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【Bar風花】第二章 琥珀の輪舞 〜道の駅かざはなと、限定三十本の均衡〜

【前書き】


※ 本作は、月に数度だけ風花町の『道の駅』に現れる、小さな奇跡の物語です。

※ 激しい神話の戦いはありません。湯気と柑橘の香りに包まれた、ある穏やかな朝の仕込みと、それを受け取る人々の日常、そしてちょっとした「事件」を描いています。

※ 1本980円の琥珀色を巡る、町の皆さんの愛ある暴走をお楽しみください。

第一章:三人のエプロンと、一ロットの限界

 

 風花町の朝は、常に仄かな水の匂いから始まる。

 特に、高台にある櫻庭家のキッチンは、この時間、理を超えて実った柑橘たちの瑞々しい吐息で満たされていた。

 オレンジの陽気な芳香、レモンの潔い輪郭、ライムの底に潜む苦味、日向夏の高貴な気品。それらが渾然一体となって、白いタイルの施された調理場に満ちている。

「ふふ、天ちゃん。今年の夏みかんは、例年より少し皮の裏の油胞がしっかりしているわ。ナイフを入れる角度を、ほんのわずかに寝かせないとね」

 いつもの塵一つない白いバーマンジャケットを、機能的なリネンのエプロンへと替えた櫻庭美和が、手元の上質なペティナイフを滑らせながら微笑んだ。

 バーのカウンターで見せる凛としたプロの顔はそのままに、その声音には、夫である天にだけ向ける柔らかな体温が混ざっている。

「了解。じゃあ、僕は果肉の袋から種を外す方を引き受けるよ。美和さんの切り出したピールが、一番美しく映えるようにね」

 天はルポライターとしての幾帳面さで、黙々とピンセットとナイフを動かしていた。

 ジャムやマーマレードというものは、突き詰めれば「果実の保存食」という極めて生活に密着した料理だ。しかし、美和の手にかかると、それは一杯の完璧なカクテルを構成する「味の設計図」へと昇華する。

 皮の厚みを揃えるのは、熱の入り方を均一にし、口に含んだ瞬間のテクスチャーを同一にするため。果肉を潰しすぎないのは、噛んだ瞬間に弾ける酸味のグラデーションを残すため。

「あらあら、二人とも相変わらず息がぴったりね。私がお邪魔虫になっちゃいそう」

 くすくすと明るい笑い声を立てて、大きなボウルを抱えた千草がキッチンに入ってきた。美和の「お姉ちゃん」であり、この不思議な平屋の庭を管理する彼女は、まさに大地の恵みそのものを体現したような、おおらかな温かみをまとっている。

「お姉ちゃん、お邪魔だなんて。お姉ちゃんが庭の果実を最高のタイミングで摘んできてくれないと、このマーマレードは始まらないわ」

「そうだよ、千草お姉ちゃん。僕一人じゃ、この量の果実を傷つけずに収穫するだけで日が暮れちゃう」

 天の言葉に、千草は嬉しそうに目を細め、銅製の大きなジャム鍋に火をかけた。パチパチと、静かな炎が銅の底を温め始める。

「お酒を使ったり、1本980円なんて少し贅沢な値段をつけているけれど……本音を言えば、私たちはただ、この庭の恵みをみんなにお裾分けしたいだけなのよね」

 美和はふっと表情を緩め、木べらを回しながら湯気を見つめた。

「そうだね。材料はこの庭からの贈り物だから、僕たちの手間なんて、そのお礼みたいなものさ。道の駅に並べるのは、まだ見ぬ誰か、不特定多数の皆さんへのお裾分け。だからこそ、持名さんの美味しいパンっていう最高の居場所を借りて、届ける形にはきちんと責任を持たせないとね」

 天が微笑みながら、煮沸消毒を終えた清潔なガラス瓶を並べていく。

「そうよ! 丹精込めて育てた子たちが、みんなの朝の笑顔になるなんて、これ以上嬉しい『お裾分け』はないわ」

 千草も大きく頷き、琥珀色に色づく鍋を愛おしそうに見つめた。

 利益のためではなく、ただ「お裾分け」を極上の形に仕立て上げるための、1ロットわずか三十本。

 それが、美和が「一度に完璧に味をコントロールできる」限界の量だった。仕上げに美和が静かに注いだのは、プレミアム・ボタニカル・ジン『ジン・マーレ』。熱によってアルコールは完全に揮発するが、地中海のハーブを思わせるタイムやジュニパーベリーの微かな残り香が、煮詰まった琥珀色の液体に「夜の静寂」という名の奥行きを付け加える。



 

第二章:持名コーナーの境界線

 

