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【Bar風花】第二章 猫の微睡みと琥珀色の休日

【前書き】


※ 本作は、本編の戦いや緊迫感から一息ついた、完全な日常回サイドストーリーです。

※ 劇的な戦闘や超常現象は一切ございません。あるのはただ、美味しいお酒と果実の描写のみです。

※ 深夜の読まれる時間帯によっては、少々贅沢な「飯テロ(夜食テロ)」となりますのでご注意ください。


 古いものたちが静かに呼吸を合わせる、初夏の古美術店。

 そして、日本の自動車工学の極点たるクリスタルホワイトの咆哮が、風花の山々に吸い込まれていく午後。

 今夜の『Bar 風花』に持ち込まれたのは、一箱の見事な完熟の桃と、かつて多くの修羅場をくぐり抜けてきた美しい猫の、束の間の微睡みです。

 

 極上のシャンパン『ルイ・ロデレール・クリスタル』の繊細な泡が、琥珀色の瞳に溶けていく贅沢な休日のひととき。

 どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。

一、午前:古美術店『ミセ』の贅沢な微睡み

 

 古いものには、固有の呼吸がある。

 風花町の少し外れ、青々とした梢の奥に佇む古い洋館。そこを改装して作られた古美術店『ミセ』の空気は、まるで長い歳月をかけて澱のように沈殿した静寂そのものだった。遮光性の高い厚手のカーテンの隙間から、初夏の瑞々しい太陽光が一本の帯となって差し込み、宙に舞う微細な塵を黄金色に輝かせている。

 その光の帯が移動するのに合わせ、ギィ、と古びたオークの床を鳴らしてアンティークのロッキングチェアが動いた。

「ん……」

 椅子の主は、ソーニャである。

 トム・フォードの仕立ての良い白いシルクシャツは、上質な生地特有の柔らかな光沢を放ち、捲り上げられた袖口からは細くしなやかな手首が覗いていた。彼女が頭を傾げるたび、耳元で揺れる『ミルク・アンド・ハニー』のキャッツアイが、窓外の木漏れ日を反射してとろりとした輝きを見せる。その名の通り、濃厚な蜂蜜に一滴のミルクを混ぜたような色彩の石は、彼女自身の瞳によく似ていた。美しく澄んだ琥珀色の瞳――それは、どこか見る者を射すくめるような鋭さを秘めながらも、今は陽だまりの温かさにすっかり融かされ、眠たげな光を湛えている。

 淹れたてのジャマイカ・ブルーマウンテンが、マイセンの小ぶりなカップから清涼な香りを立ちのぼらせていた。カリブ海の高地、冷涼な霧の中で育まれたその豆は、突出した苦味や酸味を持たない。すべてが完璧な調律を施されたオーケストラのように調和し、滑らかな口当たりと気品ある余韻だけを残して喉を通り過ぎる。

 ソーニャは細い指先でカップを持ち上げ、静かにその香りを愉しんでいたが、手元のタブレット端末が小さく電子音を鳴らした瞬間、わずかに眉をひそめた。

 画面に表示されたのは、皇グループ傘下「天野家」の令嬢であり、現在は会長秘書官を務める天野里美から送られてきたPDFファイルだった。件名には『今月度 経費確認書(至急)』とある。並んでいるのは、一般の会社員が見れば目眩を起こすような、天文学的な数字の羅列だ。

 ソーニャは画面を一瞥した。そして、一切の躊躇なく、細い指先でそのファイルを画面の隅にあるゴミ箱のアイコンへとドラッグ&ドロップした。

「ん〜、面倒くさい♪」

 ふにゃりとした締まりのない声とともに、小さなあくびが漏れる。里美がこれを見たら、間違いなく額に青筋を立てて「ソーニャさん!」と詰め寄るだろうが、ここに堅物な秘書官はいない。あるのは、ただただ贅沢な時間を貪る、気まぐれな野良猫の微睡みだけだった。ソーニャは再びロッキングチェアに深く身体を預けると、差し込む陽だまりの暖かさを追いかけるように、目を閉じて静かに呼吸を整えた。



 

二、午後:クリスタルホワイトの咆哮

 

