【Bar風花】第二章 漆黒と真紅の邂逅 ―風花町の駐車場にて―
前書き
法廷を終えた橘栞が、愛犬たちのドッグフードを買いに出かけたスーパーの駐車場で、思いがけない人物と出会った。
そこに停まっていたのは、風花町では絶対に見かけないはずの、美しい真紅のフェラーリ・ディーノ。
乗り込もうとしたのは、Bar風花のオーナーバーテンダー・美和と、夫の天だった。
戦いも恋愛もありません。
ただ、夕暮れのスーパー駐車場で交わされる、少しだけ心が温かくなる大人の会話をお届けします。
第一章:鉄の仮面と、夕暮れのハイウェイ
地方裁判所の重い扉が閉まった後も、橘栞の脳裏には激しい弁論の残響が渦巻いていた。対向する弁護士の虚を突き、依頼人の正当な権利を冷徹な論理で守り抜いた。傍聴席から見れば、彼女は一分の隙もない完璧な「勝利の女神」だったに違いない。しかし、その鉄の仮面の裏側では、過剰に分泌されたアドレナリンが未だに熱く燻っていた。
「……ふぅ」
地下駐車場に停めてあった愛車、『BMW M8クーペ コンペティション』の重厚なドアを閉め、栞は小さく息を吐いた。完璧に仕立てられたスーツの肩を少しだけ落とし、ステアリングを握る。エンジンスタートボタンを押すと、4.4リッターV8ツインターボエンジンが、漆黒の猛獣が目覚めたかのような、低く地響きのような咆哮を上げた。
車体が滑り出す。裁判所を後にしたM8は、夕暮れの風花町へと続くハイウェイを滑るように走った。最高出力625馬力という、怪物じみたパワー。しかし、栞の卓越したドライビングテクニックは、その暴れ馬を完璧に手懐けていた。アクセルペダルを僅かに踏み込むだけで、漆黒のボディは夕闇に染まりゆく並木道を鮮やかに切り裂いていく。硬質なサスペンションが路面の情報を正確に伝え、超高速域にあっても車体は路面に吸い付くように安定していた。この圧倒的なメカニズムとの対話だけが、法廷で張り詰めた彼女の精神を、徐々に「日常」へと引き戻してくれる貴重な時間だった。
風花町のインターチェンジを降りる頃には、空は深い群青色へと移り変わっていた。栞はふと、ダッシュボードの時計に目をやる。午後六時を少し回ったところだ。
(……そういえば、ちびたちのドッグフードを切らしそうだったわね。それに、結の明日の分のブレイク用のお菓子も)
三階の自宅で帰りを待っている最愛のコーギーたち、ぷりんとちびの顔が浮かぶ。栞はウィンカーを出し、ステアリングを左に切った。向かうのは、町外れにある地元のローカルスーパー『ニュー風花』。
高級外車ディーラーのショールームが似合う漆黒のM8が、主婦たちの軽自動車やファミリーユースのミニバンが並ぶ長閑な駐車場へと滑り込んでいく。その光景はどこか不釣り合いだったが、栞自身はそんな周囲の視線など一顧だにせず、慣れた手つきで車を白線の中に収めた。車外に出ると、夕暮れの少し湿った風が頬を撫でる。栞はいつもの冷徹な表情のまま、片手に買い物カゴを提げて、自動ドアの向こうへと歩みを進めた。
第二章:スーパーの駐車場に咲いた「真紅の奇跡」
