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【Bar風花】番外篇 弦を震わす陽だまりの記憶 〜神の住まう町で、夫婦が紡ぐ午後のボサノヴァ〜

【前書き】


※本編とは異なる、二人の穏やかな休日を描いた番外篇です。

※戦闘や超常的な現象はございません。静かな音楽と珈琲、あるいは一杯のグラスと共にお読みください。

※楽器と音楽を愛するすべての人へ贈る、春の調べ。


 永遠にも似た春の日、風花町の縁側には柔らかな陽光が満ちています。

 愛用のギターとベースを手に、神の血を引く二人が奏でる、名もなき演奏会。

 Barのカウンターで見せる仮面を脱ぎ捨て、互いの呼吸をただ重ね合う——そんな、誰にも邪魔されることのない幸福な時間を切り取りました。

 どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。

美和さんと天ちゃん、2人で弾き語る

第一章 午後の微睡みと、二つの魂

 

 風花町の午後は、時が止まったかのような静謐さに包まれていた。

 この町では季節を問わず桜が咲き誇り、風が吹くたびにどこからか、柑橘の爽やかな香りが運ばれてくる。

 櫻庭家の広い縁側には春の柔らかな陽光が斜めに差し込み、磨き上げられた古木の床を琥珀色に染め上げていた。

「……いい天気ね、天ちゃん」

 隣に座る夫、あまねへ、美和が穏やかな眼差しを向ける。

 彼女の右目は深いワインレッド、左目は澄んだアンバー。

 その異色瞳ヘテロクロミアは陽光を透かして宝石のように輝き、遠い神代の記憶さえも映し出しているようだった。

「そうだね、美和さん。風も穏やかだ。……絶好の『楽器日和』だよ」

 天はそう言って、傍らに置いた黒いハードケースを開く。

 中から現れたのは、半世紀以上の歴史を背負った無骨な名器、Fender Precision Bassだ。

 一方、美和の膝の上には、眩いばかりの白に彩られた「世界一美しいギター」、Gretsch White Falconが鎮座している。

 二人はそれぞれの楽器を、足元に置かれた小さなミニアンプ――Yamaha THR10II――へと繋いだ。

 Gretsch G6136T White Falcon。

 17インチ幅のホロウボディに、これでもかと施されたゴールド・スパークル・バインディング。

 その純白のニトロセルロース・ラッカー塗装は、美和が抱えると楽器というよりも、神話の翼を思わせる気品を漂わせている。

 対する天のPrecision Bassは、1960年代のヴィンテージ・スペック。

 塗装は至るところが剥げ木肌が露出しているが、それがかえって「土台を支える男」の信頼感を引き立てていた。

 シールドを差し込む「カチリ」という金属音。

 アンプの電源を入れ、微かに漏れるホワイトノイズ。

 それは静寂から音楽が生まれるための、聖なる予兆のように感じられる。

「……始めるわよ」

 美和が細い指先でゴールド・ノブを絞る。

 一本の弦を爪弾くと、ホロウボディ特有のたっぷりとした空気を含んだ煌びやかな音が、縁側の床板を通り抜けて庭先へと広がっていった。

 天がそれに呼応する。

 極太のネックをしっかりと握り、親指で低音弦を弾いた。

「ドォォン……」

 飾り気のない、しかし密度のある重低音が、縁側の木の床を心地よく震わせる。

 天の口元には柔らかな笑みが浮かんでいた。

「……うん、いい音だ。君の声が、よく通りそうな帯域だよ」

 足元では白い子狐の狐白こはくが、不思議そうに耳をピクピクさせながら二人の様子を見守っている。

 美和が選んだ最初の一曲は、森山直太朗の『さくら(独唱)』のジャズ・ボサノヴァ・アレンジだった。



 

第二章 魂を震わせる弦の振動

 