 午後になると、風花町の空気は一段と熱を帯びてきた。

「天気がいいから、ちょっとあの子をご機嫌にしてあげよっと♪」

 独りごちたソーニャは、『ミセ』の裏手にあるガレージへと足を向けた。重厚なシャッターが上がると、薄暗がりの中にその狂気的なまでの造形美が浮かび上がる。

 完璧に磨き上げられたクリスタルホワイトのレクサスLFA。世界にわずか五百台しか存在しない、日本の自動車工学が到達したひとつの極点。炭素繊維強化プラスチックで包まれたその車体は、まるで静かに獲物を待つ純白の猛獣のようだった。

 運転席に滑り込み、イグニッションスイッチを押す。

 直後、ガレージの壁を震わせて、4・8リッターのV型10気筒エンジンが目覚めた。ヤマハとの共同開発によって調律されたその排気音は、単なる機械の爆音ではない。「天使の咆哮」と評されるに相応しい、高音のF1サウンドだ。アイドリングの時点で、すでにその音波は狂おしいほどの官能性を孕んでいた。

 滑らかにクラッチを繋ぎ、ソーニャは風花町のワインディングロードへとLFAを滑り出させた。

 初夏の風が、開け放った窓からシルクのシャツを激しく揺らす。目の前に迫るのは、緑の山肌を縫うように走る急峻な連続コーナーだ。常人であれば、その速度域と車幅、そして路面から伝わる強烈なGに恐怖を覚え、ハンドルを握る手に血の気が引くところだろう。

 しかし、ソーニャの運転には一切の力みがなかった。

 彼女の細い左手は、ステアリングホイールの上部に軽く添えられているだけだ。まるで愛猫の背中を撫でるかのような、あるいは馴染みの楽器の弦に触れるかのような、完全なハンドリング。タイヤが路面を捉える限界点を、五感ではなく皮膚の細胞ひとつひとつで感知しているかのように、LFAは寸分の狂いもなくクリッピングポイントを通過していく。超高回転型のV10エンジンがタコメーターの針を跳ね上げるたび、山々に神聖なまでの咆哮が響き渡った。

 数分間の刺激的な対話を終え、峠を下りきったところに、地元の小さな直売所があった。ソーニャは手際よくLFAを停めると、お目当てのものを探して店へと歩いていく。

 この季節の風花町は、果物の宝庫だ。なかでも、熟練の農家が我が子のように育て上げた最高級の完熟「風花の桃」は別格だった。

 棚に並んだ木箱の中から、ソーニャは一切の妥協なく一箱を選び出した。産毛に包まれた薄紅色の皮からは、すでに部屋いっぱいに広がるほどの濃厚な甘い香りが漂っている。指先で触れずとも、その果肉がどれほど瑞々しく、豊かな水分を蓄えているかが分かった。

「よし、これにしよ♪」

 代金を支払い、桃の箱をLFAの助手席に丁寧に載せる。バケットシートに収まった木箱を見て、ソーニャはその美しい琥珀色の瞳を満足そうに細めた。愛しい人の喜ぶ顔を思い浮かべる猫のように、彼女の唇は小さく弧を描いていた。



 

三、夕暮れ:Bar開店前の小さな闖入者

 

 日が傾き、風花町の細い路地に橙色の街灯が灯る頃。路地の奥深く、重厚なオーク材の扉の上に吊るされた真鍮製のランタンが、淡い暖色光を放ち始めていた。扉の中央に埋め込まれた真鍮のプレートには、『Bar 風花 -kazahana-』の文字が控えめに浮かび上がっている。

 店内は、開店一時間前の独特な静謐に満ちていた。空調の効いた空気はひんやりと心地よく、まだ誰もいない空間には、古いレコードの針が落とす微かなノイズのような、あるいはピアノの残響のような静かな音楽が遠くで流れている。

「天ちゃん、そっちの端のほう、少し光の加減で拭き残しが見えるかも」

「おっと、本当だ。ありがとう。鉄刀木は磨けば磨くほど応えてくれるから、つい夢中になっちゃうね」

 カウンターの内側では、右目がワインレッド、左目がアンバーという神秘的な異色瞳を持つオーナーバーテンダー・櫻庭美和が、鉄刀木の一枚板を丁寧に磨き上げていた。深い黒に近い赤褐色の木肌は、何十年もの年月が刻んだ細かな傷を内包しながら、夜の湖面のように静かに艶めいている。その傍らでは、彼女の夫でありフリーランスのルポライターでもある櫻庭天――天ちゃんが、リネンを手にカウンターの端を丁寧に拭き上げていた。