店内は、夕食の買い出しに来た地元の人々で適度に賑わっていた。惣菜売り場から漂う出汁の香りや、タイムセールの小気味よいアナウンス。法廷の厳粛な空気とは対極にあるその雑多な日常の中に、橘栞はごく自然に溶け込んでいた。いや、溶け込んでいるつもりだった。チャコールグレーの格式高いスリーピーススーツを着た美女が、大真面目な顔でドッグフードの成分表を凝視している姿は、それだけで十分に目を引くものがあったのだが。
「ちびは少し太り気味だから、カロリー控えめのこちらね。ぷりんには、食後のご褒美としてササミのジャーキーを……」
独り言を呟きながら、手際よくカゴに商品を放り込んでいく。結が喜びそうな季節限定の和菓子と、自分のための簡単な夕食の食材を選び終えると、セルフレジで会計を済ませた。両手には、それなりの重量になった白いレジ袋が二つ。
(さあ、早く帰ってあげましょう)
そう思いながら、自動ドアを出て、夕闇が本格的に降り始めた駐車場へと歩み出た。
自分のM8が停まっているエリアへと向かう、その途中のことだった。栞の足が、ピタリと止まった。両手のレジ袋のビニールが、カサリと小さく音を立てます。彼女の鋭い瞳が捉えたのは、駐車場の片隅、水銀灯の淡い光の下に佇む、一台の車だった。周囲に停まっている四角いミニバンや軽自動車の中で、その車だけが、明らかに異質な、そして圧倒的な存在感を放っていた。
「……まさか、嘘でしょう」
車好きとしての栞の目が、一瞬で据わった。
それは、地を走るように低いプロポーションと、どこまでも艶めかしい、有機的な曲線だけで構成された真紅のボディ。フロントフェンダーからリアへと流れる流麗なラインは、まるで生き物の躍動感をそのまま金属に落とし込んだかのようだ。エッジの効いた現代のハイパースポーツカーとは違う、1970年代のイタリアの職人だけが表現し得た、至高のエレガンス。ピニンファリーナが手がけた不朽の名車――『フェラーリ・ディーノ 246GT』。車愛好家であれば、誰もが一度は生で拝むことを夢見る、歴史的移動芸術品。それが、なぜこんな風花町の、ごく普通のローカルスーパーの駐車場に、さも当然のように停まっているのか。
コンディションは完璧という言葉すら生ぬるいほどだった。ワックスが行き届いた真紅の塗装は、水銀灯の光を吸い込んで妖艶に輝き、メッキパーツの一点にも曇りがない。マフラーの出口まで綺麗に磨き上げられている。栞は、両手に生活感の溢れるレジ袋を下げていることすら忘れ、その場に釘付けになっていた。どこの、いかなる大富豪が、これほどの奇跡をこの町で転がしているのか。法的な思考回路は完全に停止し、純粋な一人の自動車フリークとしての熱い知的好奇心だけが、彼女の胸の中で跳ね上がっていた。
第三章:銀狐の衝撃、そして真紅の邂逅
その真紅の奇跡を、少し離れた場所から凝視し続けて数分。スーパーの出入り口の方から、談笑しながら歩いてくる二人の影があった。片や、大きなエコバッグを大切そうに抱えた若い男性。片や、その隣で楽しげに微笑む、洗練された雰囲気の女性。栞の視線が、自然とそちらへ向く。そして、彼女の思考は本日二度目の完全フリーズを起こした。
(……え?)