 指先が弦の上を滑り、Bigsbyのビブラート・アームがわずかに揺れる。

 美和の歌声が、静かな風に乗って溢れ出した。

 Barでの彼女は凛としたプロのバーテンダーだが、今ここで歌う彼女は、ただ愛する夫の隣で安らぐ一人の女性に過ぎない。

 その歌声には春の陽だまりのような温もりと、散りゆく花弁を慈しむような、かすかな切なさが寄り添っている。

 天のベースは彼女の歌声を決して追い越さない。

 半歩後ろを歩くように、正確なリズムを刻み続ける。

 それは天孫降臨の神話を背負いながらも、この風花町で「人」として生きることを選んだ二人の、誓いの儀式のようでもあった。

 曲がサビに差し掛かると、庭にある桜の木が共鳴するように揺れる。

 風もないのに数え切れないほどの花弁が舞い散り、縁側へと流れ込んでくる。

 天の左手首では、IWC マークXXの黒い文字盤が、弦を弾くリズムに合わせて鋭い光を反射していた。

 ベースの低音に身を委ね、彼女はふと思う。

 音楽とは、酒と同じだと――。

 選び抜いた材料を適切な温度で熟成させ、最後にはお客様の心に手渡す。

 バーテンダーとしてカウンターの中にいる時と同じように、今の彼女は音楽という名のカクテルをシェイクしていた。

 一曲目が終わり、最後のコードのサステインが空気中に溶け込んでいく。

「……ふふ、少し、力が入っちゃったかしら」

 美和が少し照れたように、乱れた髪を耳にかける。

 しかし、二人に楽器をケースに収める気配はない。

 陽がさらに少し傾き、縁側に差し込む光が鮮やかなアンバーから、深い黄金色へと移り変わっていく。

「……もう一曲、いいかしら。天ちゃん」

「もちろんだよ、美和さん。君が歌いたい曲なら、いつまででも付き合うよ」

 次に選ばれたのは、コブクロの『桜』だった。



 

第三章 桜の香りが溶け合う夜へ

 

 この「櫻庭流アレンジ」では、美和のソロを天のベースが支えることで、より内省的で温かな響きへと昇華されている。

 ホワイトファルコンのアルペジオは、春の微風に舞う花弁の軌道を描くようだった。

 そこに天が弾くプレシジョンベースのマイルドな低音が加わる。

 サビに向けて音圧を増していくダイナミクスは、冬の寒さに耐え根を張る桜の樹の生命力そのものを表現していた。

「名もなき花には名前を付けましょう……」

 美和の歌声が、先ほどよりも一層の熱を帯びて響き出した。

 その声は、長い年月を孤独に生きてきた「神」としての記憶と、今ここで愛する夫と過ごす「人」としての幸せを、一つひとつの言葉に編み込んでいくかのようだ。

 天は美和の歌声を一音も漏らさぬよう耳を澄ませ、太い弦を慈しむように弾く。

 ベースという楽器は本来のメロディを支えるための縁の下の力持ちだが、今の天にとっては、妻の命の鼓動を補完するための、かけがえのない道具だった。

 歌詞の一節が、風花町の不思議な景色と重なり合う。

 神話の住人である彼らにとって、本来「時」は無限のはず。

 しかし、この縁側で奏でる音楽の時間は、あまりに短く、愛おしい。

 美和は隣で黙々とリズムを刻む天の横顔を視界の端に捉え、誇らしげに喉を震わせた。

 皇の重責も、神としての孤独も、このベースの振動がすべて溶かしてくれるような気がした。

 曲がクライマックスを迎え、美和の声が夕焼け空へと突き抜けるように響き渡る。

 最後に残ったのは、アンプから漏れる微かな残響と、遠くで鳴る夕暮れの鐘の音だけだった。

「……ありがとう、天ちゃん。完璧なリズムだったわ」

 美和がギターを膝に置き、ふぅ、と小さく息を吐く。

 天は楽器をケースにしまい、美和の手を優しく取って立ち上がらせた。

 ホワイトファルコンの白いボディが最後の一筋の光を反射して、まるで名残惜しそうに輝いている。

「ええ。今夜は、桜の香りのするジンをベースに、何か新しいカクテルを考えてみようかしら。ボタニカルな繊細さを活かして、桜の塩漬けのニュアンスを一滴、静かに忍ばせるようにね」

 天は静かに頷き、妻をエスコートして奥の部屋へと消えていった。

 二人の気配が遠ざかったあと、庭の桜からひらりと一枚、淡いピンクの花弁が舞い込む。

 それは先ほどまで美和が座っていた場所に、そっと寄り添うように落ちていた。

 風花町の午後は、至高のアンサンブルと共に、穏やかな夜へと溶けていった。

 今夜、Bar風花のカウンターには、どんな「桜の味」が並ぶのだろう。

 その光景を想像するだけで、町の空気さえも甘く、芳醇な余韻に包まれているようだった。

【あとがき】


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 今回は、美和と天が縁側で楽器を奏でる、静かな午後のひとときを描きました。

 Gretsch White Falconの甘く煌びやかな高音と、時を重ねたPrecision Bassの深く温かな低音。

 二人が互いの音に耳を傾け、リズムを合わせる様子は、Barでカクテルを作る時の阿吽の呼吸にも似ていると感じています。

 執筆しながら、どこか心地よいアコースティックな響きが耳元を離れませんでした。

 この物語を読んで、春の桜の香りや、楽器の震えを感じていただけたなら幸いです。


 もしよろしければ、ブックマークや評価、そして皆さまが「大切な人と過ごす午後」についてのご感想などを残していただければ、何よりの励みになります。


それでは、今夜のBar風花で。

天照(Bar風花)

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