 その時だった。

 カチャリ、という鍵の開く音すらなく、重厚なオーク材の扉が「するり」と音もなく開いた。まるで最初からそこに隙間が存在していたかのあるような、完璧な無音の侵入。

「美和〜! 甘くて美味しそうなの見つけてきちゃった!」

 入ってきたのは、両手にしっかりと木箱を抱えたソーニャだった。彼女は扉が閉まる音よりも早くカウンターの内側へと視線を走らせると、本当に猫のようなしなやかさで美和へと近寄り、その細い身体に遠慮なく抱きついた。

「もう、ソーニャさん、仕込み中ですよ」

 美和は困ったような声を出しながらも、その表情には隠しきれない歓びの笑みが浮かんでいる。ソーニャから漂う、初夏の風の匂いと、甘い桃の香りに気づいたからだ。

「ほら、これ! 風花のすっごく良い桃!」

「わあ……見事な桃ですね。果皮の張りが素晴らしいわ」

 美和が感嘆の声を漏らすと、カウンターの横から天ちゃんが苦笑しながら手を伸ばした。

「ソーニャさん、その箱、僕が預かるよ。せっかくの桃が潰れちゃうと大変だからね」

「あ、天ちゃん、ありがと♪ 潰さないように気をつけてね?」

 天ちゃんは手際よく木箱を受け取ると、バックバーの奥にある冷蔵庫へと向かった。お酒の仕込みだけでなく、こうした預かりものを完璧な状態で管理するのも、この空間の主たちの日常だった。ソーニャはカウンターの黒革張りのローチェアーに腰掛け、美和の無駄のない動きをただ楽しそうに眺めていた。



 

四、夜:クリスタルと桃の妖艶な夜

 

 夜が更けると、店内の空気は完全に「Barのとき」へと移行した。

 直接照明を極限まで落とした店内には、間接照明による柔らかなアンバーの光の層が浮かび上がっている。他にお客のいない、奇跡のように静かな時間。壁の奥まった一角に飾られた小さな桜の絵からは、遠くの春の風が運んできたような、かすかで儚い甘い香りが漂っていた。

 カウンターの中央に腰掛けたソーニャの前には、一本のボトルと、ひと皿の芸術が供されていた。

 今夜のオーダーは、彼女の大好きな『ルイ・ロデレール・クリスタル』。

 美和が静かに抜栓し、バカラのアンティークグラスへと二回に分けて静かに注いだ黄金の液体は、照明を受けてそれ自体が発光しているかのように輝いていた。グラスの底から立ち上る泡は、気の遠くなるほど繊細で、絶え間がない。それはまるで、クリスタル(水晶)の迷宮の中に閉じ込められた星屑のようだった。

「どうぞ、ソーニャ。あなたの持ってきた桃です」

 美和が差し出した一皿には、先ほどの「風花の桃」が美しく盛り付けられていた。一切の無駄がない、完璧なナイフさばきによってカットされた果肉は、うっすらと透明感を帯びた乳白色で、中心に向かって淡い桜色のグラデーションを描いている。皿の上に落ちた果汁が、アンバーの光を反射して濡れたように光っていた。

 ここからのソーニャは、昼間の無邪気な様子とは完全に一線を画していた。

 彼女はゆっくりとグラスを持ち上げ、まずはその繊細な泡が弾ける音に耳を澄ませる。私生活の無邪気さを完全に潜め、極上の夜にふさわしい優雅な佇まいで、唇を湿らせるように一口、シャンパンを喉へと滑らせた。