見間違いのはずがない。その二人組は、他でもない、自分の大切なクライアントであり、この町の友人でもある夫婦――櫻庭天と、美和だった。
天はいつものように気さくな笑顔を浮かべ、エコバッグから覗く食材を落さないように抱えている。そして美和は、夕暮れの街灯の下で、あのワインレッドとアンバーの美しい異色瞳を優しく輝かせていた。
二人は、ごく自然な足取りで真紅のディーノへと近づいていく。まさか、という思いが栞の脳裏をよぎった瞬間、美和がジャケットのポケットから古風な鍵を取り出した。そして、ディーノの運転席の、あの低い位置にあるドアノブに手をかけ、慣れた動作で鍵穴に差し込んだのだ。天は自然な動作で助手席側へと回り、ドアを開けて荷物を積み込もうとしている。
「……美和さん? それに、天ちゃん……?」
気がつけば、栞の口から声が漏れていた。普段の法廷で見せる、あの冷徹で隙のない「銀狐」の仮面は完全に剥ぎ取られ、その表情には純粋な驚愕だけが浮かんでいた。
「あら、栞さん?」
鍵を開けた美和が、驚いたように顔を上げた。助手席側から天もひょっこりと顔を出し、栞の姿を認めると、いつものように屈託のない笑顔を浮かべた。
「あ、栞さん! お疲れ様です。こんなところでバッタリ会うなんて、奇遇ですね!」
「奇遇……どころではないわ。貴方たち、その車は一体……」
栞は両手のレジ袋を握り直しながら、数歩、ディーノへと近づいた。間近で見れば見るほど、その真紅のボディは息を呑むほど美しい。美和は運転席に腰を下ろし、低いコクピットから窓を下げて、少し悪戯っぽく微笑んだ。
「ふふ、驚かせてしまってごめんなさい。この子は、私の車なのよ」
「美和さんの……車?」
「ええ。普段は自宅のガレージで眠っていることが多いのだけれど、たまには火を入れて走らせてあげないと、機嫌を損ねちゃうから。今夜は天ちゃんに助手席をお願いして、買い出しに付き合ってもらったの」
天が助手席のドアを開けたまま、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「そうなんです。僕が夜な夜な、ガレージでボディを磨いたり、キャブレターの調子を見たりしているんですよ。今日は千草お姉ちゃんに頼まれた食材と、Barで使う消耗品を買いに来たんです」
栞は、目の前の光景を頭の中で処理するのに数秒を要した。風花町の静謐なBarで、凛とした佇まいでグラスを磨くオーナーバーテンダー。彼女が、この博物館クラスのフェラーリ・ディーノを、自らの手で運転してスーパーへ買い物に来ている。その事実の持つ鮮烈なギャップと、あまりにも似合いすぎているその絵画のような美しさに、栞はただただ圧倒されるしかなかった。
第四章:レジ袋の中の親愛と車談義
「……参ったわね。貴方たちという夫婦は、どこまで私の想像力を超えていくのかしら」
ようやく言葉を絞り出した栞の口元に、いつもの、しかし少し敗北感を認めたような美しい微笑が戻った。
「栞さんのそのM8も、いつ見ても素晴らしい迫力ですね」
天が、少し離れた場所に停まっている漆黒のM8を見上げながら言った。水銀灯の下で、黒いボディが獰猛な光を放っている。
「最高峰の現代テクノロジーと、1970年代の至高のエレガンス、ね。この駐車場のこの一角だけ、世界のどこよりも贅沢な空間になっているわ」
栞はディーノの流麗なフェンダーを見つめながら、心底楽しそうに目を細めた。車を愛するもの同士にしか分からない、無言の共鳴がそこにはあった。
その時、美和の視線が、栞の両手に下げられた白いレジ袋へと向けられた。透けて見えるのは、大容量のドッグフードの袋と、地元の和菓子屋のパッケージ。
「まぁ、栞さん。たくさんお買い物をされたのね」
美和が、包み込むような優しい声で言った。
「ええ。ちびたちの夕食を切らしそうだったの。それから、明日の結の休憩用のおやつをね」
「ふふ、栞さんも、ちゃんとお家では優しい『お母さん』をされているのね」
美和のその言葉に、気高い銀狐は、ほんの少しだけ決まり悪そうに視線を外した。法廷ではどんな追及にも眉一つ動かさない彼女が、プライベートな優しさを指摘されると、途端に少女のような初々しさを見せる。
