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12杯目 風花 ~雪が舞う、最後の1杯~

『Bar風花-kazahana-』

風花 ~雪が舞う、最後の1杯~


※独立した短編エピソードです

※バー・カクテル・静かな夜・優しい救い・少しの緊張と解放が好きな方向け

※下品な客によるトラブルから始まりますが、激しい展開はありません


静かな貸切の夜。

パイプの煙とネグローニの苦みが、穏やかに溶け合う時間。


そこに乱入してきたのは、酔った中年男性二人と、居心地悪そうに縮こまる若い女性。


下品な言葉とセクハラ交じりの絡み、無理やり連れてこられた女性への強引な誘い。


美和さんは変わらぬ笑顔で対応するが、その瞳の奥に、静かに燃える怒りが宿る。


そして彼は——カウンターの端で、静かに拳を握った。


最後に美和さんが作ったのは、エルダーフラワーとホワイトチョコレートが舞う、雪のような一杯『風花』。


冷たくて、甘くて、どこか寂しくて、それでも確かに温かい。


Bar風花へ、ようこそ。

今夜は、静かに雪が降るような、最後の1杯を。

 カウンターに柔らかな照明が落ち、氷の溶ける小さな音だけが静かに響いている。


 今夜も閉店まで、このゆったりとした時間が続くのだろうか……。


 パイプの煙をゆっくり吐き出しながら、美和さんの横顔を眺め、ウィスキーを口に運ぶ。琥珀色の液体が喉を滑り落ちる瞬間が、今日一番の贅沢だった。


 だがその至福は、乱暴に開け放たれたドアと、品のない濁声によって一瞬で粉々に砕かれた。


 「お、何だ何だ! 随分と洒落た店じゃねぇか!」


 店内に響き渡った声は、まるで静かな水面に石を投げ込んだかのように波紋を広げた。


 彼は反射的に眉を寄せ、入り口の方へ視線を移す。


 そこには赤ら顔のスーツ姿の中年男性が二人、そしてその後ろで明らかに居心地悪そうに佇む若い女性が立っていた。


 彼女のビジネススーツはきちんとしているのに、表情だけが場違いに縮こまっている。


 「いらっしゃいませ。空いているお席へどうぞ……」


 美和さんが穏やかな声で迎えると、小太りの男が女性の手首を掴んだまま強引にカウンターへ向かって歩き出した。


 痩せたもう一人の男が、ニヤニヤしながらその後を追う。


 「こんな田舎町に、よくもまあ気取ったバーなんか作ったもんだな~」


 小太りの男が鼻で笑う。


 「ホントですよ。客なんて一人しかいねぇじゃん。潰れるの時間の問題っすね、これ」


 痩せた男が相槌を打ちながら、わざとらしく大きな声で続ける。


 「さぁ響子ちゃん、呑み直そうぜ! まだまだこれからだろ?」


 女性——響子と呼ばれた彼女は、明らかに抵抗したいのに、腕を引かれるままついて行くしかなかった。


 視線は床に落ち、唇を固く結んでいる。


 三人がカウンターに腰を下ろす直前、彼の背後を通り過ぎる際、痩せた男が嘲るように声を掛けてきた。


 「お、若いのに葉巻かよ~。古臭ぇなあ。明治大正じゃねぇんだから、健康考えたら電子タバコにしろっての~」


 「……パイプですけど…」


 心の中で小さく突っ込みを入れつつ、彼はあえて反応せず、グラスを掴んで一気に飲み干した。


 この店でくだらないトラブルを起こしたくなかった。美和さんの穏やかな時間が、これ以上汚されるのも見たくなかった。


 三人が座ると、すぐにメニューを広げて大声で騒ぎ始める。


 どうやら職場の二次会(というより三次会に近い)の流れでここに迷い込んだらしい。


 女性だけが明らかに場違いで、断りきれずに無理やり連れてこられた様子が痛々しい。


 しばらくして、男二人がメニューを置いてカウンターの奥にいる美和さんを大声で呼びつけた。


 「おい姐さん! 注文まだかよー!」


 美和さんは作業の手を止め、いつもの柔らかな笑みを浮かべて近づく。


 「お待たせいたしました。ご注文はお決まりでしょうか?」


 その瞬間、二人の男の動きがぴたりと止まった。


 美和さんの顔を真正面から見た彼らは、呆けたように固まり、数秒の間ただ見つめ続ける。