 熟成された白ブドウの豊かなコクと、シルクのように滑らかな泡の刺激が、彼女の口腔を満たす。それは、最高級の酒だけが持つ、圧倒的な気品と説得力だった。

 続いて、ソーニャは手元に添えられた小さなフォークをそっと指先で扱い、美しくカットされた桃の白い果肉を一口分、丁寧に口へと運んだ。

 その果肉に、小さく歯を立てる。

 刹那、溢れ出したのは、ただの甘味ではない。それは大地の恵みと農家の執念が凝縮された、圧倒的な果汁の洪水だった。濃厚でいて気品ある甘さが、先ほど喉を通ったクリスタルの複雑な酸味やミネラル感と、完璧なマリアージュ(結婚)を果たす。シャンパンの持つ爽快な泡が、桃の豊かな糖度を限界まで引き上げ、同時に後味を驚くほど上品に洗い流していく。

 その瞬間、ソーニャの琥珀色の瞳が、バーの薄明かりの中で濡れたように怪しくきらめいた。昼間の無邪気な猫の仮面が剥がれ落ち、その奥にある、数多の修羅場をくぐり抜けてきた者だけが持つ、圧倒的な妖艶さと美しさが空間を支配する。溢れる果汁を湛えた桃をフォークで運ぶ仕草一つひとつが、まるで計算された舞台劇のように洗練されていた。

「んむ……やっぱり美和のところで飲むのが一番美味しいなぁ……」

 うっとりとした、とろけるような微笑みがその唇から漏れる。それは、最高のお酒と果実によって、魂の底から満たされた者だけが零す至福の吐息だった。

 二杯目のグラスが空になる頃、ソーニャの瞳から次第に鋭さが消え、代わりに深い安らぎの色が満ちていった。彼女は黒革のローチェアーに背を預け、長い脚を優雅に組み替えると、クリスタルのグラスに残る細かな気泡をただ静かに見つめている。

 長年の使用で柔らかく艶を帯びた黒革は、ほのかに彼女の体温を吸い取り、優しく包み込んでいた。

 昼間のレクサスLFAの咆哮も、彼女の周囲に漂っていたであろう硝煙の気配も、今のこの空間には存在しない。あるのはただ、完璧に守られた平和と、至高の贅沢の余韻だけだ。ソーニャは静かにグラスを傾け、美和の差し出すボトルから再び注がれる黄金の液体を、ただ優雅に愉しみ続けている。

 カウンターの向こう側で、美和が静かにリネンを置いた。

「良い休日になりましたか、ソーニャさん」

「ええ、最高よ。帰りたくなくなっちゃうくらいね」

 ソーニャは悪戯っぽく琥珀色の瞳を細め、天ちゃんが静かに微笑みながら見守る中で、贅沢な夜の残響を惜しむように味わっていた。

 Barの仕事とは、ただ酒を提供するだけではない。ここを訪れる者が、全ての鎧を脱ぎ捨てて、ただ一人の人間に戻れる時間を守ること。それこそが、この鉄刀木のカウンターの前に課せられた、目に見えない哲学だった。

 薄暗いアンバーの光の中、微かに香る桜の余韻と、桃の甘い残り香が、空気の中に薄く溶けていく。

 静謐な空気を乱すものは何一つない、優しい風花の夜が、静かに、どこまでも深く更けていった。

【あとがき】


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 今回は、普段の緊迫した裏社会の空気や、皇グループの重圧から完全に解き放たれたソーニャの、とある優雅な休日を描かせていただきました。

 ヤマハと共同開発されたレクサスLFAのV10エンジンが奏でる「天使の咆哮」と、夜のバカラグラスの中で弾けるクリスタルの気泡。その「動」と「静」のコントラストの中で、美和の前にいる時だけ、全ての鎧を脱ぎ捨てて「一匹の無邪気な猫」に戻る彼女の素顔を、ずっと書いてみたいと思っておりました。

 

 美しくカットされた瑞々しい風花の桃と、冷えたルイ・ロデレール。

 読み終えた皆さまの喉が、心地よく鳴るようなマリアージュが伝わっていれば幸いです。


 もしこの「猫の微睡み」を気に入っていただけましたら、ぜひブックマークや、下の評価星(★★★★★)、また「桃とシャンパンが欲しくなった」といった一言感想などをいただけますと、執筆の何よりの励みになります。


 風花町の夜は、まだまだ優しく更けていきます。

 また次のお話でお会いいたしましょう。

 天照(Bar風花)

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