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プロローグ 田舎の夜に、突然現れた扉

『Bar風花-kazahana-』

田舎の夜に、突然現れた扉


※独立した短編・導入エピソードです

※Bar・パイプタバコ・カクテル・静かな夜・Uターン後の切なさが好きな方向け

※大きな事件や急展開はありません。ゆっくりと扉を開ける夜をお届けします


Uターン移住から半年。

この田舎町には、本格的なBarが一軒もない。

飲み屋街は居酒屋とスナックばかりで、心が満たされる場所はどこにもなかった。


パイプを燻らせながら、冷えたドライ・マティーニをカウンターで味わう——そんな当たり前の楽しみさえ、遠い記憶になりかけていた。


ある土曜の夜。

家族が不在の家を抜け出し、気まぐれに路地を歩いていると、見覚えのない暖かな明かりが目に入った。


古びたレンガ壁に蔦が絡まり、桜の枝がそっと垂れ下がる小さな扉。

真鍮のプレートに刻まれた文字——『Bar 風花 -kazahana-』


「こんな田舎に……Barが?」


半信半疑で、意地悪な好奇心を胸に、彼はゆっくりと重い木の扉を押し開けた。


中から漂うのは、ウッドとスパイスの柔らかな香り。

そして、静かに迎え入れるような、優しい灯り。


Bar風花へ、ようこそ。

今夜は、渇いた心がようやく辿り着いた場所です。

 「今夜は暖かいな……桜も、かなり咲いてきたな……」

 人通りの途絶えた夜の裏道で、五分咲きの夜桜を仰ぎながら、彼はぽつりと独り言を零した。

 街灯の淡い橙色の光が、枝に絡まるように柔らかく広がっている。

 風がそよぐたび、薄桃色の花びらが静かに舞い落ち、足元のアスファルトに小さな染みを作る。

 遠くで犬の遠吠えが一度だけ響き、あとは深い静寂だけが町を包んでいた。

 市街地から車で1時間以上離れたこの片田舎は、夜になると本当に何もかもが止まる。

 高いビルはもちろん、ネオンもコンビニの明かりさえほとんどない。

 住宅街の細い道を、街灯がぽつぽつと照らすだけだ。

 彼はそんな道を、飲食店がわずかに集まる地区へとのんびりと歩を進めていた。


 特産のフルーツ以外に目立つ産業もないこの町に、家庭の事情で家族とともにUターンしてきてはや半年が過ぎた。

 生まれ育った土地に不便も不自由もない。

 むしろ空気が澄んでいて、子育てには申し分ない環境だ。

 ただ、彼にとって唯一、埋められない不満があった。

 …この町には、Barがない。

 大学卒業と同時に上京した彼は、アパート近くに新しくできた小さなカフェバーに会社の歓迎会の帰りにふらりと立ち寄った。

 あの夜、初めて味わった本格的なカクテルの冷たさと、カウンターの木の温もり、静かに流れるジャズ、そしてバーテンダーの落ち着いた所作に、心を完全に奪われた。

 それ以来、彼はそこに通い詰めた。

  数年後、故郷の県に戻ってからも県内随一の繁華街にある老舗のBarを「第二の家」と呼ぶほどに通い続けた。

 無類のBar好き…それが彼のアイデンティティだった。

だが、今回のUターンで、その習慣はぱったりと途絶えた。

 飲酒運転は、今の時代厳罰が当たり前だ。

 絶対に犯すつもりはない。

 自宅から馴染みのBarまでは車で片道1時間半以上。

 公共交通機関を使おうにも、乗り継ぎが面倒で終電も早い。

 となれば、車で行って代行で帰るか……だが、代行代を考えると、ビジネスホテルに泊まる方がまだ安上がりだ。

 しかし、妻帯者の身で「泊まりで一人飲み」など、冗談にもならない。

 下手をすれば浮気を疑われ、家庭が崩壊しかねない。

 かくして、引っ越し後の半年間、彼の酒は自宅での晩酌か、家族揃ってのチェーン居酒屋、友人に誘われたスナックか居酒屋だけ。

 どれも悪くはないが、心が満たされることはなかった。

 「ああ……Barに行きたい。カウンターに座って、お気に入りのパイプをゆっくり燻らせながら、キンキンに冷えた辛口のドライ・マティーニを……」 溜まりに溜まった渇望は、今や爆発寸前だった。



