13杯目 モスコミュールと、優しい神水の夜
『Bar風花-kazahana-』
モスコミュールと、優しい神水の夜
※独立した短編エピソードです
※バー・カクテル・静かな癒し・ちょっとしたトラブルと救いが好きな方向け
※派手なバトルや恋愛展開はありません。静かに温まる夜をお届けします
静かな貸切の夜。
いつものようにパイプをくゆらせ、グラスを傾けていると、
突然乱入してきた酔った男二人と、居心地悪そうに縮こまる若い女性。
下品な絡みと、無理やり連れてこられた彼女への強引な誘い。
美和さんは変わらぬ笑顔で対応するが、瞳の奥に静かな怒りが宿る。
そして彼は——
カウンターの端で、静かに拳を握った。
男二人が不思議と帰った後、残された女性に差し出されたのは、
キンキンに冷えた「神水」と、自家製ジンジャーウォッカを使ったモスコミュール。
銅製マグカップに広がる生姜の鋭い香りとライムの爽やかさ。
そして、八幡宮の縁起物の新生姜に宿る、という美和さんの神頼み混じりの微笑み。
Bar風花へ、ようこそ。
今夜は、嫌な気持ちが溶けていくような、優しくて少し不思議な一杯を。
「そう言えば、連れの女性がいましたよね? 彼女はどうしたのかな……?」
彼がそう呟いた瞬間、ちょうど化粧室のドアが静かに開いた。
先ほどまで二人組と一緒にいた女性が、俯き加減で出てくる。顔色はまだ優れない。
彼女はカウンター席に戻ろうとして、連れの二人がいないことに気づき、慌てて店内を見回した。
視線がカウンター内の美和さんと交錯する。
美和さんは穏やかに、しかしどこか意味深な微笑みを浮かべて言った。
「お二人とも、急に用事を思い出したみたいで、先ほどお帰りになりましたよ♪」
女性は一瞬ぽかんとして、信じられないという表情で呟く。
「え……あの、しつこい二人が……あっさり帰ったんですか?」
彼女は姿勢を正し、深く息を吐いてから、改めて頭を下げた。
「本当に……お騒がせしてしまい、申し訳ありませんでした」
美和さんは首を軽く振って、柔らかい声で返す。
「お気になさらないでください。お酒を楽しく飲むのは素敵なことですけど、他人に迷惑をかけるような飲み方はね……ちょっと感心できません。あのお二人には、きっとお酒の神様からちゃんとお仕置きが来ちゃいますよ♪」
最後の言葉にいたずらっぽい笑みを添えて、彼女は軽くウィンクした。
女性は小さく苦笑いを浮かべ、
「……確かに、そうかもしれませんね」
と呟くと、バッグから財布を取り出しながら言った。
「では、私もこれで失礼させていただきます。お会計をお願いできますか」
すると美和さんは、にこりと首を振った。
「せっかくお越しくださったのに、そんな嫌な気持ちのままお帰りになるなんて、私としても忍びないんです。
もしお時間とお身体が許すなら……もう一杯だけ、付き合っていただけませんか?」
女性は少し迷った様子で視線を落とした。
「……実は、前の店であの二人にかなり飲まされてしまって……今はもう強いお酒もたくさんも無理なんですけど……
でも、せっかくのお誘いですし、お言葉に甘えてもいいでしょうか。一杯だけなら…」
そう言って財布をそっとしまい、彼女は改めて席に腰を下ろした。
「ありがとうございます。では、まずはこちらをどうぞ」
美和さんはクリスタルガラスのタンブラーに、ピッチャーから透明な水を静かに注ぐ。
新しいコースターを一枚置き、その上にそっとグラスを滑らせた。
「酔い覚ましの水は甘露の味、なんて昔から言いますよね。
まずは水分をしっかり摂るのが一番です。
このお水はね……ちょっと霊験あらたかな特別な水なんですよ♪」
優しい微笑みを浮かべながら、美和さんはそう勧めた。
「……いただきます…」
女性はどこか訝しげな表情を浮かべつつ、グラスを手に取って口をつけた。
一瞬、目を見開く。
「……美味しい……!」
驚きの声が自然と漏れた。
「でしょう? でしょう?」
美和さんは得意げに胸を張り、
「これぞ特製の神水ですからね!」
と訳の分からない自慢を大真面目に始めた。
女性はあっという間にグラスを空にしてしまった。
「……あれ?」
彼女は自分のこめかみや鳩尾のあたりをそっと触りながら、信じられないように呟く。
「さっきまで頭がガンガンして、胃も気持ち悪くて……なのに、今はすごくスッキリしてる……どうして……?」
不思議そうに自分の身体を見つめる彼女を、美和さんは静かに、しかし満足げに見つめていた。
◆
「それでは、さっぱりして飲みやすいロングカクテルをお作りしますね♪」
美和さんはそう言うと、バックバーから大きなガラス製の密封瓶をそっと取り出した。
中には、透明な液体にたっぷりと新生姜が漬け込まれている。
淡い黄金色が美しく揺れている。
「これ、自家製のジンジャーウォッカなんです。
年に数本しか作らないんですけど……