 風花町の自然に囲まれた『道の駅かざはな』は、週末ともなれば、採れたての野菜や果物を求める人々で活気に溢れる。

 その一角にある『ベーカリー持名』の出張パンコーナーに、持名悟は自慢のカンパーニュと共に、その「三十本の小瓶」を丁寧に並べた。

 瓶の蓋には、美和の手によって可憐な一輪の桜が型押しされた、控えめな封蝋が施されている。そしてその横には、悟が手書きした小さなポップが添えられていた。

『桜印のマーマレード。一家族様、一点限り。980円』

 一般的な地産のジャムに比べれば、1本980円という価格は、道の駅としては確かに少しだけ贅沢な数字かもしれない。けれど、一度でもあの蓋を開け、厳選された柑橘の鮮烈な香りと、ボタニカル・ジンの静かな余韻を知ってしまった者からすれば、それはむしろ「破格」以外の何物でもなかった。1枚の千円札と引き換えに、退屈な朝食が極上の時間に変わるのだから。

「あ、見て。お母さん、今日も出てるわ、桜印のマーマレード」

 ドライブがてら遠方からやってきたと思われる老夫婦が、棚の前で足を止める。

「お一人様、一点限りか。贅沢だねえ」

「ええ。でも、この前の休みにこれをひと匙、朝のトースト乗せたら、なんだかその日一日、とっても穏やかに過ごせたのよ。不思議なお味なの。ただ甘いだけじゃなくて、大人の苦味があって……」

「これ、本当に美味しくて! 買えたらその月は宝くじに当たったようなものなんです!」

 たまたま居合わせた地元の常連客が熱弁を振るう。

 並べられた三十本の琥珀色を愛おしそうに見つめながら、持名は小さく溜息を漏らし、申し訳なさそうに頭を下げた。

「櫻庭さん、天さん……。毎回、これほど素晴らしいものを僕のところにだけ特別に下ろしてもらって、なんだか本当に申し訳ないな、と思っています」

 職人としてのプライドと、櫻庭家への深い敬意の間で揺れる持名に、美和はクスリと悪戯っぽく微笑んだ。

「あら、持名さん。勘違いしないでね。私たちは『ベーカリー持名』に下ろしているんじゃないのよ。お酒を美味しく飲むには、それに負けない最高のグラスが必要なように、私たちのマーマレードの苦味とジンの余韻を、完璧に受け止めてくれる『器』は、あなたの焼くカンパーニュ以外にないの。これはビジネスじゃなくて、私たちのわがまま。この子たちの本当の居場所を作ってくれたあなたへの、お礼なのよ」

「そうだよ、持名さん」

 天も横から優しく笑いかける。

「僕たちがこの庭の恵みを不特定多数の皆さんに安心してお裾分けできるのは、持名さんが毎日、妥協せずに美味しいパンを焼いて待っていてくれるからだ。申し訳ないなんて思わずに、これからも相棒として、この三十本の琥珀を支えてやってよ」

「櫻庭さん……天さん……」

 持名は目元を少し熱くしながら、預かった小瓶をぎゅっと抱きしめた。

 一人、また一人と、三十本の宝石は静かに、けれど確実に、誰かの日常の食卓へと買われていく。そこには買い占めも、無作法な割り込みもない。一本の瓶を愛おしそうに両手で抱える人々の顔には、ただ小さな幸福の予感が浮かんでいた。



 

第三章:鉄の女と、一本の気高き精神

 

 その時、道の駅の駐輪場に、リキッド・シルバーの巨大な車体――BMW K1600GTLが滑り込んできた。

 重厚なエンジン音を響かせて現れたのは、皇グループ傘下「天野家」の令嬢であり、風花町支所の責任者でもある天野里美だった。

 仕立てのいいネイビーのスーツに身を包み、完璧なポーカーフェイスを崩さない彼女は、一見すると「地元の特産品流通を視察に訪れた、冷徹な若きエリート」そのものである。しかし、その内面は、持名コーナーに近づくにつれて暴走機関車のように狂い咲いていた。

『(美和様……! 美和様と天ちゃん様が、あの尊き御手で、睦まじく庭の柑橘を収穫し、湯気の中で互いを見つめ合いながら煮詰めたという、伝説のマーマレード……! ベーカリーの本店だけでなく、この道の駅にまでその慈悲が溢れ出しているという情報を烏丸さんから入手した瞬間から、私の心臓は高回転のシリンダーのように脈打っておりますわ……!)』

 里美は凛とした足取りで持名コーナーへと歩み寄る。棚に残された桜印の小瓶は、すでに残り三本となっていた。

『(支所責任者の職権として、この特産品の品質管理および市場調査の名目で、残りの三本をすべて検収(購入)せねば……! いいえ、買い占めるのではない、これは公務、公務なのですわ――)』

