第6話 境界線のない日
東京へ戻る日、電車の窓から見える景色は、行きとは違って見えた。
それは変化というよりも、重なりのようなものだった。田んぼの光と、アスファルトの反射と、駅のホームに立つ見知らぬ人たちの影。すべてが曖昧に重なって、どこまでが自分の世界で、どこからが他人の時間なのか、区別がつかなかった。
留譜はその境界のあいまいさに、妙な心地よさを感じていた。
都会の駅に着き、人の流れに飲まれながら改札を抜ける。歩くスピード、足音の混ざり、すれ違う香水と整髪料の匂い。実家の静けさとは真逆の騒がしさ。それでも、音の中にいるほうが気が楽なときもある。自分の沈黙を誰にも気づかれずに済むから。
アパートの玄関を開けると、空気がよどんでいた。カーテンを開け、窓を開ける。街路樹がざわめいて、風が入り込んできた。
帰ってきたのだと思った。でも、その「帰る」という感覚も、どこかあいまいだった。
部屋は確かに自分のものだ。でも、ここに「いる」ということが、以前よりも少し希薄に感じられた。実家の布団の重さ、母の台所の湯気、父の咳払いの音——そういうものの輪郭が、まだ身体に残っていた。
鞄から荷物を出す。洗濯物を分けて、浴衣を畳み直す。何も考えないように、ただ手を動かす。
そのあと、冷蔵庫を開けた。食材は残っていなかった。コンビニに行く気力もない。だから、今日は食べなくてもいい。お腹は空いていない。たぶん、身体がまだ、「どこにいるのか」を決めかねている。
午後、ベッドに横になった。眠くはない。目をつむると、まぶたの裏にいろんな音が浮かんできた。公園で縄跳びをする子どもの声。おばあさんの編み針の音。母の洗い物の水音。どれも、どこにも属さない風景だった。
思えば最近、時間が連続して感じられない。昨日と今日の間に、ちゃんとした「線」が引かれていない。寝て、起きて、少し歩いて、本を開いて、また寝て——そういう断片がぽつぽつと浮かんでいるだけで、それを「日」と呼んでいいのかもわからなかった。
——でも、それでも生きてるんだよな。
そう思うと、すこしだけおかしくなって、声に出して笑った。
「ねえ、わたしって、ちゃんと生きてる?」
そう誰かに聞いてみたくなる。でも誰に聞くかもわからない。哲学科の同期にはもう連絡をとっていない。茶道部の後輩には、きっと重すぎる。実家の母は、たぶん受け止めてくれるけど、それはもう少し先の話。
それでも、その問いは自分の中で繰り返される。
ちゃんと、ちゃんと。
でも、「ちゃんと」って、なんだろう。
夕方、なんとなく外に出た。特に目的があったわけではない。ただ、空が茜色に染まっていたから、それを見たかった。近くの公園まで歩く。ベンチには誰もいなかった。おばあさんもいない。あの町とは、ここは別の場所だった。
でも、風は同じだった。木の葉が揺れ、枝と枝がこすれ合う音。遠くでボールが跳ねる音。小さな子どもが母親の手を引いて歩いていた。
ふと、背中を丸めて、留譜はベンチに座った。しばらくじっとしていた。手のひらを膝に置いて、呼吸を静かに繰り返す。そうしていると、自分の輪郭がうっすらと浮かび上がってくる気がした。
手はここにある。足も、地面にある。風が顔に触れている。
この身体が、自分だ。
この「いま」が、今日の終わりの一部だ。
完全に理解できなくても、それでいい。わからないことを、そのまま受け入れるのも、哲学の一部だと、留譜は思った。
部屋に戻ると、ようやく冷蔵庫に目がいった。白米だけ炊いた。湯をわかして、野菜を切った。味付けは塩と醤油だけ。簡単で、静かなごはん。
その一口が、思ったよりもちゃんと味がして、思わず「うまい」とつぶやいた。
食べているときは、食べることだけに集中できる。余計な思考がなくなる。そういう時間を少しでも積み重ねていければ、いつか境界のぼやけた一日にも、輪郭が戻ってくるかもしれない。
——でも、それは「いつか」でいい。
明日じゃなくてもいい。来週でも、来年でも。たとえ輪郭があいまいでも、生きていれば、それで充分だ。
そう思いながら、留譜は空になった茶碗を眺めていた。
何もなかったような日。
でも、たしかに、何かはあった日。
それが、「生きてる」ってことかもしれない。