 そして同時に、脂ぎった笑みを浮かべた。


 「へぇ~……姐さん、すげぇ美人じゃん……」


 「マジで勿体ねぇな、こんな田舎で働いてるなんてよぉ……」


 二人はまるで獲物を見つけた獣のように、交互に言葉を投げかけ始めた。


 機関銃のような早口で、距離感のない下品な褒め言葉と冗談を並べ立てる。


 美和さんは変わらぬ笑顔のまま、静かにメモを取る準備をしていたが、その瞳の奥に一瞬だけ、冷たい光が宿ったのを——彼だけは見逃さなかった。


 「お、よく見たら物凄い美人のバーテンさんじゃねぇか!」


 小太りの部長が目を細めて、わざとらしく口笛を吹く。


 「ホントっすね! うちの山崎ちゃんも可愛いけど、このバーテンさんは完全に別次元ですよ! レベルが違いすぎる!」


 痩せた課長がニヤニヤしながら相槌を打ち、カウンターに身を乗り出す。


 「なあバーテンさん、今夜はもう店閉めて一緒に飲みに行こうぜ!」


 「そうだそうだ! 寿司でも天ぷらでも何でも奢るからよ! 太っ腹の部長が全部持つって!」


 「その後は四人でカラオケだな! 盛り上がろうぜ! 金は気にすんな、全部俺らが払うからよ!」


 あまりにも馴れ馴れしく、下品な誘いに、彼の拳がカウンターの下で固く握られた。


 今にも立ち上がって怒鳴りつけそうになるのを、必死で抑える。


 だが美和さんは、変わらぬ穏やかな笑みを浮かべたまま、静かに首を振った。


 「申し訳ございません。せっかくのお誘いですが、謹んでお断りさせていただきます。

 それに、当店はまだ営業中で、他のお客様もいらっしゃいますので……もう少しお静かにお願いできますでしょうか。」


 言葉は柔らかく、しかしその奥にしっかりと棘を隠していた。


 釘を刺すような、プロのバーテンダーらしい一言。


 二人は一瞬、苦々しい顔をした。


 だがすぐに顔を見合わせ、何事もなかったかのように肩をすくめて笑い出す。


 「ちぇっ、固ぇなあ……ま、いいか。じゃあ注文しようぜ。」


 「そうだな。バーテンさん、俺は焼酎! 焼酎あるだろ? 芋焼酎がいいな! ロックで!」


 「あ、俺も俺も! でも部長、最初は生ビールじゃねえですか? バーテンさん、ビールある? 〇〇〇ビール! 大ジョッキで3杯頼むわ!」


 大声で注文をまくしたてる二人。


 その間に挟まれて縮こまる響子は、顔を伏せながら小さな声で訴える。


 「部長、課長……私、もうお酒は結構です……帰りたいんですけど……」


 だがその声は、酔った二人の笑い声にかき消されてしまう。


 美和さんは少し困ったような、しかし冷静な表情で答えた。


 「申し訳ございません。当店では生ビールはご用意しておりません。

 瓶ビールならいくつかございますが、〇〇〇ビールは置いておりませんので……」


 「え~マジかよ! 〇〇〇ビールしか飲まねぇってこだわりあんだよ俺!

 何だよこの店、品揃え悪すぎだろ!」


 小太りの部長が不満げに舌打ちする。


 「じゃあいいよ。ここバーだろ? カクテルくれよ! カクテル!

 でも若い女のバーテンさんだけど、難しいのとか作れんの?

 言っとくけど俺ら、お酒には結構詳しいからな!」


 痩せた課長が、挑戦的な目で美和さんを睨むように見つめる。


 二人は好き勝手に絡み始め、声もますます大きくなる。


 「部長、課長、失礼ですよ……。

 バーテンダーさん、何か軽くて飲みやすいロングカクテルを3杯、お願いします。」


 響子がようやく声を上げ、必死にフォローしようとする。


 だが二人は聞く耳を持たない。


 「あ、じゃあ俺はセックスオンザビーチで! セックス!!」


 小太りの部長が、わざと下品に強調しながら、嫌らしい笑みを浮かべて注文。


 続けて痩せた課長が、


 「じゃあ俺はチチだ! チチ! バーテンさんのでもいいけどな!」


 美和さんの胸元を、露骨に舐め回すような視線で眺めながら言う。


 もう我慢の限界だった。


 彼はゆっくりと立ち上がりかけ、声を荒げようとしたその瞬間——


 「バーテンダーさん、ジントニックを3杯でお願いします!

