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15杯目 開店直後の静けさと、カンパリの赤い夜

『Bar風花-kazahana-』

開店直後の静寂と、カンパリの赤い始まり


※独立した短編・導入エピソードです

※バー・カクテル・静かな夜・丁寧なバーテンダー・初めての出会いが好きな方向け

※派手な展開や事件はありません。ゆっくり扉を開ける夜をお届けします


Uターン移住から半年。

この田舎町には、本格的なBarなど一軒もなかった。


パイプを燻らせ、冷えたドライ・マティーニをカウンターで味わう——

そんな当たり前の時間が、遠い記憶になりかけていた。


ある土曜の夕暮れ。

仕事が早く終わったものの、帰宅しても自分の食事はなく、

ため息をついて家を出る。


自然と足が向かったのは、あのBar——風花だった。


飲み屋街の喧騒を抜け、人一人すれ違うのがやっとの細い石畳の路地へ。

蔦の絡んだレンガ調の外壁、アンティーク調の灯りが静かにドアと看板を照らす。


『Bar風花 -kazahana-』


重厚なマホガニーの扉を引くと、

中から柔らかな光と、かすかなウッドと桜の香りが漏れ出る。


開店直後の店内は、時間が止まったように静か。

エンヤの透明な歌声だけが、澄みきった空気を優しく満たしている。


カウンターの向こうで、美和がひとりグラスを磨いていた。


ヘテロクロミアの瞳——右は深いワインレッド、左は淡い琥珀。

白いバーコートに包まれた彼女の姿は、まるで春の夜明けのように清らかで儚く、

それでいて強い引力を放っている。


「いらっしゃいませ。今日はご来店なさるのではないかと考えていたのですが、また予想が当たってしまいました♪」


美和さんの穏やかな笑顔と、温かいおしぼり。

カウンターの鉄刀木の冷たさと、グラスを磨くかすかな音。


初めて訪れたはずの場所なのに、なぜか懐かしい。

心がゆっくりと溶けていくような……。


Bar風花へ、ようこそ。

今夜は、渇いた心がようやく辿り着いた場所です。

 開店してすぐのBar風花は、まるで時間がまだ始まっていないかのように静まり返っていた。


 微かに漂う桜の花の余韻と、耳障りにならないボリュームで流れるエンヤの透明な歌声だけが、澄みきった空気の中に溶け込んでいる。


 カウンターの向こう側で、美和はひとり、静かにグラスを磨いていた。


 二十代半ば、165cmほどのすらりとした長身。


 透けるように白い肌に、ほのかな血色が浮かぶ頬。


 そして何より目を奪うのは、ヘテロクロミアの瞳——右目は熟成したボルドーワインのような深いワインレッド、左目は朝霧に濡れたバルティック琥珀のような淡く透明な金色。


 視線を落とすと長い睫毛が影を落とし、顔を上げた瞬間に左の琥珀がきらめく。


 ダークブラウンに桜色のハイライトが控えめに散らばった髪は、やや高めの位置でハイポニーテールにまとめられ、細長い銀のバレッタが動作のたびに小さく光る。


 左耳には小さなピジョンブラッド・ルビーが一粒、


 右目の深い赤と静かに呼応していた。


 白いオックスフォードコットンのシャツに黒のウールベストを重ね、ベストのボタンが悲鳴を上げそうなほどの豊かな質量を持つ胸はボタンをわずかに緊張させながらも、気品を崩さず堂々と存在している。