  その日、仕事を終えて帰宅すると、家は静まり返っていた。

 そういえば、妻と子どもは妻の実家に泊まりがけで遊びに行っている。

 今日は土曜日、明日は休みだ。

 自宅で晩酌……とも思ったが、冷蔵庫を開けるとビールも缶チューハイも一本もない。

 昨夜飲み干してしまい、帰りに買おうと思っていたことをすっかり失念していた。

 今から買いに行くのも面倒だ。

 それなら、いっそ外で飲むのも悪くない。

 何より、自宅では妻の厳命で禁じられているパイプをゆっくりと楽しめる。

 

 彼がパイプタバコにハマったのは、数年前のこと。きっかけは些細なものだった。安物のスターターセットを買って試しに吸ってみたところ、あの独特の芳醇な香りと、口に含む煙の柔らかさ、ゆっくりと時間をかけて味わう儀式のような所作に、すっかり魅了されてしまった。

 元来凝り性で、収集癖のある性格。3,000円のセットから始まった趣味は、今や部屋のキャビネットに、数万円から数十万円クラスのパイプがずらりと並ぶまでに至った。

 オークションで手に入れたヴィンテージのパイプを、自分でレストアするまでになったのだ。


  この町に、いつか自分の「居場所」になるようなBarができたら――。

 いや、そんな夢物語はさておき、今夜はせめて、どこか静かな店で、一杯だけでも。パイプの煙をくゆらせながら、冷えたグラスを傾けたい。

 「よし……今日は、飲みに行くか」

 意を決した彼は、帰宅したままの作業着を脱ぎ捨てると、クローゼットから選び出した一着に素早く着替えた。


 上着は、薄手のチャコールグレーのウールタートルネックセーター。

 細かなリブ編みで肌触りが滑らか、首元のタートル部分は高めに折り返され、首筋をすっきりと覆う。

 ウールの柔らかな暖かさが体に沿うようにフィットし、決して厚ぼったくなくむしろ洗練されたシルエットを保っている。

 袖口と裾のリブが軽く締まり、動きやすさと上品さを両立させていた。

 ボトムスはダークグレーのスリムフィットチノパン。

 コットンにわずかなストレッチが入った生地で、膝から裾にかけて自然にテーパードがかかり、足元をすっきり見せる。

 ウエストはベルトレスでも落ちないよう調整済みで、ポケットのステッチは控えめ。

 カジュアルながらもだらしなく見えず、Barのカウンターに腰かけるのにちょうどいいバランスだ。

 首元には、細いシルバーチェーンネックレスを滑り込ませる。極めてシンプルなデザインで、0.8mmほどの極細チェーンに小さなスクエアプレートが一枚だけ揺れる。

 光を控えめに反射し、セーターのダークトーンに溶け込みながらも、さりげないアクセントを添える。

 彼のお気に入りの「静かな主張」アイテムだった。


 彼は腕時計ケースの引き出しを開け、昔、かなり奮発して手に入れた一本を手に取った。

 ロレックス コスモグラフ デイトナ。

 ブラックの文字盤に、コントラストの効いた白いサブダイヤルが三つ並ぶ。

 中央のクロノグラフ針は赤く、秒針の先端も赤いアクセントが効いていて、静かな黒の中で鋭く光る。

