅力は、ただ大人しくて可愛いだけじゃない。あの乗り物へのこだわりと、身体操法の鋭さ……あれを知ると、ますます目が離せなくなるんだ」
「乗り物……あ、あのちっちゃいバイクですか!?」響子が目を輝かせる。
「そう、あのモンキー50をベースにした激小サイズの『ミニンジャ』だよ」沙耶は自身もバイクに乗るだけに、熱を帯びた口調で語り始めた。「8インチホイールのおもちゃみたいな極小車体だろ? 深雪ちゃんが跨ると両足の裏がベタッと地面に着いて、まるで親鳥の横にいるヒナみたいにミニマムなんだ。だが、中身は別物だ。武川のボアアップキットが組んであって、排気量は二種クラス。アクセルを捻れば鋭い加速を見せる」
「私、この前道路で見かけました!」響子が身を乗り出す。「急発進のとき、車体が浮かないように深雪ちゃんが小さなタンクの上に『ぺたり』って体を伏せるんですよね! 白いヘルメット越しに、あの黄金色の瞳で真剣に前を睨みながら……もう、尊すぎて路上で身悶えしそうになりました!」
「ふふ、形から入る素直さもあの子の愛おしいところね」栞が楽しそうに目を細める。「千草様の流れるような身さばきやステップに深く憧れていてね。自分でも二刀を構えて優雅に舞おうとするのだけれど、足元が追いつかなくて、たまに『おっと……』と小さくよろけてしまうの。あんなにも研ぎ澄まされた体術の使い手でありながら、あの健気な隙……反則的と言わざるを得ないわ」
「そうなんだよ!」沙耶が膝を叩いた。「夜の神社なんかで見せる気配のなさ……一切の音も空気の揺らぎも残さず、高い木の上からすっと舞い降りてくる八卦掌の身さばきは、空手や剣道をやってきたあたしから見ても寒気がするほど完璧なんだ。それなのに、千草お姉ちゃんの真似をしてちょっと足元をもつれさせるんだからさ。死神みたいな強さと、子猫みたいな愛らしさが同居してて、心臓が持たないよ」
第三章:シェリー・ゴールドの煌めきと、川底の絶対静空
「それにね、沙耶さん、栞さん」響子が盃を置き、どこか誇らしげに胸を張った。「最近の深雪ちゃんのマイブーム、知ってますか?」
「マイブーム?」栞が小首をかしげる。
「『ガサガサ』ですよ! 川でのタモ網を使った水中採集!」
「ガサガサ!?」沙耶が思わず素頓狂な声をあげた。「あの子が川でエビとか魚を獲ってるのか!?」
「そうなんです! しかもタモ網捌きが尋常じゃないんですよ!」響子が身振り手振りを交えて熱弁する。「あの水すら音を立てさせない無音の足さばきで川に入って、神業的な網捌きで、川底の草むらを一網打尽にするんです! 水の音ひとつ立てずに、スジエビをバケツいっぱいに獲るんですよ!」
「……あの領域の無音移動を、川のエビ獲りに投入しているの……?」栞が思わず絶句し、それから可笑しそうに肩を揺すった。
「そうなんです!」沙耶も爆笑しながら手元の焼酎を干した。「バケツいっぱいに跳ねるエビを抱えてさ、天ちゃんのところに持っていって『……てんちゃん、とれた。……からあげ、にして?』って無表情でねだるんだろ!? 目に浮かぶよ、もう勘弁してくれ!」
「でも……」栞が眼鏡の奥の瞳を柔らかく和ませ、静かに語り継いだ。「あの子がそうやって、子供らしく夢中になれるものを見つけられたことが、何より嬉しいわね」
栞は手元の日本酒を一口含み、その余韻を確かめるように静かに目を閉じた。
「かつて厳しい環境に置かれ、心を固く閉ざして生きざるを得なかったあの子が……天さんや美和様、千草様たちのあたたかな愛情に包まれて、どんどん『年相応の女の子』らしい豊かな素顔を取り戻している。先日、天さんから贈られたインペリアル・トパーズの小さなピアスを耳元に揺らしてね。『……てんちゃん、にあってる?』って、少し背伸びするように嬉しそうに笑っていたわ。あのシェリー・カラーの輝きと、深雪様の穏やかな笑顔……あれを見た時、本当に胸がいっぱいになったの」
「……千草お姉ちゃんの胸に抱きしめられてもさ」沙耶が優しく目を細めた。「『あったかいから許す』って、大人しく身を委ねてるんだよな。あの家には、あの子が安心して羽根を休められる本当の温もりがあるんだ」
「いい話じゃないか」大将が温かいお茶を三人の前に静かに差し出した。「固く閉ざしていた蕾が、温かい光を浴びて少しずつ花開いていく。酒も料理も、そして人間も……時間をかけて温められたものが、一番いい味を出すもんさ」
「本当にその通りですね」
響子がお茶を両手で持ち、ふうふうと息を吹きかけながら頬をゆるませた。
「決まりました! 明日の午後は、ガサガサに励む深雪ちゃんのために、美味しい揚げ物の差し入れと甘いホットドリンクを持って、みんなで櫻庭家に遊びに行きましょう!」
「大賛成だ!」沙耶が弾けたような笑顔を見せる。「あたしは深雪ちゃんを思いっきり抱っこして、頭を撫でまわす係を担当するよ!」
「ふふ、私はガサガサで獲れたスジエビのから揚げをいただく役に回ろうかしら」栞が眼鏡を外し、柔らかく目を細めた。
「それじゃあ、冷え性の深雪ちゃんに持っていきな」
大将がそう言って、自家製の生姜と蜂蜜をたっぷり練り込んだ『生姜湯の素』を丁寧に紙に包み、響子の手元へ持たせてくれた。
店を出ると、風花町の夜風がひんやりと頬を撫でた。けれど、三人の胸の奥には、美味しい酒と温かな手料理、そして愛おしい少女の笑顔を想う熱が、ぽっと灯り続けていた。
赤ちょうちんの明かりに見送られながら歩き出す三人の笑い声が、静かな路地の奥へ優しく溶けていった。
【あとがき】
今夜も『Bar風花』の物語にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
日々の緊張から解き放たれ、素の自分に戻れる場所――『居酒屋 ちどり』。
冷えた生ビールと出汁巻き玉子を前に、深雪の愛らしさや健気さを語り合う沙耶、栞、響子の三人の時間は、どこか私たちが守りたい日常の温もりそのもののようにも思えます。
硬く閉ざされていた蕾が、周囲の優しい愛に包まれて少しずつ綻んでいくように。
彼女たちの語る言葉の端々から、深雪がどれほど大切に愛されているかを感じていただけたなら幸いです。
もしこのささやかな物語が皆様の心を少しでも温めることができたなら、ブックマーク登録や評価(★★★★★)、感想などで応援をいただけますと大変励みになります。
夜の深まりとともに、皆様の元にも穏やかな風が吹きますように。
天照(Bar風花)