 部長、課長、それでいいですよね。」


 響子が素早く、きっぱりと言い切った。


 彼女の声は小さかったが、初めてはっきりと意志が込められていた。


 二人は一瞬むっとした顔をしたが、響子の視線に気圧されたのか、渋々頷く。


 「……まぁいいか。ジントニックで。」


 美和さんは静かに「畏まりました」と一礼し、すぐにシェイカーを手に取った。


 背筋を伸ばし、流れるような動きで氷を入れ、ジンを注ぎ、トニックを注ぎ……。


 その一連の動作は、まるで騒がしい空気を切り裂くように、静かで美しい。


 カウンターの向こうで、彼は小さく息を吐いた。


 美和さんの横顔に、いつもの穏やかさと、少しの強さが混じっているのを見逃さなかった。

 

 二人はまだ美和さんに何か言いたげな視線を投げかけていたが、彼女がすでにグラスを手に取り、氷をグラスに入れ始めたため、矛先を変えた。


 今度は挟まれた響子に向かって、セクハラ交じりの下品な冗談を浴びせ始める。


 「響子ちゃん、もっと飲めよ~。こんなところで固くなってちゃつまんねぇだろ?」


 「そうだよ、部長と課長がいるんだからさ、もっと楽しもうぜ。なぁ?」


 彼の耳に、ねっとりとした声が嫌でも入り込んでくる。


 グラスを握る手が、知らず知らずのうちに強張っていた。


 そうこうしているうちに、美和さんが静かに三つのグラスをコースターの上に並べた。


 透明な液体に浮かぶライムの輪切りが、照明を受けてきらりと光る。


 見た目も香りも、丁寧に作られたジントニックだった。


 「さ、まずは乾杯だ!」


 小太りの部長が大声で言い、グラスを高く掲げる。


 課長も合わせてガチャンと鳴らそうとするが——響子はグラスを数センチだけ持ち上げただけで、静かに戻した。


 他の二人とグラスを合わせることは、一切なかった。


 高価なクリスタルグラスを使うバーで、わざと音を立てて乾杯するのはマナー違反。


 彼女のその小さな気遣いに、彼は思わず息を吐いた。


 二人の傍若無人ぶりに煮えくり返っていた気持ちが、ほんの少しだけ和らいだ。


 「……何か、普通のカクテルだな。そこいらの居酒屋のジントニックと大差ねぇじゃん」


 部長が一口飲んで、わざとらしく顔をしかめる。


 「ホントっすよね。倍以上の値段取るなら、もうちょっと特別なもん出してくれないと……」


 課長がニヤニヤしながら、美和さんの方をチラチラ見ながら続ける。


 響子が慌てて口を挟んだ。


 「部長、課長、そんなことありません。このジントニック、すごく美味しいですよ。

 ジンもトニックもちゃんと良いもの使ってますし、ライムもフレッシュです。

 それに……バーテンダーさんの手際が本当に綺麗で、見ていて気持ちいいくらいでした」


 彼女の声は小さかったが、はっきりとしていた。


 美和さんに向かって、控えめな笑みを浮かべる。


 だが部長は鼻で笑った。


 「君みたいな若い子は、こういう店で飲んだ経験なんてほとんどないだろ?

 俺たちはいつも色んな酒飲んでるから、わかるんだよ。

適当なこと言っちゃダメだぞ~」


 響子は一瞬、唇を噛んだ。


 「……ちょっと失礼します…」


 そう短く言い残すと、彼女は素早く席を立ち、バッグを掴んで化粧室へと向かった。


 背中が、わずかに震えているように見えた。


 響子の姿が扉の向こうに消えた瞬間、二人はすぐに美和さんを呼び寄せた。


 小声で話しているつもりなのだろうが、酔いが回っているせいで声は普通に店内に響く。


 彼の耳に、すべてが嫌でも届いてしまった。


 「なあ、何だっけあのカクテル。一発でぶっ倒れるくらいキツイやつ。

 ジン、ラム、テキーラとか色々入ってて、紅茶みたいな味の……」


 「ロングアイランドアイスティーですか? お作りすることは可能ですが……」


 「それだ! じゃあ今度それ三杯作ってくれよ。

 俺らの分は薄めでいいけど、連れの子の分は濃ーく、な?