 12時位置のロレックス王冠マークの下に「Cosmograph」と刻まれ、6時位置には細かな「Daytona」の文字が控えめに輝く。

 ケースはステンレススティールの904Lスチールで、ポリッシュとサテンの仕上げが交互に施され、光の角度によって柔らかく、しかし力強く反射する。

 ベゼルはタキメーター目盛りが刻まれたセラミック製のブラックセラクロムで、傷がつきにくく、どんな光の下でも深みのある黒を保つ。

 ストラップはブラックのカーフレザー。

 経年変化で少しずつ艶が出て、使い込むほどに手首に馴染む柔らかさがある。

 バックルはロレックスの三連オイスタークラスプで、クリック感が確かで、装着した瞬間に「これだ」と安心する重みがある。

 彼がこれを左手に滑り込ませると、セーターのチャコールグレーと絶妙に調和し、袖口からわずかに覗くだけで、静かな存在感を放つ。

 仕事中のG-SHOCKとは違い、このデイトナを着けるときは、自分の中に「今夜は本気で飲む」というスイッチが入る瞬間だった。文字盤のルミノバがほのかに光り、今も、針が静かに時を刻んでいる。

 重厚でありながら、決して派手すぎない――まさに彼の理想の「大人の夜」に寄り添う一本。


 全体を鏡で一瞥し、軽く襟元を整える。作業着の無機質さから一転、落ち着いた大人の余裕が漂う装いになった。

 彼は満足げに息を吐き、厚手のダークネイビーのウールコートを羽織って、最後の仕上げとした。


 次に、自室の机の上に鎮座するパイプキャビネットへ。

 ガラス扉を開けると、整然と並ぶパイプたちが柔らかな照明に照らされて艶めいている。

 しばらく迷った末に選んだのは二本。

 一本は、日本の老舗パイプメーカー・柘製作所のハンドメイド「イケバナ・ベントアップル」。

 繊細な曲線と美しい木目が、まるで生け花のように優雅なフォルムを描く逸品。

 もう一本は、デンマークの名門STANWELLのM63。

 クラシックなベント形状に、飴色のステムが落ち着いた風格を添えている。


 続いて、キャビネットの横に置かれた小型ワインセラーに手を伸ばす。

 中には数十種類のパイプタバコと葉巻が、湿度と温度を厳密に管理された状態で眠っている。

 彼はよく知っている。パイプタバコは乾燥しすぎると香りが飛んでしまい、味気ない灰のような煙しか出なくなる。

 だからこそ、このワインセラーが最適な保管庫なのだ。

 カラカラのタバコほど不味いものはない――彼の持論だった。

 今日の気分に合わせて選んだのは、重厚で深みのあるダンヒル「ロイヤルヨット」と、甘くフルーティーで優しいベントレー「ロイヤルバニラ」の二種。

 それぞれ今日使う分だけを小さなジップ付きビニール袋に小分けし、革製のパイプポーチに収める。


 ポーチの中はすでに完璧な秩序を保っていた。

 折りたたみ式のパイプスタンド、デュポンのライター(パイプ用に改造してもらった特注品)、パイプタンパー、シガリロ細巻きの葉巻が入ったシガレットケース、そしてインドネシアの香り高い「ガラム」まで、すべてが彼の「夜の道具」としてきっちりと整理されている。