 そこへ、里美の視界に飛び込んできたのは、あの冷徹で優しい鉄則だった。

『一家族様、一点限り』

 里美の思考が一瞬で停止した。

『(……くっ! なんという……なんという気高き精神……! 皇グループの絶大なる財力や、私の支所責任者という権力をもってしても、美和様の紡ぎ出した調和の前では、すべての人間は平等に「一人の買い手」でしかないと言うのですか……! どんなに愛が深くとも、ルールを破って複数本を貪ることは許されない……。これこそが、風花町を裏から守る櫻庭家の、真の品格……!)』

 里美は深く感動し、自身の浅ましさを心の中で猛省した。

 そして、背筋をピンと伸ばしたまま、震える手で最後から二本目の小瓶をそっと手に取った。レジへと向かう彼女の横顔は、まるで国家の最高機密を厳重に運搬するエージェントのように峻烈だったが、その胸元に抱えられた1本980円の小瓶は、彼女の体温でじんわりと温められていた。



 

第四章:波紋と、ルポライターの告白

 

 しかし、その「静かなお裾分け」は、思わぬ方向から引き起こされた大きな波紋によって、町中の知るところとなってしまう。

 ことの始まりは、福岡の夕方の人気ローカル情報番組が『道の駅かざはな』の特集を組み、現地から生中継を行ったことだった。

 Barの開店前、美和が仕込み用の大きな氷をバケツに移す手を止め、天がグラスを磨く手を止めて、バックバーの隅にある小さなテレビ画面を見上げた。

『さあ、やってきました風花町! 見てください、こちらのベーカリー持名さんのカンパーニュ、外はパリッと中はモチモチで本当に絶品なんです!……おや?』

 ハンディカメラが、パンのすぐ横にひっそりと並ぶ、あの透明な琥珀色の小瓶を捉えた。

『その横にある、この可愛らしい桜の封蝋がされた小瓶は……? ゲリラ出品のマーマレードですか!?』

『これ、本当に1本980円じゃ安すぎるくらい美味しくて! 柑橘の香りが全然違うんです! 買えたらその月は宝くじに当たったようなものなんです、本当に!』

 突撃マイクを向けられた主婦が、顔を輝かせて熱弁を振るう。

『ええっ、宝くじ!?』

 スタジオの芸能人やアナウンサーたちも一斉に大騒ぎし始める。

『ちょっと待って、今から行っても買えないの!?』『一家族1本限定!? 食べたい、今すぐスタジオに持ってきて!』

 ワイプの中で身を乗り出す出演者たちを見ながら、櫻庭家の二人はカウンターの中で顔を見合わせた。

「……天ちゃん、なんだか大変なことになってしまったわね」

 美和が少し困ったように、けれどどこか楽しそうに眉を下げて呟く。

「あはは……次回から道の駅に納品する時、ちょっと変装していこうか、美和さん。帽子を深く被るとかさ」

 天はポリポリと頬を掻きながら苦笑いするしかなかった。

 だが、騒ぎはテレビだけに留まらなかった。

 まさにその数日後、天がプロのルポライターとしての筆致で仕上げた、地元のタウン誌の『道の駅かざはな特集』が発売されたのだ。

 記事の中では、新鮮な地場野菜や、持名さんのパンの魅力が完璧に網羅されていた。しかし――天は「桜印のマーマレード」については、ただの一行も触れなかった。大々的に宣伝して持名さんや道の駅に迷惑をかけたくないという配慮であり、身内の作ったものを自分でアピールするのが照れくさかったからだ。

 しかし、これが逆に、風花町の熱狂的なファンたちの導火線に火をつけてしまった。

「なぜあの『桜印のマーマレード』が載っていないんだ!?」

「ライターさんは取材不足じゃないのか!」

 発売翌日、タウン誌の編集部の電話とメールフォームは、読者からの愛ある大抗議の苦情によって一瞬にしてパンクした。

「櫻庭くん! 君が書いた道の駅の記事、すごい反響なんだけど……この『桜印』って一体何なんだ!? 読者からの苦情が殺到して、うちの回線がパンク状態だよ! 頼むから次号で追記記事を書いてくれ!」

 デスクにしがみつき、半べそをかきながら泣きついてくる編集長を前に、天は完全にたじろいでいた。口が裂けても言えない――いや、言わなければこの熱い暴動は収まりそうにない。

