マーフィーの法則は覆らない
僕たちの世界で“偶然の恋”は、ほぼ絶滅している。
生まれた瞬間からAIナビが人生を最適化し続けてくれるからだ。
進路、交友関係、住む場所、昼食の栄養バランス。
ナビはすべてを計算し、声をかけてくる。
『篠原律さん。本日の昼食は、そばがおすすめです』
——そんな具合に。
だからこの世界では、少女漫画みたいな展開はまず起きない。
雨の中で傘を差しだされることも。
曲がり角で転校生にぶつかることも。
パンを咥えて遅刻しながら走ることも。
確率の時点で調整されて、ほとんど発生しない。
……普通は、そうなんだけど。
⸻
昼休み。
人の少ない旧校舎の奥。僕の帰属先——漫画歴史研究会の部室で、僕は静かにため息をついた。
「……はぁ」
「今日はどうしたんですか、篠原さん?」
柔らかい声に顔を上げると、そこには姫宮しずくさんがいた。
そして彼女の手には——
明らかにカピカピになった6枚切りの、4枚目。
「いや、まずそれを説明してほしいんだけど」
つい本能でツッコんでしまう。
姫宮さんは食パンを胸の前で抱え、少し誇らしげに言った。
「昔の少女漫画って、食パンをくわえながら走ると……
素敵な出会いがあるらしいんです」
「“らしい”って言葉を信じて四枚目に突入する人、なかなかいないよ」
この部は、ナビ導入前の漫画を研究する——という名目の、ほぼ幽霊部屋だ。
ナビが漫画制作まで最適化してくれる時代に、わざわざ古い恋愛漫画を読む物好きなんて、僕と彼女くらいしかいない。
だから、この二人きりの昼休みは、ほぼ固定スケジュールになっている。
僕は天井を見上げ、いつものように問いかけた。
「ナビ。どう思う?」
『回答します。
食パンを咥えた走行と恋愛イベントの発生に、統計的相関は確認されていません』
「だよね!!!」
秒で夢をへし折る正論。
これがこの世界の安心設計だ。
だけど姫宮さんは、ほんの少し頬を染めて続けた。
「でも……素敵じゃないですか」
「理屈が秒で敗北したね」
「なので、今朝やってみたんです。三枚、食べながら走って」
「三枚も!?」
「運命、発生しませんでした」
「当たり前の結果発表ありがとう」
しゅん、と肩を落としたあとで——
彼女はカピカピの四枚目に、決意の歯を立てた。
……そんなに噛む音が切ない食べ物だったっけ、パンって。
『なお、四枚目の摂取により本日の推奨カロリーは——』
「言わなくていい!!」
思わず遮ってしまう。
ナビはフラットだ。空気は読まない。
でも、その“正しさ”はいつも間違っていない。
だから僕らは、安心して従える。
この世界ではそれが普通だ。
だけど——
「でも、本当に素敵だと思うんです」
姫宮さんはパンを持ったまま、少し目を伏せた。
「角でぶつかって、ノートが散らばって……
手と手が触れて、そこから始まる恋って」
その横顔は、少しだけ寂しそうだった。
この世界では、そんなの非効率だ。
無駄足、失敗、後悔。
ナビはそういうものを、最初から全部避けてくれる。
でも——
(姫宮さんは、ナビが取りこぼした“何か”を大事にしてる)
そう思ってしまう。
「ナビ。仮に僕が今から食パンを咥えて廊下を走ったら?」
『校則違反で指導を受ける確率が97%です』
「だよねぇ!?」
僕は額を押さえた。
それでも姫宮さんは、ふわりと笑う。
「でも、最適じゃなくても……素敵なことって、あると思うんです」
その言葉がやけに静かに胸に落ちた。
⸻
——この世界では、生まれた瞬間にだいたいの未来が決まっている。
学校も、仕事も、住む場所も。
偶然も、奇跡も、ほとんど“最適化”される。
だから普通は、
食パン四枚目の延長戦なんて、起きない。
なのに彼女は、真剣な顔でそれをやっている。
(……姫宮さんは、きっとこの世界のバグだ)
効率的でもないし、合理的でもない。
ナビの推奨からも外れている。
だけど——
(こうやって隣にいる時間は、少しだけ楽しい)
そんなことを考えてしまった自分に驚き、慌てて視線を逸らした。
ナビは何も言わない。
部室には、四枚目を噛みしめる音だけが、しばらく静かに響いていた。