この瓶は特に特別で、福岡市東区の筥崎八幡宮で初秋に開催される『放生会』のときに境内で売られている縁起物の新生姜だけを厳選して漬け込んだものなんですよ」
彼女は瓶を優しく撫でながら続ける。
「しかも、この生姜は八幡宮の神職さんから特別にいただいた縁起物。
スミノフのウォッカでじっくり漬け込んだこのお酒、応神天皇様、神功皇后様、玉依姫命のご利益がたっぷり詰まってるんです~♪」
一部、かなり訳のわからない神頼み混じりの説明に、カウンターの二人は思わず顔を見合わせて小さく笑った。
「あ、ちなみに酒税法では、酒類に他のものを漬け込むと『新たな酒類の製造』とみなされるんですけど、自家消費に限っては例外でOK。
でも販売は禁止なんですよね。だから当店は、ちゃんと担当の税務署に事前申請済みです。
安心して飲んでくださいね♪」
美和さんはそう付け加えて、いたずらっぽくウィンクした。
次に彼女は冷蔵庫から、キンキンに冷えた銅製のマグカップを二つ取り出し、バーマットの上に丁寧に置いた。
「モスコミュールといえば、やっぱり銅のマグカップが定番ですよね。
昔はウォッカメーカーのプロモーションだったとか、禁酒法時代にこっそり飲むための隠し器だったとか、いろいろ説があるんですけど……
私は単純に、銅の熱伝導率が抜群だからカクテルがしっかり冷えるし、口をつけた瞬間のひんやり感が最高だと思うんです」
そう言いながら、美和さんはフルーツの籠からぷっくりとしたライムを一つ選び、手早く洗って櫛切りに。
サクサクッという軽快な音が店内に響く。
マグカップにライムの櫛切りを絞り、絞った皮付き果肉もポンと落とす。
続いてカンロメジャーでジンジャーウォッカを正確に注ぎ入れる。
生姜のピリッとした香りが一気に広がった。
そしてキューブアイスを豪快に数個投入。
最後に別の瓶から、透明で少し濁った自家製ジンジャービアをゆっくりと注ぎ足す。
「うちには市販のジンジャービアも置いてるんですけど、今日はこの自家製を使います。
ジンジャービアを使うと、ジンジャーエールよりずっとキリッとした辛口のモスコミュールに仕上がるんですよ」
注ぎ終えると、美和さんはバースプーンを静かにマグカップの底まで沈め、
「炭酸で割るカクテルは、絶対にステアしちゃダメですよ。炭酸が飛んで台無しになりますから」
そう言いながら、氷を下からそっと持ち上げるように軽く揺らし、全体を優しく混ぜ合わせた。
表面に小さな泡がふわっと立ち、爽やかな生姜とライムの香りが一気に店内に広がる。
「お待たせしました。特製モスコミュール、どうぞ♪」
二人の前に置かれた銅製マグカップは、外側にびっしりと細かい水滴が付いて、まるで宝石のように輝いている。
冷たさが視覚的にも伝わってくる。
一口飲めば、間違いなく「生き返る」ような爽快感が待っている——そんな確信が漂う一杯だった。
キンキンに冷えた銅製マグカップに、二人とも少し警戒しながら恐る恐る手を伸ばす。
ほぼ同時に口をつけ、一口飲んだ瞬間——。
「うわっ、何だこれ! 美味しすぎる!!」
「⋯⋯美味しい⋯⋯!」
二人の声が重なり、店内に驚きの吐息が広がった。
ジンジャーウォッカのしっかりとしたアルコール感と生姜の鋭い香り、ジンジャービアのキリッとした炭酸の刺激、そこにライムの爽やかな酸味と香りが絶妙に絡み合い、口の中を一気にクリアにする。
居酒屋で出されるような甘ったるいモスコミュールとはまるで別物——天と地の差がある、洗練された一杯だった。
「本当に凄く美味しいです……。こんなレベルのモスコミュール、東京の有名バーでも飲んだことないですよ!私、感動しちゃいました!」
山崎響子は目を輝かせてそう言い、美和さんは満足げに頷きながら微笑んだ。
「ふふ、ありがとうございます♪ しかもこの一杯には、神様のご利益がたっぷり詰まってるんですよ〜。
応神天皇様、神功皇后様、玉依姫命のご加護で、明日はお二人にきっと良いことが起こりますよ♪」
美和さんはいつものようにどや顔で胸を張り、軽くウィンクを飛ばす。
そして、悪戯っぽくニヤッと笑うと、すっとカウンターを回って彼の前に移動した。
オーバーな身振り手振りを交えながら、
「あれ〜? 彼さん、今日は反応薄いですねぇ? いつもなら『美和ちゃんのモスコミュールは世界一!』とか大げさに褒めてくれるのに、どうしたんですか〜? さあさあ、もっともっと褒めてくださってもいいんですよ〜♪」
と、わざと甘えた声で迫る。
その様子があまりにも可笑しかったのか、山崎さんがプッと吹き出して笑い始めた。
それをきっかけに、三人の笑い声が『Bar風花』の小さな店内に優しく響き渡った。
カウンターの向こう側もこちら側も、さっきまでの緊張が嘘のように溶けていく。
ふと、山崎さんがハッとして手を合わせた。
「あ、そうだ! 私、まだちゃんと自己紹介してませんでしたね。山崎響子です!
