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第5話 食卓と沈黙

夕方、電車を降りた留譜は、駅前のロータリーに立っていた。見慣れた風景。都会と田舎の中間のようなこの町には、大きなショッピングモールもないし、洒落たカフェもない。けれど、駅のそばの古いパン屋はまだ残っていた。甘い香りが風に乗って、かすかに漂ってくる。


実家に帰るのは三ヶ月ぶりだった。


母が車で迎えに来てくれていた。助手席に乗ると、母は「おかえり」とだけ言った。エンジンの音。窓の外には田んぼと住宅のあいだに揺れるススキ。道端には彼岸花がちらほら咲いていた。


車内の会話は少なかった。母も昔から口数の多い人ではない。だからこそ、言葉がなかったことに傷つくようなことも、あまりなかった。ただ、静かだった。


「ごはん、食べられそう?」


「うん、たぶん」


そう答えると、母はゆるくうなずいた。


家の扉を開けると、懐かしい匂いがした。畳と味噌と、少し干した布のにおい。廊下に置かれた傘立ては昔と同じ。父の傘が一本、ぐらついて立っていた。


夜、ダイニングテーブルには湯気の立つ味噌汁と、炊きたての米。焼いた秋刀魚と、湯豆腐。山盛りの大根おろしの隣に、レモンの薄切りが添えられていた。


「今日は、魚にした。牛乳は入ってないから大丈夫よね?」


「うん、ありがとう。魚、ひさしぶりかも」


「ちゃんと食べてる?」


「まあ……ときどき」


母はそれ以上聞いてこなかった。父はテレビを見ていて、時折ニュースに相槌を打っていたが、留譜には特に話しかけてこなかった。


三人で囲む食卓は、変わらず整っていた。整いすぎていて、逆に自分が場違いのように感じられる。誰かの家庭という劇に、自分だけが観客として混ざってしまったような、そんな感覚。


「茶道部、まだやってるの?」


母が不意に聞いた。


「うん、まあ。もうすぐ卒業だけど」


「お茶を点てるって、集中できそうで、いいね」


「そうだね。無心になれるっていうか」


「無心って、仏教っぽいね」


母は笑いながら言った。留譜も少し笑った。


笑ったけれど、実は最近、無心になるのも少ししんどい。無になるっていうことは、空になるってことじゃない。自分の輪郭を一度、ぜんぶ外さなければならない。無になろうとする自分を見つめるもう一人の自分が、いつまでも頭の中でしゃべり続ける。


それでも、茶を点てるときの静寂は嫌いではない。抹茶の粉の舞い方や、湯の温度、茶筅の角度。その「正しさ」が、しばしば留譜を救っていた。


食事の終わりが近づいてくると、空気がまた静かになる。箸を置く音。茶碗を重ねる音。水が流れる音。父が立ち上がり、背中を軽く伸ばしてからリビングへ戻る。


母が台所に立つ。留譜は自分の食器を運ぶ手伝いをする。


「……最近、調子どう?」


シンクの水音の合間に、母がぽつりと聞いた。


「うーん、寝てばっかりだった時期があった。頭が全然動かなくて。考えようとすると、考えたことがこぼれ落ちていく感じ」


「それでも、卒業はできそうなの?」


「うん、単位は揃ったから」


「就職、どうするの?」


その言葉には、留譜は少しだけ間を置いた。


「たぶん、しばらくバイトしながら……考える。塾で国語を教えようかなって」


「先生の夢は?」


「……たぶん、叶えない。というか、叶えられないっていうか……。毎日働くの、できそうにない」


母は手を止めなかった。流し台の向こうで、小さくうなずいたのが見えた。


「わたしも、昔、そんな時期あったよ」


「ほんとに?」


「うん。結婚してすぐ、何をしても楽しくなくて。朝が来るのがつらくて。でも、それが言葉にできなかった」


「……言ってくれて、ありがとう」


言葉にしようとして、すこし喉がつまった。母が自分に「似ていた」と思ったことが、妙に苦しかった。でも、少し救われた気もした。


夜、自室に戻ると、棚に昔読んでいた文庫本が並んでいた。太宰や宮沢賢治や、哲学の入門書。中学の頃に夢中で読んだ『国語の授業のつくりかた』もまだあった。ページをめくると、教室で話す先生の声を想像した当時の自分が、そこにいた。


今は、教壇には立てない。でも、机の向こうで誰かの書いた文章を読むくらいなら、できるかもしれない。赤ペンを持って、「ここ、いいね」って書くくらいなら。


そんな仕事なら、できるかもしれない。


布団に入り、灯りを消した。遠くの線路を電車が通り過ぎる音がした。都会よりも音がはっきり聞こえる。


この静けさに、少しだけ守られている気がした。


沈黙の中に、言葉があった。


そんな夜だった。

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