 グラスを磨くたびに前かがみになると、柔らかな照明がその丸みをそっと浮かび上がらせ、カウンター越しに自然と視線を奪う。


 誰もいない店内。


 磨かれるクリスタルの擦れる音。


 微かに揺れるハイポニーテールと銀の髪飾り。


 右のワインレッドと左の琥珀が交互に光る瞳。


 鉄刀木のカウンター、透明に輝くグラス、整然と並ぶボトルたち——すべてが、誰かが来るまでのわずかな時間さえも丁寧に守られている場所だった。


 山崎さんと初めて知り合った日から、数日が静かに過ぎていた。


 彼の日常に大きな変化はなかった。


 朝の薄明かりの中に出勤し、夜の闇に包まれて帰宅する。


 オフィスの蛍光灯、機械的な会話、家庭ではほとんど言葉を交わさない妻と子供たち。


 夕食のテーブルで視線すら合わず、沈黙が部屋を支配する——ほぼ家庭内別居と言っていい。


 心の奥底に、静かな疲労と「いっそ別れた方がいいのではないか」という思いが積もっていく。


 そんな週末のこの日、珍しく仕事が早く片付いた。


 陽が沈みきらない夕暮れに帰宅したものの、キッチンには自分の分の食事はなく、ため息をついて財布と鍵をポケットに押し込み、家を出る。


 自然と足が向かったのは、あのBar——風花だった。


 飲み屋街の喧騒を抜け、人一人すれ違うのがやっとの細い石畳の路地へ。


 蔦の絡んだレンガ調の外壁、アンティーク調の灯りが静かにドアと看板を照らす。


 『Bar風花 -kazahana-』


 派手な手書きボードも赤ちょうちんもない。


 ただ静かな存在感で、選ばれた客だけを招き入れるような佇まい。


 「相変わらず、商売っ気がないな……」


 妙に頑固で魅力的な店主の顔を思い浮かべ、彼はくすっと苦笑いする。


 重厚なオーク材の扉に手をかけ、磨かれた真鍮の取っ手の冷たい感触を感じながらゆっくり引くと——意外にもあっさりと開いた。


 中から柔らかな光と、かすかなウッドと桜の香りが漏れ出る。


 今日も彼が一番乗りのようだ。


 お客が一人もいない店内は澄みきっていて、エンヤの穏やかな歌声が空間を優しく満たしている。


 カウンターの中では、美和が長い髪をハイポニーテールにまとめ、白いバーコートを着てカクテルグラスを丁寧に磨いている。


 彼女がこちらに気付き、顔を上げると——


 右のワインレッドと左の琥珀が、照明を受けてそれぞれ妖しく、優しく瞬いた。


 「いらっしゃいませ。今日はご来店なさるのではないかと考えていたのですが、また予想が当たってしまいました♪」


 美和さんは嬉しそうに微笑み、いつもの席にコースターをスッと置く。


 彼が腰を下ろすと、温かいおしぼりが差し出される。


 湯気が立ち上り、汗ばんだ肌に触れると体全体に心地よい温もりが広がった。


 カウンターの木目、グラスを磨くかすかな音、エンヤの歌声——すべてが静かなロマンスのように夜を彩る。


 美和さんの視線がそっと彼を包み込み、外の世界の喧騒から心がゆっくり溶けていくような……。


 彼がふっと息を吐き、微笑みを返すそのとき——重厚なマホガニードアが静かに軋みを上げて開いた。


 「あれ、一番乗りかと思ってたのに、彼さんがもう居る〜!」


 元気いっぱいの明るい声が、店内の静けさを春風のように破る。


 振り返ると、そこにはビジネススーツ姿の山崎さんが立っていた。


 大きめのバッグを片手に、ネクタイを少し緩め、仕事の疲れを残しながらも瞳には安堵が浮かんでいる。


 美和さんと目が合い、二人ともくすっと苦笑い。


 このタイミングで常連がもう一人現れるとは…。


 「あー、何か二人で良い雰囲気作ってるー!」


 山崎さんがからかうように言いながら、彼の隣に自然と腰を下ろす。


 

バッグをカウンターの下に置き、肩を回して大きく息を吐く。


 その仕草に、長い一日の疲れがにじむ。


 「気のせいですよ、山崎さん。いらっしゃいませ。」


 美和さんは穏やかに微笑みながら、腰のポケットからコースターを取り出し、彼女の前にスッと置く。


 続いて、温かいおしぼりを差し出す。


 湯気がふわりと立ち上り、山崎さんが両手で受け取ると、ほっとしたように頰を押し当てる。


 