今日からこのお店と美和さんの大ファンになりました。これからもよろしくお願いします!」
深く頭を下げると、美和さんは柔らかく微笑んで返した。
「こちらこそ、遅れてごめんなさい。桜羽美和です。これからもどうぞ、よろしくお願いしますね」
腰のポケットから革の名刺入れを取り出し、丁寧に一枚差し出す。
山崎さんは嬉しそうに受け取り、すぐに彼の方を向いた。
「お兄さんは常連さんですよね? 山崎響子です。これからちょくちょく顔を出すと思いますので、どうぞよろしくお願いします!」
彼も穏やかに頭を下げて挨拶を返すと、山崎さんは少し照れくさそうに、でも好奇心いっぱいの目で美和さんに尋ねた。
「……あの、美和さん。彼さんって、もしかして美和さんの彼氏さんですか? なんかすごく仲良さそうに見えて……」
突然の直球質問に、美和さんの顔が一瞬で真っ赤になる。
「ち、違います! 違いますから!! 彼さんはもうご結婚されてるんですし、そんなんじゃないんですからっ!」
お目目をぐるぐる回しながら全力で手を振って否定する姿が、あまりにも慌てふためいていて——。
山崎さんがまたクスクス笑い、彼もつられて小さく肩を震わせる。
美和さんは恥ずかしさのあまりカウンターに突っ伏し、
「……もう、からかわないでくださいよぉ……」
と小さな声で呟いた。
その様子を眺めながら、彼は心の片隅でほんの少しだけ疼くものを感じていた。
それは、温かくも切ない、名前のつけられない感情。
でも今は、それを深く考えるのはやめておこうと思った。
店内の照明が柔らかく三人を包み、銅製マグカップの水滴が静かに光を反射する。
笑い声が収まると、残ったのは心地よい余韻と、ほのかに漂う生姜とライムの香りだけだった。
◆
「また来てくださいね、山崎さん」
美和さんが顔を上げてそう言うと、山崎さんは満面の笑みで頷いた。
「もちろんです! 次はもっとゆっくり飲みに来ます♪」
彼も静かにグラスを傾けながら、——今日は、良い夜だった。
と、心の中でそっと呟いた。
読んでくださってありがとうございます。
この話は、
「静かなバーの夜に突然やってきた下品な乱入者」と
「それでも美和さんが守り抜く、穏やかで強い空気」
を描きたかっただけの一場面です。
酔った男たちのセクハラ交じりの絡みと、
無理やり連れてこられた響子さんの痛々しさ。
そして、それを静かに、でもはっきりと跳ね返す美和さんの姿。
最後に作られたのは、
自家製ジンジャーウォッカと銅製マグカップのモスコミュール。
生姜のピリッとした刺激とライムの爽やかさが、嫌な気持ちを洗い流してくれるような一杯でした。
そして「神水」のエピソードや、
八幡宮の新生姜に宿るご利益、という美和さんらしい神頼み混じりの優しさ。
そんな小さな不思議と温かさが、
誰かの疲れた心にそっと寄り添えたら嬉しいです。
Bar風花は、どんな夜が来ても、
扉は静かに開いている場所であり続けます。
またふらりと寄ってくださいね。
次はどんな一杯と、どんな出会いが待っているのか……私にもまだわかりません。
それでは、今夜も良い夜を。
天照(Bar風花)