「……ちびたちが、お腹を空かせて待っているのよ。帰りが遅くなると、私のスーツの裾を噛んで抗議するから」
「可愛い抗議ね」
美和は嬉しそうに笑うと、助手席の天が抱えていたエコバッグから、小さなプラスチックのパックを取り出した。中に入っているのは、今朝採れたばかりだという、大粒で目を見張るほど鮮やかな真紅の苺だった。
「これ、今日の買い出しで見つけた、すごく状態の良い苺なの。風花町の農家さんが、一粒ずつ丁寧に育てたものでね。栞さん、もしよかったら、結さんと一緒に明日の休憩にでも召し上がって」
「そんな、これはお店で使うものでしょう?」
栞が固辞しようとするが、美和は「いいえ、これは私から、いつも私たちを守ってくれる大切な友人への贈り物よ」と言って、運転席から身を乗り出し、栞のレジ袋の隙間へと、その苺のパックをそっと滑り込ませた。
真紅のディーノの傍らで、真紅の苺が、栞の生活感溢れる買い物袋の中で静かに収まる。巨大組織の顧問弁護士と、その契約相手。そんな冷たい肩書きは、この瞬間の駐車場の温かい空気の中には微塵も存在しなかった。あるのはただ、同じ町に生きる者同士の、ささやかで深い親愛の情だけだった。
第五章:二つのエキゾースト、それぞれの帰路
「ありがとう、美和さん。結もきっと喜ぶわ。明日の仕事の効率が、いつもの倍になりそうね」
栞は、袋の中の苺を愛おしそうに見つめながら、心からの感謝を述べた。
「ええ。それじゃあ、私たちは一足お先に失礼するわね。今夜、またBar風花でお会いできるのを楽しみにしているわ」
美和が微笑み、コクピットの奥へと深く腰掛け直した。
「じゃあ栞さん、また後ほど!」
天も助手席から大きく手を振り、ドアを閉めた。
栞が一足引いたのを確認すると、美和がイグニッションキーを回した。次の瞬間、駐車場に響き渡ったのは、現代の車では決して聴くことのできない、あまりにも官能的な咆哮だった。三基のウェーバー製キャブレターが一気に空気を吸い込み、2.4リッターV6エンジンが乾いた、しかし密度の高い爆音を上げる。それはまるで、眠っていた真紅の猛獣が、歓喜の声を上げて目覚めたかのようだった。美和の足元での見事なクラッチワークにより、ディーノは一ミリの無駄もなく滑らかにバックし、通路へと躍り出た。ローギアに入れられ、静かに加速していく真紅のテールランプ。ピニンファリーナの美しい後ろ姿が、夕闇の風花町のストリートへと溶けていくのを、栞はしばらくの間、動かずに見送っていた。
「……素晴らしいわね」
ポツリと呟いた栞は、自らのM8へと歩み寄った。レジ袋をトランクへと丁寧に収め、運転席へと滑り込む。ドアを閉めると、再び車内は静寂に包まれた。しかし、先ほどのディーノの官能的な排気音の余韻が、彼女の身体をまだ心地よく震わせている。スタートボタンを押すと、M8のV8エンジンが、冷徹で上質な重低音を響かせて目覚めた。ハイテクの塊であるこのコックピットもまた、彼女にとっては掛け替えのない聖域だ。
シフトをドライブに入れ、アクセルを静かに踏み込む。M8は滑らかに駐車場を離れ、美和たちのディーノとは別のルートを通って、一路、三階建てのレンガ館へと向かった。
頭上には、いつの間にか満天の星空が広がり始めていた。それぞれの車を駆り、それぞれの愛する家族や、守るべき日常が待つ拠点へと帰っていく。二つの異なるエキゾーストノートは、風花町の夜の空気の中に優しく溶け込みながら、この町の平穏が、今夜も確かに守られていることを静かに物語っていた。
あとがき
橘弁護士がスーパーで櫻庭夫婦と出会う話、いかがでしたでしょうか。
真紅のディーノとM8が並ぶ駐車場、栞さんの珍しい動揺した様子、美和さんからのささやかな贈り物……書いていてとても気持ちの良い話になりました。
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また次の話で、カウンターでお待ちしています。
天照(Bar風花)