 一発で足に来るくらい、ガツンとキツく頼むぜ!」


 下卑た笑い声が重なる。


 聞いているだけで胃が捩れるような、卑劣な注文だった。


 美和さんは静かに、しかしはっきりと答えた。


 「お断りいたします。当店ではそのようなご注文はお受けできません」


 二人は顔を見合わせて、ますます調子に乗る。


 「え~いいじゃん、ちょっとくらい~! ササッと作ってよぉ」


 「こっちはお客さんだぞ? お客さん!

 別にアンタに被害があるわけじゃねぇんだから、金は払うんだし」


 「バーテンなんだろ? 黙って客の言う通りの酒出せばいいんだよ」


 「女が作ったカクテルなら、あの娘も警戒せずに飲むだろ?」


 「嫌ならアンタがアフター付き合ってくれてもいいんだぜ?

 このままじゃ俺たち、SNSでこの店のことベラベラ書いちゃうからな~。

 感じ悪い店だったって、拡散しちゃうよ?」


 「簡単にアフターOKなバーテンいるって、みんなに教えちゃうかもな!」


 美和さんは目を閉じ、じっと二人の言葉を聞いていた。


 表情は変わらず穏やかだが——


 彼の我慢が限界に達した。


 拳を握り、席を立とうとしたその瞬間、ふと視線が彼女の背中に釘付けになった。


 美和さんの肩が、細かく震えている。


 そして、気のせいだろうか。


 彼女の背後に、真っ赤な、燃えるような怒りのオーラが渦を巻いているのが——


 なぜか彼の目に、はっきりと映ってしまった。


 それは、静かなバーの中にだけ現れる、静かなる嵐の予兆だった。


 

 あの温和な美和さんが、怒っている……。


 肩を細かく震わせ、背後に赤いオーラを纏った彼女は、ゆっくりと顔を上げた。


 一瞬、彼の方へ視線を移すと、柔らかく、しかしどこか力強い微笑みを浮かべる。


 それは「ありがとう」のようにも、「もう大丈夫」のようにも見えた。


 そして、未だに下品な言葉をまくしたてている二人に向き直ると、静かだが、刃のように鋭い声で言い放った。


 「貴方たちのようなお酒の飲み方をされる方は、当店のお客様ではありません。

 お代は結構ですので、どうぞお帰りください」


 二人は一瞬、ぽかんとした顔をした。


 次の瞬間、顔を真っ赤に染め、声を荒げて美和さんに食ってかかろうとする。


 「何だよその態度! 客を客とも思ってねぇのか!」


 「感じ悪い店だな! 訴えてやるぞ!」


 だが美和さんは微塵も怯まない。


 二人の目を真正面から捉え、もう一度、はっきりと、力強く。


 「お帰りください」


 その言葉が店内に響いた瞬間——奇妙なことが起きた。


 二人の動きが、ぴたりと止まる。


 怒鳴り声が途切れ、視線が定まらなくなり、まるで何かに導かれるように、ゆっくりと入り口の方へ向きを変えた。


 フラフラと、まるで夢遊病者のように。


 ドアが開き、二つの影が夜の闇に溶けていく。


 扉が静かに閉まった瞬間、店内には再び、氷の溶ける小さな音だけが戻ってきた。


 彼は呆然と入り口を見つめていた。


 ……何が起きたんだ?


 「お騒がせしてしまい、大変申し訳ございませんでした」


 美和さんがカウンター越しに、いつもの穏やかな声で頭を下げる。


 彼女の肩の震えはもう止まっていた。


 怒りの赤いオーラも、どこかへ消えていた。


 「いや……謝るのはこっちの方ですよ。止めに入ろうと決断するのが遅かった…。

 美和さんが悪いことなんて、何一つない」


 彼が慌てて言うと、美和さんは小さく首を振り、

そして、照れたように、嬉しそうに微笑んだ。


 「でも……私のことで怒ってくれて。

 あの二人に向かって、立ち上がろうとしてくれましたよね?