 「お二人とも、お早いご来店ですね?」


 美和さんの声が、優しく響く。


 彼は軽く肩をすくめて答える。


 「今日は珍しく仕事が早く終わったんです。

 ただ、帰ったら自分の分の食事が何も残ってなくて……。

 ここで飲みながら何か食べようかと思って。」


 山崎さんが、すぐに続ける。


 「私はいつも通り定時で上がったんですけど、お昼を食べそこなっちゃって……。

 桜羽さーん、何か食べさせて〜!」


 彼女は両手を合わせて、子犬のように上目遣いで訴える。


 その無邪気な表情に、彼は思わず小さく笑ってしまう。


 どうやら、今夜は腹ペコ怪獣が二匹同時に襲来してしまったらしい。


 美和さんはくすくすと笑いながら、フードメニューを二人に差し出す。


 指先がメニューを優しく撫でる仕草が、なんだか愛おしい。


 「そうですね……フードは色々ありますけど、お二人はパスタはお好きですか?」


 パスタという言葉に、彼の目がぱっと輝く。


 大好物だ。


 「好きですよ。すごく。」


 山崎さんも即座に反応。


 「え、パスタ大好きです! 出来るんですか!?」


 興奮気味に身を乗り出す。


 「はい。ちょうど私が作った麺がありますし、ソースも自家製のトマトソースとバジルソースがありますから……ポモドーロとジェノベーゼが出来ますよ♪」


 美和さんの声が、楽しげに弾む。


 彼女の長い黒髪が、動きに合わせて軽く揺れる。


 「私、トマト大好きなんです! ポモドーロお願いします!」


 山崎さんが即決。


 彼も迷わず。


 「じゃあ、僕はジェノベーゼで。」


 「では、少し時間が掛かりますので……まずはお飲み物と、後、ちょっと摘まめるように生ハムをお切り致しますね。」


 美和さんはそう言うと、奥から台に固定された大きな生ハムの原木を持ってきて、カウンターに置く。


 36ヶ月熟成のハモン・イベリコ——スペイン産の最高級品。


 表面の白い脂身が、照明に照らされて艶やかに輝き、深い熟成の香りがふわりと広がる。


 「こちらはスペインの36ヶ月熟成させたハモン・イベリコです。しっかりと熟成されているから、味わいが深くて、口の中で溶けるように美味しいですよ。

 でもまずは、お飲み物をお作り致しますね。」


 彼女は軽やかに準備を始め、シェーカーを取り出す。


 カウンターの木目が、彼女の白いバーコートの袖に優しく映る。


 店内の空気が、期待と温かさで満ちていく。


 エンヤの歌声が静かに流れ、温かいおしぼりの余韻がまだ手に残る中——


 今夜のBar風花は、いつもの静けさに加え、二人の腹ペコ常連の笑い声で、少し賑やかになりそうだ。


 彼は隣の山崎さんと視線を交わし、ふっと息を吐く。


 この場所が、今日も心の拠り所になってくれることに、静かな感謝を覚えていた。



 棚からコリンズグラスを二つ、優雅に取り出すと、美和さんはバックバーの奥から、真っ赤な宝石のようなボトルをそっと引き抜いた。


 鮮やかなルビー色の液体が、照明に透けて妖しく輝く。

彼女はそれをバーマットの上に置き、穏やかな笑みを浮かべて二人を見やる。


 「このお酒の説明は、もう不要ですよね。あまりにも有名な、イタリア・ダヴィデ・カンパリ社のリキュール『カンパリ』です。

 これで彼さんにはカンパリソーダを、山崎さんにはカンパリオレンジをお作りしようと思います。」


 その声は柔らかく、でもどこか自信に満ちていて、カウンターの空気を優しく包み込む。


 美和さんはカウンター上のフルーツ籠に手を伸ばし、鮮やかなオレンジを三つ取り出す。


 流水で丁寧に洗い、水滴を軽く払う仕草が、まるで大切な宝石を扱うように優しい。


 二つを薄く輪切りに、もう一つを櫛切りに——包丁の刃が果皮を滑る音が、静かな店内に小さく響く。


 輪切りにしたオレンジを、カウンター内に備え付けられたジューサーに乗せ、手を回す。


 ぷしゅっ、という新鮮な音とともに、鮮やかなオレンジジュースが流れ落ちる。


 その香りが、店内にふわりと広がり、甘酸っぱい夏の予感を運んでくる。


 次に、美和さんはコリンズグラスを手に取り、氷をたっぷり入れる。


 ミネラルウォーターを少し注ぎ、手早くバースプーンでステア。


 キュルキュルキュル……。


 氷がグラスの中で軽やかに踊り、透明な水がキラキラと光を反射する。


 彼女のステアは、いつ見ても息を呑むほど鮮やかだ。


 指先がスプーンを優しく操り、氷の音がリズムを刻む——まるで小さな音楽を奏でているよう。


 ある程度混ぜたところで、水を静かに切り、グラスをバーマットの上に並べる。


 そして、メジャーカップを使わず、直感でカンパリを注ぎ入れる。