 最後に小さなショルダーバッグへ、ポーチ一式、財布、スマホ、そして読みかけの文庫本を放り込む。

 厚手のウールコートを羽織り、玄関で愛用のダークブラウンの革ブーツを履く。


 身支度が整った瞬間、胸の奥で小さな火が灯ったような気がした。


 ◆


 どこで飲もうかと考えながら、飲食街をあてもなく歩く。


 焼き鳥の炭火がジュウジュウと音を立て、香ばしい煙が漂う。

 居酒屋からは陽気な笑い声とグラスが触れ合う音が漏れ聞こえてくる。

 何度か「ここでいいか」と心が揺れるが、どうしても足が止まらない。


 結局、気まぐれに飲食街の外れへ。

 普段はあまり入らない自転車がようやくすれ違う程度の細い路地へ足を踏み入れた。

 街灯がまばらで、影が濃く落ちる路地を進むうちに彼は、ふと足を止めた。

「あれ……? こんなところに、Barが……?」


 記憶の中ではずっとシャッターが下りたままの空き店舗だったはずの場所。

 埃っぽいガラス越しにぼんやり見えていた内装は、暗く沈んでいたのに、今は違う。

 細い路地の奥、街灯の橙色の光がわずかに届くだけの場所に、ぽつんと暖かな明かりが灯っている。

 重厚なオーク材の扉が路地の暗がりの中で静かに存在を主張していた。

 表面は丁寧に磨かれ、年季の入った深い茶色が柔らかな光を吸い込み、艶やかに輝いている。

 扉の中央には、控えめながらも上質な真鍮のプレートが埋め込まれ、控えめに浮き彫りされた文字が目に入る。

 Bar 風花 -kazahana-

 プレートの周囲には、繊細な雪の結晶のような模様が薄く刻まれ、まるで風に舞う花びらを思わせる。

 扉の上部には小さなひさしがあり、そこに吊るされた古風な真鍮製のランタンが、淡い暖色光を放っている。

 ランタンのガラスはわずかに曇り、炎のようなLEDではなく、本物の蝋燭のような揺らぎを演出していた。

 扉の両脇の壁は、古いレンガをそのまま活かした質感で、ところどころに五分咲きの桜の枝が自然に垂れ下がっている。

 夜風にそよぐたび、薄桃色の花びらが一枚、二枚と静かに舞い落ち、玄関の石畳に小さなピンクの染みを描く。

 窓は小さく、深いグリーンのブラインドが下ろされているが、隙間から漏れる柔らかなアンバー色の光が、店内の温もりをほのかに伝えてくる。

 ガラスには霜のような模様が施され、外からは中がぼんやりとしか見えない…。

 まるで、秘密の庭に誘うような、控えめな誘惑。

 路地の静けさの中で、この小さな明かりだけが、まるで別の世界の入り口のように息づいていた。


 「え……この町に、Barが?」

 思わず声に出して呟いてしまった。

 無理もない。

 この地区には居酒屋、焼き鳥屋、スナックは数えきれないほどあるが、本格的なBarは一軒もなかった。

 地元の人間はカクテルより生ビールや焼酎を好み、スナックですらウィスキーより焼酎のボトルキープが主流だ。Barなど、需要がないと思われていたのだろう。

 友人たちと飲むときも、決まって居酒屋で始まり、途中でスナックに流れて騒いで終わる。それが当たり前のルートだった。

 なのに、今、ここに…気になる、とても、気になる。

 入ってみようか…。

 しかし、次の瞬間、別の感情が胸をよぎる。

 「こんな田舎のBarで、まともなカクテルが飲めるのか……?」

 脳裏に浮かんだのは、スナックやガールズバーの延長のような店。

 カウンターに立つのは技術のない若い女性で、スピリッツは数種類しかなく、メニューには日本酒や焼酎が並び、ボトルキープも可能……。

 そんな光景に、彼は思わず身震いした。

 理想のBarとはかけ離れすぎている。

 入るべきか、引き返すか。店の前で数分、立ち尽くす。

 だが結局、好奇心が勝った。

 「きちんとしたカクテルが出てくれば良し。ハズレなら、軽く冷やかして早々に退散すればいい」

 少し意地悪な考えを胸に、彼はゆっくりと重厚な木製のドアを押し開けた。

 店内の空気が、柔らかく暖かく、ほのかにウッドとスパイスの香りをまとって彼を迎え入れた。

読んでくださってありがとうございます。


この話は、「都会のBar通いが当たり前だった人が、田舎に移って初めて味わう『Barがない渇き』」と「そんなときに、まるで夢のように現れた小さな扉」

を描きたかっただけの一場面です。


パイプを燻らせながら冷えたカクテルを味わう時間が、どれだけ自分にとって大切だったか。

それを失った半年の空白が、どれだけ寂しかったか。


そして、路地の奥にぽつんと灯っていた暖かな明かりが、どれだけ心を掴んだか——


そういう、静かで切ない気持ちを、誰かの胸に少しでも残せていたら嬉しいです。


ここからが、本当の『Bar風花』の始まりです。

またふらりと、カウンターに寄ってくださいね。


それでは、今夜も良い夜を。


天照(Bar風花)

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