 私、すごく嬉しかったんですよ…」


 彼女の瞳が、照明を受けてきらりと光る。


 それは、いつものバーテンダーの微笑みではなく、


 一人の女性として、彼に向けられた素直な表情だった。



 彼は少し照れくさくなって、グラスを手に取るふりをして視線を逸らした。


 「……まぁ、放っておけなかっただけですよ。

 この店が、あんな奴らに汚されるなんて、嫌だった」


 美和さんはくすりと小さく笑う。


 「じゃあ……お詫び、というか、お礼に今夜最後の1杯、サービスしますね……」


 美和さんは微笑んだまま、クープグラスを冷凍庫から取り出す。


 グラスの縁にライムの果肉を軽く湿らせると、細かいパールシュガーをくるりとまぶした。


 雪が積もったみたいに、きらきらと光る。


 シェーカーに氷をたっぷり入れながら、静かに材料を並べていく。


 ウォッカを40ml、透明な糸のように注ぐ。


 エルダーフラワーリキュールを10ml、甘い花の香りがふわりと広がる。


 ホワイト・カカオリキュールを15ml、優しい乳白色が混ざり始める。


 最後にフレッシュライムを搾って10ml。


 そして、ほんの少しだけホワイトクレーム・ド・カカオを5ml。


 「これ、雪が舞ってるみたいな味にしたかったの」美和さんはそう呟きながら、まずドライシェーク。


 氷を入れずに10秒ほど、優しく、でもしっかりと振る。


 その音が、店内の静寂に溶けていく。次に氷を入れて、ハードシェーク。


 15秒。


 16秒。


 17秒……。


 シェーカーを止めた瞬間、彼女は息を小さく吐いて、細かくダブルストレーナーでグラスに注いだ。


 注がれた液体は、ほとんど透明なのに、ほんのり白濁した雪のような質感。


 表面に、マイクロプレーンで削ったホワイトチョコレートをそっと散らす。


 まるで、風に舞う細かな雪片のようだ。


 最後に、彼女はグラスを両手で包むように持ち、ゆっくりと彼の前に滑らせた。


 「はい……『風花』」


 彼の目の前に置かれたグラスは、照明を受けて静かに輝いている。


 美和さんはカウンターに軽く肘をつき、いつもより少しだけ顔を近づけて囁くように言った。


 「飲む前は、ちょっとだけ目を閉じてみて。

 雪が降ってる音……聞こえる気がするから」


 彼は言われたとおり、煙草を灰皿に置いて、目を閉じた。


 一瞬の静寂。


 そして、グラスをそっと持ち上げる。


 最初のひと口。


 エルダーフラワーの柔らかな花の香りが鼻を抜け、

ホワイトチョコレートの甘さが舌の上でゆっくり溶ける。


 そのあとから、ライムの小さな鋭さが追いかけてきて、

最後にウォッカの冷たさとカカオの微かな苦みが、静かに胸に沈んでいく。


 彼の目がゆっくり開く。


 「……美味しい……」一言だけ、ぽつりと。


 美和さんは嬉しそうに、でもどこか照れたように笑った。


 「彼さんの今の気持ちに、似てるかなって思って作りました。冷たくて、甘くて、でもどこか寂しくて……それでも、ちゃんと温かいところがあるような……」


 彼女はグラスの縁に残ったパールシュガーを指先で軽く触りながら、続けた。


 「全部飲んで、空になったら……また新しい雪、降らせてあげますね……」


 彼は小さく頷き、もう一口、ゆっくりと『風花』を味わった。


 カウンターの上には、雪が静かに舞い続けているような、そんな穏やかな時間が流れていた。


外はもう、夜が深まっている。


 でも、この小さなバーの中だけは——


 今夜も、優しく、温かく、時間がゆっくりと過ぎていく。

読んでくださってありがとうございます。


この話は、「静かなバーの夜に、突然やってきた下品な乱入者」と「それでも美和さんが守り抜く、穏やかで強い空気」を描きたかっただけの一場面です。


下品な絡みと、無理やり連れてこられた女性の痛々しさ。

そして、それを静かに、でもはっきりと跳ね返す美和さんの姿。


最後に作られた『風花』は、冷たくて甘くて、少し寂しくて、それでも温かい——そんな、今夜の気持ちそのものをグラスに閉じ込めた一杯でした。


この店は、誰にとっても「優しい止まり木」であり続ける。

どんな夜が来ても、扉は静かに開いている。


またふらりと寄ってくださいね。

次はどんな雪が舞うのか、私にもまだわかりません。


それでは、今夜も良い夜を。


天照(Bar風花)

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