 鮮やかな赤がグラスの中でゆっくりと広がり、氷に絡みつく様子が美しい。


 冷蔵庫から取り出したソーダと、先ほど絞ったフレッシュオレンジジュースを、それぞれのグラスに注ぐ。


 軽くステアして、最後に輪切りと櫛切りのオレンジを飾る。


 オレンジの皮から立ち上る微かなエッセンシャルオイルの香りが、苦みと甘みを予感させる。


 「お待たせいたしました。カンパリソーダと、カンパリオレンジです♪」


 美和さんはそう言って、二人の前のコースターにグラスをそっと置く。


 微笑みが、照明の下で柔らかく輝く。


 ヘテロクロミアの右目が、銀の光を帯びて、優しく瞬く。


 さっそくグラスに手を伸ばす。


 ふと横を見ると、山崎さんがグラスを持ち、こちらを覗き込んでいる。


 彼女の瞳が、期待と楽しさでキラキラしている。


 二人の視線が交わり、ふっと微笑みが浮かぶ。


「じゃあ、今日も一日お疲れさまでした。乾杯〜!」


彼の声が、穏やかに響く。

山崎さんが目を細めて応じる。


「お疲れさまでした〜! 乾杯〜!」


 二人はグラスを掲げたまま——しかし、グラス同士を触れさせることはしなかった。


 軽く、互いのグラスを視線で「合わせる」だけ。


 カチンと音を立てるのではなく、静かに、ただグラスを掲げて視線を交わす。


 それは、このBar風花で自然と生まれた、二人だけの小さな習慣だった。


 グラスをぶつける音は、賑やかな居酒屋のもの。


 ここでは、そんな派手さは必要ない。


 ただ、互いの疲れた一日を認め合い、優しく労い合う——それだけで十分だった。


 一口含むと、爽やかな苦みが舌先を刺激し、すぐに甘味が優しく追ってくる。


 炭酸の細かな泡が弾け、喉を爽快に通り抜ける。


 これからの暑い時期にぴったりの、さっぱりとした味わい——体が一気に軽くなるような感覚。


 「美味い……」


 「美味し〜!」


 二人揃って、思わず声が漏れる。


 山崎さんが目を細めて続ける。


 「これ、ほんとに美味しいですよ! オレンジジュースの甘味と酸味の中に、カンパリの苦みが絶妙に混じって……最高です!」


 彼女は嬉しそうにグラスを傾け、頰をほんのり赤らめる。


 彼も頷きながら、もう一口。


 苦みと甘みのバランスが、まるで人生の味わいのように深く、心地よい。


 美和さんは、そんな二人の様子を横目で優しく見つめながら、生ハムのスライスを始める。


 長い専用の包丁を手に、36ヶ月熟成のハモン・イベリコの原木に刃を当てる。


 丁寧に、薄く、優しく削ぎ切っていく。


 熟成された脂身が透き通り、赤身の深い色合いが照明に映える。


 萩焼の小さな皿に、削ぎ切った生ハムを美しく並べ、最後に枝付きのレーズンを添える。


 盛り付けが完成した瞬間、熟成の芳醇な香りがふわりと広がる。


 二人の前に、生ハムの小皿とお箸がそっと置かれる。


 さっそく箸を付けると、少し硬めで、でも口の中で溶けるような食感。


 ほんのりとした塩気と、凝縮された肉の旨味が、舌の上でゆっくりと広がる。


 あまりの美味しさに、二人とも目を輝かせ、箸が進むのを止められない。


 美和さんは、そんな様子を嬉しそうに見守りながら、調理の準備を始める。


 カウンター越しに、彼女の視線が優しく交わる。


 エンヤの歌声が遠くで流れ、炭酸の泡立つ音と、箸の小さな音が混じり合う。


 Bar風花の夜は、こうして穏やかに、温かく、深まっていく。


 カンパリの赤と、オレンジの黄金と、生ハムの琥珀色が、カウンターの上で静かに輝き——この瞬間が、今日の疲れを優しく溶かしてくれる。


 二人はグラスを傾けながら、ふと視線を交わす。


 言葉はいらない。


 このBarの時間が、ただただ、心地よい。

読んでくださってありがとうございます。


この話は、

「都会のBar通いが当たり前だった人が、田舎に移って初めて味わう『Barがない渇き』」

「そんなときに、まるで夢のように現れた小さな扉」

を描きたかっただけの一場面です。


鉄刀木の冷たく硬いカウンター、

静かに磨かれるグラス、

丁寧に絞られるフレッシュライム、

そして美和さんの穏やかな笑顔と「どうぞ♪」の一言。


どれも派手な出来事ではないのに、

それが重なって「ここに来てよかった」と思えるような、

静かで温かい感動を、誰かの胸に少しでも残せていたら嬉しいです。


ここが、彼の新しい「帰る場所」になる第一歩。

これからどんな一杯と、どんな時間が待っているのか……私もまだわかりません。


またふらりと扉を開けてくださいね。


それでは、今夜も良い夜を。


天照(Bar風花)

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