 天は限界まで困り果て、大きく息を吸うと、がっくりと肩を落として白状した。

「……編集長、ごめんなさい……。桜印のマーマレード、あれ作っているの、僕の妻と、妻のお姉ちゃんなんです……」

「……え?」

 編集長が間抜けな声を上げて固まる。

「つまり……君の奥さんの手作りマーマレードが、街を揺るがす幻の名品になってるってことか!?」

「はい。……それと、あくまでただの『お裾分け』なので、これ以上記事にするのは本当に勘弁してください……」



 

第五章:街の狂騒と、変わらぬ静寂

 

 ほうほうの体で編集部を抜け出し、夕方の『Bar 風花』へと戻った天は、すぐにその顛末を妻へと報告することになった。

「ふふ、お姉ちゃんに話したら、もっとたくさん作らなきゃって張り切っちゃうわね。でも、私たちの魔法は、あの鍋一つ分が限界よ」

 美和はいつものように優しく微笑み、鈴を転がすように軽やかに笑った。

 このテレビと雑誌の連鎖によって、ここ数年で風花町にやってきたお洒落なカフェのオーナーや、都会資本の観光業者たちは「ビジネスチャンスだ!」と色めき立った。

「櫻庭さん! うちのパンケーキのトッピングに」「SNS映えするお土産として、独占契約を!」と、札束とビジネスプランを手に、平屋やBarへ押しかけようとする。だが、それらの動きは、風花町支所の責任者――天野里美の手によって、水面下で「公務(流通規制)」の名のもとに、すべて冷徹にシャットアウトされていた。美和たちの静かな日常に、俗世の野暮な風を通すわけにはいかないからだ。

 面白いのは、そうやって新参の業者たちが血眼になって「桜印」を追い求めて騒ぐ一方で、風花町で昔から細々と続く古いお店の人々は、外の喧騒をよそに、ただどこまでも静かに笑っていたことだった。

 町外れの古い豆腐屋の親父さんも、頑固な金物屋のおばあちゃんも、なじみの居酒屋の店主も、誰一人として櫻庭家に「うちにも売ってくれ」などとは言ってこない。

 彼らは、あの不思議な平屋がどんな場所か、そして三人がどれほど丁寧に季節を暮らしているかを、肌感覚で知っているからだ。

 そして何より、彼らの家の冷蔵庫には、すでにあの桜の封蝋がされた小瓶が、そっと収まっていた。

「外じゃあ、あのマーマレードを1瓶何千円で買い取るだのって騒いでるらしいが……へへ、野暮なこった。あの子たちが『いつもありがとうね』って分けてくれたんだ、美味しくいただくのが一番の礼だよ」

 金物屋のおばあちゃんは温かいほうじ茶を啜りながら、嬉しそうに目を細める。

 櫻庭家の三人は、顔の見える、昔からの付き合いがある町の人々や店舗には、二〜三ヶ月に一度、一本ずつ、本当に小さな、けれど定期的な「お裾分け」をずっと続けていたのだ。そこにはラベルも価格表もない。あるのは、ただ新聞紙にでも包まれて手渡される、純粋な日々の感謝と親愛だけだった。

「そうだね。僕たちの手が届く範囲の、小さな、でも確かなお裾分け。それが一番いい」

 不特定多数へ向けるものは、持名さんのカンパーニュという最高の器を得て、誇り高く。

 大切な身内へ向けるものは、言葉のない信頼の印として、静かに。

 夜の帳が下り、Barの贅沢な静寂が満ちていく中、1本980円の琥珀色は、それぞれの場所で誰かの明日をほんの少し特別にするために、優しく息づいている。

 道の駅の活気ある空気の中に、微かに残るシトラスの残り香。それは、風花町の深く静かな夜へと繋がる、愛おしい季節の挨拶だった。

【あとがき】


 今夜も『Bar 風花』の灯りのもとへお集まりいただき、ありがとうございます。

 天ちゃん、ついに編集長に白状してしまいましたね(笑)。

 新しく町にやってきてビジネスチャンスと騒ぎ立てる人々(彼らは里美さんに裏で完全鎮圧されますが)と、二〜三ヶ月に一度の「こっそり定期お裾分け」を静かに、粋に楽しんでいる昔からの町の人々。

 この風花町ならではの優しい境界線を描きながら、私自身もなんだか心がじんわりと温かくなりました。

 1本980円の琥珀色に込められた、櫻庭家の「お裾分け」の精神が、皆様の心にもほんのりと灯りますように。


 もし、この風花町の朝の香りに心がじんわりと温まりましたら、ページ下部よりブックマークや、評価のポイント(★★★★★)、あるいは作品への温かいご感想をいただけますと、次の夜の灯りを灯す大きな励みになります。皆様の一押しを、心よりお待ちしております。


 また次のお話でお会いしましょう。

天照(Bar風花)

 

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